伊作のテスト

近代医学が入ってくるまでの日本の医療では、鍼灸は医学理論と一体として、内経学というカテゴリーを形成していたそうです。また、当時は医術に限らず、技術というものは、師から受け継がれるというものだったでしょうから、保健委員長である伊作には、新野先生から医術を受け継いでもらいたいなという願望が、このように結実しました。なんか、書いているうちに伊作が無自覚なSで、留三郎が巻き込まれ型なMのように思えてしまったのは、たぶん気のせいですw

 

 

「よお、なんか用か」
 言いながらがらりと医務室の襖を開けた食満留三郎は、一瞬、動きが止まった。
 -どういうことだよ…。
 部屋には、布団が延べられていた。それはいつものことだったが、布団の向こうに校医の新野と保健委員が勢ぞろいして並んでいた。なにか、期待を込めた視線が留三郎に集まる。
「な、なんだよ」
 たじろぎながら留三郎は、ひときわスマイルをたたえた保健委員長の善法寺伊作に問いかける。
「留三郎。待ってたよ。まあ、遠慮せずに入ってよ」
「だから、なんだよ」
「なに言ってるのさ。治療だよ。留三郎、今日の屋外訓練で腰を打ったろ」
「それはそうだが…」
 言われて、留三郎は改めて腰の鈍痛を思い出した。木の枝から足を滑らせた留三郎は、すぐに体勢を立て直して着地しようとしたが、忍刀の緒が足に絡まってしまい、そのまま背中から地面に落下してしまったのだ。
「俺としたことが、みっともないとこ見せちまったな。膏薬でも貼ってくれるのか」
 少し安心した留三郎は、布団を挟んで伊作に向き合ったところでどっかと胡坐をかいた。
「いや、鍼の治療だよ。すっと楽になる」
「げ、伊作がかよ」
「失敬だな。これでも、新野先生に鍼灸についても教わっているんだ。安心していいよ」
「そうですよ」
 微笑しながらやりとりを見守っていた新野が口を開いた。
「善法寺君の鍼灸の術もだいぶ上達しました。もう診療に従事できるレベルに達していますから、大丈夫ですよ」
「そ…そうですか」
 いざとなれば私がついていますから、と微笑む新野の台詞にかえって不安が増したような気がしたが、伊作のためなら仕方がない、と覚悟を決める自分に、留三郎はつくづく自分が伊作に甘いと感じる。
「わかったよ。じゃ、お前の鍼で治してもらおうか」
「ありがとう。留三郎。君ならそう言ってくれると思ったんだ」
 飛びきりの笑顔になる伊作に、ふたたび留三郎の中で不安が湧き上がりかけたとき、
「じゃ、先輩、服を脱いでくださいね」
 気がつくと傍らに控えていた乱太郎、伏木蔵、左近の手が伸びてきて、たちまち留三郎は褌一つにされてしまった。
「さ、うつぶせに寝て、この枕に頭を乗せてください」
 枕を整えながら、数馬が笑いかける。
 -なんだかハメられているような気もするが…。
 まだ事態の展開の早さについていけていない自分を感じて、留三郎は一瞬、布団の前に座り込んだままためらったが、意を決して布団に身を横たえた。
 -ええい。こうなりゃヤケだ。伊作の好きにさせてやるぜ。

 


