五年生の子守歌

 

おなじみ六年生のバイトシリーズ、今期はどんなネタが登場するのでしょうか。楽しみですね。

ということで、六年生3人組に代わって五年生3人組がきり丸のバイトを手伝ったらどうなるかというお話です。どんな組み合わせかは読んでからのお楽しみ。

 

 

「お前たち、ちょっと待て」
 委員長会議のあと、席を片付けていた兵助、勘右衛門、八左ヱ門に小平太が声をかけた。
「はい」
「なんでしょうか」
 片付けの手を止めて顔を上げた三人の表情が固まる。そこには腕を組んでにやりと見下ろす小平太とむっすりと唇を引き結んだ長次、腕を組んで不機嫌な横顔を見せる文次郎がいたから。
「あとで武道場の裏に来い」
 ぼそりと言い捨てて文次郎が立ち去る。そして小平太と長次も姿を消した。

 

 

「ヤバいよヤバいよ。先輩たちマジで怒ってなかったか?」
「ヤな予感しかしねえよ」
 片付けを終えた三人はすっかり震え上がっていた。
「俺たち、なにか締められるようなことやったか?」
 兵助も動揺を隠せずその声は震えている。
「「いや、ない」」
 勘右衛門と八左ヱ門が同時に言う。「でも、明らかに潮江先輩、怒ってたよな…」
 勘右衛門が青ざめた声で続ける。
「雷蔵と三郎にも一緒に来てもらおうぜ?」
 言いながら兵助が辺りを見回す。「あの二人、どこにいるんだ?」
「三郎は変装用具買いに行くって出かけやがった」
 勘右衛門が拳を握りしめながら言う。「くっそ、本当はアイツが学級委員長委員会代表で出る予定だったのによ…」
「雷蔵は? 図書室にいるかな」
 救いを求めるように兵助は足を止める。
「いや。三郎の付き合いで一緒に出掛けた」
 八左ヱ門が首を振る。
「そっか…」
 うなだれた勘右衛門が力なく言う。「じゃ、俺たちだけで行くか…」
「俺たち、どーなっちゃうんだろうな」
 屠殺される牛のように重い足取りで武道場の裏に向かう三人だった。待ち構えている事態はどう考えても明るいものではなかった。
「七松先輩のバレーボールの相手させられるとか?」
「潮江先輩の匍匐前進に付き合わされるとか?」
 だが、そこに待っていたのは眼をゼニ眼にしたきり丸だった。

 

 

「は~い、いいこでちゅね~」
「へ、兵助おにいちゃんでしゅよ~」
 一刻後、町はずれの農家の庭先では大勢の幼児を相手に悪戦苦闘する三人の姿があった。
「い、いててて!」
 両腕に抱えた赤ん坊に同時に髪を引っ張られた八左ヱ門が悲鳴を上げる。
「やべ、この子おしっこしてら! おい、替えのおむつどこだ!?」
 子どもを抱き上げた指先に異変を感じた勘右衛門があたふたとおむつを探し始める。その間にも泣き止まない子どもを兵助が必死であやす。
「いやあ、せんぱいがたにてつだっていただいてホントたすかります!」
 背中と前に一人ずつ子どもをくくりつけたきり丸が調子よくさえずる。「いつもは潮江せんぱい、七松せんぱい、中在家せんぱいにてつだっていただいてるんすけど、今日はちいさい子どもがあいてなんんでどーしとうかとおもってたんすよ~」
 -それが俺たちってわけか…。
 口には出さなかったが同じことを考える三人だった。きり丸がどう言いくるめたか知らないが、いかにも子守に向かなさそうな文次郎たちに代理を調達させるとは、たしかに何らかの能力を持っているに違いなかった。いまの三人にはうらみがましい能力でしかなかったが。
「はい、久々知せんぱい、この子もおねがいしま~すっ!」
 ようやく背中にくくりつけた子を寝かしつけたと思ったところへきり丸がもう一人の赤ん坊を押し付ける。
「ちょ、待てきり丸!」
 思わず声を上げる兵助だったが、前後の子どもがぐずり始めたので慌ててあやす。
「お~よしよし…てか、これどういうことだよ!」
 すぐに寝入ったのを確かめてから小声で詰る。
「いやあ、はじめは6人までってことで引き受けたんすけど、チャミダレアミタケのご家老さまの親戚のお武家さまの屋敷の人からどーしてもってたのまれちゃって、ギャラもよかったもんで…あひゃあひゃ」
「もういい…わかった」
 最後はゼニ眼になるきり丸に物申す気も失せた兵助だった。
「いて、いててて! …おい、きり丸、こっちも何とかしてくれ!」
 抱いた赤ん坊の指に髪が絡まったらしい。泣きながら振りほどこうとする赤ん坊と髪を引っ張られる八左ヱ門のけたたましい悲鳴が響く。

