君がいるから世界はある

 

<リクエストシリーズ 土井先生&きり丸+留三郎&伊作>

 

土井先生&きり丸か留三郎&伊作のリクエストをいただきました。

どっちも大好きなコンビで、どっちも相手をとても大切に思っていて…だったら両方書いちゃえ! ということでこうなりましたw

ということでミントさん、ここに納品いたします。

 

 

「ここから先は危険だ。山賊が出ると言われている。気がつかれないようにそーっと歩くよ」
「はい…」
 ためらいがちに応えながら乱太郎が伊作の横顔を見上げる。つないだ手から、常ならぬ緊張感が伝わってきたから。
「…」
 伊作の張りつめた表情は前を向いたままである。乱太郎はごくりとつばを飲み込むと、伊作に並んでそっと足を踏み出す。 

 


「さあ、ここまでくれば安全だ」
 にっこりと伊作が微笑みかける。
「はい!」
 乱太郎もにっこりして見上げる。伊作の手に帯びていた緊張感はいつの間にか消えていた。
「ここまでくればもうすぐ学園ですね! …って、あれ?」
 弾んだ声で続けた乱太郎が、ふと戸惑った表情になる。自分の手を握っていた伊作の指から力が抜けて、するりと離れていったから。
「すまない、乱太郎」
 微笑んだまま伊作は続ける。「僕はちょっと用を思い出したんだ。先に学園に戻っててくれるかな」
「用って…それならわたしも…」
「いや、いい」
 微笑みながらもその声はきっぱりと拒絶していた。「先に戻っててくれないか」
「…はい」
 悄然と乱太郎が応える。だが、すぐに精一杯の笑顔で見上げて言うのだ。「伊作先輩も、お気をつけて」
「ああ。じゃ、乱太郎も気をつけるんだよ」
 軽く片手を上げると、伊作はもと来た道を足早に戻っていく。

 


「あ~あ、なんでぼくたちが山田先生の女装用の紅なんて買わなきゃならないんスか?」
 頭の後ろで腕を組みながらきり丸がぶつくさ言う。
「まあそう言うな、きり丸…山田先生もお忙しいんだから」
 苦笑しながら半助がなだめる。2人は町内会の溝さらいを終えて学園に戻るところだった。半助の荷物の中には、伝蔵から頼まれた女装用の紅や化粧筆などがおさめられていた。
「そりゃそうなんスけど…」
 なおもきり丸はぼやく。「あの買い物するときのこっぱずかしさっていったら…」
 先生ぜんぶおれに押し付けるし、と恨みがましい視線を向ける。
「すまんすまん…ほら、大の男が化粧品など買っていたら怪しまれるだろう? もし隣のおばちゃんに見られたらどうする」
「それ、ぼくも同じなんスけど」
「うん、まあ、照れくさいのは分かるがな…って、あれは乱太郎だな」
 納得しないことは分かっていたがとりあえず言葉を継いだ半助の口調がふいに変わる。
「え? 乱太郎が?」
 きり丸も辺りを見渡す。と、俯きながらとぼとぼ歩く乱太郎の姿を捉える。
「お~い、乱太郎!」
 これまで文句を垂れていたことも忘れてきり丸が大声で呼びながら駆け出す。
「あ…きり丸。土井先生も」
 顔を上げた乱太郎が意外そうに眼を見開く。
「こんなところでなにやってんだよ。伊作先輩といっしょにでかけたんじゃないのか?」
「そういえば伊作はどうした?」
 歩み寄った半助が不審そうに辺りを見渡す。
「伊作先輩は…用があるって」
 乱太郎がしゅんとする。「だから、わたしだけ先にもどってなさいって」
「そうか…」
 鋭い眼で乱太郎が来た方向をちらと見遣った半助はおもむろに荷物を肩から外しながら続ける。
「きり丸。この中に山田先生から頼まれたものが入っている。乱太郎と一緒に学園に戻ってお渡ししてくれ」
「え…でも先生は?」
「伊作の様子を見てくる」
「それならわたしも…」
「いや、乱太郎はきり丸と学園に戻りなさい」
「でも…」
「早く戻るんだ。山田先生がお待ちかねだぞ」
「行こうぜ、乱太郎」
 半助が一人で行きたがっているのを察したきり丸が乱太郎の肩に手を掛ける。「はやくこの化粧品山田先生にとどけねえと、ま~た機嫌わるくなっちまうからさ」
「え? 化粧品?」
 乱太郎が弾かれたような表情になる。
「そうってこと」
 きり丸が肩をすくめる。「土井先生と溝さらいに帰るって言ったら、ついでに買ってきてくれってたのまれちゃってさ…それに土井先生、紅買ってるところ見られたくないっておれに押しつけるしよ」
「そうなんだ…たいへんだったね」
 乱太郎が同情したように言ったときには、半助の姿は消えていた。

 


