空白の意思

 

五年生と顧問シリーズ完結編、火薬委員会の兵助と土井先生の段です。

兵助と土井先生の共通点は、どちらも経験が浅い同士だと思うわけで、そんな思いを語り合うとすれば、それは授業を離れた場、たとえば夜空を眺めながら、というシチュエーションが似つかわしいと思うのです。

 

 

 

「そのときのきり丸の一言が傑作でして」
「ほう、なんと?」
 教師長屋の屋根の上では、月明かりを浴びて、山田伝蔵と土井半助が酒を酌み交わしている。今日は、半助が引率した校外演習のできごとを話していたところである。
 一年は組を連れて外に出ると、必ずなにか事に遭遇することは、もはやお約束である。それだけに胃の痛む思いもするが、実戦経験を積むことにはなるし、チームワークが売りのは組が、なんとかクリアするたびに、少しずつ成長していくさまを見るのは、教師としてうれしくも誇らしくも思うことでもあった。

 


「酒がなくなりましたな」
「では、戻りますか」
「そうですな…おや?」
 伝蔵が、ふと遠くに目をやった。
「どうしました?」
 先に下りようとした半助が振り返る。
「あそこに、誰かいる」
「曲者ですか?」
 声を潜めた半助に、伝蔵は首を横に振る。
「あれは、忍たまですな」
 半助も、目を凝らす。
「五年い組の久々知兵助ではないかな」
「たしかに」
 髷の特徴のあるくせ毛は、兵助のものだった。
「声をかけてきます」
 半助が言う。
「…彼は、私が顧問をしている火薬委員会の生徒ですから」
「そうでしたな。では、頼みましたよ」
「はい」
 半助が、屋根を伝って兵助のいるほうに向かっていくのを見届けると、伝蔵は空いた瓢箪と土器(かわらけ)を持って屋根から飛び降りた。

 


「こんな時間にどうしたんだ。久々知兵助」
「土井先生」
 屋根に腰を下ろして、ぼんやりと夜空を見ていた兵助は、声をかけた半助にさして驚いた様子もなく振り返った。
「土井先生、お酒を飲まれていたんですね」
 静かな声で指摘する兵助に、半助は頭を掻く。
「分かってしまったか…いや、山田先生と、ちょっとな」
「そうですか」
 兵助は、また夜空に眼を向ける。
 かわった生徒だ、と半助は考える。五年生たちとつるんでいるときや、演習や委員会で上級生や下級生と共に行動しているときは、ごくふつうの14歳の少年にみえるのだが、一人でいるときの兵助は、なぜかひどく老成したように見えるのだ。
「考えごとか?」
 ごく軽い調子で、半助は声をかける。半助からみた兵助は、きわめて優秀な生徒であるとともに、ときに自身では重過ぎるものも一人で抱え込んでしまいそうな危うさを感じさせていた。そんな兵助に、重い問いかけは、口を開く援けにはならなさそうに思えたから。
「ええ…まあ」
 迷いでもためらいでもないあいまいな返答に、他人と話をする気分ではないのかもしれない、と半助は考えた。礼儀正しい少年だから、話しかければ返事はするが、それはあくまで義務的な返事にすぎない。そのような会話を強要するくらいなら、一人にしておいてやるほうがいいのかもしれない。そう考えたとき、兵助が不意に半助に向き直った。
「そういえば、伊助は土井先生のクラスでしたよね」
「そうだが」
「これを…」
 兵助は懐から守り袋を取り出した。
「今日の委員会で、伊助が忘れていったのです」
「そうか。なんなら、私が預かろうか?」
「いいのですか?」
「構わんさ。明日の朝は、私の授業があるからな」
「では、お願いします」
 受け取った守り袋を、半助はふと月明かりに照らしてみた。
「なかなかきれいな守り袋だな」
「そうですね。私も、そう思いました」
「伊助の家は染物屋だからな。きっと、ご両親が、丹精込めて染められたのだろう」
「そうですか」

 


「伊助は、とても気がつく生徒なんだ」
 半助は、夜空を見上げながら、言うともなしに口にする。兵助が、その横顔を見つめている。
「目立たないかもしれないが、伊助がいるからは組がまとまっている面がある。いや、誰か一人欠けても、は組はは組でなくなってしまうのかもしれない」
「火薬委員会と同じですね」
 兵助が小さく笑う。
「…何をやっているかよく分からないと、よく言われている。でも、火薬委員会の管轄する火薬なしには、忍の仕事は何もできない」
「そうかもな。どうやって火薬委員会の存在感をアピールするか、私たちはもっと知恵を出さなければ

