鬼ごっこ

アニメでは、利吉はわりと父親とは別ということを割り切っているようなお話もありましたが、つどい設定による利吉のその後の行状をみると、どうも父親に対するコンプレックスの整理がつきかねている利吉の姿がどうしても思い浮かばれてしまうわけで、そんな利吉の姿を描いてみました。

 

タイトルは、シューマン「子供の情景」より第3曲"Hasche-Mann"

 

 

 空の一角を風がはためいた。白い切片が顔を打つ。
 -雪か…。
 空を見上げると、月がうすぼんやりと光を放っていた。が、それもたちまち雲にかきけされる。梢が轟き、強い風が雪を伴って顔に叩きつけられる。
 -だから雪はイヤなんだよな。
 ひとりごちて雪道を歩く青年…山田利吉は笠を深くかぶりなおした。
 利吉は学園に向かって、夜の峠を越えていた。とくだん急ぐ用件があるわけでもなかった。例によって、父親に母親の元へ顔を出すようにと手紙を出したばかりだったから、麓の宿で一泊してからでもよかったのだが、ふと夜の雪道を歩いてみようと酔狂な考えを起こしてしまったのだった。
 -やはりやめておけばよかったか…。
 そう思っても、もう遅い。
 -雪はニガテなのに。
 利吉が育った氷の山は、冬には一夜にして玄関が開かなくなるほどの雪が降り積もり、吹雪に巻き込まれれば命の危険に直結するような土地だった。雪雲が途切れたわずかな時間を盗んでは屋根の雪を下ろし、外の道まで雪かきして通路を確保しなければならなかった。そして、苦心して雪を下ろし、道を確保しても、雪はそんな努力をあざ笑うかのように、あっという間に再び全てを埋め尽くすのだった。雪国に生きる多くの人々と同じように、利吉にとって、雪とは戯れるものでも愛でるものでもなく、ひたすら続く劫罰でしかなかった。
 くわえて、幼い頃から、伝蔵の英才教育を受けてきた利吉にとって、苦手な訓練のひとつだったのが、雪山での斥候訓練だった。要は、追跡役の伝蔵から逃げるのだが、雪山は思った以上の厳しさで利吉をくるしめた。夏の間に駆け回って隅々まで知り尽くしているはずの、自宅周辺の山も森も、冬になるとその様相を一変させた。それは、思わぬ吹き溜まりや、雪の重みでしなっていた竹が突然雪もろとも襲い掛かってくるような、自然のトラップに満ちた敵意をむき出しにした場所だった。そして、利吉を追う伝蔵も、いつもの父親の顔ではない、戦忍の顔になって殺気をふりまいていた。
 -だが、あれも、ずいぶん手加減していたのだな。
 今ならわかる。本当に敵を追跡していたなら、殺気を消しているはずだから。
 そして、たいていは伝蔵に見つかってしまうのだった。そして言われるのだ。なんだ、こんな鬼ごっこに簡単に捕まるとは情けない、と。人一倍負けん気が強い利吉にとって、父親のその勝ち誇った台詞は、肉体的な痛みよりもはるかに堪えるものだった。
 -いいぞ。
 利吉は口の端を少しゆがめた。少年時代の、決して愉快とはいえない記憶が、頭をほてらせ、身体まで熱くさせるようだった。そうしている間は、風の強さも雪の冷たさも忘れることができた。
 峠の道は、雪明りで歩くには不自由しない。日暮れ前に通った人でもあったのか、踏み跡も残っているから、道に迷う心配もなかった。そもそも何度も通った学園に向かう峠道を、利吉が迷うということはありえなかった。
 -こうやって、父上の追跡から逃げたっけ。
 過去の記憶がまだ頭を占めている。氷の山の冬は、こんなものではない大雪に見舞われる。そんな中で追尾を振りきるのは並大抵のことではなかった。深い雪は、かんじきを履いてもなお歩くには難渋した。もっとも、さらさらの粉雪は、ほんの少しの風でも舞い上がって、足跡を消す役に立つこともあったが。
 -だが、いくら足跡を消せても、隠れる場所には苦労したな。
 冬の森には、隠れる場所がほとんどなかった。草むらは雪の下に埋もれ、木々はすっかり葉を落としていた。杉や檜のように葉を残している木々も、うっかり登れば枝の雪が落ちて、父親に気付かれるリスクが高かった。それでもなんとか隠れ場所を見つけ出してじっと潜んでいると、かじかむ手足の指から寒さがじわじわと侵食してきて、がたがたと震えているうちに気配を気取られてしまうのではないかと心配したりもしたのだった。
 そんなとき、いつも思うのだった。
 -私は、何をしているのだろう。
 もちろん、忍になるための、重要な訓練だった。いつか父親を越える忍になってみせると決めたからこそ、このような訓練にも耐えているのだった。しかし、身を切るような寒さに震えてひたすら気配を消していると、どうしようもない惨めさや切なさを感じるのだった。
 -私は、何をしているのだろう。
 そう、何度も何度も問いかけてきた。何度も問いかけて、答えを模索してきた日々の重なりのうえに今の自分があって、そして今まさに、あの頃に回帰していくように、雪の峠道を歩いている。