 目の前に横たわった留三郎の、筋肉質ですらりと均整のとれた身体にほんの一瞬、眼を落とした伊作は、顔を上げると眼を閉じた。
「じゃ伏木蔵、頼むよ」
「はい」
 -なにを頼むんだ?
 伊作のほうを振り返った留三郎は、思わず声を上げた。
「げげっ、伊作、お前なにしてやがる!」
「目隠し」
 まさに、留三郎の身体を前にした伊作に、伏木蔵が目隠しをしたところだった。
「なにやってんだっ。んなことしたら鍼など打てんだろうがっ!」
 思わず半身を起こして抗議する。
「まあまあまあ先輩、そう大きい声をださないで、腕で枕を抱えるようにしてリラックスしてください」
 数馬が肩をそっと押し戻しながら言うが、留三郎はおさまらない。
「これが落ち着いてられるかっ! そんな目隠しして俺の身体にハリ刺すっていうのかよ!」
「まあ落ち着けよ、留三郎」
 目隠しを解きながら、伊作が言う。
「鍼灸を行うツボは、眼ではなく身体で覚えるものなんだ。だから、目隠しをする。これは、大事な試験でもあるんだ。鍼灸をマスターするには、症状によってどのツボを刺激するかを学ぶと同時に、人体のツボの位置を完璧に覚えなければならない。正式には、ツボの位置に穴のあいた銅人形に漆を塗って、分からないようにしてから、きちんとツボに鍼を打てるかを試すのだが、学園には銅人形がないから、人体で行う。正しく打てたかは、新野先生が判定してくださることになっているんだ」
「それじゃ、俺はツボ人形の代わりってことじゃねえか! だいたい大事な試験てどういうことだ!」
 半身を捩じらして布団に手をついたまま、留三郎は怒鳴る。
「まあそういうことだけど、大丈夫。まず腰痛にきくツボに打ってしまうから。それから、試験のことだけど、私の鍼の技能を検定するための試験をかねているってことなんだ」
「で、なんで俺が実験台になるんだよ! それに腰痛なんてもうとっくにどっか行ったわ! 俺は帰るぞ!」
「ねえ、留三郎」
 身を起こしかけた留三郎の背中に、伊作の掌が触れた。その掌に不思議な熱を感じて、留三郎の動きが止まる。
「最初から正直に言わなかったのは、悪かったって思っている。でも、さっきも言ったように、これは大事な試験なんだ。協力してくれないかな」
 頼む、と両手を合わせられて、留三郎は思わずため息をつく。
 -これだから、伊作にはかなわねえんだよ。なにもかも反則だぜ。
 そう、なにもかも反則なのだ。伊作の表情といい、仕草といい、すべてがいちいち留三郎から怒りや腹立ちを取り去ってしまう。結局、気がつくと、自分は伊作にいいように操られている。しかも、伊作本人はそのことにまったく無自覚なのだ。
「分かったよ。もう、好きにしやがれ」
 起こしていた上半身をどっかと布団に戻すと、留三郎は枕に半分顔を埋めたまま呟く。
「信じてるからな、伊作」
 ありがとう、と微笑むと、伊作は背筋を伸ばして、厳しい表情で前を見据えた。
「伏木蔵、頼む」

 


「伊作先輩って、すごいですね。あんなに怒ってた食満先輩をなだめるなんて」
 乱太郎が、傍らの左近にささやきかける。
「そうさ。伊作先輩は、人の心を解く天才だからね。特に食満先輩は…」
 左近もささやき返す。
「伊作先輩に弱いから」

 

 

