一念発起

 

命のリレーであっさり敵方の城にさらわれてしまった新野先生ですが、本人的にはいたく気にしているようです。ちなみに茶屋的設定では、新野先生は忍者としてのトレーニングを受けていないため、特に体術方面は苦手だったりします。

いつもお世話になっている新野先生の役に立ちたいというのは、学園中の人が思っていて、だからこそそういう機会があれば俄然張り切ってしまうといいな、という思いで書いてみました。もっとも。思いが余って張り切る方向性がフリーダムになるのもまた忍術学園的、ということでw

 

 

「新野先生、お呼びでしょうか」
 医務室に伊作が入ってきた。額の汗を拭っている。
「ああ、善法寺君。薬の処方を手伝ってもらいたいと思ってね…ところで」
 処方を書いた紙を文机から取りながら、新野は言葉を切った。
「なんでしょうか」
「なにか、忙しいところだったのではないのかね」
 気がかりそうな口調に、伊作はきょとんとする。
「いえ、別に…なぜですか?」
「いや、ずいぶん汗をかいていたようだからね」
「ああ、そのことですか」
 思い出したように伊作は手拭いを額に当てる。いつの間にかまた汗がにじみ出ていた。
「…組手の練習をしていたのです。留三郎と」
「ほう、組手ですか」
「はい。留三郎は組手が得意ですから。ときどき練習に付き合ってもらっているのです」
 忍の仕事の中では、時に丸腰で相手と戦わなければならないこともある。特に身分を知られてはならず、忍器が使えないときなどは、組手で身を護り、窮地を脱することが求められるのだ。
「ほう、組手をね…」
 考え深げに腕を組んだ新野が呟く。きょとんとした表情の伊作が首をかしげる。

 


「そういえば、新野先生は急ぎのご用だったのか?」
 就寝前の忍たま長屋の自室で、留三郎は忍刀の手入れをしながら口を開いた。
「ああ。少し難しい薬の調合をすることになってね、私にも経験させようとされたんだろう。実際、いい経験になったよ」
 文机に向かって本を読みながら、伊作が答える。
「そうか」
 衝立の向こうからの返事を聞いて、留三郎はまた忍刀の手入れを続けた。
「そういえばさ」
 伊作の声がした。
「なんだ」
「新野先生が、組手の練習をしたいから付き合ってくれないかと仰ったんだけど、私なんかより留三郎のほうがいいんじゃないかってお話ししたんだ」
 意外な台詞に、留三郎は思わず手にしていた刀を取り落しそうになった。
「な、なんだよ急に」
 そっと刀を床に置くと、立ち上がって衝立越しに伊作を見やる。
「だってさ、私はまだまだ未熟だし、留三郎は教えるのがうまいから」
 留三郎を見上げながら、伊作はにっこりする。
「そ、そうは言ってもな…」
 狼狽した留三郎が呟く。伊作なら同級生で実力も分かっているし、仮に加減を誤っても最低限の防御はとれるだろう。だが、相手が新野では、どこまで加減をすべきか分からない。それに、新野は校医である。うっかりケガをさせようものなら、学園の医療体制に穴が開く。
「新野先生は、留三郎の都合のいい時でいいから、ぜひ頼みたいと仰っていたよ。明日にでも、先生のところに打ち合わせに行ったほうがいいと思うけど」
「あのな…そんなに簡単に決めるなよ。だいたい、なんだってそんな話になったんだよ」
「ああ、そうだったね」
 自分も理由を訊いたことを思い出しながら伊作は言う。
「…以前、ツキヨタケ城に先生が連れ去られてことがあったろう?」
「ああ、そうだったな」
 最後にはツキヨタケ城への攻城戦となったことを思い出しながら、留三郎は答える。あれは今思い出してもスカッとするほどの勝利だったと思いながら。
「あのとき、あっさり敵につかまってしまったことが、先生としてはとても不本意だったらしいんだ」
「だが、先生は校医でいらっしゃるが、忍のトレーニングを受けたわけではない」
「私もそう申し上げたんだけどね…どうやら最低限の護身術は身に着けるべきだと思われたらしいんだ」
「それで、組手というわけか…」
「先生は、初歩の初歩から教えてほしいと仰っていた…ということは、最初は打ち合いなんてこともないから、そんなに心配することもないんじゃないかな」
 留三郎の不安を見透かしたように伊作が言う。
「お、おう、そうだな…それなら、明日、新野先生のところに行ってみるよ」

 


