届かぬものに祈りあれ

<リクエストシリーズ 善法寺伊作&雑渡昆奈門&大川平次渦正>

 

「祈り」をテーマにいただいたリクエストです。

はてさて、誰が何を祈るものやらと考えましたが、もっとも他力本願から遠そうな組頭と学園長に祈ってもらうことにしました。あくまで自分の運命は自分で切り開くタイプの2人ですが、「可能性」である忍たまたちについては、祈るような気持ちで見守ることしかできないと思うのです。

 

というわけで、リクエストをいただいたタコ。様に納品させていただきます。なお、設定的に伊作奔るを引き継いでいますのでご参照願います。

 

1 ≫ 

 

 

「これでよし、と」
 きっちり巻いた包帯を留めると、伊作は小さく呟いた。
「いつもすまないね」
 忍装束に袖を通しながら昆奈門が言う。
「いえ。これ以上悪化しないかどうか確認するのも大事なことですから」
 笑顔で答えた伊作が、ふと気がついたように懐に手を入れる。「そういえば、これをお渡しするように新野先生から言付かっていました」
「ほう? 新野先生から、ね」
 手紙はごく短いものだったらしい。眼を通したと思うとすぐに昆奈門は手紙を懐に納めた。
「では、世話になったね」
「お大事に」
 特段手紙の内容を気にするでもなく伊作は朗らかに昆奈門を送り出す。いつもながら伊作の無防備に過ぎる無関心さはつくづく忍に向かないものよ、と昆奈門は考える。

 


「大川殿が私に用とは珍しい」
「待っておったぞ」
 座敷から庭を眺めていた大川が茶をすする。「そのようなところにいないで入られよ」
「では」
 天井板の一枚が外れて、黒装束の偉丈夫がひらりと降り立った。
「済まぬの、呼び立てをして」
 大川と昆奈門が向かい合っているのは、金楽寺の座敷だった。
「なぜここに、というところから訊いた方がよいのですかな」
 端近に控えるように座った昆奈門が口を開く。
「まあ、こちらへ座られよ。ほれ、茶も用意してある」
 大川が、自分の向かいに置かれた座布団を指す。
「では」
 座布団の上に端座した昆奈門が、懐から取り出したストローで茶碗の茶をすする。
「さすがはタソガレドキ忍軍の組頭だけあるの。わしが茶に毒を仕込んでいるかも知れぬというに」
 珍しそうにストローを見つめていた大川が、ふたたび茶をすする。
「ここに私を呼んだのは、私と勝負したがる忍たまを排除するため。また、ここで私を殺しても学園には何の得にもならない。そのことは大川殿がいちばんよくご存じのはず」
 なんの抑揚もない声で昆奈門は答える。
「なるほどの」
 ふぉっふぉっふぉっ…と笑いながら大川が茶碗を置いた。「まあ、昆奈門も忙しい身であろう。用件は単刀直入にまいろうかの」
 茶碗を置いた昆奈門がかすかに身じろぎをした。
「実はの…少しの間、善法寺伊作を預かってほしい」
「!?」
 覆面と包帯の間からのぞく隻眼が見開かれる。
「いろいろあっての」
 事情が錯綜しているのだろう、どこから説明を始めたものやら、というように大川は少しの間黙り込んだ。
「…伊作が新野先生の教えを受けて本草に詳しいことは、そなたも知っておるじゃろう…今日も治療を受けておったようじゃからの」
「いかにも」
 短く答えた昆奈門が続きを促す。
「じゃが、伊作はあくまで忍となることを望んでおる。医者を兼ねた忍でもよさそうなものじゃが、本人としてはあくまで忍として活躍したいということなのじゃろう。生徒が望む道をできるだけ歩ませてやるのがわしの方針じゃ…世間は必ずしもそうは考えてくれぬがの」
「医者としての伊作君を望む者がいると?」
「その通りじゃ」
 腕組みをした大川がためいきをつく。「名は言えぬが、ある城から伊作のオファーがあった。目的は明らかにせなんだがの。それもけっこう強硬での…嫌というなら無理にでもと言ってきおったわい」
 苦々しそうに顔をしかめる。「それを聞いたら、伊作は何と言うと思うかの?」
「学園が危険にさらされるとなれば自分の身を顧みない。それが伊作君だろうね」
「わしもそう思う」腕組みをしたまま大川は頷く。「相手の要求を突っぱねた結果として攻めてきたとしても、押し戻すくらいはできる。じゃが、それが自分のせいだと知った伊作がどう出るかを考えると、その方法は上策ではない」
「だから別の場所に隠す…タソガレドキ城は表向き学園と対立しているから、まさか伊作君がかくまわれているとは敵も考えない、といったところか」
「いかにも」
 手を膝に戻した大川がかっと眼を見開いて昆奈門を見つめる。「ぜひ協力していただけぬか」
「預かることは一向に構わない…だが」
 あっさりと昆奈門は答える。「伊作君の大事なお友だちは、それで納得するのかな?」
「留三郎のことか…」
 ふたたび考え込むように大川が腕を組む。「良かれ悪しかれ納得してもらうしかあるまい」
「それなら話はついた」
 昆奈門が立ちあがる。「こちらはいつでも構わない。では伊作君によろしく」
「待たれよ」
 天井裏へ跳び上がろうとした昆奈門を大川が制する。「この文を、必要になったときには伊作に渡してくれぬか」
「必要なときとは?」
 受け取った文を懐にしまいながら昆奈門が訊く。
「伊作が学園に戻ろうとしたときに決まっておろう」
 眉を寄せたまま大川は言う。「少なくとも相手が伊作の身柄を狙っている間はな」
「よかろう。確かに預かった」
 短く答えた昆奈門は、天井裏へと姿を消す。