 


「お疲れさま。はい、これお駄賃」
 数刻が過ぎて、子どもを預けた親たちが引き取りに現れるようになった。残った子どもたちもようやく寝かしつけて、三人は疲れ切って庭先に座り込んでいた。
「…なんだったんだろうな」
 勘右衛門がやつれきった表情で呟く。
「嵐みたいというかなんというか…」
 背後に腕をついて身体をそらせた兵助がうつろな視線を泳がせる。
「俺、ベリーショートにしよかな…」
 仰向けになった八左ヱ門がぼそりと言う。それきり会話を続ける気力も失せた三人は黙り込む。と、静かな庭先の片隅の会話を三人の耳が捉えた。
「宝寿丸さまを迎えにきたんだが」
「へいまいど! って、あれ、あずけにきた女の人はどーしたんすか?」
「ああ、ちょっと用事でな。私が代わりに来た」
「あ、そーですか。はい、それじゃ宝寿丸ちゃん、よいこにおねんねしてましたよ~」
「そうか。ではお駄賃だ」
「まいどあり~あひゃあひゃ」
 眠る赤ん坊を抱いた男は立ち去り、銭目になったきり丸が如才なく手を振る。
 なんでもない光景に見えた。だが、どこかに違和感がひっかかった。
「なあ、預けに来た人と迎えに来る人が別ってことって、よくあんのかなあ」
 顔を傾けてちらとその様子を眺めていた八左ヱ門が誰にともなく言う。
「そういや、宝寿丸って、追加で預けられたどっかの武家屋敷の子どもだったよな」
 思い出しながら勘右衛門が呟く。「てか、俺がおしめ取り替えたんだった」
 あの時は数人の赤ん坊のおしめを同時に取り替えて、傍らできり丸が着替えさせていてやたらと混乱していたっけ…。
「まあ、きり丸に預けるくらいだから、使用人の子どもなんだろうけど」
「でも、ギャラを弾むくらいなんだから、それなりの人なのかもな」
 ぼそぼそと話を交わす勘右衛門と八左ヱ門の傍らで兵助がぽつりと漏らす。
「なあ。なんかあの男、忍者じゃないかって気もするんだけど」
 ふと浮かんだ疑問だった。確証があるわけではなかったが、そんな気がした。
「忍者だって?」
 八左ヱ門がむくりと身を起こす。
「まあ、そんな気がするだけなんだけど」
 自信なさげに兵助は頷く。
「ちょっとあのおっさん、追ってみるか」
 勘右衛門が立ち上がる。
「じゃ、俺も」と立ち上がりかけた兵助たちを制して勘右衛門は言う。「いや、お前たちはここにいてくれ。まだ預かったままの子どももいるし、すぐ戻るから」
「あ、ああ」
「気をつけろよ」
 確かに、まだ数人の子どもが迎えを待っている。きり丸ひとりに押し付けるわけにはいかない。先ほどまでぐったりしていたのが嘘のように身軽に男の去ったほうへと駆けていく後姿を見送る二人だった。と、そのとき、
「宝寿丸さまはどうしたのよ!」
「いえ、さっきむかえにきた男の人に…」
 静かだった庭先に女のとがった声が響き渡る。
「誰よそれ!」
「だから、かわりにひきとりにきたって…」
「そんなこと誰にも頼んでないわよ! 早く宝寿丸さまを渡しなさいよ!」
「いやだから…」
「宝寿丸さまを連れて帰らないと、旦那様にどう申し開きができるっていうのよ! 早くその男のとこから連れ戻してきなさいよ!
「そんなあ…」
 女の声のトーンが上がる。きり丸はおろおろと抗弁を試みるばかりである。
 -てことは、宝寿丸って武家屋敷の主の子ども…?
 -で、さっきの男に連れ去られた…!
 はっとした二人が顔を見合わせた次の瞬間立ち上がる。だが、庭先の異常な気配に赤ん坊がぐずり始めた。
 -やべ、どうする?
 -まさか置いてくわけにもいかないしな…。
 慌てて抱き上げてあやしながら二人が当惑しきった視線を交わす。事件が起こっていた。それなのに。その場を動くことのできないもどかしさに地団駄を踏む思いをしながら二人は子どもをあやし続ける。