「はい」
 伏木蔵が、ふたたび伊作に目隠しを施す。ツボを探るために伊作が

留三郎の背に指を這わせたそのとき、
「ようやく始まったか。ずいぶん待たされて退屈したぞ」
 涼しげな声が聞こえて襖が開いた。
「その声は、仙蔵?」
 伊作がかがんでいた身を起こしながら、宙に手をさまよわせる。
「なに!?」
 留三郎も半身を起こす。
「おい、仙蔵だけじゃないぞ…文次郎に小平太、長次、お前らなにしに来たんだ」
「え、文次郎たちも来ているの?」
「ああそうだ。伊作の鍼灸の腕がどれほどのものか、俺たちも見届けに来てやったんだぜ」
 伊作の向かいに胡坐をかいた文次郎が、腕組しながらにやりとする。
「え~? 参ったな」
 伊作が頭を掻く。
「そんなに大勢で見られては、緊張するじゃないか」
「どうせ目隠ししているんだ。構わないだろう」
 仙蔵がさらりと言うが、留三郎はなおも怒鳴る。
「構わんわけがないだろうがっ! これは見世物じゃねぇ! とっとと出て行きやがれ!」
「そんな格好で喚いても、イマイチ迫力に欠けるな」
 まったく取り合わずさらりと受け流した仙蔵に、なおも留三郎が怒鳴りつけようとしたとき、またも襖が開いた。
「え~、饅頭、まんじゅうはいかがっスか~」
 入ってきたのはきり丸である。
「きり丸、いったいどうしたの?」
 思わず乱太郎が声を上げる。
「いやぁ、人が集まるところ商売ありっていうからさ。先輩方もじっと見ているだけじゃお退屈でしょうから、おまんじゅうなどいかがかな、ってね」
 眼を小銭にしたきり丸が答える。
「おう、ちょうどいいや。きり丸、饅頭一つくれ」
 小平太が声をかける。
「俺にも」
「私ももらおうか」
(私も)
 文次郎たちも小銭を取り出しながら声をかける。
「へいまいどありっ!」
「きり丸、テメェっ!」
 すっかり忘れ去られていた留三郎が眼を血走らせ、歯軋りしている。
「いやだなあ、食満先輩」
 如才なくきり丸が振り返る。
「先輩にはサービスですから!」
 留三郎の口に饅頭を押し込むと、「じゃ、失礼しまーす!」と言い捨てて、きり丸は保健室をあとにした。
「すごいや…あのきり丸がサービスなんて…」
 きり丸が閉めていった襖と、目を白黒させている留三郎を交互に見ながら、乱太郎が呆然とつぶやく。
「当然だろ…間違いなく見物料もとってるだろうし、じゅうぶん元は取れてんだろ」
 左近もささやく。
「そっか」
 そういえば、朝食のときに、伊作のテストがあることを話したときのきり丸の眼が銭になっていたことを、乱太郎は思い出す。
「そろそろ始めてもらいましょうか」
 事態が落ち着いたのを見計らったように、新野が声をかける。
「はい」
「ではまず、腰痛の場合から」
「はい」
 伊作はふたたび上体をかがませて、留三郎の背に指を這わせる。
「腎兪(じんゆ)、腰骨の2番と3番の棘(きょく)突起の間、正中線から外側に1.5寸…」
 低く呟きながら、伊作の指先がツボを探り、軽くもんでから手にした鍼をためらいなく打つ。
「時間は?」
 新野が訊く。
「4呼(約20秒)です」
「けっこうです。次へ」
「志室(ししつ)は腎兪の1.5寸外側…」
 なめらかな動きに、ギャラリーたちの眼が吸い寄せられる。
「大腸兪(だいちょうゆ)の次は、委中(いちゅう)…最後に承山(しょうざん)」
 膝の裏のくぼみに鍼を打つと、ふくらはぎに指を這わせ、ツボを探り当てると、そこにも鍼を打った。
「けっこうです」
 新野が満足そうに頷いた。
「伊作、すげぇ」
 感服したように小平太が首を振る。
「留三郎。お前、背中やら足やらにハリ刺されたけど、分かるか?」
「ああ…それらしい刺激はあるが、そんなに痛くはない」
「ほう、たいしたものだな」
 仙蔵も腕を組んでつぶやく。
「次です。胃潰瘍の場合は?」
「はい」
 新野の声に、伊作は仰向けになってくれないかな、と声をかけた。
「こうか?」
「ありがとう」
 仰向けになった留三郎の膝頭を探り当てると、膝下のくぼみと膝頭の上に続けて鍼を打った。
「まず陽陵泉(ようりょうせん)と梁丘(りょうきゅう)です」
「はい」
「留三郎、悪いけど、またうつぶせになってくれないか」
「ああ」
 ふたたび留三郎の背骨の上に指を這わせると、肩甲骨の下あたりから背骨に沿って下に向かって鍼を打ってゆく。
「膈兪(かくゆ)、肝兪(かんゆ)、脾兪(ひゆ)です」
「けっこうです」
 新野はなにやら書き付けながら頷く。
「次です。中耳炎の場合は?」
「はい」
 新野が指示するたびに、留三郎はめまぐるしく仰向けになったりうつ伏せになったり、上体を起こして、顔のツボを指圧されたりした。自分の身体も汗ばんできたが、気がつくと、伊作の顔も汗でびっしょりになっていて、伏木蔵が手にした手巾でせわしなく拭っている。