「きさま、ここで何をしていた」
 後ろ手に縛り上げられた伊作を引き据えた侍が腕を組んでぎろりと睨みつける。
「僕は医者です。だから手当てをしていただけです」
 伊作が侍を見上げる。「まだケガをしている患者がたくさんいます。縄をほどいてもらえませんか」
 乱太郎とともに出向いた先の近くで戦があったことを伊作の耳は捉えていた。だから戦場を避けて安全な場所まで導いてから乱太郎を先に学園に帰らせたのだ。そして伊作は戦場に足を踏み入れていた。そこに手当てを必要とする患者たちがいることが分かっていたから。だが、そこで部隊の撤退を指揮していた侍に捕えられてしまっていた。
「医者ね…」
 侍が鼻を鳴らすと、控えていた足軽が伊作の着物を両側から引っ張る。と、裏返った懐からばらばらと手裏剣や苦無が地面に落ちる。
「これも医者の持ち物だというつもりか」
 かがみ込んだ侍が落ちた苦無を拾い上げると、伊作の肩下に突き付ける。
 -まずいな。でも、僕が学園の生徒だってことは絶対にばれないようにしないと…。
 たとえどんな苛烈な責めを受けようと、守らなければならないことだった。まして学園の誰の許可も得ずに潜り込んだ戦場であればなおさらである。
「言え。きさまどこの忍者だ。どの城の指示でこの戦を探りに来た」
「僕は医者です。誰の指示を受けて来たわけでもありません」
 それは紛れもない事実だったが、この場で決して受け入れられるはずもない事実でもあった。
「どの口が…」
 苦無を突き付ける手に力がこもる。ぐいと押し付けられた瞬間、刃先が動いたのか痛みが走る。露わになった肌を肩下から胸にかけてすっと血が伝う。
「この程度で済むと思うな」
 こんどは苦無を首筋に突き立てながら侍は言う。「医者なら分かっているだろう。ここでさっきみたいにしたら、血がピューと吹き出る。さぞ見事であろうのう」
 血走った眼で苦無を突き立てるその袖口から覗く腕に伊作の視線が吸い寄せられる。
 -これは…!
「どうした。まだ言わぬか」
 首筋に突き立てられた刃先が食い込む。それでも伊作が声を上げられずにいたとき、ぼむ、と小さな音がして唐突に煙が立ち込めた。
「なんだこれは…!」
「煙玉だ! 忍者の仲間がいるぞっ!」
「探せ探せッ!」
 立ち込める煙の中で動揺した声が交錯する。そして伊作の身体は誰かに担ぎ上げられて拉し去られていた。

 