「組手の基本は、顔を守ることです。だから、手の位置は顔の高さにしてください…そうです」
 庭先で、留三郎と新野が向かい合っている。
「手は、相手の身体が収まる程度に開くのがいいです。あと、腰を落としてください」
「こうですかな」
 慣れない姿勢に早くも腕が疲れてくるのを感じながら、新野が確認する。
「腰を落とすのは、素早くあらゆる方向に移動できるよう、下半身に力を溜めるためです。あ、先生、上半身はまっすぐに。前かがみや反ったりすると、バランスを崩すし、相手との距離感を見誤ります」
「なるほど。こうですな」
 苦心して構えをつくる新野の背を、留三郎が手を添えて直す。
 -なるほど、善法寺君の言うとおり、なかなかうまい教え方ですな。
 構えを身体におぼえこませようとしながら、新野は考える。
 -教える内容ひとつひとつにきちんと理屈をつけられている…誰から教わったか知らないが、いい師に恵まれたのでしょうな。
「では、少し動いてみましょう。上半身の構えは崩さず、歩幅は小さく、が基本です」
「なるほど」
 言われたように前後に重心移動を試みているところに、声が上がった。
「おいおい、留三郎。そんな指導じゃ新野先生に失礼だろ」
 言いながら姿を現したのは、文次郎だった。
「なんだと、文次郎! 俺のやり方にケチをつけるつもりか!」
 すかさず留三郎が食って掛かるが、文次郎は片手を軽く振り上げてあっさりいなすと、新野の前に片膝をついた。
「新野先生。お話は伺いました。組手を上達させたいと仰るなら、ぜひ、この潮江文次郎にお任せください」
「何を言いやがる、文次郎! 新野先生は俺にコーチを頼まれたんだぞ!」
 すでに憤怒の表情になった留三郎が立ちはだかる。文次郎が押しのけようとする。
「それは、伊作がいつもお前から組手を習ってるからだろう。本当に先生に組手を教えるのが誰がふさわしいか考えれば、俺以外にあるはずがない」
「んだと…!」
「やるか!」
 こぶしを握りしめた2人がにらみ合う。
「まあまあ、潮江君も食満君も…」
 おろおろと新野が止めようとするが、すでに2人はつかみ合っている。
 -やれやれ、参りましたな…。
 頭を掻きながら割って入ろうとしたとき、足音が近づいてきた。
「新野先生!」
 やってきたのは数馬だった。
「どうしましたかな」
「しんべヱが、歯が痛いって来ています」
「そうですか。では、すぐ向かいましょう」
 すでに殴り合いのけんかに発展している文次郎と留三郎を気がかりそうに見やったが、数馬が落ち着き払って言う。
「大丈夫です。立花先輩を呼んできますから」
「そうですか。頼みましたよ」
 足早に医務室に向かい、部屋の襖に手をかけたとき、「やめろ仙蔵!」「なにしやがる!」という叫び声が聞こえてきた。続いて低い爆発音と立ち上る土煙に、火薬のにおいも漂ってくる。
 -おやおや、手荒にやったもんですな。
 小さく首を振ると、新野は医務室に足を踏み入れた。きっと、しんべヱの歯の治療に続いて文次郎と留三郎の治療も余儀なくされるのだろうな、と思いながら。

 


「新野先生」
 しんべヱの歯の治療に続いてボロボロになった文次郎と留三郎の手当てを終え、片づけているところにやってきたのは厚着太逸である。
「おや、厚着先生。どこかお悪いのですかな」
「いえ、そういうわけではないのですが…聞きましたぞ」
 新野の前に座りながら、太逸は妙に浮き立った口調である。
「な、なんですかな…」
 いやな予感がして、新野はたじろぐ。
「組手の特訓をなさりたいとか…水臭いですぞ、新野先生。そういうことなら、この厚着太逸に一声かけていただければ、いくらでもお相手させていただいたものを」
 -特訓などと言った記憶はないのだが…間違った情報が変な方向に広がっているようだ…。
「いえいえ、訓練なら…」
 食満君に…と続けようとしたが、すでに立ち上がった太逸は、新野の手首をしっかりつかんで言う。
「さあ! 早速始めましょう! なに、何事も始めるのに遅すぎるということはありません! まずは実力診断からです!」

 