 


「失礼します」
 学園についたのは、陽も高くなった頃だった。まだ小雪がぱらついていたが、薄い雪雲の上から陽が明るく雪に覆われた道に映えている。
「あれえ、利吉さんじゃないですかぁ」
 雪かきをしていた小松田の素っ頓狂な声に、半助もやってきた。
「やあ、利吉君。ひさしぶりだね」
 学園を訪れた利吉に、半助は驚きの眼を見張った。
 -まるで、予知能力でもあるようだ。どうしてこの親子は、こうもすれ違うんだろう…。
「残念だったね。山田先生は、今朝がた出張に出られたんだ」
 説明しながら、利吉の表情にちらと眼をやる。
「そうですか」
 いつもであればそこで怒り出すところだが、意外にも利吉の表情は変わらない。
「お母上のもとに、山田先生を連れ戻しに来たんじゃないのかい」
「そのつもりで来たのですが、出張とあっては仕方がないですね」
 淡々としている利吉に話の接ぎ穂を失った半助が、つくろうように口を開く。
「まあ、ここで立ち話していてもなんだ。少し早いが、食堂で昼食にするといい。あとで、私たちの部屋に来てくれないかな」
「はい。そうします」
 食堂に向かって歩き始めた利吉に、小松田が慌てて声をかける。
「あ、利吉さん。その前に入門票にサインしてくださいぃ」

 


「それにしても、どんな用事なんだい」
 急ぎの用件なんだろう、と白湯をすすめながら半助は訊ねた。この雪道を一晩歩き通してまでやってきたということは、よほどの事にちがいない。先ほどは小松田の手前、そのようなことは匂わさなかったが。
「ええ、いや、それほどでも」
「え?」
 要領を得ない利吉の返事に、半助は首を傾げる。
「雪まろげですね」
 校庭を眺めながら、ふと利吉がつぶやいた。
「ああ、あれかい。あれは低学年たちが作ったものだな」
 大小さまざまな雪だるまが並んでいる。
「雪が降ると、ついやりたくなるもんなんだろう。利吉君だって、やったことがあるだろう?」
「いえ、私は。一人でやっても面白くもありませんでしたし」
 ぼそりと答える利吉の表情が、空白になる。
 他人に触られたくない感情が湧いてきたとき、苦衷が顔に現れてしまう前に表情を消してしまう術を半助は心得ていた。それは忍としての必要性というより、自分の弱さから眼をそらすために必要なことだった。利吉も同じようなものなのかもしれない。
 -あまり、話をしたくはないらしいな…。
 そっとしておいた方がいいだろうと判断した半助は、筆を執りながら声をかける。
「少し休んだらどうだい。一晩中、雪の峠道を歩いてきたのでは、疲れているだろう」
「いえ、それほどでも」
「そうかい。私には、疲れているように見えるが」
「そうですか」
「夕方には、山田先生も戻られるだろう。それまで、ゆっくり休んでおいた方がいいんじゃないかな」
 山田先生と利吉君の親子ケンカはいつも盛大だからね、と笑って、半助は次のテストの準備を始めた。
「…父は、女装して出かけたのですね」
 ぽつりと呟いた利吉に、半助が顔を上げる。
「よく分かったね」
「分かります。白粉の匂いが残っている」
「そうか。山田先生の女装は、少しばかり化粧が濃いきらいがあるからね」
 苦笑いする半助の言葉を切るように、利吉は低くつぶやく。 
「この雪の中を女装で出かけるなど、酔狂な…」
 そして、考える。
 -酔狂は、自分も同じだ。
 自分の前に置かれた、伝蔵の火鉢を眺めながら、利吉は、特に急ぎでもないのに雪の峠道を越えてきた自分の行動の理由を考えようとしていた。
 -私は、なにをしたかったんだろう。
 伝蔵なら、自分の行動の理由を察してくれるだろうという期待など、毛頭なかった。ただ、雪と、父と、少年時代の記憶が綯い交ぜになった苛立ちにあおられるように、ただ雪の中に踏み出したくなった、それだけだった。
 -私は、何をしようとしているのだろう。何をしに、ここに来たのだろう。
 灰の中に小さく赤く熾った火種を、利吉は黙然と見つめ続ける。