ならないのかもしれない」
「…そうですね」
 だが、兵助には、あまり同意していないようである。
 -本当に必要な存在なら、なにもアピールしなくてもいいはずだ…そうでないとすれば、本当に必要性が問われているということなのでは?
 兵助の表情の動きを察した半助は、話を方向転換させる。
「そういえば伊助は、将来、忍者服の新しい染め方を学びたいとか言ってたな」
「染め方、ですか?」
 兵助の眉がこころもち上がる。
「ああ。どうやるのかは、私にも分からんが」
「変わった…希望ですね」
「そうだな…まだ、忍がどのような仕事をするのか、具体的なイメージがつかめていないのかも知れない」
「まだ一年生ですから…」
「そうかもな」

 


「兵助。お前は将来、どのような忍になりたい?」
 一年は組の生徒たちに問いかけるように、ごく気軽に半助は訊いた。
「私がですか?」
 弾かれたような表情の兵助に、あまり、兵助とこのような話をしたことがなかったことに気付く。もっとも、ほかの教師が、顧問をしている委員会の生徒たちと、どの程度の距離を取っているのかも、学園に来て日の浅い半助には分かりかねるところがあったが。
「…そうですね。特には」
 考え深そうに少年が口にした答えは、ひどくあっさりしたものだった。
「なにか、こういう得意分野を持ちたいとか、こういう役割を果たしたいとかいうのもないのか」
「別に…そのときに必要とされることをするということが、忍の条件ではないかと思うのですが」
 その答えが決して投げやりではなく、兵助なりに考え抜いたものらしいことを悟って、半助はそっと嘆息する。
「兵助は、いつからそう思うようになったんだ」
「学園に入ったときからです」
「…そうか」

 


 会話が途切れた。黙りこくった半助の表情を、兵助がそっとうかがう。
 兵助には、半助がなぜそのようなことを訊くのか、よく理解できなかった。
 -なぜ、土井先生は、どのような忍になりたい、などと訊かれるのだろう。
 兵助からみれば、忍とは、命令を着実に実行することだけを期待されている存在であり、どのような忍になりたいなどと考えることはナンセンスだった。だから、学園で自分がやるべきことは、必要なときに必要なことができるだけの抽斗を、より多く用意することだと思っていた。
 -そのときにできることをする。できることの幅を広げるために学園で学んできた。
 兵助にとっては、それだけのことだった。
 -それに、どのような忍になりたいと公言することなど…。
 およそ考えられないことだった。この少年にとって、達成できるかも分からないことを公言するなど、考えられないことだったから。そして、仮に公言したことが達成できなかったら、ということを恐れていたから。

 時折、自分でもなにをそれほど恐れているのか、わからなくなることがある。だが、口にしたことが達成できなかったとき、その事実はひどく自分を傷つけるような気がした。
 そして、この少年の中では、傷つきやすい心と、忍に求められる冷酷やダーティは矛盾なく同居しているのだった。ひときわ繊細な心と、必要とあれば躊躇なく命を奪う行動の間に、距離はないのである。
 だからこそ、兵助には、忍になって何をしたいと語る同級生や下級生たちの思考が理解できないのだ。もちろん、そのようなことをストレートに口にする性質ではなかったから、衝突を起こすことはなかったが、そのぶん謎めいた存在と思われているのだった。

 


 半助には、兵助の思いまでは分からない。だが、その言葉には一理あるとも思っていた。
 -所詮、忍は仕事を選べない。それなら、忍としてゼネラリストを目指すという考え方もありかもしれないな。それに…。
 半助は考える。
 -過剰に忍であることを意識するより、彼のように余計な自意識を持たないほうが、忍としてはいいのかもしれない。
 忍術学園の生徒たちと接していて感じることは、忍になることに対する意識が過剰な者が多いことだった。忍術を学ぶ学校に在籍している以上、当然といえば当然だったが、忍として必要な技能を身につけたからといって、それで仕事が保証されるとは限らないのが忍の世界である。
 スペシャリストとして得意分野を持つことは、それが依頼主のニーズに合えば強味になったが、そうでなければ却って依頼が集まりにくくなることにもなりかねなかった。それよりも、兵助のように何をやらせても手堅くこなすタイプのほうが、忍としては成功するものかもしれなかった。