「では早速、まずは、私を相手に攻撃してください。遠慮は無用ですぞ」
 構えながら太逸は言う。
 -そうは言っても、まだ構えしか習っていないのだが…。
 内心呟きながら、新野も構える。
「構えは万全ですな。さあ、打ちでも蹴りでもけっこうです。私は攻めませんから、思い切ってやってください」
 -腰は落として、歩幅は小さく、でしたな…。
 留三郎に教わったことを思い出しながら、踏み出す機会をうかがう。
「てやっ!」
 足を踏み出すと同時に、右手のこぶしを突き出す。と、視界から太逸の姿が消える。次の瞬間、新野の右腕は太逸の両掌によって左へと強引にそらされる。
「おっとっと…」
 前のめりになった身体を、太逸の手が押し戻す。
「構えはいいが、肩の動きが速すぎますな。もっと身体を柔軟に、足の踏み出しから突きまでがしなるように切れ目なくつながることが重要ですぞ」
「そうは言われましても…」
 まだ打ちも蹴りも教わっていないのに、という前に、太逸はすでに次の構えに入っている。
「さあ、次は蹴りです。思い切ってきてください!」
「そ、そうですか…では、たあっ!」
「とっ」
 相手に向かって蹴り上げた、つもりだった。だが、気が付くと蹴り上げた膝を太逸の手が受け止めてぐっと持ち上げるところだった。
「おわっ」
 予期せず膝を持ち上げられてバランスを崩した新野は、そのまま二、三歩片足で後ずさって、しりもちをついてしまった。
「あいたたた…」
「だ、大丈夫ですか」
 体勢を立て直すと思った新野がそのまましりもちをついてしまったのを見て、太逸があわてて駆け寄る。
「いや、面目ない」
 苦笑いして立ち上がろうとした新野は、手を貸してもらってようやく立ち上がる。
「これは、基礎からやり直したほうがよさそうですな」
 太逸が顎に手を当てながら呟く。
 -だから、基礎から習おうとしていたのに…。
 そう言いかけたところに、
「厚着先生、いけませんな、新野先生を相手にそんな無茶をなさっては」
「野村先生!」
 現れたのは、野村雄三である。指先で軽く眼鏡を押し上げると、泰然として雄三は続ける。
「物事には、順序というものがあるのです。拝見したところ、新野先生には、組手の基礎から入る必要があるように思われる」
「だ、だからこれから基礎を…」
 うろたえながら太逸が言うが、雄三は立てた人差し指を軽く振りながら制する。
「基礎とは、つまりメンタルということですよ、厚着先生。組手は技術論だけではない。まずは心構えから入るべきだと私は思うのです」
「そ、そうですか…」
 後光が差しそうな勢いで言い切る雄三に、新野ももはやそれ以上口にすることができない。
「そのためには、まずは立禅(りつぜん)から始めなければ」
「は、はあ」
「立禅とはすなわち、大地と一体となり、自然と一体となってそのエネルギーを体内に取り込むことにより、気を養う」
「は、はい」
「さあ、一緒にやりましょう。足は肩幅に開き、踵を軽く浮かせるのです。呼吸は自然に、心は穏やかに…これが立禅の基本です」
 雄三に並んで新野も立禅の姿勢を倣う。
「そうです。眼は閉じず開かず、中腰で手は開かず閉じず…」
「こ、こうですかな…」
 案外難しいものだ、と思いながら、中腰とは留三郎の言うところの、下半身に力を溜めるということなのだろうか、と考えが至ったとき、
「ははぁ、野村雄三! またももったいぶったことをやってやがるな!」
「むっ! その声は!」
 きっと目を見開いた雄三が周囲を見回す。
「ここだここだ。相変わらずカンが悪いな」
 新野と雄三が見上げた木の上には、ラッキョをかじりながら腕を組んでいる大木雅之助がいた。
「おや、大木先生」
「雅之助! 何しに来た!」
「もちろん、お前がふざけた立禅なんぞを新野先生に教えるのを止めるためだ…喰らえ!」
 雅之助はやにわに懐から取り出したラッキョを雄三に向けて投げつける。
「な、なにをする…卑怯だぞ!」
 あわあわと退却しながら雄三が口角泡を飛ばす。
「なんの、お前を倒すためなら手段など…」
 しゅたっ、と枝から飛び降りた雅之助は手裏剣を構えながら、新野に向かって声を上げる。
「新野先生。先生ほどのお人が、こんなインチキ教師の言うことを真に受けてしまうとは、いささか問題ですぞ!」
「なにがインチキ教師だ…!」
 雄三が歯ぎしりする。
「インチキをインチキと言って何が悪い…お前こそ、新野先生に教えるなど百年早いわ!」
「元教師のお前がなにを大きい顔して入ってくるのだ…おまけに、私の指導内容に口をはさむなど、片腹痛いとはこのこと!」
「何を言う!」
 言い合いながら、互いに手にした手裏剣を放つ。
 -やれやれ、私は組手を習いたいだけなのに、どうしてこうまで邪魔が入るのやら…。
 もはや止める気力もないまま立ちすくむ新野の鼻腔に、ラッキョと火薬の臭いが漂ってきた。
 -これはもしや。
 あわてて臭いのもとに目をやる。果たして、そこには焙烙火矢を手にした雅之助の姿があった。
「お、大木先生、まさか…」
 止めようとするが、不敵な笑いを浮かべた雅之助はすでに点火した火矢を構えている。
「新野先生、止めないでください…これは、今日という今日こそ野村雄三を倒すために開発したラッキョ火矢なのです!」
「なにを…! そんなものが私に利くと思っているのか!」
 動転した口調を苦労して繕いながら、雄三は言い返す。
「それはどうかな…喰らえ!」
 雅之助が手にした火矢を投げつける。素早く雄三が飛びのいたところに、火矢が爆発する。
「うへっ! これは…」
 袖で鼻と口を覆いながら新野が咳き込む。周囲には火薬とともにラッキョの臭いが立ち込めていた。
「雅之助! よくもこのような卑怯な毒物兵器を…!」
 同じように片手で袖で鼻と口を覆った雄三が、もう一方の手で雅之助を指差しながら息も絶え絶えに言う。
「どうだ、参ったか! 分不相応なことをした罰だ! …新野先生」
 すでに塀の上に立っている雅之助は、勝ち誇ったようにひときわ声を上げる。
「くれぐれもこんなインチキ教師の言うことなどに耳を傾けてはなりませんぞ…では!」

