Flèche d'Or

 

昔の忍たま映画で、利吉が弓をつかう場面がありました。それはとてもカッコいい場面だった記憶があるのですが、初めて利吉が弓をつかった時、そこに土井先生が絡んでいたらいいだろうな、という妄想がこうなりましたw

Flèche d'Orとは黄金の矢という意味です。12歳の利吉にとって、半助との記憶は黄金の矢のように一瞬ながら煌く記憶として刻まれたことと信じてやみません。

 


「やあ…利吉君」
 外の警戒を兼ねて山菜を摘んできた半助が、土間にかけた足を思わず止めた。
「お帰りなさい」
 戸口に背を向けた利吉はしゃがんで刀を研いでいた。薄暗い土間で、手の動きに合わせて研ぎ澄まされていく刃だけがぎらりと光を放っていた。
「えらいね…刀を研いでいたのかい?」
 まだ小さい少年の手先に二尺三寸の打刀はいかにも異様に見えた。たじろぎながらも何か言わなければと台詞をひねり出す半助だった。
「見てのとおりです」
 振り向きもせず刃先を砥石に当てながら利吉は鹿爪らしく応える。
「お父上の打刀かい?」
「はい」
 自分に向けられた背中に拒絶を感じた。半助は黙って背にしていた籠を土間の一隅に置くと、手を洗いに井戸に向かう。

 

 

「ときどき、ああなってしまいますのよ」
 さみしい気持ちで手を洗い、湿した手拭いで顔や胸元の汗を拭っているところへ、洗濯を終えた利吉の母が現れた。
「そう、なのですか…?」
 小さな背を向けた剣呑な行為は、てっきり自分を拒絶したものだと思っていた。
「あの刀は山田が利吉に預けたものです。留守の間、ああやって山田と話をしているのかもしれませんね」
「なるほど、そうでしたか」
 であれば、あの拒絶は父との会話を邪魔されたくなかったためなのかもしれない。
「しかし、危なくありませんか?」
 仔細げに半助は呟く。まだ小さい手で、大人が持つ鋭利な刃物を研ぐなど、危険ではないか。
「利吉ももう十二です。刀の扱いは心得ています」
 淡々と利吉の母は続ける。「山田は単身赴任しています。一度出かけると、次いつ戻れるやもわかりません。あの子なりに父親のいない寂しさを埋め合わせているのでしょう」
「…」
 黙ったまま半助は、利吉のいた土間へつながる戸口を振り返る。不在がちの父親を慕う気持ちを、あのような形でしか埋められない利吉が不憫で、胸が痛む半助だった。

 