 

 

「土井先生。ひとつ、伺ってもいいですか」
 夜空に目を戻しながら、兵助は訊く。
「なんだ」
「土井先生は、どのような忍になりたかったのですか」
「私か?」
「はい」
 しばし、半助は答えを探しあぐねた。たしかに、生徒にはどのような忍になりたいかを訊いておきながら、自身にはそのようなものはまったくなかったことに気付いた。
 家族と家を焼き討ちで失い、仕えていた忍組頭に助け出された半助に待っていたものは、猛烈に厳しい忍としての訓練だった。家族を、家人の一人も助けることができず命をつないでしまった後ろめたさに比べれば、物の数ではなかったとはいえ、辛く苦しいことに変わりはなかった。このような苦しい訓練が終わるならば、殺しでも何でもする。忍としての修行中に半助の心にあったのは、そんな思いだけだった。その中には、当然ながら、忍になったらどうしたいとか、何が得意でありたいなどという思い

の入り込む余地はなかったのである。
 -そういえば、どのような忍になりたいなどという考えは、なかったな。
 兵助に余計なことを訊けた義理ではないことを思い出す。だから、正直に答えた。
「そうだな。私も、特に考えたことはなかったな」
「そうですか」
 膝を抱えて夜空を見上げたまま、兵助はひとり言のように続ける。
「でも、土井先生を見ていると、私も、土井先生のような教師になりたいと思うことがあるんです」
「私のような?」
「はい」
 -だが、お前の希望するものが忍術学園の教師であるとすれば、それは忍としての盛りを過ぎた者の姿なのだぞ。

 


「兵助は、教師になりたいのか」
「さあ…それも、分かりません」
 膝の間に顎を埋めながら、兵助は小さく笑う。
「だめなんです。毎日の教練についていったり、テストの勉強をするだけで手一杯で、自分が何をしたいのかも時々分からなくなることがあるんです」
「お前は、成績も優秀だ。将来有望だと先生方も仰っているが」
「努力をすれば、それなりに結果もついてくるものです。でも…」
 その先を口に出しかねて兵助は言葉を呑み込む。
 学年を重ねるにつれ、卒業のその先にあるものがおぼろげながらも見えてくるにつれ、制御がつかないまでに膨れ上がっている疑問を、自分の中だけで封印してきた疑問を、いま自分は口にしようとしている。
「…」
 半助は辛抱強く続きを待った。
「…このまま何も考えずに忍になってしまっていいのか、一度きちんと考えなければならないと思っているのです」
 ああ、言ってしまった、と思った。だが、今を置いていつ言えただろうとも思った。
 答えなど期待していなかった。自分の中では循環参照するばかりの問いを誰かに聞いてほしいだけだった。そうでないと、自分は忍になれない理由ばかりを並べ上げて、挙句は豆腐屋にでもなるしかないと結論付けてしまいそうだったから。
「迷うことはいいことだ。迷うことが許されている間は」
 半助の答えは、予想外のものだった。
「許されている?」
「そうだ。お前はまだ、迷うことが許されている立場だ。また、迷うことを通して、自分の本当の考えに向き合うことができる」
「土井先生は、どうだったのですか」
「私か? 私は…そうだな。あまり考えずに、気がついたら忍になっていたからな…兵助の年のころに、自分が何になりたいかなどとは考えたこともなかった。私は、だから、兵助より無自覚に生きてきたのかもしれないな」
 だからこそ、フリーだった頃のように殺しも工作もできたのだ。まともに考えていたら、とてもできたことではないだろう。あの頃は、意識的に自覚を消して生きていたのだ。
 兵助がくっと笑った。
「先生、生徒にそのようなことまで話されて、いいのですか?」
「そうだな。無用心に過ぎるな…」
 半助も釣られて苦笑する。
「でも、土井先生のそのようなお話が伺えて、うれしいです。先生方とそんな話をすることなど、ないですから」
「そうかもな」
 学園の教師陣の中でも最年少の半助だったから、上級生たちから見れば少し歳の離れた兄弟のような親しみやすさを感じるのかもしれなかった。あるいは、教師としての経験が浅く、貫禄が足りないということなのかもしれなかったが。

 