 


 思いつめたような顔で火鉢を見つめている利吉の姿に、ふと半助は、昨夜の伝蔵に感じた違和感を思い出していた。
 -やはり、昨日の山田先生も、少し変だった。
 いくら女装して出張に出かけるのを楽しみにしていたとはいえ、前日から女装するということは、今まではないことだった。そして、利吉のことを語るときの、なにか諦観を漂わせる口調…。
「そうだ、利吉君」
 半助の声に、利吉が顔を上げた。
「はい」
「せっかく来たんだ。は組の忍たまたちの相手をしてやってくれないかな」
「は…?」
「そんなところで、火鉢抱えて背中丸くしてるなんて、利吉君らしくないぞ。もちろんあとでお礼はするから、ちょっと行ってきてくれないか」
「は、はあ…」
 当惑したように答える利吉に、半助がたたみかける。
「そろそろ掃除当番も遊びに加わる頃だ。氷の山育ちなら、雪遊びは得意だろう?」
「いや、そういうわけでは…」
 雪遊びなど、したこともない。雪中の斥候訓練はともかく、雪とは、戯れるものではなく、立ち向かうべき敵だったのだから。
 -だから、雪遊びなど…。
 言いかけたところに、廊下を軽い足音が伝ってきた。
「土井先生、失礼します」
 声と共に襖を開けたのは、乱太郎だった。
「おう、教室の掃除は終わったか?」
「はい。終わりました…で、利吉さん、どうしてここへ?」
 部屋の中に利吉の姿を認めた乱太郎が、首を傾げる。
「ああ。利吉君は山田先生が出張から戻られるのを待っているところだ。山田先生が戻られるまで、お前たちに本場の雪遊びを教えてくれるそうだぞ」
「え、私は…」
 そんなことなど、と続ける間もなく、目を輝かせた乱太郎が身を乗り出す。
「ホントですか!? そしたら、私たちに本場の雪合戦を教えてもらえませんか? 明日、い組と試合なんです!」
「え、いや、あの…」
 たじろぐ利吉の背を、半助が軽くたたく。
「そうしてもらうといい。い組に負けないよう、みっちり指導してもらうんだぞ」
「はい、先生! 利吉さん、行きましょう。みんなよろこびます!」
「だ、だから…」
 何か言おうとしたが、乱太郎に手を引かれた身体は、前のめりに廊下に足を踏み出している。
「じゃ、頼んだよ。利吉君」
「だからその…」
 笑顔で手を振る半助に、利吉は恨めしげな目線を送ることしかできなかった。
 -ホントに土井先生は、強引だから…。

 


「ご苦労だったね、利吉君」
 は組の雪合戦の練習コーチを終えて戻ってきた利吉を、半助が笑顔でねぎらう。
「ええ、ホントに」
 疲れきった表情で、利吉は答える。実際、ひどく疲れていた。
 近所に一緒に遊ぶ子どももいないような山中で育ったから、雪合戦など経験しようもなかった。だから、まずは乱太郎たちに「どのようなやり方でやってるかを見せてもらおう」と言って様子を見ながら、おぼろげにルールらしきものを把握して、それから勝つためのやり方を教えなければならなかった。
「自分でもやったことのないことを教えるのは、難しいものですね」
 つい厭味ったらしいことを口にしてしまう。
「ホントにやったことがなかったのかい?」
 意外そうに半助が眉を上げる。
「本当に、やったことがなかったんですよ…近所に相手になるような子どももいませんでしたから」
 ため息混じりに、利吉が答える。
「それは悪いことをしたね…いやぁ、さっき、少し利吉君の指導ぶりを見せてもらったけど、実に的確だったし、楽しそうだったから」
「そうでしたか?」
「ああ。初めてとは思えないほど堂に入ってたよ。忍たまたちも喜んでいたし」
「そうですか」
「まあ、とにかくお疲れさま。約束のお礼だ」  
 半助は、戸棚から瓢箪を取り出した。
「いや、私は、酒など…」
「飲めないわけじゃないだろう?」
「それは、まあ…」

 

 