 

 

 -あいつ、どこに行く気だ…?
 男の姿は間もなく見つけることができた。
 -兵助のカンってよく当たるんだけどな…。
 勘右衛門は屋根の上から鋭い視線で男の姿を追っていた。子どもを抱いた男は、人目をはばかるように裏通りを縫って足早に歩く。それだけでも十分怪しいが、時折警戒するように後ろを振り返る割には屋根伝いに追尾する勘右衛門にはまったく気づいていないあたりは忍としては脇が甘い。
 -あいつ、忍者かもしれないけどシロートだろうな。
 そして、誘拐の末端の実行役として現れた。そもそも宝寿丸が預けられることを知っていたということは、動きをずっと追っていたということになる。だが、そこまでするほどの宝寿丸とは何者なのだ?
 -武家屋敷の主に仕える幹部なら、いろいろな秘密を知ってるだろう。そいつから秘密を聞き出すためにその子どもを誘拐したとしたら…。
 それはありえそうなことだった。だが、そうであれば、それほどの立場の者の子どもをきり丸に預けに来るということ自体が怪しいと思うべきだった。
 -そういや、やけに上等な産着を着てたよな…。
 ほかの子どもがいかにも庶民らしい麻の産着なのに対し、宝寿丸が着ていたのは上等の唐木綿だった。そんなものを着た子どもが、農家の庭先の子守に、しかもギャラを弾んでまで預けられるというのはどう考えてもおかしいと気付くべきだった。そのとき自分たちは泣きわめく子どもたちにパニくっていたから、預けに来たのが男か女かも見てはいなかったが。
 いつしか家並みがまばらになってきた。男の歩調は変わらない。そして、しきりに周囲を気にしながら町はずれの廃寺に入っていく。
 -ここがアジトってことか?
 男が忍であったなら、勘右衛門を誘いこむためにあえて入り込んだ、ということも考えられた。だが、それにしては男の仕草は素人すぎた。警戒が過ぎて悪目立ちしている。であれば、廃寺は本当のアジトかもしれない。
 -少し様子を見るか。
 考えた末、勘右衛門は廃寺に入り込むことはやめることにした。あの男が忍だったとして、いくら素人臭くても、仲間も素人であるという保証はない。

 


「もういいわよっ!」
 最後にヒステリックな一声を上げると、女は憤然と背を向けて立ち去る。
 -えっ?
 -いいの?
 その様子を見守っていた兵助と八左ヱ門が思わず顔を見合わせる。もしあの女が乳母なら、子どもがいなくなったと判明した時点で半狂乱になって探そうとするだろう。いつ、どのような人物が連れ去ったか胸倉掴んで問い詰めていてもおかしくない。それなのに…。
 -怪しいな。
 -ああ。
 頷きかわした二人が立ち上がる。すぐにも追尾を始めたかったが、まずはやることがある。

 

 

「きり丸」
 まいったな…と頭を掻いていたきり丸が厳しい声に顔を上げる。子どもを背負った兵助と八左ヱ門が腕を組んで立っていた。
「はい…なんでしょうか」
 なんか機嫌悪そうだな、ということだけは察したきり丸がいぶかしげに訊く。
「俺、前にも言ったよな。『一度関わったら最後まで』って」
「はい…」
 八左ヱ門の声にきり丸が当惑したように口ごもる。
「子どもを間違えて渡したにしてはずいぶん余裕してるが、どうするつもりだ。取り戻す当てでもあるのか」
 兵助の声は低く抑えてはいるが怒りが滲んでいる。
「え、いや…その…」
 あまり見たことのない二人の怒りに、ようやくきり丸も取り返しのつかないことをしたということに思いが至り始める。
「話を聞いたところでは、宝寿丸は武家屋敷の主の子どもということのようだ。とすれば、あの女の人は乳母なのかもしれない」
 低い声のまま兵助が続ける。「だとすれば、あの女の人があのまま武家の屋敷に帰ったらどうなると思う」
 背中の子どもをあやしながらも、真剣な表情で兵助は問う。「子どもは誰か違う人に連れていかれましたで済むはずがない。手打ちにされても文句は言えないほどなんだぞ」
「そ、それは…」
 いまや顔面蒼白となったきり丸が膝を震わせている。
「ていうか、怪しいと思わなかったのかよ」
 もう十分反省したとみた八左ヱ門が口調を変える。「預けた子どもがほかの男に連れ去られました、って言われたら、普通もっと違う反応になるだろ。それなのに、あんなにあっさり帰っていく時点でおかしいと思えよ」
「え…?」
 話の流れについていけないきり丸が眼を見開く。
「俺たちは、あの女も怪しいと見てる」
 静かに言うと、兵助はおもむろにおんぶ紐を解いて背中の子どもをきり丸の腕に乗せる。
「だから俺たちはこれからあの女を追跡する。てことで、この子も頼むな」
 すでにおんぶ紐を解いていた八左ヱ門も子どもをきり丸の空いた腕に押し付けるとニヤリとする。
「じゃ、よろしくな」
「勘右衛門が戻ってきたら、俺たちは女の方を追ったと伝えてくれ」
 言いながら二人はすばやく町の方へと駆け出す。
「え、えっと、その…」
 取り残されたきり丸が呆然とその後ろ姿に眼をやる。