「半助さん、それは…」
 翌日、半助は縁側で弓を手入れしていた。やってきた利吉が眼を丸くする。
「ああ、これかい?」
 手にしたわらじで弦に薬煉(くすね)をかけていた半助が振り返るとにっこりする。「お母上に頼まれたんだ」
「そうでしたか」
 半ば羨望の眼差しで、利吉は弓を手にした半助を見つめる。刀と違って弓は女子どもには扱いが難しかったので、父が不在の間は手を触れる者はいなかった。
「手薬煉(てぐすね)を引く、という言葉があるだろう? 弓を使う前後には弦によく薬煉をかけておかないと、弓が裏返ったりして使えなくなってしまう。普段からよくかけておけば、いつでも使うことができる」
 言いながらわらじを置くと、半助は立ち上がって庭先で足を踏ん張り、何度か矢を番えずに肩入れを繰り返す。引き絞られた弦が指先から離れると、ぶんと音を立てて空気を震わせる。そのたびに利吉は見えない矢が空気を切り裂いて飛ぶのを見たような気になるのだった。
「利吉君もすぐに弓を扱えるようになるさ」
 利吉の視線に気づいたように半助が朗らかに言う。「もう少し大きくなって弓のサイズに身体が合うようになったらね」
「そうでしょうか」
 そんな日が自分にも訪れるのだろうか、と思いながら利吉は訊く。庭先で弓を番えている半助は、すらりとした長身のあらゆる筋肉に力を漲らせ、しなやかに反った弓と引き絞られた弦と一体化して、傍から見ても息詰まるような緊張感を放っていた。次の瞬間、中仕掛から指が離れ、ぶん、とひときわ大きく空気を揺るがせて弦が鳴り、弓全体が大きくしなった。
「ああもちろんさ」
 弓を肩に掛けると、半助は微笑みながら振り返った。
「…」
 不機嫌に利吉は押し黙る。両親も、いずれ必ず大きくなると言う。だが、利吉にはまったく実感の持てない言葉だった。背丈が両親に並ぶということも、忍としての実力が及ぶということも。現に忍の修行を始めてもできることはほんの少しで、両親に比べれば何もできないに等しく思えた。両親は永遠に追いつけない背に見えた。
 それでも両親はあまりに偉大で追い付きようもないと自分を納得させることもできた。だが、なお耐え難いことに、ふと眼の前に現れた青年でさえ、それもまともに立ち上がることさえできない手負いだったにもかかわらず、自分には到底及ばない高みにいた。それは、氷ノ山の山中しか知らない利吉にとっては、つまり大人とはみな自分など永遠に追いつけない存在だという証左に思えた。
「失礼します」
 しばし黙りこくっていた利吉は、やにわに固い声で言い捨てると廊下の奥へと歩き去った。
「利吉君…」
 弓を肩に掛けたまま半助はうろたえたようにその後ろ姿に眼をやる。少年が難しい年齢に差し掛かっていることは分かっていた。だが、同じ年頃だった頃の自分は、追手を逃れて寺に息をひそめ、そして猛烈に厳しい忍の修行に明け暮れていた。いつ敵に見つかるか、殺されるかという緊迫感のなかで過ごした少年時代は、反抗期というものを許さなかった。だから、少年の苛立ちを理解も共有もできなかった。それが半助には申し訳なくも寂しかった。

 


 -なんで僕がこんなことを…。
 山道を歩きながら利吉は憤懣やるかたない。
 利吉は自宅周辺の山中に張り巡らせた仕掛けの点検を母親から命じられていた。それだけならまだしも、半助に護衛を依頼したのだ。
 -いままで僕一人で見回りできていたのに…!
 まだ母親の深謀遠慮まで思いが至らない利吉の腹立ちは収まらない。背後に申し訳なさそうな顔で半助がついている。
「そこ気を付けてください」
 森の下草に張った仕掛けを指さしながら、利吉はぶっきらぼうに言う。「引っ掛けたら仕掛け弓から矢が飛んできますから」
「あ、ああ…」
 言いながら慎重に糸をまたぐ。いかにも猟師の仕掛け弓に見せかけて低い位置に弓が置かれているが、それは上向きに仕掛けられていて、矢が胸の高さに届くようにされている。
「この先は落とし穴が連続して掘ってありますから」
 慣れた様子で山道の一点を伝うように足を運びながら、振り向きもせず利吉は続ける。
「なかなか厳重警戒だね」
 半ば要塞のような石垣に囲まれた家といい、親子三人だけで住むには過剰防衛のようにも思えて違和感をおぼえ続けていた。
「こういう家ですから」
 簡素な答えが返ってきた。
「たしかに警戒が必要なのは分かるけど…」
 言いかけた半助が不意に言葉を切って鋭い視線で周囲を見渡した。半助の変化に気付いた利吉もはっとして周囲の気配を探る。
「木の上に一人、奥の木立に一人…」
 素早く利吉に近づいた半助は、背を預け合う態勢で周囲に視線を走らせながら低い声で呟く。「いままでこのあたりで敵忍者に会ったことは?」
「ない…と思います。父たちからも聞いたことはないです」
 上ずりそうになる声を必死で抑えながら利吉は答える。敵の出現より、背後に感じる青年の殺気に本能的な危機をおぼえていた。
 -これが忍の殺気…。
 いままで気のいい青年と思っていた男だったが、忍としての面を見せたときの殺気は本物だと思った。ふと、この青年は自分が思っていたよりずっと遠くにいる存在なのだという思いがよみがえる。
「私が敵を引き付ける。その間に家に戻ってお母上にこのことを知らせるんだ。いいね」
 ますます低めた半助の声に利吉は我に返る。「一、二の三で動き出す。一、二の…」
 いまや利吉にも敵忍者の気配を感じることができた。自宅周辺の山を知り尽くした利吉にとって、山道を外れた藪に潜って自宅までたどり着くことは造作もないことだった。だからじりじりと身体の向きを藪に向けていつでも飛び込めるように身構える。
「三!」
 声と同時に利吉は藪に飛び込んだ。背後の殺気がふっと消えたが、どこに向かったかを確かめる余裕もなかった。無我夢中で森の下草の中を走り抜け、自宅の裏へと飛び出した。
「母上っ!」
 洗濯物を取り込んでいた母親に向かって駆けつけながら声を張り上げる。「敵がっ、敵が現れました!」
「そう」
 落ち着き払った声でちいさく頷くと、取り込んだ洗濯物を利吉の腕に乗せる母だった。「相手は何人でしたか?」
「二人です…」
 洗濯物に腕の動きを封じられて、気勢をそがれたように洗濯物と母に視線を往復させる利吉だった。
「それなら大丈夫でしょう」
 涼やかに母親は言う。「私は様子を見てきますから、この洗濯物をたたんでおきなさい」
「…はい」