 


「う~~~~ん…」
 夜が更けても、文机に肘をついて伊作は考え込んでいた。
「どうした、伊作。まだ起きてたのか」
 夜間自主トレから戻ってきた留三郎が、頭巾を解きながら訊く。
「ああ、おかえり、留三郎。ちょっとね…」
「なにか難しい手紙か?」
 文机の上に置かれた紙片を認めた留三郎が訊く。
「そうなんだ…タソガレドキの山本さんから」
 紙片を持ち上げた伊作が、読んでみて、と留三郎に渡す。
「どれどれ…タソガレドキ城内に伝染病が発生している。医師も倒れてしまって非常に困っている。助けてほしい。ただしくれぐれも内密に…か。たしかにタソガレドキ城の戦力が落ちていると知ったら、そこら中の城が一斉に攻めてくるだろうな」
 伊作に紙片を返しながら留三郎は考え深げに言う。「で、どうするんだ?」
「実のところ、判断に迷っているんだ。だから、留三郎の意見を聞きたいんだ」
 ため息交じりに伊作が気弱な笑顔を向ける。
「俺がなんて言うかくらい、分からんお前ではないだろう」
 ぶすっとして留三郎は答える。「タソガレドキが手におえないほどの伝染病なんだぞ。やめとけ。それだけだ」
「まあね…留三郎ならそう言うだろうなと思っていた」
 伊作の表情は変わらない。「僕も、この手紙は少し怪しいと思っている」
「どういうことだ?」
「城内で伝染病が流行っているというなら城下や領内の別の村で流行しないはずはないし、感染拡大や情報漏洩を防ぐために関を作ったりするはずだ。だけど、そんな話は聞こえてこない。それに、この手紙にはどんな症状かも書いていない。これでは、どんな薬を持って行けばいいかも分からない」
 聞いている留三郎の表情が次第にこわばる。
「だったら、なおさら行く必要はない。というか、絶対に行ったらダメだろう」
「だけどね、留三郎」
 伊作の声が湿ってきた。「これは、僕にどうしても来てほしいというサインなのかも知れない。これだけ見え透いたカムフラージュを書いてくるということはね…だから、迷っている」
「だから行くなって言ってるだろう!」
 思わず大きな声になる。「そんな怪しげなことでホイホイ敵の城に行ったら、どんな目に遭わされるか分からないんだぞ!」
「そうだよね…やっぱり、そうかもね…」
 俯きながら伊作は呟く。実は手紙の件は大川と新野にも相談していた。そして二人からは行った方がいいとアドバイスされていた。
 -留三郎に相談したのは、行くなと言ってほしかったから…。
 そして、大川たちの不自然そのもののアドバイスに、なにかのっぴきならない事情が隠されているようにも思えて、伊作は惑う。