 

 

「宝寿丸! 宝寿丸はどこなの!?」
「奥方さま、お気を確かに…」
 女が姿を消した武家屋敷からは騒ぎが外まで聞こえるほどの混乱状態に陥っていた。
「乳母はどうしたのだ!? 探せ! 探すのだ!」
 別当らしい侍が声を上げると、家人たちがわらわらと門から駆け出す。
 -よし、チャンスだ。
 目配せした二人がすばやく門の中に姿を消す。

 


「ああ、宝寿丸…」
 空しく声を上げながら屋敷の中をさまよい歩いていた奥方が、ついに力尽きたように崩折れた。侍女たちが背を支えたり顔を扇いだりしながらしきりに落ち着かせようとする。
「ええい、まだ見つからぬのか!」
 傍らで落ち着かなげに扇をはたきながら歩き回っていた狩衣姿の主らしい侍が、こめかみに青筋を浮かべながら主は怒鳴り散らす。
「は。ただいま全力で探索させております」
 状況報告に戻った別当が畏まる。
 ≪やっぱ宝寿丸は、ここの武家の子どもだったんだ。≫
 ≪で、あの女は乳母だったんだ。で、どこ行った…?≫
 ≪早く探そうぜ。≫
 そっと天井板を戻しながら矢羽音を交わした兵助と八左ヱ門が女を探し出すのに時間はかからなかった。
「ったく、しくじりやがって」
 薄暗い台所で包丁を使いながら男が低く毒づく。
「そんなこと言ってもさあ…」
 反対側の壁に寄り掛かって腕を組んだ女が投げやりに言う。「こっちだってアリバイ作んなきゃいけなかったんだよ…宝寿丸がいなくなって真っ先に疑われるのは乳母のあたしなんだよ」
「そのせいでまんまと宝寿丸を横取りされちゃ意味がねえだろ」
 憤懣を苦労して抑えながら男は呟く。「これからどーするつもりだ」
「作戦変更するしかないだろ」
 鼻を鳴らした女が言う。「ホントはあたしが宝寿丸連れてしばらく雲隠れするつもりだったけど、いなくなったのは同じだ。予定通り脅迫状を送り付けてやればいいさ。その代わり、あたしはトンズラするから、あとはあんたがうまくやんな」
 ≪そうか。コイツら、宝寿丸を誘拐するつもりだったんだ。≫
 天井裏で息をひそめて耳を傾けていた二人がそっと頷く。
 ≪それにしてもコイツら、何者なんだ…?≫

 


 

 

「ぼくちゃんが最後でしゅね~」
 その頃、きり丸は最後に残った赤ん坊をあやしていた。
「せんぱいたちもどっかいっちゃうし、こまったもんでしゅね~」
 慣れた手つきで軽く身体を揺すりながら、口にしているのは愚痴である。そこへ「待たせたね。うちの子、いい子にしてたかい?」と引き取りに来た親が声をかける。
「へいまいど! いい子ちゃんにしてましたよ」
 調子よくさえずりながらきり丸が子どもを引き渡す。と、抱き上げた親の表情が固まる。
「ちょっと。この子、うちの法師丸じゃないよ。なんかずいぶん上等なの着てるじゃないか…はやくうちの子連れてきておくれ」
「え!?」
 きり丸の表情が凍り付く。子どもを取り間違えてしまった。それが発生したとすれば、勘右衛門とともに数人の赤ん坊のおしめを取り替えながら着替えさせた時しかありえなかった。そして、子どもを取り違えて連れ去って気付かない可能性がある人物といえば、宝寿丸を引き取りに来たあの男しかありえない…。
「ちょっと、聞いてるのかい」
 苛立った声に我に返ったきり丸が慌てて営業スマイルを浮かべながら口を開く。
「え、え~っと、あとでかならずおつれするんで、住所おしえてもらってもいいですか…?」