「そういえば、利吉君」
「はい」
 利吉の手の土器(かわらけ)に酒を注ぎながら、半助は声をかける。
「利吉君は、山田先生とこんなふうに酒を酌み交わすことはないのかい?」
「父と…ですか?」
 弾かれたような利吉の表情に、半助は、この2人はほんとうに酒を酌み交わすという経験がないことを見てとった。
「私などより…」
 利吉の声が険を帯びる。
「父上には、母上と一緒にそのように過ごしていただきたいのです」
「だが、山田先生は、一人前の忍になった利吉君と酌み交わしたい気持ちも、あるのではないかな」
「私と、ですか?」
「そうさ。世の父親とはそんなものではないかな」
「土井先生はどうなのですか」
「私かい?」
「はい」
 -山田先生は、あのことを利吉君には話していなかったんだ…。
 自分の両親がどのような最期を迎えたか、利吉が何も聞いていないことは明らかだった。
「私は…まあ、早くに亡くしたから…」
 苦笑いでごまかしながら、利吉の土器に酒を注ぐ。
「それは、失礼しました」
 利吉が、軽く頭を下げる。
「だからこそ、ご両親が健在でいらっしゃる利吉君は、まだ孝行しようがあるんじゃないかな」
「だから、父上を母上のもとへお連れしようと、私も頑張っているんです…」
 利吉が奥歯をぎりと噛みしめた。
「…それなのに、父上は、手紙を出してもなしのつぶて、迎えに上がれば逃げまわる…それでいったい、なにを孝行しようというのですか!?」
 ぐっと土器を干すと、拳で口を拭う。
「利吉君」
「はい」
「それはきっと、山田先生が、利吉君に遠慮されているからだ」
「…遠慮、ですか?」
 いぶかしげに、利吉の眼が半助にむけられる。それ以上は語らず、半助はただ軽く首をかしげて、微笑んでいる。

 

 

「父が、私に遠慮など…」
 そんなことがあるはずがない、と利吉は考える。口うるさい自分を避けているとでも言うのなら、まだ理解できるものを。
「なぜ私に遠慮する必要があるのですか。言いたいことがあればはっきり言えばいいものを…」
「どうしてかは、私にも分からない」
 昨夜の伝蔵の、奥歯に物の挟まったような態度を思い出しながら、半助は言う。
「だが、山田先生はきっと、利吉君と一人前の忍どうし、男どうしの話をされたいんじゃないかな」
 利吉と共に杯を傾けたい、利吉に謝りたいという伝蔵の言葉の意味を、半助はそのように解釈していた。
 -利吉君が望んで忍となり、そのことに満足していることがわかれば、山田先生もあんなに自分を責められることはないだろう。
 その奥にある伝蔵の懸念にまでは思いが及ばない半助は、そう考えていた。

 


「ならば、そう言えばいいものを…」
 -父上は、私と話をすることを望まれている…だって?
 そんなことがあるのだろうか、と利吉は考える。
 利吉にとって、父親である伝蔵は、どうしても追いつくことのできない遠い存在でもあった。どんなに追いつこうと努力しても、近付いた分だけ遠くなる逃げ水であり、どうしても超えることのできない峻厳な山だった。父親は父親であり、自分は自分だとなんど自分に言い聞かせても、つい比べ、追いかけ、そしてとても及ぶことができないと思い知らされてしまう存在だった。結局のところ、同じ忍の道を歩むものとして、自分は父親のコンプレックスから逃れようがないと考えてしまう利吉だった。
「父は、ほんとうに、そのようなことを望まれているのでしょうか」

「どうして、そう思うんだい?」
「父から見れば、私などまだまだ半人前でしょうから…」
「そんなことはない。山田先生は、もうとっくに利吉君を一人前の忍と認めているし、それを誇りにされている…私にはよく分からないが、世の父親にとって、息子が一人前になることほどうれしいことはないし、だからこそ対等に酌み交わしたいと思うのではないかな」
「ならば、なぜあんなに逃げ回るのですか」
 苛立ちが口をついてしまうのは、利吉の若さだろうか。
「それはきっと、照れ隠しなのではないかな」
 自分と利吉の土器に酒を注ぎながら、半助は笑いかける。
「照れ隠し?」
「きっと、素直に利吉君に接することができなくて、逃げ回っているのではないかと思うんだ。身近すぎるからこそ、どう接すればいいか分からないってことも、あると思うよ」

 

 