「だいじょうぶか、伊作」
「土井先生…!」
 肩に担いでいた伊作の身体を下ろすと、半助は取り出した苦無で後ろ手に縛りあげていた縄を切った。
「ありがとうございます」  
 でもどうして…と伊作は顔を伏せる。六年生にもなって教師に助けられるような局面に陥っていたことが恥ずかしかった。
「たまたま乱太郎と会った。1人で学園に戻るよう伊作に言われたと聞いて、おおかたこんなことだろうと思っていた。戦で負傷者が出たと知れば、放っておけないのがお前だからな」
 なだめるように半助が言う。だが、ふいに眉を寄せる。「…大丈夫か? ひどい目に遭わされたりしてなかったか?」
 上半身が露わになっていたから、肩下から流れた血が乾いてこびりついてる様を見つかるのは当然だった。
「大丈夫です」
 慌てて着物に袖を通しながら伊作が応える。「頸動脈に苦無を突き立てられていましたが、そのときに先生に助けていただきましたから」
「そうか」
 短く応えた半助だったが、まだ伊作が口にしていないことがあることには気づいていた。「なにか、気になることがあるのか」
「…」
 小さく伊作の肩が反応した。
「なにがあった」
 ひょっとして身体的な拷問ではなく、何か心理的な圧迫を加えられたのかもしれないと考えた半助が抑えた声で話しかける。
「…」
 思いつめた表情で伊作は黙り込んだままである。
「伊作」
 半助に肩をつかまれて、伊作はぎょっとしたように眼を見開いて顔を上げる。
「土井先生…」
「何があった。あいつらに何をされた」
 両肩をがっしと捉えながら半助が顔を近づける。「口にしたくないことがあったのかもしれない。だが、私には話してくれないか。絶対に他言はしない。ただ、吐き出すことで楽にさせてやりたいだけだ。なに、私だって教師の端くれだ。生徒の秘密は絶対に守る! だから…」
 プロの忍に近い段階まで達しているとはいえ伊作はまだ15歳の少年である。心理的な圧迫、あるいは性的な凌辱に遭っていたとすれば、それは一生のトラウマになりかねない。だから半助は注意深く伊作が口を閉ざす理由を探ろうとする。だが、自身でも気づかないうちにその口調に性急さが加わってしまう。
「あの…なにか誤解されているようですが…」
 熱っぽく語りかける半助に却って冷静になった伊作が戸惑ったように口を開く。「すぐに先生に助けていただいたので、ちょっと苦無を突き立てられただけです。ご心配には及びま…うわあぁぁぁっ!」
 唐突に叫び声をあげた伊作に突き飛ばされて半助は思わず後ろに手を突く。
「ど、どうした伊作!」
「僕に触らないでください!」
 あわあわと後ずさりながら伊作はなおも叫ぶ。
「いったい何があった、伊作」
 落ち着かせようと声を静めながら訊く。
「あの侍は…痘瘡にかかっていました」
 恐怖で眼を見開いたまま伊作はちいさくわななく。
「それは確かなのか」
 痘瘡、という言葉が意味をもって理解できるまで少し時間がかかった。古来から何度も流行しては多くの死者を出した病気だということは知っていた。そして、治療法がないことも。
「首筋や腕に発疹が見えました。医書で見たことのある痘瘡の発疹と同じでした…痘瘡は感染力がとても強いんです。もう、僕に感染しているかも知れないし、先生にも…」
 声を詰まらせた伊作が両手で顔を覆う。「僕は、先生に取り返しのつかないことを…」
「…そうか」
 怯えきった様子の伊作に、急速に恐怖が現実感をもちだした。仮に感染した可能性があるとすれば、自分も伊作も学園に戻ることはできない…。
 -私はいい。だが、伊作はどれほど気に病むだろうか…。
 助けられたばかりに感染させてしまった負い目を、伊作ならずっと背負い続けるに違いない。膝を抱えて顔を覆ったまま小さく震えている伊作がいたましかった。半助は伊作に近づくと、傍らに座り込んで肩に腕を回す。
「!」
 伊作がはっとして顔を上げる。「先生! 僕に触っては…!」
 慌てて飛びのこうとするが、半助の腕は伊作の肩にしっかりと回されたまま放さない。
「なあ、伊作」
 穏やかな声で半助は伊作の顔を覗き込もうとする。「私は教師だ。教師っていうのはな、どうしても生徒を見捨てることができないという病にかかっている。どんな名医にも治せない、まあ、職業病だな」
「でも、僕は…」
「言ったろう」
 より強く伊作の肩を抱き寄せながら半助は続ける。「たとえいつか、戦で教え子と会いまみえたとしても、教え子が一人前の戦力として戦場に立つことができるようになったことを誇らしく思う。それが教師だ。まして教え子が苦しんでいるなら、全力で助けようとする、それが教師というものなんだ」
「痘瘡の致死率は4割と言われているんです。一国が滅びたこともあると伝えられているほどです。そんな病なのに…」
 今やむせび泣いている伊作だった。
「少し落ち着くんだ、伊作…致死率が4割なら、感染しても必ず死ぬわけではない。それにまだ感染したとも限らない。この病気はどうやって感染するんだ?」
「接触感染と…飛沫感染です」
 しゃくりあげながら伊作が答える。
「そうか。それなら我々にも感染した可能性があるということだな。潜伏期間は?」
「1~2週間です」
「そうか、それなら」
 朗らかに言いながら半助は伊作の頭をなでる。「1~2週間ほど我々は学園に戻らない方がいいな。山中で私とサバイバル実習でもしようじゃないか。な?」
「でも…どうやって学園に伝えれば…」
 眼に涙をたたえたまま伊作が見上げる。自分が戻らなければ仲間たちは心配するに違いない。特に留三郎は、どうやっても自分を探し出そうとするだろう。たとえどんな危険を冒しても。
「大丈夫だ、いい方法がある」
 何やら書きつけた懐紙を苦無に巻きつけながら半助が微笑みかける。「これを学園の門に突き刺す。タソガレドキの諸泉君がよく使う手だ。私に果たし状を送りつける時にね…」

 

 


「そんなところで何をしている?」
 ぼんやりと分かれ道の大木にもたれて座り込んでいたきり丸は、眼の前に立ち止まった大きな影から放たれた声に顔を上げた。
「食満せんぱい…」
 とっくに出張から戻っているはずの半助の不在は、一年は組にそろそろ収拾不能な動揺をもたらしつつあった。乱太郎ときり丸が最後に見た、伊作とともに向かったという山賊が出る山に探しに行きかねない動きを伝蔵がなんとか抑えているところだった。
「その…ちょっとたそがれてたっていうか…」
 きり丸の不安と後悔は限界に達しつつあった。だからそっと学園を抜け出してきた。
 あの時、半助が一人で行きたがっていたことが分かったから、とっさに乱太郎の気をそらす方向に話を振った。だが、それが正しかったのか分からなくなりつつあった。むしろ、強引にでも一緒に行けばよかったのかもしれないと思い始めていた。半助が嫌がったとしても。
 もし半助が帰ってこなかったら、という思いはひときわきり丸を強く苛んだ。もう我慢できなかった。だからそっと学園を抜け出して、あの日、半助が伊作を追って走り去った分かれ道に来ていた。だが、その先どこへ向かえばいいのかも分からず座り込んでいた。
「お前が何をしようとしてるかぐらいお見通しだ」
 片手を腰に当てた留三郎がしたり顔で言う。「土井先生たちが向かったのはこっちだ。行くぞ!」
 言いながら、伊作が向かった森へと足を進める。
「あっ、せんぱい、まってくださいよ…」
 慌てて立ち上がったきり丸が追いかける。