 


「行くのか」
 翌日、夜明け前にそっと着替えて部屋を出ようとした伊作は、衝立の向こうからの低い声に一瞬足を止めた。
「ごめん、留三郎。起こしてしまったかい?」
「待ってろ伊作。俺も行く」
 衝立の上に顔を見せた留三郎は、着替えようと夜着の帯を解きかける。
「いや、いい」
 低く短い返事に留三郎は眉を上げる。
「どういうことだ」
「やっぱり一人で行った方がいいと思うんだ。その代わり、僕が3日たっても戻らなかったら、探しに来てほしいんだ」
「3日?」
「そう。仮に本当に伝染病だったとしても、3日もすれば初期対応は終わる。それ以外の何かがあって僕が監禁されたとすれば、3日くらいじゃ解決できないだろうからね」
 落ち着き払った台詞に留三郎は思わず頷く。
「う…伊作がそう言うなら、それでも構わんが…」
「ありがとう、留三郎…厄介をかけてすまないね」
「それはいいが、くれぐれも気をつけろよ」

 

 

「ほぉら、伊作君、案外ウチの制服似合うじゃ~ん☆ もうウチの子になっちゃえば?」
「え、あ、あの…」
 当惑して突っ立っている伊作を、あからさまに浮かれた口調の昆奈門が着替えさせている。
「でも、僕は忍術学園の…」
 言いかけた伊作の背後から肩越しに顔を寄せた昆奈門が、ねっとりとした口調で語りかける。
「分かってるよね。ここはタソガレドキ城なんだよ。城内によその制服の忍者が紛れていたらとっても目立つんだよ」
「そ、それはそうなんでしょうけど…」
「ほら、こうやって覆面すれば、顔も分かんなくなるし、ずっと私のそばにいれば城内の誰も学園の忍たまがいるなんてことは気付かないよ」
 手ずから伊作の覆面を結んだ昆奈門の目尻は垂れっぱなしである。
「…で、どういうことなんですか!?」
 少し離れたところからその様を眺めていた尊奈門が陣内に咎めるようにささやきかける。
「忍術学園の学園長に頼まれたらしい」
 ぼそっと陣内が答える。
「頼まれた、って?」
「私も詳しい事情は分からないが、どこかの城から狙われているらしい。そこで、しばらく預かってほしいとのことだ」
「しかし、だからといって忍術学園の忍たまなど城内に入れたことが知られたら…」
「組頭が伊作君が大好きなことは知っているだろう」
 小さく首を振りながら陣内はいっそう声をひそめる。「それに、組頭がなんの思惑もなしにそんなことを引き受けることなどありえないことも」
「私には、単に組頭が伊作君とイチャイチャしたいから引き受けたようにしか思えません!」
 憤然と尊奈門が言う。
「そうカリカリするな」
 陣内が肩をすくめる。「それより見回りの時間だ。行くぞ」

 