 

 

「半助さん、夜着をお持ちしました」
 その晩、部屋の前に膝をついて声をかける利吉だった。
「ありがとう、利吉君」
「しつれいします」
 襖を開けた利吉はぎょっとしてその手が止まる。部屋の中では、半助が着物を脱ぎ捨てて包帯を巻きなおしている最中だったから。
「あ? 驚かせてしまったかい?」
 たいして悪いとも思ってなさそうに言いながら半助は腹から胸にかけて包帯を巻きつけていく。
「あの…手伝いますか?」
 夜着を床に置いた利吉が声をかける。
「ありがとう。頼んでいいかい?」
「はい」
 半助に近づいて包帯を受け取った利吉は、間近にその身体を見て改めて息をのんだ。その身体は打撲傷や刀傷に覆われていた。いくつかの傷からは血がにじんでいる。
「あの…お痛くないのですか?」
 思わず訊いていた。 
「ああ。大したことはないが、ちょっとばかり暴れたら傷が開いてしまってね」
 苦笑する表情には、本当に痛みを感じていないのかどうか分かりかねた。
「敵は…?」
 間が持たなくなった利吉は無難な問いをひねり出した。大まかな状況は母から聞いていたが。
「この辺りに勢力を伸ばそうとしている城の忍者だったようだね」
 半助も淡々と答える。「この家を要塞か出城と勘違いして探りに来る忍がたまにいるらしいね」
「はい」
 短く応えながら、ふと現れた忍者が半助の追手でなくてよかったと思っていた利吉だった。そして、そんな考えに自分で驚いた。
 -なんでそんなこと考えたんだろう…この人なら、追手が現れたって十分戦えるのだから、心配することなんてないのに。
 今の利吉にとって、眼の前の青年は、自身の苛立ちをさらに増す存在でしかなかったはずだった。近いように感じさせながらいきなり突き放すように遠い存在であることを見せつけるような青年は、結局のところ無力感と苛立ちをいや増す存在でしかなかった。そんな存在なら、いない方がまだ精神衛生上ましなはずだった。だから、早く出て行ってほしいとすら考えていた、はずだった。
「あ…」
 思わず声が漏れた。まだ包帯を巻いていない右腕に刻まれた傷から血がすっと伝った。
「大したことない」
 半助は繰り返すと、包帯の端をくわえて左手でぐるぐると傷に巻きつける。
「でも、薬を塗らないと…」
「大丈夫。かすっただけだ…でも、こんなところを君のお母上に見られたら怒られてしまいそうだからね」
 半助は決まり悪そうに顔を赤らめた。「そんなにじろじろ見るものでもないだろう?」
「…これは、忍者のお仕事でできた傷ですか?」
 右腕の包帯を留めながら、筋肉質の身体に刻み込まれた傷を凝視する利吉だった。
「ああ。ベテランの忍ならこんなことにはならないのだろうが、私はまだまだだからね…」
 言いながら軽く自己嫌悪をおぼえる半助だった。自分が未熟だからこそ、このようなケガを負い、見ず知らずの家に厄介になることになってしまったのだ。
「怖くはなかったのですか? もしかして死んでしまうかもしれないとは考えなかったのですか?」
 固い声で利吉は訊く。いま、眼の前で伏せ気味の顔に優しい微笑みを浮かべている青年だったが、この傷を負ったときにはどのような表情をしていたのだろうか。
「まあ、そうかもしれないが…一期(いちご)は夢よ ただ狂へ、ってね」
「ただ狂へ…?」
「閑吟集にある歌だ。つまらない一生を送るより、どうせ夢のような一生なら狂えばいい」
 そうとでも思わなければやっていられなかった。これはただの悪夢だ、と思っていたからこそ、自分はどんな任務でもこなすことができた。眼の前の敵を倒すことも、見も知らない大勢の人々を巻き込む戦に加担することも。
「…」
 半助は顔を上げた。その視線が薄暗い室内のどことも知れず漂っている。ふいに訪れた空白の表情を利吉は見つめる。その横顔にどんな狂気が宿っているのかと思いながら。