 

 

「新野先生、よろしいですかな」
「これは山田先生。どうぞ」
 その前の晩、医務室を訪れた伝蔵だった。
「少々ややこしいことになっているようでしてな、新野先生のご意見を伺いたいのですが」
「といいますと?」
「これです」
 伝蔵が懐から取り出したのは、学園の門に突き刺さった苦無に結わえられていた文である。
「これは…」
 文に眼を通していた新野の眉がぴくりと動く。
「さよう。伊作と土井先生は痘瘡にかかっている可能性があるので、しばらく様子を見るため学園に戻らないとある。だが、痘瘡は恐ろしい病気だ。2人は果たして無事なのでしょうか」
「たしかに恐ろしい病気ではあります」
 文を伝蔵に返しながら新野は頷いた。「それが事実ならば」
「ということは?」
「痘瘡の感染力はとても強い。一度発病すれば、致死率は4割程度と言われています。感染から発病まではだいたい1~2週間です。だから、その間、学園から離れて様子を見るという判断は正しい」
 何があったか分からないが、伊作と半助がそのようなリスクを負ったということは、しばらく2人が学園に戻る見込みはないということだった。
「なるほど」
「ですが、痘瘡は非常な高熱や頭痛、腰痛など症状はかなり激しい。どのような経緯かわからないが、伊作君がそのような患者に不用意に接触するとは考えにくいのです」
「このような文を寄越してくるということは、今のところ2人が病気になったということではなさそうだ。だが、もし2人のうちどちらかでも病気になれば、取り返しがつかないことになりませんか」
 文を一読した時から気になっていたことを訊かずにはいられない伝蔵だった。
「その通りです。感染が事実なら、高熱に見舞われる。高熱を放置すれば体力の消耗で生命へのリスクが高まる。それなのに薬もないような場所にいれば、なんの措置もできない…」
 腕を組んだ新野が考え込む。伝蔵の懸念ももっともだった。だが、文に2人の居場所は書いていなかった。
「あの日、伊作君は乱太郎君と使いに行っています。そこで何かあったと見るべきでしょうな。そして、伊作君と土井先生はそこからあまり離れてはいないはずです」
「離れていない、とは?」
 伝蔵が不審げに顎鬚に手をやる。
「感染症の恐れがある場合の行動の基本は、他人との接触を可能な限り避けることです。伊作君が自己隔離をするつもりならば、人目につかない場所に隠れてやたらと動くようなマネはしないはずです」
「なるほど、2人が何をするつもりなのかは分かりましたが…」
 頷いた伝蔵がちらと天井に眼をやってため息をつく。「それでも探しに行くつもりの者がいるようですな」
「探しに?」
 つられて天井を見上げた新野が訊く。
「いまのは留三郎でしょうな。同室の伊作を気遣う気持ちはよく分かるが、ともすると行動が先走るところがある。困ったものだ…」
「しかし、もし本当に探しに行ったのだとしたら…」
 気がかりそうに新野が腰を浮かす。「まだ2人は感染の有無が判定できない状態だ。そんなときに不用意に接触すれば、食満君にも隔離が必要になってしまいます」
「ごもっともです」
 当惑顔で伝蔵が頷く。「だが、大事な友を思うあまり、合理的な判断を越えてしまうこともある。特に留三郎のような男は…」

 

 