「そろそろ、理由を教えていただいてもいいのではないかと思うのですが」
 ずず、と湯呑の茶をすすりながら伊作が呟く。
「そう?」
 湯呑の茶をストローですすりながら昆奈門がとぼける。
「伝染病のことはまあいいとしましょう」
 苛立ちが口調ににじむ。「ほかにとりたてて用がないのなら、学園に戻らなければなりません。授業がありますから」
「そうはいかないんだよねぇ」
 隻眼を細めた昆奈門が伊作の肩に腕を回す。「君にはもう少しタソガレドキ城に留まってもらわなければね」
「その理由をお訊きしています」
 苛立ちがさらに増す。「もし理由があればの話ですが」
「まあそうカリカリするものではない…伊作君は本来もっとカワイイ子なんだからさ」
 昆奈門が混ぜっ返す。伊作の眉間に針が立つ。「…とはいっても、少しは説明してあげないとかわいそうだよね」
「どういうことですか?」
 伊作が昆奈門の横顔を見つめる。
「君の師の新野先生は、その知識を他の城から狙われたことがあったそうだが」
「はい」
 あれはツキヨタケ城だった…最後は派手は攻城戦となったことを伊作は思い出した。「それがどうかされましたか」
 やれやれ、と昆奈門がため息をつく。
「君は新野先生から高度な本草の知識を受け継いでいる…つまり同じリスクにさらされているということだ」
「私が…ですか?」
 眼を見開いた伊作が思わず頓狂な声を上げる。
「そんな、まさか…僕はまだ忍たまですよ?」
「忍たまであろうがなかろうが」
 再びストローで茶をすすった昆奈門が呟く。「求められる知識を持った者がいれば、狙う者が出てくる…本人の意思がどうであろうとね」
「つまり、僕が狙われているということなんですね」
 すぐに落ち着きを取り戻した伊作が念を押す。
「そこまではどうだろうね」
「でも、だいたい分かりました。学園長先生か新野先生が、私をここでかくまうよう依頼されたのですね」
「ノーコメントだね」
 はぐらかすような昆奈門の台詞に、隠す意思はまったく感じられない。
「そういうことなら…」
 固い声で言うと伊作は立ち上がる。「僕は学園に戻ります…おっと」
 昆奈門に手を掴まれて思わずよろめく。
「放してください」
「帰るのは勝手だがね」
 懐から出した手紙を突き出す。「これを読んでからにしたまえ」
「これは…?」
 不審げに手紙を開いて眼を通し始めた伊作だったが、みるみる顔が紅潮する。
「そんな…いくらなんでもひどすぎる!」
「なにが書いてあるのかね」
「学園長先生が…もし僕が勝手に帰ってきたりしたら、保健委員会をとりつぶすと…! 保健委員会のメンバーは他の委員会に振り分けると…いくらなんでも横暴すぎる!」
 一声叫ぶと、伊作はよろよろと座り込んだ。「僕は、いったいどうすれば…」
「それは困ったねぇ」
 他人事のように昆奈門が言い捨てる。「だが、その意味を考えてみたらどうだね」
「意味…?」
 肩を落としていた伊作が力なく顔を向ける。
「保健委員会がなくなって困るのは学園だ。それが分かっていてそんなことを書いてきた意味は、君なら分かるよね」
「…つまり、僕が戻っては困る理由があるということなんですね」
「そう考えるのが順当だろうね」
「そんなに僕の不運が困るというんですか!」
 拳を握りながら伊作が叫ぶ。「たしかに僕は不運です。でも、だからってこんな方法で学園から厄介払いしなくても…!」
「え、いやいやいや…」
 急に見当違いの方向に激し始めた伊作に、慌てて昆奈門が声をかける。

 


「どう見る、陣内」
 騒ぐ伊作をなだめすかして部屋に連れ帰ってきた陣内に、昆奈門はぼそりと訊く。
「私に忍術学園の内部事情はよく分かりませんが、あの騒ぎが芝居かどうかは分かりかねます」
「そうだろうねぇ。私もそうだ」
 覆面の下でちいさくため息をつく。「彼はああ見えてけっこう食わせ者だ…腹の中にどんな一物を抱えているか分かったものではない」
「そもそも彼を狙うという城の存在も怪しいとは考えられませんでしょうか」
 伊作を城内に抱え込む事情を知らない多くの部下たちからの突き上げを、陣内は口にしてみる。
「怪しいといえば怪しいね」
 あっさりと昆奈門は認める。「だが、相手に事欠いてタソガレドキに依頼するというのは、よほどの覚悟がないとできないことだと思わんか」
「たしかに」
 もっともな指摘に陣内も頷かざるを得ない。
「忍術学園の状況はどうだ」
「特に動きはありません。ただ、伊作君の友人がこちらに向かいかけてすぐに学園に戻ったとの報告がありました」
「ほう…伊作君のお友だちがね」
 隻眼を細めた昆奈門が、その意味を考える。 
 -当面は、伊作君と学園の動きから眼を離すべきではないな。そして、伊作君を寄越せと言ったとかいう城とやらも探らねばな…。

 


