哀しい予感

 

春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり

(西行)

 

世の中には正夢とか予知夢とかいうものがあるそうです。私は幸いにというか残念ながらというか、そのようなものとは縁がないのですが、目覚めたときに胸が騒ぐような夢を見たときは、どうしようもない不安感があると思うのです。まして戦国の世では、今日元気いっぱいだった人物が翌日には骸となっていることも日常だったでしょう。そんな重く実在する不安とともに生きていた人々の思いを団蔵に代弁してもらいました。

ちなみに庄左ヱ門は、そのあたりは透徹した受け止めをしていそうかな…友情の厚さと恬淡とした諦めが彼の中では絶妙に釣り合っていそうです。

 

 

「しつれいしま~す」
 放課後、学園長の庵に掃除道具を抱えてやってきたのは団蔵である。
「おそうじにまいりました~」
 返事はない。
「おるす…かな?」
 そっと襖を開ける。
「なあんだ、おるすか」
 気が抜けたように呟くと、ガラリと襖を全開にしてはたきをかけ始める。
 -あ~あ、はやく庄ちゃんこないかな…。
 庵の掃除当番で一緒のはずの庄左ヱ門は、伝蔵に呼ばれて職員室に行っていた。
 -あれ、なんだろこれ。
 はたきをかけ終えて箒に持ち替えて文机をどけようとしたとき、何かが足先に当たった。それは畳の上に置かれた聞香炉だった。灰が畳の上にこぼれる。
「うげ、なんで茶碗に灰なんてはいってるんだろ」
 聞香炉を知らない団蔵は大仰にため息をつくと、うっすら煙を上げる聞香炉を持ち上げて文机に置こうとする。と、急速に全身の力が抜けて意識が遠のいた。

 

 

 ふっと茶の香りが立ち上って、我に返る。
「どうかした?」
 斜め向かいから聞こえた声は、低い大人の声でもあり、聞き慣れた声でもあるようだった。
「いや、別に」
 口蓋に響いた返事は確かに自分が発したもののようではあったが、自分の知らない野太い声で団蔵はぎょっとした。それ以上に驚いたのは、畳の上をすべるようにすすめられた茶碗に伸ばした腕の太さだった。それは骨太で日焼けしてうっすらと毛で覆われていた。
 -なにこれ。父ちゃんか清八の腕みたい…。
 とっさに頭を過った思いだったが、どうやらそれは自分の腕であるらしかった。そしてようやく自分はすっかり大人の身体になっているらしいことに気付いた。
 -どゆことこれ? それに、眼の前にいるのは…?
 いま茶碗をすべらせた指先を端座した足の上に戻しているのは、細身に見える青年だった。やや伏せた顔からその面差しはうかがえなかったが、なぜかよく知っている人物のように思えてならなかった。
「話を戻すけど…」
 青年が口を開いた。「もう、これ以上は難しいんだ。分かってくれないかな」
「だからって!」
 激した自分をなぜか客観的に眺めている自分がいた。ああ、なにか込み入った話をしているんだと思った。そしてそれはなぜか仲間のことだと感じた。
「このままじゃきり丸が…」
 -そうか。きり丸が危険な任務でどこかの城に行ったんだ…。
 自分の言葉を追いかけるように思考が流れる。
「…」
 青年は眼を伏せる。
「そうやっていつも庄左ヱ門はなにもしてこなかっただろ! 佐竹鉄砲隊のときだって…!」
 -そうか、やっぱり庄左ヱ門だったのか…。
 印象は変わったものの、確かによく知る人物だった。そのことに驚きはなかったが、自分の放った言葉に衝撃をおぼえた。
 -佐竹鉄砲隊…虎若がどうしたって?
「…」
 長い沈黙があった。そして苦しげに庄左ヱ門は口を開いた。
「…もう、独立できる時代は終わったのかもしれない。馬借も、鉄砲隊も」
「だからって!」
 つい声を荒げてしまう。だが、それが甘えであることも分かっていた。
「すまない。でも、これ以上関わると、僕は草として動けなくなってしまうんだ」
 -ああ、変わってない。この委曲を尽くした言い方は…。
「庄左ヱ門! それでも友達かよっ!」
 唐突に自分が放った怒鳴り声に驚く自分と、冷めた眼で見る自分がいた。
 -俺だって分かってるのに、こうやって言っちゃうんだよな…どんなに庄左ヱ門が傷つくか分かってるくせに…。
 そしてようやく、眼の前の青年が庄左ヱ門の成長した姿であることに気付いて改めて驚く。
 -庄左ヱ門、すげえ。学園にいたときも大人っぽいと思ってたけど、もっと大人っぽくなってる…。

 

 

 

 

 

 

 

 