 

「利吉君。私は君が本当にうらやましいんだ」
 どこまでも広がる青空を眺めてでもいるように駘蕩と半助は口を開く。「君には一流の忍とくノ一がご両親としてすぐそばにいる。偉大な人というのは、側にいるだけで大きな教えをもたらすものだ…だけど」
「…」
 何を言うのだろうと思いながら利吉は固唾をのんで次の台詞を待つ。
「ひとつだけ私が君より恵まれたとしたら、それは忍の修行で出会った友人だろうなと思うんだ」
「お友達…ですか」
 抑えた声で利吉は返す。言われてみれば、氷ノ山の山中にある家にあっては近所に同年代の友人がいるわけもなく、利吉はいつも一人だった。そんなことをことさら意識したことがなかったのは、そもそもそういう環境しか知らないからであり、忍の修行に打ち込んでいたからでもあった。だが、眼の前の青年になにがしかの影響を与えたとすれば、どのような人物だったのか興味をおぼえた。
「…そのお友達は、どのような方だったのですか?」
「そうだな…とにかく大きい人だった」
 捉えようのない答えだった。「大きい?」と訊いたとき、それは物理的な大きさではないのだろう、ということしか分からなかった。
「ああ、スケールが大きいとでもいうのかな」
「スケール…ですか?」
「ああ。視界が広いというか、私には見えないものが見えていたというか…それに考えていることも大きかった」
「どのようにですか?」
「そうだな…」
 半助は思い出を手繰るように顎に手を当てる。「君も修行中の身だから分かると思うが、とかく修行中は、眼の前の目標を達成することに意識が寄ってしまうものだ。だがその友人は違った。忍の修行をしているうちから、すでに忍になったあとの自分がどのようなものかが頭の中に描けていたようだった…そして、それが彼の望むものではなかったことも」
「その人は…どうしたのですか?」
 忍になったときの自分がどのようになっているかなど想像もできない。だから訊かずにはいられなかった。
「出奔したよ。日本一の大泥棒になるってね」
「どろぼう…」
 意外すぎる展開だった。
「そう。それも日本一の大泥棒だ…私にはまったく意味がわからなかった。あれだけ辛い修行をした挙句に泥棒になるなんて、何を考えてるんだってね」
 言いながらも半助の口調は憧憬すら漂わせている。「だけど、いまになってやっと少し分かるようになってきた。彼が『ただ狂へ』と言ったとき、彼は言いたかったんだろうね。お前さんは何を本当にやりたいんだってね」
 だが自分は答えなど持ち合わせていなかった。たぶんこれからも。口調に苦みが滲む。「その時の私には難しすぎる質問だった。今でもまだ考えている」
 いつの間にか半助は顔を伏せていた。豊かな前髪が苦悶を浮かべた貌を半ば覆う。だが、すぐに顔を上げて微笑みかける。
「だから、私は君がうらやましいんだ」
「僕を…ですか?」
 唐突に繰り返された台詞に戸惑う。
「そうだ。君には忍としての偉大な先達がすぐそばにいるんだ。それを目指せばいい。なにも思い煩う必要なんてないんだ」

 

 