「ところで、せんぱいはどうして土井先生たちがこっちのほうにいるって分かったんすか?」
 陽が暮れて野営することにした2人は、森の中の空き地に火を起こして当たっていた。「それにその荷物は…?」
「ああ、これか」
 留三郎が背負ってきた荷物に眼をやる。「一週間分の食料ほかサバイバルグッズだ」
「サバイバル?」
「ああ。伊作たちが学園に手紙を寄越したそうだ。しばらく帰れないとな。偶然、俺はそれを聞いちまってな」
 いろいろぼかしたり端折ったりしながら説明する。
「その…しばらく帰れないってどういうことすか」
 まさにそのことで一年は組はパニック状態であり、自分は学園を抜け出してきたのだ。
「それより先に飯を食え」
 途中の茶店で手に入れた握り飯を手渡しながら、さてどう説明したものかと留三郎は考える。
 -いきなり痘瘡のおそれがあるから自己隔離したなんて言ってもきり丸がパニくるだけだろうし、俺も痘瘡がどんな病気か詳しいことを知ってるわけじゃないしな…。
 黙然と火を見つめながら握り飯を頬張る。
「あの、せんぱい…?」
「そういえば、どうしてお前が土井先生を探しているのか、まだ聞いてなかったな」
 とりあえず、事情を知っているわけでもないきり丸がなぜ自分と同じ行動をしたのか確認するのが先決だった。
「わけっすか…」
 膝を抱えて星空を見上げながらきり丸が口ごもる。
「どうした?」
 留三郎が顔を向ける。事情があってきり丸が休みのたびに半助のもとに世話になっているとはしんべヱたちから聞いていたから、いなくなって心配なのは想像できた。だが、外出届も出さずに勝手に出てくれば、後で罰せられるに決まっている。それでも行動するだけののっぴきならない事情があるのだろうかと考える。
「いや…ちょっと考えてたんです。もし先生がいなくなったらどうなるんだろうって」
「…」
 黙って留三郎は続きを促す。
「ぼく、帰る家ないから、休みのときは先生の家におせわになってるんです。先生、いつも当たり前のようにぼくを家につれてってくれるんです。ホントはただの先生と生徒の関係なんだから、そんなことする必要なんかないのに…」
 ぼそぼそと話すきり丸の視線が、だんだん地面へと向けられていく。
「…先生は父ちゃんでも兄ちゃんでもないけど、でもぼくにとっては家族みたいなもんなんです。もう、ぼくにはいなくなっちゃったと思ってた家族なんです。なのに、もしまたいなくなっちゃったりしたら…」
 あとは言葉にならずに、抱えた膝に顔を押しつける。
「きり丸…」
 思いがけず重たい話におろおろと留三郎が肩に手を掛けようとしたとき、くいと顔を上げたきり丸が向き直る。
「これでぼくのほうはぜんぶ話しましたからね。今度はせんぱいの番ですよ」
「お、俺も話すのか…?」
 たじろいた留三郎に追いかけるようにきり丸は言う。
「言わないとゼニとりますから」
「わかったわかった…」
 胡坐をかいた留三郎は、どこから話そうかと考えながら上を仰ぎみる。木々の枝に囲まれた間から星空が広がっていた。
「なあ、きり丸は乱太郎やしんべヱと同室だったよな」
「…はあ」
 不審そうに見上げるきり丸の視線を感じながら、留三郎の眼は星空に向けられたままである。
「お前にとって、乱太郎たちはどういう存在だ?」
「どういうって…友だちっていうか…」
「そうだろうな。俺と伊作もそうだった。一年のときはな」
「いまはちがうんですか?」
「ああ、違う」
「…?」
 どう続きを促せばいいか分からないまま、きり丸は留三郎の横顔を見つめ続ける。
「…必要になったんだ。互いにな」
「ひつよう…?」
「ああ。少なくとも俺にとって、伊作はいないと困るヤツなんだ」
「…」
 いないと困るとはどういうことだろうか、とふたたび抱えた膝に顎をのせながらきり丸は考える。

 

 

「お前の事情は分かった。土井先生のことが心配で、居ても立っても居られないんだな」
 手に取っていじっていた枝を焚火に放りながら留三郎が言う。きり丸の肩が小さく反応する。
「それだけ土井先生を慕ってるってことだ。違うか?」
「…」
「俺も同じくらい伊作を心配している」
 意外な台詞に思わずきり丸が顔を上げる。見下ろす留三郎と視線が合う。
「伊作と土井先生は、痘瘡のおそれがあるから自己隔離している。手紙にそうあったそうだ」
 きり丸の強い動機を知った以上、自分が知る限りの状況は話してやるべきだと腹をくくった留三郎だった。なるべくあっさり説明したつもりだったが、果たしてきり丸の眼が大きく見開かれる。
「とうそうって…」
「危険な伝染病だ。今のところ治す薬もないらしい。本当に痘瘡にかかったかを確かめるのに1~2週間かかるから、その間は他人との接触を断つのが正しいやり方らしい」
「でも、それじゃもし本当に病気になっちゃったら…」
「きり丸」
「はい」
 ふいに厳しい声で問いかけられてきり丸は思わず居ずまいを正す。
「やめるなら、今だぞ」
「やめる?」
 いつの間にか留三郎の視線が鋭さを増している。
「今やめるなら、これから俺が学園まで送ってやる」
「なんでやめなきゃならないんですか?」
「言ったろ? 伊作たちは危険な伝染病にかかっているおそれがある」
 留三郎の眼光がさらに力を増す。「つまり、伊作たちがもし感染していたら、俺たちにもうつるってことだ。それも死んじまう可能性の高い病気にだ。そしたら乱太郎やしんべヱにも二度と会えなくなるんだぞ? その覚悟があるのかってことだ」 
「…」
 にわかには答えられずにきり丸は眼を見開いたままである。
「まあ、今すぐに決めろとは言わない。明日の朝までに考えておくんだ。いいな」
 やや口調を和らげて留三郎は言う。「寝るぞ」