 こん、と鹿脅しが響くと、一陣の風がさわさわと竹林の葉を鳴らしながら吹き抜ける。障子を開け放った庵から庭を眺めながら、大川は先ほどから身じろぎもせず考えに耽っている。
 -伊作の身柄はなんとか安全なところに移すことができた。あとは、相手の出方じゃが…。
 新野が一番弟子と認定した時点で、伊作が必要以上に注目を浴びてしまうことは分かっていたことだった。
 -だが、カエンタケが手を出してくるとは…。
 目下、もっとも動向に注意すべき城のひとつがカエンタケ城だった。城主の趣味で毒草を含む本草の研究が盛んな城とも聞いていた。だからこそ、伊作のような本草に詳しい者を求める意欲は強い。
 -その結果がどうなるかは眼に見えておる。
 首尾よく伊作を研究に協力させた暁には、とんでもない毒物を開発して戦に使うだろう。
 -そんなことを許すわけにはいかない…まして、あの伊作にそのようなことに携わらせることなど…。
 不運とはいえ忍としての基本は叩き込まれた伊作である。万一カエンタケに身が落ちてそのような研究を強いられたときには、ためらわずに命を絶つだろう。それは、新野の一の弟子が存在しなくなることを意味する。
 -そのようなことは、あってはならない。
 若い命が無為に散らさないためにも、世のために有為な才能を散らさないためにも。
 貸しを作ってしまうことを承知の上でタソガレドキに身柄を預けたのもそのためだった。
 だが、次の手をどう打つか、老練な大川にも見いだせずにいた。
 ふたたび吹き抜ける風に竹林の葉が鳴る。と、さやかな音を踏みしだくように渡り廊下を踏みしめる足音が近づいてくる。
 -やれやれ、やっかいなのが来たの。
 大川が小さくため息をつくと同時に、開け放った障子の影から足音の主が現れた。
「学園長先生! どういうことでしょうか」
 庵にのしのしと入り込んでどっかと座り込んだ留三郎が、固い声で問う。大川は腕を組んだまま黙りこくっていた。
「伊作がタソガレドキに行くと同時にカエンタケが学園の周りを嗅ぎ回るようになった。これは一連の動きですよね」
 伊作が出かけてから3日後、戻らない伊作を探しにタソガレドキ城に向かおうとした留三郎は、カエンタケ忍者の姿を見かけてすぐに学園に戻った。伊作が出かけた直後からカエンタケ忍者が学園周辺に出没するという話を六年生の仲間たちから聞いていた。
「そういうことですよね」
 畳み掛けるような問いに、大川が顔を上げる。
「だとすれば、どうする」
「何が起きているのか、教えてください。何が起きているのか分からないままでは、我々も動きようがありません」
「つまり動かなくてもよいということじゃ。分かるか」
「分かりません!」
 ついに切れた留三郎が畳を拳で打ち付ける。「それでは伊作はどうなるのですかっ! それに、カエンタケの動きを放っておいていいのですかっ!」
「うるさいのう」
 叫ぶ留三郎に背を向けると、大川はごろりと横になって鼾をたてはじめる。
「学園長先生! 狸寝入りなどしないで…」
「ヘムヘム」
 なおも怒鳴り声をあげかけた留三郎の肩を、いつの間にか現れたヘムヘムが叩く。
「いくら言ってもムダだって…?」
 気勢をそがれた留三郎が振り返る。ヘムヘムが肩をすくめて首を横に振る。

 


「…帰ったか?」
 軽く頭をもたげた大川が薄眼をあけて留三郎がいた辺りを探る。
「ヘム」
 ヘムヘムが頷く。
「やれやれ、まったくかなわんわい…留三郎は真面目なのはいいが、あまりに一本気じゃからの…特に伊作に関わることは」
 大事なお友だち、と言ったとき、明らかに覆面の下でにやけた昆奈門の表情を思い出す。
「ヘム、ヘムヘム?」
「なに? カエンタケをどうするかじゃと? それじゃ、それを考えておったのじゃが…そうじゃ、思いついたぞ! 吉野先生と留三郎を呼んできなさい!」
 がばと身を起こした大川が膝を叩く。

 

 