「…そうでしょうか」
 身体に包帯を巻きつける作業を再開しながら、利吉は膝立ちで眼の前の裸の肩を見つめる。思いつめた声に半助がいぶかしげに振り返る。
「…一生かかってもたどりつけない目標なんて、見ていてもつらいだけです」
 言ってしまってから、なぜそんなことを言ったのだろうと考えた。両親にも話したことのない思いを、見ず知らずの者に。だが、今、この瞬間にしか口にするチャンスはなかったようにも思えた。そして、同じような実力で競い合う友人がいたらどんなに楽しいだろうと思った。
「利吉君、私は思うんだが」
 振り向いたまま半助は口を開く。「まだ君は十二歳だ。何をやるにも遅すぎることはない。君はとてもまじめだから忍の修行がすべてだと思っているかもしれないが、世の中には若いうちに見ておくべきものや経験すべきものがたくさんあるんだ」
 山田家の教育方針に対して僭越かもしれないと思いながらも半助は続ける。「『ただ狂へ』るのは、人生でもほんの短い間だけだと思うんだ。その間だけは本気で狂えばいい」
「でも…」
 うろたえたように利吉は呟く。たしかにそれは今までにない考えだった。だが、どうすれば実現できるのか見当もつかない話でもあった。今までまっすぐの一本道だと思っていたものが、実はいくつもの輻輳し、曲がりくねった道だったということなど、どうやって信じられようか。
「世間を知る方法は一つだけじゃないさ」
 優しい眼で見つめながら半助は言う。「書を読めば、居ながらにして京や東国、唐や南蛮のことまでわかる。世の中にはどんな人がいて、どんな考えをしているかを知ることができる。それはいずれ、君がここを旅立って世の中に出たときに必ず助けになる」
「終わりました」
 包帯を巻き終えた利吉が低い声で言う。本ならいくらも読んでいる、と言いかけたがやめた。たしかに家にある蔵書はいろいろな世界があることを利吉に教えたが、それは具体的な姿を伴ったものではなかった。観念的な学問としてなら理解できたが、それがどのように存在し、動き、息づいているかを想像することはできなかった。紙と墨のにおいしかしない乾いた世界はいかにも精彩を欠いた。
「ありがとう」
 夜着に袖を通すと、半助は悄然と座り込んで俯いている利吉に向き直った。忍の修行にはまたとない環境にありながら、それ以外のあらゆるものに欠いた世界しか知らない利吉がいたましかった。そしてふと、利吉の苛立ちは、氷ノ山の外に広がる『世界』を具体的にイメージできないことが原因ではないかと感じた。

 


「ずいぶんゆっくりとお話してきたのですね」
 囲炉裏端に戻ると、母親は繕い物をしていた。上体をやや屈めて、よどみなく動く白い指がちろちろと燃える火に照らされる。そんな母の様子はいかにもたおやかで、敵忍者をあっさりと追い払うくノ一であることを忘れそうになる。
「はい。お着替えを手伝っていました」
 火のそばに座ると、利吉は読みかけだった書を手に取った。
「包帯も取り替えて差し上げましたか」
 顔を上げないまま母はあっさりと言う。
「はい…その…」
 まだ完全に傷が癒えたわけではなかったから、本来は敵忍者相手に立ちまわるようなことは許されていなかった。だから半助は一人で包帯を代えようとしていたのだろうが、母にはお見通しだったようである。
「まあ、大ごとにならなかったことですし、今回はよしとしましょう。それに」
「それに?」
 書を開きかけた手を止めた利吉が上目遣いに母を見る。
「利吉に済まながっていましたよ。ずいぶん驚かせてしまったと」
「驚いた、ですか?」
「敵が現れたとき、つい殺気を放ってしまったそうですね」
「は、はい…」
 背を預け合いながら敵に対峙した時のことを改めて思い出す。自分に向けられたものではなかったが、今でも怖気を振るってしまうような恐れを感じさせた。
「忍者とは、敵と対するとき、平常心で臨まなければなりません」
 繕い物の手を止めずに母は続ける。「感情をあらわにすることは心の揺らぎに通じます。それは敵に付け入るスキを与えることになりかねません」
「…はい」
 あの殺気は敵を圧倒するためのものだと思っていた。
「でも、利吉を守ろうとするあまり、つい殺気だってしまったのでしょうね」
「…」
 言葉に詰まって思わず母を凝視してしまう。
「それだけあの方も必死だったのでしょう…まあ、仕方ありませんね」
 何事もなかったように語る母だったが、利吉には意外すぎる話だった。
 -半助さんは、そこまで僕のことを思っていたってこと…?
 