 

 

 -まずい、まずいよ、マジやばい…。
 引き取りに来た親をひとまず帰したきり丸は往来に駆け出したところで足を止めて辺りを見回す。容易ならない事態だった。背中を冷たい汗が伝う。
 引き渡した赤ん坊が実は宝寿丸ではなく法師丸だった。似たような名前と顔立ちの赤ん坊を、複数の手でおむつ替えと着替えをするときに取り違えてしまった。しかも、誤って引き渡してしまった相手は預けに来たのとは別の人物である。いま、兵助たちが追ってくれているが、見つけて取り戻せる可能性は限りなく低いと思われた。
 -どーしよ…おれ、とんでもないことしちまった…。
 赤ん坊を抱いたまま往来を行ったり来たりしていたきり丸だったが、ふとその顔に眼をやったときに思いついた。
 -そうだ! この子はチャミダレアミタケのご家老さまの親戚のお武家様の子なんだから、少なくともあの女の人のところにつれていってやれば、お手打ちにされずにすむかも…!
 宝寿丸の家がどこかは聞いていなかった。だが、そのような上級武家の屋敷は一つしかなかった。足を止めたきり丸は屋敷の方向に向き直ると、一気に走り出した。

 

 

「さっきはすいませんでしたっ! 宝寿丸ちゃんをおつれしましたっ!」
 武家屋敷の裏庭で声を張り上げたきり丸が最敬礼する。
「え、ええ…どうも…」
 赤ん坊を抱いた乳母が当惑顔で呟く。
「では、しつれいしますっ!」
 これ以上騒ぎが大きくならないうちにとひときわ声を上げたきり丸がふたたび最敬礼すると、裏木戸から走り去った。
「なにごとだ、騒々しい」
 騒ぎを聞きつけた別当が庭伝いに現れる。と、裏庭に突っ立っている乳母に眼が吸い寄せられた。
「宝寿丸様! 宝寿丸様ではないか!」
 駆け寄った別当が思わず声を上げる。驚いた赤ん坊がぐずる。
「お、お~よしよし」
 慌てて乳母が軽く揺すりながらあやす。しまったという表情を浮かべながら別当が声を潜めながら咎める。
「そなた、宝寿丸様を連れてどこへ行っておったのだ」
「あ、いや、その…」
 視線をさまよわせながら乳母が口ごもる。「お屋敷の中が騒がしかったので、ちょっと静かなところへ…」
「宝寿丸様がいなくなられたから騒がしくなったのだ」
 憮然とした表情で遮ると別当は顎をしゃくる。「とにかく奥方様のところへ参るぞ。宝寿丸様がご不明ということでどれほどのご心労であられたと思っておる…!」
「は、はい…」
 二人が去った裏庭に包丁人が現れる。
「いったいどういうことだ…?」
 何が起きたかまったく理解できなかった。ただひとつ分かったことは、誘拐作戦が不首尾に終わったということだけだった。
 -これはすぐに報告しなければ…。
 そして踵を返すとそそくさと裏木戸を潜り抜けていく。

 

 

 ≪どういうことだ?≫
 ≪さあ。さっぱり分からん。≫
 天井裏に潜んだ兵助と八左ヱ門も事態の急展開についていけずにいた。
 ≪あの子が宝寿丸だとすれば、連れ去られたのはだれなんだ…?≫
 ≪さっぱりわからない…。≫
 と矢羽音を飛ばした次の瞬間、八左ヱ門がしまったという表情になった。
 ≪どうしたのさ。≫
 すかさず兵助が訊く。
 ≪なんか俺、原因が分かった気がする…。≫
 ≪どういうことだよ。≫
 ≪俺の隣で勘右衛門が何人もの赤ん坊のおむつ替えを同時にやってたんだ。んでもって、その隣できり丸が着替えをさせてたんだ。だけどあんとき、俺もそうだけど勘右衛門たちもテンパってて、赤ん坊の顔なんて一度に見分けがつかなかったし、なんかすっげー似た名前の子どもがいたような…。≫
 ≪ああ。それ、法師丸って子だ。俺が預かってたんだけど、おもらししちゃったから勘右衛門におむつ替えを手伝ってもらってたんだが…。≫
 兵助が応えたところで改めて二人は顔を見合わせる。
 ≪なあ、宝寿丸と法師丸って似てないか?≫
 ≪で、取り違えた…。≫
 ぎょっとしてように兵助が眼を見開く。自分も、預かったばかりの赤ん坊の顔をいちいち識別できたわけもなく、着ていた産着の柄で判別していたにすぎない。もし産着が取り違えられていたとしたら…。
 ≪つまり、勘右衛門が追っている男にさらわれたのは、宝寿丸じゃなくて法師丸ってわけか。≫
 ≪それに誰も気づいてない…。≫
 それならきり丸の慌てようも合点がいった。何らかのきっかけで宝寿丸と法師丸を取り違えたことに気付いたきり丸は、まず宝寿丸を本来の親元である武家屋敷に戻しに来た。とすれば、つぎにやるべきことは明確だった。顔を見合わせた二人は頷きかわす。
 ≪俺はあの包丁人を追う。兵助は勘右衛門に加勢してくれ。≫
 ≪わかった!≫