 

 

「これで試験は終了です。お疲れさまでした」
 帳面を閉じながら新野が宣言すると、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、部屋にいた全員が重いため息をついた。
「善法寺君の試験につき合せてしまい、申し訳ありませんでしたな」
 よろよろと起き上がる留三郎を、新野はねぎらった。
「いえ。それで、結果は」
 帷子を羽織りながら、留三郎は無意識のうちに訊いていた。目隠しを外した伊作や、片づけを始めた保健委員たちや、保健室を出ようと腰を浮かしかけた六年生たちが思わず動きを止める。
「合格です。症状に応じたツボの刺激方法も、ツボの位置も、問題はありませんでした。よく勉強しましたな」

「伊作先輩、すごいです~」
「一発で合格するなんて、さすが伊作先輩ですね」
 保健委員たちが伊作の周りに駆け寄る。
「いやぁ、まぐれだって、きっと」
 顔を赤らめながら汗を拭う伊作に、仙蔵たちも立ち去りがけに声をかける。
「ふむ、たいしたものだったな、伊作」
「けっ、やるじゃねえか」
「やるな、伊作」

 

 

「今日は本当にありがとう」
 夕食を済ませ、部屋に戻ると、ふいに伊作は真剣な表情になって留三郎に向き合った。
「合格できて、よかったな」
「うん。留三郎のおかげだよ」
「俺は何もしていない」
「いや、そのおかげだよ」
 伊作の言葉に、留三郎が怪訝そうな視線を向ける。
「留三郎がずっと力を抜いていてくれたから、とてもツボが探しやすかったんだ。力んでいると、どうしても探すのが難しくなる。ツボをうっかり外すと、下手をすると神経を傷つけてしまって大変なことになるからね」
「そういうことか」
「これで、私も新野先生の弟子を名乗ることができるようになった」
「どういうことだ?」
「医術を学ぶ者にとって、経脈、絡脈を覚え、鍼灸を学ぶことは基本中の基本なんだ。それについて、今日、新野先生から合格を認定してもらったということは、私が新野先生のもとで学んだ鍼灸が、正式に受け継がれたということなんだ。これからは、私が新野先生から学んだ鍼灸を診療に生かし、また後継者に受け継いでいかなければならないということになるんだけどね」
「俺も、参考になったんだぜ」
「どういうこと?」
「武道では、活点や急所といわれるものがある。まあ、お前たちのいうツボだ。流派によって違いがあるようだが、名前や場所はあまり違わないように思った。こんど、俺たちのいうツボと伊作たちのツボがどう違うのか、当ててみたいもんだな」
「ああ、面白そうだね」
「でも、今度は俺を実験台にはするなよ」
「じゃ、誰がいいかなぁ」
「文次郎でいいだろう」
「いいって言うかな?」
「言わせろ」
「んなこと言ったって…」
 口を尖らす伊作に、留三郎は思わず吹き出す。
「なにがおかしいのさ」
「俺とはずいぶん扱いが違うなと思ったからさ」
「そうかなあ」
 伊作が頭をかく。
「俺のことは何のためらいもなくツボ人形扱いしといて、よく言うぜ」
「そりゃだって…」
「だって、なんだよ」
「留三郎は、やさしいから」
「あのな…」 
 -だから、それが反則だっていうんだよ…。

 

<FIN>