 


「…」
「どうした。眠れないのか」
 ぼんやりとした表情で星空を眺める伊作に、周辺に巡らせた罠を見回ってきた半助が声をかける。
「はい…」
 生返事をする伊作の声は、思い詰めたように固い。
「何か気になることでもあるのか?」
 伊作の隣に腰を下ろしながら半助は訊く。
「はい…実は」
 口ごもる伊作に、半助は黙って続きを促す。
「学園に僕たちの状況を伝えなければならないことは分かるのです」
 固い口調のまま伊作は口を開く。「でも、この方法が本当に正しかったのか…」
 -何を言ってるんだ! 土井先生を巻きこんでしまった上に今さら自分の取った方針が間違ってるかもなんて、僕は医療者として最低だ…!
 言ってしまってから猛烈な後悔に駆られて伊作は頭を抱え込む。
「なあ、伊作」
 穏やかな声で半助は語りかける。「痘瘡が恐ろしい病気だということは私も知っている。感染力が強いうえに、高熱や発疹があるということだな。であれば、他の人に移すリスクを減らすことは当然じゃないのか? 私には医療の詳しい知識あるわけではないが、そのくらいは分かるぞ。まして学園には小さい子どもたちがたくさんいるのだからな」
「はい…」
 頭を抱えたまま、今や伊作は小さく震えていた。
「他にも心配事があるのか?」
「…痘瘡と書けば、事態が深刻なことは分かっていただけると思うのです。特に新野先生には」
 震え声の伊作の表情は、腕と髷にかくれている。だが、その苦悶が容易に想像がついて半助は心が痛んだ。
「…だからこそ、症状が出てしまった場合に食料も薬もないような場所にいては危険だということもよくご存知です。高熱を放置すれば体力が消耗して、それだけでも死んでしまう危険が高くなります」
「そうだな…」
 曖昧に半助が頷く。これまでは他人との接触をできるだけ避けることばかりを考えていた。だが、もし発症した時の備えはなにもないのだ。この戦場だった森の中に目立たぬように張った小さな陣幕では。
 -たしかにここには食料もロクにないし、薬に至っては全くない。栄養のあるものを食べさせることもできないし、まして必要な治療をすることもできない。
 だが、それは病の潜伏期間を伊作と過ごすことを決めたときから覚悟していたことだった。だから、すぐに明るい声で続ける。「まあいいじゃないか。せっかくの機会だ。とりあえず元気なうちはじっくりマンツーマンで授業してやるぞ。伊作は兵法の成績があまり良くなかったそうじゃないか。そんなことではしっかりした理論に基づいた作戦は立てられないぞ」
「え? …あ、はい」
 唐突に授業のことを思い出させられた伊作が口ごもりながら返事をする。「でも、ここで…兵法の復習ですか?」
「もちろんだ。まだ時間はたっぷりある。私が見てやるから兵法の知識を完璧にしないとな。でないと卒業試験で落としてしまうぞ。ではまず、孫子の兵法からだ」

 


 ふっと冷たい風が頬に触れてきり丸は眼を覚ました。
 -そっか、先生たちをさがして、森の中で野宿したんだっけ…。
 少しずつ状況を思い出しながらゆるゆると眼を開く。
 夜明けが近いようだった。夜霧が漂う森の中の一画が明るくなりかけていて、鳥たちがさえずりを始めていた。あの冷たい感覚は夜霧だったのかもしれないときり丸は思う。
 -そういや、夜明け前がいちばんさむいんだよな…。
 学園に入る前、野宿が日常だった頃を思い出す。あの頃は、夜明け前の寒さに眼を覚ますことも珍しくなかった。
 -それにしちゃあったかいけど…。
 ふと思いが至ったところで、身体が暖かいものに包まれて動かないことに気づく。そして頭上から寝息がすることも。
 -どゆこと?
 辺りを見廻そうとしてようやく気付く。自分の身体は、木に寄りかかって眠る留三郎に背後からすっぽりと抱きすくめられていた。そして首から下は風呂敷で覆われていた。そしてようやく、背後で呼吸によって小さく上下する留三郎の身体の動きに気づいた。
 -だから寒くなかったんだ…。
 背後から包み込む身体の温もりにしばし陶然としながら、昨夜投げかけられた選択肢に思いが至る。
 -そうだ。今日にはきめなきゃいけなかったんだ。
 行くのかやめるのか。
 だが、実のところきり丸の答えは決まっていた。問題は、それをどう説明するかということだけだった。
 -だって、いまさら一人きりなんてもうやだし。
 自分を守ってくれていた存在を失う、あの奈落の底に落ちるような感覚はもう二度と味わいたくないものだった。
 -おれだけとりのこされるくらいなら、いっしょに死んじゃったほうがましだ…!
 たとえ二度と乱太郎やしんべヱと遊ぶことができないとしても、半助を失うのを座視するくらいなら自分も同じ病で死んだ方がいい。不思議とクリアな意識の中できり丸は淡々とそう考えていた。
 -それに、死ねば父ちゃんや母ちゃんたちとまたあえるかもしれないし…。
 ほんの一瞬、喪った家族の顔が脳裏を過ぎる。
 -だからいいんだ! おれは、土井先生を…!