 

 

「ほう、これが宝寿丸か」
「は」
 廃寺の奥に陣取った男が、鋭い目つきで赤ん坊を一瞥する。
「脅迫状はできている。これを送り付ければ、いくらあの武家といえども我らとの取引に応じざるを得まいて」
「しかし、早晩トフンタケには我らの動きは知られるのでは」
 背後に控えた部下が気がかりそうに言う。
「なんの」
 男にひるむ様子はない。「だからこそスピード勝負に出たのだ」

 


 -てことは、あの乳母のバックにいるのはトフンタケってことか…。
 床下に潜って耳をそばだてていた勘右衛門が考えを巡らせる。
 -で、こいつらはどこの忍者なんだ…?
 なおも耳を澄ませる。だが、すでに話は終わったらしい。脅迫状を受け取ったらしい者の足音は遠ざかり、子どもを抱いた部下とこのアジトの責任者らしい男の足音も去って行った。
 -しょうがねえ。とりあえず脅迫状とやらの届け先を探るとすっか。
 子どもがこのアジトから動かされることはないと判断した勘右衛門が動き出す。

 

 

 ≪勘右衛門!≫
 ≪兵助! どうしてここに…?≫
 武家屋敷の外の木立に身を潜めて、さてどうやって勘右衛門を探し出そうかと思案していた兵助だったから、手紙を携えた部下を追って現れた勘右衛門に驚きを隠すことができなかった。
 ≪俺は宝寿丸を誘拐した連中が出した脅迫状を追ってだな…で、兵助はなんでこんなところにいるんだよ≫。
 驚いたのは勘右衛門も同じようである。部下が裏木戸にいた使用人に手紙を渡すのを横目で見据えながら説明する。
 ≪それがさ…実はあの赤ん坊、宝寿丸じゃないことが判明しちゃってさ…。≫
 ≪はあ!?≫
 ≪どうやら預かってる間に取り違えたらしい。誘拐犯や俺たちが宝寿丸だと思ってたのは、法師丸っていう名前の子どもだったんだ。それに気づいたきり丸が、宝寿丸をこの屋敷に届けに来て俺たちも真相がわかったところさ。≫
 ≪宝寿丸と法師丸? そりゃ間違えやすいっちゃそうかもしれないけどよ…。≫
 さてどうするか。思索の糸がすっかりこんがらがった脳内を整理しかねて勘右衛門は呆然とするばかりである。
 ≪そんなことより、法師丸を取り返すことが第一だろ。それに、あの連中の背後に何があるのか探らないと。≫
 兵助が急き立てるように矢羽音を飛ばす。
 ≪最初に宝寿丸を預けに来た女だったら、背後はトフンタケだぜ。≫
 あっさりと応える勘右衛門に兵助が眼を見張る。
 ≪トフンタケだって? てことは…あ≫
 兵助が矢羽音を切ると同時に荒々しい足音と怒鳴り声が屋敷の中から響いてきた。と、端近に出てきた主人がすっかり畏まっている使用人に向かって何やら怒鳴りながら手にした脅迫状をびりびり破いて投げ捨てると、再び足音を荒げながら奥へと入っていく。
 ≪そりゃそうだよね…。≫
 ≪子どもが返ってきたあとに脅迫状が届くとはな…。≫
 小さくため息をついた兵助が顔を上げる。 ≪で、どうする?≫
 ≪決まってんだろ?≫
 勘右衛門がニヤリとする。≪法師丸を取り返して、あの連中の背後に何があるのか探らないとなっ!≫
 -それ、さっき俺が言った…。
 心の中で兵助はもう一度、ため息をつく。

 

 