 -保健委員会を取り潰すと言ってまで僕に帰ってきてほしくない理由…。
 自室にあてがわれた部屋を出た伊作は、縁側に腰を下ろして月を眺めていた。
 -それは、僕を狙う者から学園を守るため…。
 それなら大川や新野が自分をタソガレドキにあっさり送り出すのも納得がいった。
 -おそらく、それがどの城かは雑渡さんたちも知らない…。
 あのとき陽動しようとして騒いだ自分を見る雑渡たちの眼は、明らかに当惑の眼だった。
 -では、僕はどうすれば…。
 このままタソガレドキ城で無為に過ごすしかないのだろうか。それはいつまで我慢すればいいのだろうか。それとも、もう二度と学園に戻ることはできないのだろうか…。
「中に入ってもらえますか」
 いつの間にか、庭先に若い忍がいた。片膝をついたまま伊作を見上げている。
「あなたは…?」
「私は、椎良勘介です」
「シーラカンスさん? 変わったお名前ですね」
「よく言われますが…椎良です」
 軽く苛立ちをにじませながら勘介が応える。「庭には出ないでいただきたいのですが」
「僕は逃げも隠れもしませんよ…いまは雑渡さんやタソガレドキの皆さんのお世話になっている身です。ご迷惑をかけるようなことはしません」
「それならばいいのですが」
 少し警戒を解いた口調で勘介は言う。
「僕が、忍術学園の忍たまだということはお聞き及びですよね」
 伊作はふたたび月を見上げる。
「もちろんです。本草に長けていらっしゃるとか」
「師の新野先生にはまだまだ及ばないです…」
 月明かりに照らされた伊作の横顔が急速に表情を喪う。
 -げ、俺、なにか悪いこと言っちゃったかな…。
 内心の動揺を隠しながら勘介は黙って伊作を見上げる。
「…でも、そんな僕の及ばない知識でも人を助けることができるなら、僕はどこへでも行くし、誰であろうと手を尽くします。それが医術に携わる者の義務ですから…それなのに」
 うつろな眼で伊作は呟く。「僕は、あまりに無力なんです」
「そうでしょうか」
 庭先に控えたまま低く問う声に、伊作はいぶかしげな視線を向ける。
「あなたは組頭を助けていただいた方だと聞いています。もし戦場で、敵味方の区別なく手当てするあなたに会わなかったら、あるいは戻ってこれなかったかもと組頭は仰っていました。だからこそ」
 覆面に隠された勘介の表情は見えない。だが、強い視線が射るようにまっすぐ向けられていた。「組頭は、どんなに難しい事情があっても、あなたを迎え入れられた」
 たとえ自分たち部下が束となって反対してもその意思は変えられなかっただろうと勘介は考える。
「そして、僕がここに留まることを望まれている、ということですね」
「はい」
「…」
 表情のない眼で伊作はふたたび月を見上げる。
「そんなに、ここから出たいのですか」
 沈黙に耐えきれずに勘介が訊く。
「出たい…たしかにそうかも知れません。でも、出たところで僕には行き先はないのです」
 平たい口調で伊作は言う。
「行き先が…ない?」
「学園長先生からのお手紙にありました。もし勝手に学園に戻ったりしたら、保健委員会を取り潰すと…」
 改めて蘇った手紙を眼にしたときの胃液が逆流するような衝撃を思い出して伊作は顔をしかめる。「わかりますよね? 僕は、医療者として非力なだけでない。自分でどこに向かえばいいのかも分からない赤子同然なんですよ…」
「そんな方に、私たちの組頭は救われたというのですか…」
 押し殺したような声に、伊作は鈍く顔を向ける。
「私は、私たちは、組頭をお救い頂いた方はさぞすごい方なんだろうと思っていました…戦場でそのようなことができる方など、そういるものではありませんから」
 言葉を切った勘介がきっと伊作を見上げる。「なのに、どうして…!」
「僕は、まだ忍たまなんです。あなた方が簡単にあしらう文次郎や留三郎とおなじ学年で、一緒に学んでいる立場なんです」
「それでも私たちは、組頭の命の恩人には感謝せずにはいられないのです! たとえそれが年端もいかない忍たまだったとしても…!」
「そうみたいですね…たしかに、雑渡さんを慕うお気持ちはよく分かります」
 ようやく感情が戻ったらしい。勘介を見た伊作は、懐から覗くパペットに小さく笑う。「そのパペット、僕の後輩の伏木蔵も持っているんですよ…山本さんからいただいたそうで、いまでは伏木蔵の宝物なんです」
「こ、これは…!」
 勘介が慌ててパペットを懐に押し込む。