 

 

「まあ、きり丸ならそうするだろうなとは思ったが」
 すっかり明けた森の中を進む留三郎ときり丸だった。
「ぼくにとっても、土井先生はひつようですから」
 いなければ困る存在とはこういうことなのだ、と思いながらきり丸は言う。
「…そうか」
 自分と伊作を結び付けるのは強い友情だが、きり丸と半助の関係はむしろ家族のようなものなのかも知れないと留三郎は考える。
 -だからここまでついて来るんだろうな。どこまで死を覚悟してるかは知らんが…。
 思いながら先に立って歩くきり丸の足元にふと眼をやる。と、次の瞬間、「待て、きり丸!」と反射的に手が伸びてきり丸の肩を捉える。
「な、なんすか?」
 唐突に動きを止められたきり丸が咎めるように振り返る。
「足元をよく見ろ…警戒線だ」
 言われておずおずと足元に眼をやる。そこには目立たないように下草の間を這わせた警戒線があった。
「ホントだ…だれがこんなものを…」
 しゃがみこんで警戒線を見ていたきり丸がぽつりと続ける。「やっぱり、土井先生たちかな」
「だろうな」
 腕を組んだ留三郎が言う。「つまり、この近くにいるということだ」
 きり丸がはっとして立ちあがる。
「じゃ、はやくさがしに…!」
「だから待てって言ってるだろう!」
 駆け出そうとするきり丸を慌てて羽交い絞めにする。
「どうしてですかっ!」
 暴れるきり丸を必死で押さえつけながら留三郎が声を荒げる。
「伊作たちが遠くに逃げちまうだろっ! だから作戦を…!」
「でも、もし病気になってたらどうするんスかっ!」
 もう我慢の限界だった。一晩考えるまでもなくきり丸が恐れたのは、半助を喪うことだった。ふたたび自分を受け入れ包み込んでくれる存在を喪うことだった。そんな喪失の前に立ち尽くすくらいなら、ともに死の危険に飛び込んだ方がマシだった。そして、半助が近くにいることが分かっているのに待たなければならない理由が分からなかった。半助を見つけるためにここまで来たのではないか。
「先生にあいたいんだっ! はなせっ!」
 駆け出そうとする身体を持ち上げられて足が空を切る。と、踵がまともに留三郎の脛を直撃した。
「う!」
 さすがの留三郎も突き抜ける痛みに羽交い絞めにしていた腕が一瞬緩む。きり丸の身体の重みにつられて上体が前に傾く。
「お~っ!」
 バランスを崩して足をもつれさせた留三郎の身体が、きり丸ごと警戒線の上に倒れ込む。同時にカチッと小さな音がした。
「きり丸! あぶないっ!」
 いてて…と起き上がろうとしたきり丸にとっさに覆いかぶさる。次の瞬間、空を切って飛んできた仕掛け矢が留三郎の腕に突き刺さった。
「食満せんぱいっ!」

 

 

「なんだか騒がしいな」
「警戒線が切られたようですね」
 森の一画での騒ぎは、すぐに半助と伊作にも伝わった。
「うまく仕掛け矢にかかったようだな」
 耳を澄ませて気配を探りながら半助が言う。
「では、足止めしている間に逃げましょう」
「そうだな」
 先に立つ伊作に続いて動こうとした半助の耳がふいに一つの声を捉える。眼を見開いて動きを止めた半助に伊作がいぶかしげに眼を向ける。
「どうしましたか、土井先生?」
「…きり丸だ…」
「きり丸が?」
 半助の唇から洩れた声に伊作も慌てて耳を澄ませる。
「…先生! 土井せんせいっ!」
 確かにそれはきり丸の声だった。次の瞬間、半助は地面を蹴って声の方へと駆け出して行った。
 


「きり丸!」
「土井せんせいっ!」
 唐突に藪の中から飛び出してきた半助に一瞬動きが凍ったきり丸だったが、すぐに半助の身体にとびつく。
「せんせい、どこ行ってたんすかっ…! ずっとさがしてたのに…」
 着物の襟をつかんで顔をうずめながら涙声になるきり丸に「すまない…」とそっと抱き寄せた半助が、はっとして慌てて飛びのく。身体をひきはなされたきり丸がきょとんとして見上げる。
「だめだ、きり丸! 私には痘瘡の疑いが…」
 上ずった声にふと我に返ったきり丸が本来の用を思い出して更に声を上げる。
「そうだった! せんせい、大変なんです! 食満せんぱいが矢にあたってケガして…!」
「留三郎が!?」
 藪から踊り出した伊作が叫ぶ。
「伊作せんぱい…どこから出てきてるんすか…?」
 唐突な登場にきり丸が呆然と訊く。
「そんなことより! 留三郎はとこにいる!?」
「そうだ! こっちに…!」
 