「…しくじったか」
「申しわけありません」
 街道沿いの茶屋の縁台に並んで腰を下ろした男たちが小声でやり取りをする。
「で、宝寿丸はどうしたんだ」
「それが…」
 笠を目深にかぶった男はぎりと歯を鳴らす。「せっかく女を乳母役に潜らせといたのに、アリバイ作りとかなんとか言って子守のバイトしてた知らないガキに預けやがって…」
「で、まんまと持ってかれちまったってことか」
 傍らの頬かむりをした男-切羽拓郎-がずず、と茶をすすりながら無感情な声で言う。「で、どうするつもりだ?」
「とりあえず脅迫状だけは出しといた」
 笠の下から声が返ってきた。「とりあえず宝寿丸が行方不明なことには変わりない。脅迫状にどんな反応を示すか楽しみってもんだ」
「どうだかな」
 湯呑を手にしたまま疑わしげに拓郎は言う。「とにかく何としても情報は取るのだ。いいな」
 そして代金を残して立ち去る。

 

 

「…」
 少し離れた木陰に腰を下ろしながら、八左ヱ門はその様子をうかがっていた。怪しまれない程度に十分な距離を取ったせいで話の内容は全く聞き取れなかったが、表情の動きからあまり順調なやり取りではないことは見て取れた。
 -そりゃ、狙ってた赤ん坊を他の連中に連れ去られたんだから当然だけどさ…それにしてもあの頬かむりした妙に濃い顔した男、どっかで見たことあんだけどな…。
 そうこうしているうちに頬かむりの男がおもむろに立ち上がって歩み去ろうとする。
 -しょうがない。あっち追いかけるか。
 拓郎に気付かれないようにさりげなく立ち上がると、八左ヱ門も追尾を再開する。

 


 ≪この廃寺だ。≫
 ≪この中にいるんだな?≫
 アジトの廃寺に戻ってきた勘右衛門が兵助に矢羽音を飛ばす。
 ≪じゃ、忍び込むぜ。≫
 崩れた築地塀から入り込もうとする勘右衛門を≪待て!≫と兵助が制する。
 ≪どうしたんだよ。≫
 不服そうに勘右衛門が訊く前に、≪あれ見ろよ。≫と兵助が目配せする。
 ≪あれって…?≫
 身を潜めたまま兵助の視線の先をたどった勘右衛門も思わず動きを止める。半ば崩れた門から数人の男たちが姿を現したところだった。それは見覚えのある顔だった。
 ≪あいつら…スッポンタケ忍者だよな…≫
 ≪そうだ。チャミダレアミタケの殿さまを暗殺しようとした連中だ。≫
 鋭い眼で男たちの動きを追いながら兵助が頷く。
 ≪てことは、トフンタケから宝寿丸を奪ったのはスッポンタケってわけか。≫
 ≪そういうことだな。≫
 ≪だけど…≫
 勘右衛門はすっかり頭が混乱していた。スッポンタケもトフンタケも戦好きの悪い城だが、その二つの城が同時に誘拐を企む宝寿丸とはいったいなんなのだ…。
 ≪そうだ、思い出した!≫
 腕を組んで考え込んでいた兵助が不意に小さく手を打った。≪きり丸が言ってたろ。あの武家はチャミダレアミタケの家老とつながりがあるようなこと。≫
 ≪そんなこと言ってたっけ?≫
 泣き叫ぶ子供たちの世話で手一杯だった勘右衛門にはまったく記憶にない。
 ≪ああ。たしかに言ってた。チャミダレアミタケといえばスッポンタケが絡んでくるのはお約束なのに、どうして今まで思い出せなかったんだろう…!≫
 悔しそうに兵助が唇をかむ。
 ≪まあ、思い出せたんだからいいだろ。≫
 勘右衛門がなだめる。≪それに、今度の件はトフンタケが先に仕組んでたことみたいだし。ご丁寧に乳母や包丁人まで潜り込ませてたんだからな。≫
 ≪あ、ああ…そうだな。≫
 俯きながら兵助がこくりとする。
 ≪さて、それじゃこれから連中の戦力把握といくか。≫
 気を引き立てるように勘右衛門が言う。≪いまスッポンタケの連中が出て行ったってことは、確実に人が減ってるわけだから俺たちに有利なはずだよな?≫

 