 


「雑渡さんは、ほんとうに皆さんに慕われているのですね」
 小さな笑みを表情に張り付けたまま伊作は言う。
「当然です」
 短く断言する勘介がすがすがしかった。
「雑渡さんは、僕たち忍たまの味方だと言ってくださるのです」
 ふたたび夜空を見上げた伊作の表情からすっと表情が消える。「僕みたいな不運な者にも」
「不運?」
「僕は不運なんですよ。それでいつもいろいろな厄介ごとに巻き込まれる。僕の大切な友人に不運を移しさえする。時々思うんです。僕は、つまり、疫病神なのではないかと…」
「そんなことはないはずです」
 言い切る勘介に、伊作が力ない眼を向ける。
「組頭は、とても人を見る眼があるお方です。そんな組頭がお見込みになって、この城中にまで引き取るほどの方がただの疫病神であるはずがありません」
 それ以上は口をつぐむ勘介だったが、何を言いたいかは明らかだった。
「ありがとうございます」
 弱々しい微笑を浮かべて伊作は言う。「ほんとうに、もっと自分を客観的に見るようにしないといけませんね…」

 


「どうだった」
 横座りのまま文机に向かって何やら書いていた昆奈門がぼそりと呟く。
「は」
 板戸の向こうから陣内左衛門が応える。「学園を探っているのはカエンタケ忍者のようです」
「ほう…」
 昆奈門が鼻を鳴らす。「まあ、入って来い」
「は」
 板戸を開けて陣内左衛門が姿を現した。
「で、連中は学園を攻撃しようとしているのかね」
「まだそこまでは。まずは伊作君がいるのかを探ろうとしている段階です」
「連中もまだ学園内を探ることはできていないということか」
「は。警備に手を焼いているようです」
「なるほどね」
 -入門票にサインさえすればいくらでも探り放題なのをまだ知らないと見える。
 入門票小僧と称される事務員の顔が脳裏を過ぎる。おおかた、侵入しようとしては追いかけ廻されて退散しているのだろう。
「カエンタケは、なぜそこまで伊作君を狙っているのでしょうか」
 覆面から覗く陣内左衛門の切れ長な眼がまっすぐ昆奈門を射る。
「あれで忍術学園とはなかなか端倪すべからざる存在だ」
 今さら、と思われることを昆奈門は淡々と語る。「思いがけない人物が、思いがけない実力を持っていたりするからね」
「思いがけない人物…ですか?」
 昆奈門ほど学園の内情に精通していない陣内左衛門が訊く。
「そうだ。私が世話になっている新野洋一は知っているだろうな…あれは本草や医術に通じているだけではない。化学の方面にもかなりの知識を持っている」
「そういえば、ツキヨタケ城に狙われたこともあったと聞いています」
 それはツキヨタケ城が新野の持つ知識を狙って身柄を奪い、そして学園に完膚なきまでに返り討ちにあった事件だった。
「そういうことだ…であれば、その一の弟子が狙われても不思議ではないだろう」
「つまり、カエンタケは伊作君が新野先生の化学の知識を受け継いでいることを狙っているということですか…?」
 陣内左衛門の眼が見開かれる。「しかし、彼にそのような知識があるなどと…まだ忍たまなのに」
「忍たまだから、ということもあるだろう。あの子はああ見えて食わせ者だからね…どのみち、カエンタケは新野に手を出しても痛い目に遭うだけということは学んでいることと見える。だから伊作君を狙ったのだろう」
「しかし、伊作君にそのような知識は…」
「あるかどうかは分からん。或いはまったくないのかもしれないし、或いはすべてを新野から引き継いでいるのかも知れん。それをどう見せるかは伊作君しだいだな」
 相手にどれだけ自分を高く売りつけるか、或いは無害な存在と印象付けるかということなのだろう、と陣内左衛門は納得する。

 

 

 

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