 


「…ふぅ」
 ほうほうのていで医務室にたどり着き襖をあける。中で薬を煎じていた保健委員たちが振り返る。
「新野先生、おかえりなさい…ずいぶんボロボロですが、どうされたのですか?」
「それに、お着物からラッキョのすごいにおいがするんですけど」
 口々に声をかける左近と乱太郎に言葉を発して答える気力もなく、新野は上り框に座り込む。あわてて伊作が駆け寄る。
「どうされたのですか!」
 新野の身体を支えて布団に寝かしつけながら、ふと伊作は気づいて訊く。
「…そういえば、今日は留三郎と組手の練習をされていたのでは…?」
「組手…いやはやもう…あいたた」
「腰ですか?」
「そうです…厚着先生を相手に蹴りを入れたときに足を持ち上げられ…」
「このラッキョのにおいは?」
 腰に膏薬を貼りながら、さらに問う。
「野村先生に立禅なるものを教えてもらっているときに大木先生が…」
「…」
 もはや伊作には訳がわからなかった。そもそものコーチのはずだった留三郎がまったく話に登場しないとはどういうことなのだ。

 


「文次郎や留三郎はともかく、厚着先生、野村先生、大木先生! 先生方までが一緒になって無茶な訓練をするとは何事じゃ!」
 庵に集められた5人を前に大川が一喝する。端座した5人がそろって背を縮める。
「そもそも、なぜこんなことになったのじゃ!?」
「それは…」
 押し付けあうように目配せを交わした後に、留三郎が口を開いた。
「…新野先生が、護身術として組手を身に着けたいということで、伊作が私を先生に紹介したのです。先生は、ツキヨタケ城にさらわれてしまったことから、最低限の護身術を身に着けたいとのことでした」
「そういうことだったのか。それなら…」
 大川が言いかけたところに、ばたばたと足音が近づいてきて、庵の襖ががらりと開かれる。
「学園長先生!!」
「ええい、騒々しい! 何事じゃ!」
 入ってきたのは保健委員たちである。
「たいへんです! 新野先生のところに、学園中の腕に覚えがあると自称する人が来て…」
「先生に特訓するんだって言ってます」
 息を切らしながら乱太郎と伏木蔵が言う。
「どういうことじゃ?」
「どうも、新野先生が忍術を特訓したがっているというへんな噂が学園中に広がってるみたいで…」
「滝夜叉丸先輩は戦輪を教えるんだって息巻いてるし、田村先輩は石火矢のユリコちゃんを医務室に持ち込もうとするし、七松先輩はいけいけどんどんで忍術を教えるって張り切ってるし、木下先生や日向先生も…」
「それで、新野先生はどうなっているのじゃ」
「数馬先輩と左近先輩がなんとか医務室の入り口でガードしてますが…」
「…たぶん落城は近いかと…」
「伊作はどうした」
 留三郎が訊く。
「伊作先輩は、新野先生を連れて医務室を脱出されるとのことでした」
 スリルに眼を輝かせた伏木蔵が答える。
「まずい。伊作をフォローしないと!」
 低く叫んだ留三郎が立ち上がりかける。文次郎たちが続こうとしたとき、
「待ていっ!」
 一喝する大川の声に、皆の動きが止まる。
「ここは、若い頃は天才忍者とうたわれたこのわしの出番じゃな」
 自信満々に言い切る大川に、不安げな視線が集まる。
「…あの、それって…?」
 いやそうに乱太郎が訊く。
「当然、新野先生に忍術を特訓するのは、このわしをおいて他にないということじゃ! さっそく行くぞ!」
 -いやその…学園長先生?
 -新野先生は、組手を練習されたかっただけなのでは…?
 跳ねるように庵を飛び出す大川を、残された留三郎たちが呆然と見送る。その背を見ながら伏木蔵が呟く。
「すっっごいスリルぅ…」

 

<FIN>