「留三郎!」
 腕に矢を突き立てたままぐったりと木に寄りかかっていた留三郎がゆるゆると顔を上げる。
「よお、伊作…」
「まさか君がこんなことになるなんて…」
 いたましげに言いながらしゃがみこんだ伊作が懐から水筒と手拭いを取り出す。
「今から矢を抜く。痛いと思うけど我慢して」
 短く言うと矢に手を掛けて一瞬息を整え、一気に引き抜く。
「うぁっ!」
 顔をのけぞらせた留三郎が堪えきれずに声を上げる。たちまち傷口から赤黒い血が湧き出て肌を伝う。
「すぐ止血するから」
 傷口に水をかけて血を落とすと素早く手拭いを巻きつけてきつく縛る。矢を抜いてからあっという間の処置だった。
 -さすがだな。
 手早い処置に半助が感心している間に、歯を食いしばって傷口を押さえながら身体を丸める留三郎の前で伊作が膝をついて大きくため息をつく。
「すまない、留三郎…きっと来てくれることは分かっていたのに…」
「悪ィな、伊作…お前こそ病気は大丈夫なのか…?」
 痛みをこらえながら留三郎はかすれ声を漏らす。と、伊作の顔がさっと青ざめて留三郎の身体から飛びのく。尻餅をついたままずるずると後退する。
「す、すまない留三郎! ぼ、僕はとんでもないことを…」
「構わねえさ」
 歯を食いしばったまま顔を上げた留三郎が、ふっと口角をゆがめて笑う。「そのために来たんだぜ? お前ひとりで痘瘡なんかにやられるままになんてできねえだろ? いざとなれば俺も一緒だ…」
「まさかきり丸も…」
 半助がぎょっとしたように声を上げる。「分かっていてここに来たのか?」
「それ以外のなんの用でこんなとこまでくると思ってるんすか…タダで」
 うつむいたまま強張った声できり丸は応える。
「きり丸…」
「…いつも先生はそうなんだ。だいじょうぶだとか、心配するなとか、さきに行ってろとかいって、そのあいだオレがどんなきもちでいるかなんて、ぜんぜん気にしたことなんかないんだ…オレは、もし先生になにかあったらって心配してるのに、そんなことぜんぜん気がついちゃいないんだ…」
「…」
 とぎれとぎれの低い声がしだいに涙で濁る。そして、絞り出されるような声に半助の身体が硬直する。
「…おれ、先生がいない世のなかに、用なんてないスから…」

 

 

 

 

「…結局、四人に増えちゃったね」
 焚火に枝を放りながら伊作が苦笑する。
「だな」
 留三郎がにやりとした顔を伊作に向ける。
「おかげで容態を心配しないといけない対象が増えちゃったじゃないか」
「運命共同体って言ってくれよな」
「まったく留三郎は…」
 ぶつくさ言いながらも赤らめた顔を見られないように背ける。
「なあ、見ろよ」
 肘でつつきながら留三郎が言う。「土井先生ときり丸って、教師と生徒なんだか親子なんだかわからない組み合わせだよな」
「ホントだね」
 焚火の向こうに並んで座った半助ときり丸は、先ほどから算術の復習に勤しんでいるようである。そんな様子に眼をやった伊作もおかしげ頷くが、すぐにその表情が空白になる。「ねえ、留三郎」
「なんだ?」
「君が来てくれてよかった…ホントにそう思ってるんだよ」
 言いながら伊作は抱えた膝に顎を埋める。
「だろ? これで一週間、食うものには困らないはずだからな」
 満更でもなさそうに小鼻をひくつかせる留三郎である。
「うん…それだけじゃなくて、とってもうれしかったんだ…僕のせいで土井先生まで痘瘡の疑いに巻き込んでしまって、それなのに僕は自分の方針に自信が持てなかったんだ…留三郎の治療をしているうちに、やっと落ち着いて考えることができたほどなんだ…」
 焚火を見つめる伊作の眼がうつろになる。
「だったら、俺がこうなった意味もあるってもんだな」
 腕に巻かれた手拭いに眼をやった留三郎は言う。
「意味?」
 膝に顎を埋めたまま伊作はぽつりと訊く。
「ああ。だって、俺がケガしてなきゃ伊作はまだ迷ってたかも知れねえんだろ?」
「でも、あんなに痛い思いをして…」
 口ごもりながら腕を伸ばした伊作がそっと傷の上に手を添える。
「気にするなって」
 ふたたびにやりとする留三郎だった。「お前の不運に比べれば、こんくらい向う傷みたいなもんさ」

 

 

 

<FIN>

 

 

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