「土井先生は、お強いんですね」
 数杯も飲まないうちに、すでに顔が赤くなった利吉は、ふうと息を吐いた。
「そうかな。まあ、利吉君も、そのうち慣れるさ」
 -慣れすぎてしまっても、良くはないのだが。特に利吉君のようなまじめな性格の人は。
「父とも、このようによく飲まれているのですか」
「ああ。毎晩というわけではないが、よくこうして飲んでいるよ」
「どのような話をされているのですか」
「いろいろさ…とはいっても、まあ、は組の話が多いかな」
 なにしろ毎日のように何かしらやらかしてくれる子たちだからね、と半助は苦笑する。
「そうですか。楽しそうですね」
 顔を伏せたまま、利吉はつぶやく。
「もちろん、利吉君の話も、よくしているけどね」 
 半助の言葉に、利吉が顔を上げる。
「私の?」
「ああ。山田先生の自慢の息子さんだからね。それに、利吉君からきた手紙のことも、よく話されているよ」
「手紙を…」
「山田先生はね、利吉君からきた手紙を、一通残らず取っておかれている。きっと、大切な宝物なんだろうな」
「私の手紙など…」
「山田先生は、そうは思っておられない」
 半助は土器を干すと、利吉と自分の土器に酒を注いだ。
「山田先生は優秀な忍だが、すでに第一線は退かれた身だ。だからこそ、現役の忍として活躍している利吉君が、自慢でもあるし、心配もされている」
「心配?」
「忍に安全な仕事など、ないだろう?」
 半助が笑いかける。
「だから、利吉君からの手紙は、無事に仕事をしている証拠だと安心されているのだろう」

 

 

「…そうですか。父は、私を心配されているのですか…」
 利吉は、小さくため息をついた。半助が酒を注いでやりながら訝しげに顔を上げる。
「それがどうかしたのかい?」
「父はいつも、逃げ水のようなものなのです」
 苦い薬でも飲むように土器を乾して、利吉は言う。言ってから、なぜ唐突にそのようなことを口にしたのかと考えた。
 -そのような話をいきなり振られても、土井先生だって困られるだろうに…。
「逃げ水?」
 果たして、半助は眉を上げて訊きかえす。
「はい。砂丘の向こうにきらきら光る水溜りが見えて、急いで行ってみると、ただの目の錯覚だったことがわかって、でももっと遠くに、また水溜りが見える…いくら追いかけても、たどりつけない水のようなものなのです」
 それでも、いちど口をついた思いを止めることはできなかった。
「山田先生には、まだ追いつけない、というわけかい?」
「そういうことです…」
 利吉は、また太く息をついた。だいぶ酒臭いな、と思いながら、半助は自分の土器を呷る。
「もう少しで追いつけるとは思わないのかい?」
「いえ、まだまだです…そのように父に心配されている間は」
「心配されている…なるほどね」
 軽く頷いた半助は、すぐに続ける。
「だが、それは、親としては自然な…いや、当然の感情ではないのかな」
「そうであっても、私には、際限のない鬼ごっこなのです」
「それでいいんじゃないかな」
「?」
「一緒に仕事をしている私の目から見ても、山田先生は偉大な忍だ。まして、息子の立場から見れば、実力はともかくとして、精神的には永遠に追いつくことなどできないんじゃないかと私は思うよ」
 -しかし私は、いずれ父に、絶対に追いつき追い抜いてみせると…そのために、どんな辛い修行にも耐えてきたのです…。
 急速に眠気とだるさが意識を覆いはじめた。言いたかったことが、わずかに開いた唇から息と一緒に漏れ出してしまっても、もはやもう一度言い直す気力も残っていなかった。視界がぼやけて、半助の声が遠くなる。
「それに、山田先生にとっては、利吉君がどんなにすぐれた忍として活躍していても、心配でならないのではないのかな…親としても、先輩としても…」

 半助は言葉を切った。利吉の上体がぐらついていた。
「…」
 利吉は上体を傾けたまま、眠り込んでいた。手にしていた土器がことりと滑り落ちる。
 -疲れていたんだね。
 半助は微笑む。思えば、一晩中、雪の峠道を越えてきて、そのあと、初めてという雪合戦のコーチを任せたのだ。若い利吉でも疲れはピークに達していただろうし、酒など入れては、起きているほうが無理というものだろう。
 -山田先生が戻られるまで、まだかかるだろう。少し休むといい。
 自分の布団を延べると、利吉の身体を横たえる。よほど疲れていたのか、起きる気配がまったくない。
 追いかけても追いかけても追いつかない、逃げ水のような父親の背を追い続けている利吉と、追いかけるなにものもなく、真空の中に生きてきた自分と、どちらが幸せなのだろう…ふと、半助は考える。
 -どちらが幸せ、という話でもないか。

 

<FIN>

 

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