「先生。私も、忍になれますでしょうか」
 不意に、兵助が訊く。
「ああ。もちろん。兵助なら優秀な忍になれるだろう…だが」
 半助の言葉に、兵助が振り向く。
「忍としてやってくことができるかということなら、それは難しいかも知れないな」
「どういうことですか?」
 訊きながらも、兵助には半助の意味しているところは見当がついていた。それこそが、自身のなかに巣食って膨張し続けている疑問だったから。
「兵助は今の世をどう思う?」
 唐突な質問に、兵助はどう答えたものかしばし迷った。
「…戦の世だと、思います」
「そうだ。戦の世だ。だが、私にはそれがいつまでも続くとは思えない。それがどういうことか、分かるか?」
「忍が必要とされなくなる世が来る、ということですか」
「そうだ…さすが兵助だな」
 穏やかな顔を向けた半助は、兵助の頭をごしごしとなでた。兵助がくすぐったそうに首をすくめる。
 と、その手が止まった。
「そうなったとき、どうやって世をしのいでいくか、ということも、兵助には考えておいて欲しいんだ」
「土井先生」
 静かに苦笑しながら兵助が指摘する。
「…私は、忍になるために月謝を払って忍術学園で学んでいるのですよ。生徒に対して、そんなことを言っていいのですか?」
「なるほどな。これは一本取られたな」
 半助も軽い笑いをもらす。だが、その口調はすぐに元に戻る。
「…だが、私が言ったことも本心だ。いずれ天下統一がなったときには、忍のほとんどは無用の存在となる。そのとき、世をしのぐよすがになるのが火薬に関する知識だと私は思う」
「火薬…ですか?」
「そうだ。たとえ戦の世が終わったとしても、火薬の知識は必ず世に求められる。だからこそ、兵助には火薬委員会での活動を自分の財産にしてほしい。それにな、兵助」
「はい」
 薄墨を流したような夜空の雲を眺めていた半助の視線が、兵助に向けられる。
「私は、ずっと、お前に礼を言わなければならないと思っていたんだ」
「お礼…ですか?」
 思いがけない半助の言葉だった。
「そうだ…人数が少なくて、おまけに年齢構成も複雑な火薬委員会の委員長代理として頑張ってくれているんだからな」
「…いえ、そんな」
 苦労していることは事実だった。声を大にして言いたいことでもあった。だが、改めて言われると、それだけで報われたような気持になるのはなぜだろうか。
「なあ、兵助。お前はもう十分しっかりやってくれている。本当なら六年生がつとめるべき委員長の仕事は、お前には少し荷が重いかも知れない。それでも、お前は一生懸命頑張っている。おまけに…」
 語りかけていた半助が顔を伏せた。前髪に隠れてその表情は見えない。だが兵助には、苦衷を見られまいとしているように思えた。
「知ってのとおり、私はまだまだ新米教師だ。学園にいる時間は、お前たちのほうが長いくらいだ。だから、生徒たちとの接し方も、他の先生方のようにはいかないかもしれない…」
 顔を伏せていたのはほんの短い間だった。半助の顔はまた夜空に向けられている。
「だから、委員会活動に十分眼を配ってやることができないかもしれない。お前が苦労していることに気付かないかもしれない。だからな…」
 大きな瞳がふたたび兵助を捉えていた。まだ細い肩に掌を置く。
「何かあったら、いつでも私に言ってほしい。ささいなことでも構わない。それに、私もできるだけ委員会活動を通じて火薬の知識をお前たちに教えていくようにする。煙硝蔵の在庫整理だけでは、お前たちも張り合いがないだろう?」
「ま、まあ、そうですね…」
「慣れない者どうしだ。助け合ってやっていこう…な?」
 肩に置いた掌をぽんぽんとはたいて、兵助の顔を覗き込んだまま半助は朗らかに笑いかける。
「…先生」
 釣られて微笑んだ兵助が、何気なく口を開く。
「ん?」
「私はやっぱり、土井先生みたいな先生になりたいです」
 かがめていた膝を投げ出しながら、兵助は流れる雲に眼を戻す。
「…そうか」 
 半助は小さく頷いた。折った片膝に腕を載せて、夜空を眺めやる。
「そうだな。兵助なら、きっといい教師にもなれるな」
 そして思うのだった。
 -だけどな、兵助。お前はまだ、先を思い定めるには早いと思うぞ。お前には、まだまだいくらでも

可能性があるから…。


 

〈FIN〉

 

 

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