「学園長先生! どういうことですかこれは!」
 医務室を訪れた半助の声が怒気を帯びる。
「すまぬ…龍王丸が送ってくれた眠り薬をいつでも使えるように聞香炉にセットしておいたのじゃが、埋めといた炭がまだ熱かったようでの…」
 すっかり小さくなった大川がぼそぼそとつぶやく。
「であればなおさら、置きっぱなしで部屋を留守にするなどあり得ません!」
 こめかみの青筋が増えた半助の声が高くなるが、すぐにしまったという表情になって声を抑える。
「そうですぞ。こういう薬は子どもにどんな副作用をもたらすか分からないのです。今回は炭が低温だったので煙があまり出なかったから良かったようなものの…」
 団蔵の様子を心配げに見ていた新野が腕を組む。そのとき、「失礼します」と声がして襖が開いた。
「庄左ヱ門、どうした」
 半助が声をかける。
「一年は組を代表して団蔵のお見舞いに来ました」
 生真面目な声で庄左ヱ門が答える。
「そうか。だが、団蔵はまだ眠っている。もう少し後にしなさい。眼が覚めたら教えてやるから」
 半助が言ったとき、「あのお…」とさらに声がして小松田が現れた。
「どうしたのだ、小松田君」
 大川が訊く。
「安藤先生が、今度の予算会議の前にぜひ先生方にお話ししたいことがあるということで、至急お集まりいただきたいということなんですが」
「そうか。では土井先生、行ってきなさい」
 頷いた大川に、小松田が言いにくそうに付け加える。「えと、保健委員会顧問の新野先生と、学級委員長委員会顧問の学園長先生も、ということなんですが…」
「なに、わしもか」
「しかし、医務室を空けるわけには…」
 大川と新野が当惑げに言ったとき、「では、ぼくがみています」と庄左ヱ門が声を上げたので、皆が一斉に眼を向ける。
「しかし、庄左ヱ門君ひとり残すというのも…」
 困ったように呟く新野に庄左ヱ門が「だいじょうぶです」と畳みかける。「なにかあったらすぐに先生をおよびしますから」
「そうですか…まあ、庄左ヱ門君がそう言うなら…」
 迷いつつ新野が頷きかけたとき、「あの…」と小松田が口をはさむ。「安藤先生が、至急とおっしゃってたんですが…」
「ええい、分かっとるわい」
 うるさそうに言いながら大川が立ち上がる。「ここは庄左ヱ門に任せよう。それより、安藤先生の用事を先に済ませるぞ!」
「は、はい…」
 半助と新野も立ち上がる。

 

 

 -団蔵…。
 医務室に残された庄左ヱ門は、いたましげに眠る団蔵の枕元に座る。いつも元気な団蔵だったが、いまはちいさく口を開けたまま身じろぎせずに眼を閉じている。
 -なんでこんなにつらそうなんだろう…。
 ふと、団蔵の表情がちいさくゆがんだ。そして首を左右に振る。「う…」と声を漏らすと、閉じていた瞼がゆるゆると開いた。
「団蔵…」
 そっと声をかける。その声に導かれたようにゆっくりと顔が向けられ、漂っていた視線が庄左ヱ門を捉える。
「しょう、さえもん…」
 いつのまにか潤んでいた眼で見つめながらそろそろと腕を伸ばしてくる。
「どうしたの? もう大丈夫だよ。眼がさめてよかったね」
 にっこりしながら庄左ヱ門が話しかける。
「庄左ヱ門…もとどおりになってる…」
 さまよっていた手が庄左ヱ門の手を捉える。そして思いがけず強く握ってきた。
「もとに?」
 なにか悪い夢でも見ていたのだろうかと思いながら庄左ヱ門が訊く。
「おれも…もとどおりになってるかな…」
 うわごとのように団蔵がつぶやく。
「なに言ってるのさ。なにもかわってないよ。団蔵もぼくも」
 安心させるように手を握り返しながら語りかける。
「庄左ヱ門!」
 唐突に声を上げると、団蔵は手をぐいと引いた。
「うわっ」
 バランスを崩した庄左ヱ門の上体が、横たわる団蔵の身体に重なる。気が付くと庄左ヱ門の身体は団蔵の腕にしっかと抱きしめられていた。
「団蔵…?」
 何が起きたか分からないまま庄左ヱ門は呼びかけるのが精一杯だった。だが、団蔵の腕はますます強く抱きしめるばかりである。
「よかった…おれも、庄左ヱ門も…」
 庄左ヱ門の制服に顔を埋めながら、団蔵の声が涙で濁る。
「こわい夢を、みてたんだね?」
 なだめるように声を低めながら庄左ヱ門は語りかける。そうすることが必要だと思った。果たして団蔵は声を震わせながら続ける。
「みんながいなくなってるような…虎若も、きり丸も…」
 そして、自分たちも。万力で締め上げられるように活動の自由を奪われ、動けなくなってゆく未来だった。
「ねえ、団蔵。ぼくのおじいちゃんがいってたんだけど…」
 静かに頭をなでながら庄左ヱ門が言う。「ほんとうにおきる夢を正夢っていうけど、それはほんとうにおきることがほとんどないからそういうんだって…こわい夢っていうのは、心の中でそうなってほしくないって思っていることがおおいんだって。そういうことがほんとうにおきることはまずないから、心配することないよって…」
「ほんとう?」
 眼に涙をためたまま団蔵が顔を上げる。
「もちろん! ぼくのおじいちゃんはなんでも知ってるんだよ」
「じゃ、おれの見た夢も…?」
「たぶん団蔵がふだん心配していることが夢にでたのかもしれないよね。それがほんとうにおきるかなんて気にしなくていいと思うよ」
 庄左ヱ門らしい自信に満ちた口調に団蔵も少し安心したようである。
「だよね…虎若やきり丸になにかあるわけなんて、ないよね」
「もちろん! そんなことあるわけないよ」
 力強い口調に、ようやく団蔵が庄左ヱ門の身体から離れると、照れたように笑みを浮かべて涙をぬぐう。
「へへ…なんか、今のおれ、みっともなかったよね…」
「そんなことないよ。だれだってそんなこわい夢みたらそうなるよ」
 穏やかに微笑みながら庄左ヱ門が返す。
「だよね…ああ、なんか安心したらまたねむくなっちゃった!」
 ぼすん、と音を立てて宣言した団蔵が布団に仰向けになる。
「そうだね。もう少しやすんだほうがいいよ」
 言いながら庄左ヱ門が布団を掛けてやる。やがて健やかな寝息をたてて寝入った団蔵の傍らで、庄左ヱ門は寂しげな笑顔を浮かべて座っている。

 

<FIN>

 

 

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