 

「利吉君、やってみるかい?」
 翌朝、半助は縁側で弓の手入れをしていた。庭先を通りかかった利吉が意外そうな表情をする。
「でも、それは…」
 まだ身体の小さい利吉には手に余るから、と父親に言われていた。
「何事も経験さ。お母上のお許しももらってあるよ」
 半助が笑いかける。誘われるように利吉は半助の傍らに座った。
「昨日も同じことをされていましたね」
 半助の手先にある小さなわらじが気になった。
「これはわらじという。とても小さい草鞋みたいだろう? 弦に薬煉をすりこんだあとにこうやってわらじをかけると、弦が長持ちするんだ」
 わらじを引っ掛けた指先で丁寧に弦を磨きながら半助は説明する。
「はい」
「こうするんだ」
 手渡された弓はずしりと重く感じた。指先にわらじをつけてもらい、弦を慎重にこする。
「そう。そうやって弦の毛羽立ちをならしていくんだ」
 時折指を添えながら半助が説明する。次第に弦が滑らかに黒光りしているように見えてきた。
「そうだ。うまいじゃないか、利吉君」
「はい」
 ほめられて悪い気はしない利吉がわらじをかけ続ける。やがてぴんと張られた弦が滑らかな輝きを見せるようになった。
「うん、筋がいい。構えもやってみるかい?」
「いいんですか…」
「なにごとも経験だろ?」
 にっこりすると半助は利吉に弓を持たせる。
 改めて構えた弓の重さに緊張感が高まる。まだ身体の小さい利吉だったから、本弭(もとはず)が膝下までくるほどだった。
「足は、両足の親指が的に向かって一直線になるように。開く角度はこのくらい」
 言われるままに構えの姿勢を取り、背と首を伸ばして肩を落とす。
「そう。まずは肩入れからやってみよう。弦を引くのではなく、左拳で弓を押すように、肘は突っ張らないように、そう」
 眼に見えない矢を番えている気持ちで構え、的に見立てた木の幹を睨み据える。数秒の息詰まる緊迫の後に右の指先からするりと弦が抜けた。
「うわっ!」
 ぶん、と唸りながら弦が鳴って弓が大きく揺れる。弾き飛ばされるような反動で思わずよろめく。
「おっと、大丈夫かい」
 すかさず駆け寄った半助が腕を伸ばして支える。子どもが扱うには強すぎる弓だったが、忍の修行で腕力のついた利吉は思った以上に大きく構えてしまっていた。
「…はい」
 一瞬、何が起こったか分からなかった。気がつくと、弓を握りしめたままがっしりとした半助の腕に身体を絡めとられていた。眼を見開いたまましばし呆然としていた。
「どうだったかい、初めての弓は」
 小さな身体を抱え込みながら半助は笑いかける。
「は…はい」
 返事するだけで精いっぱいだった。
「初めてにしては構えも立派だったよ。きっと君なら弓の名手になれる…私が保証するよ」
「…はい」
 いまは素直に頷ける利吉だった。そして、ふと半助に対して抱いていた鬱屈した感情がすっかり消えていることに気付いた。
 -そうだ。半助さんは素晴らしい友人に恵まれたけど、僕には半助さんがいる。父上や母上よりは少し近いところにいてくれる半助さんがいる…。
「よかった」
 利吉が立ち上がるのを助けながら半助は微笑む。「今の気持ちを大事にすれば、必ず」
「はい」
 必ずそうなる、と思いながらすっくと立った利吉が、強い視線を半助に向ける。半助に一歩近づけた気がした。これからも忍としての道を進んでいける、そんな気がした。

 


 それはほんの一瞬だけ煌く黄金の矢のような、眩く鮮烈な記憶だった。

 

 

<FIN>

 

 

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