「おい」
 唐突にかけられた声に、子どもを抱いていた男が顔を上げる。
「なんだよ。本城に報告に行ったんじゃねえのかよ」
 そこには、つい先ほど本城に向かったはずのスッポンタケ忍者のうち二人が立っていた。
「計画が変わった。宝寿丸を本城に連れて行くようたった今指示があった」
「んだってえ?」
 男が眉間に皺を寄せる。「誰だよ、そんなこと勝手に決めやがったのは」
「いつまでもここで子ども抱えて頑張るつもりか」
 取り合うつもりもないのか、戻ってきた忍者は木で鼻をくくったように言う。「トフンタケが奪い返しに来たらどうするつもりだ」
「んなわけねえだろ」
 とっさに言い返した男だったが、動揺が表情に現れるのを苦労して抑えなければならなかった。「余計なこと言ってねえでとっとと本城に行ったらどうだ」
 スッポンタケ忍者の手先として宝寿丸をさらってきた男にとって、宝寿丸は自分の功績を立証できる唯一の手段だった。うかつに手放してしまえば、恩賞にあずかる前に切り捨てられかねない。
「余計なことは考えないことだな」
 果たしてスッポンタケ忍者が唇をゆがめて笑う。「ここで後生大事に子ども抱えてトフンタケに奪い返されるのと、連中の手出しができない本城で間違いなく預かるのと、どっちが安全だと思っている」
「…」
 男の視線が漂い始める。相手の言うことがいちいちもっともなのはわかっていた。自分としては、功績が認められてそれなりの恩賞が手にできればいい。
「…恩賞のこと、忘れるなよ」
「当然だ。任せろ」
 しぶしぶ男が差し出した宝寿丸を抱き上げたスッポンタケ忍者が走り去る。

 

 

 -マジかよ。あいつ、トフンタケ忍者だったのか…!
 拓郎を追っていた八左ヱ門が絶句する。今まさに、拓郎がトフンタケ城の城門を、慣れた様子で番兵に声をかけながら入っていくところだった。
 -てことは、トフンタケが背後にいたってわけか…。
 本当ならば拓郎がどのような指示を受けていたかを探りたいところだったが、さすがに一人で城に潜り込むほどの度胸はない。
 -しょうがねえ。いったん兵助たちと合流するか。なにか新しい情報を掴んでるかもしれないし…。
 未練げにちらと城を振り返った八左ヱ門だったが、すぐに物陰に隠れながら走り去る。

 

 

 

 

 

「おいおい、そんな面白いことになっていたのに私たちに声を掛けなかったなんて、それはひどくないか?」
「そうだよ。君たちがそんな友達甲斐のないとは思わなかったよ」
 忍術学園に戻ってことの顛末を語る兵助たちに三郎と雷蔵が苦情を申し述べる。
「しょうがないだろ。展開が速すぎて学園に戻ってるヒマがなかったんだから」
 勘右衛門が肩をすくめる。
「それに、そもそもお前たちが外に買い物なんか行くからだろ? 先輩たちに呼び出されたときはどーなるかって寿命が縮まる思いだったんだぜ?」
 八左ヱ門も黙っていない。
「で、法師丸って子は、ちゃんと親元に返してあげたの?」
 気がかりそうに雷蔵が訊く。
「もちろん!」
 兵助が胸を張る。「きり丸のところへ連れ帰って、きり丸が親御さんのところに返しに行ってたよ」
「それにしても、俺たちの変装術もなかなかのもんだろ?」
 勘右衛門も自慢気な表情をあらわに言う。「見事にスッポンタケ忍者になりきって、法師丸を抱え込もうとしてた男から取り返したんだからな!」
「その男がアマチュアなだけさ」
 悔し紛れに三郎が混ぜっ返す。「私だったらもっとカンペキに仕上げてやったのにな」
「それで、トフンタケとスッポンタケは何を狙っていたんだろうね」
 考え深げに雷蔵が訊く。
「それは俺たちにも追いきれなかった」
 ため息交じりに八左ヱ門が応える。「宝寿丸の家の武家がチャミダレアミタケの関係者ってことは、そっちに関する何らかの情報を狙っていたんだろうな」
「それも、子どもをさらってまで欲しがってた」
 静かに兵助が指摘する。「たしかにそれを探りきれなかったのは口惜しいな」
「そのトフンタケとスッポンタケはどうなったんだ?」
 三郎が訊くと、兵助たちがぷっと噴き出す。 
「互いに責任をなすりつけ合って戦になりそうなとこ」
 笑いをこらえながら勘右衛門が応える。
「ははは…どっちも悪い城だし、いいんじゃね? しばらく周りは静かでいられるな」

「そういうこと!」
 三郎が笑い出すと同時に全員が笑い転げる。

 

<FIN>

 

 

Page Top  ↑