眠りにつく子ども

乱太郎に駆けっこで勝つためにひたむきにがんばる三治郎は、アニメでは定番の地位を獲得したようです。そんな三治郎に、生物委員会の先輩の八左ヱ門たちがからむと、どんな展開になるのでしょうか。

 

 タイトルは、シューマン「子供の情景」より第12曲"Kind im Einschlummern"

 

 

「三治郎、おフロ、入らないの?」
 手拭いを持った兵太夫が声をかける。
「うん、あとで」
 返事をする三治郎は、まだ制服姿のままである。
「じゃ、ちょっと行ってくるね」
 ふりかえりざま、小さく笑うと、三治郎は部屋を出て行ってしまった。
 -よくやるよな。
 部屋に残された寝間着姿の兵太夫はため息をつく。
 -そんなにアンカーがいいのかな…。
 それは、人それぞれなのだろう。そう考えたところで、兵太夫は手拭いを首にかけて、風呂場へと向かった。


 

 放課後、委員会活動と宿題と夕食、入浴の合間を縫って、三治郎はひたすら走り込みを続けていた。間近に迫った運動会のリレー選手を決めるために、来週、競争をすることになっていた。アンカーを狙う三治郎は、どうしても乱太郎に勝つ必要があった。
 -乱太郎に勝って、ぼくがアンカーになるんだ…!
 先日の授業で乱太郎にわずかの差で負けてしまった三治郎だったが、それゆえ逆転も近いという感覚があった。
 -もっと練習すれば、ぜったい乱太郎に勝てる! でも、乱太郎も練習しているから、乱太郎よりもっともっと練習しなきゃだめなんだ!
 自分を鼓舞しながら、いま、三治郎は、薪にするため輪切りにされた丸太を腰に結わえて、下半身の強化をはかっていた。乱太郎に勝つという一心で。

 


「おい、あそこに誰かいるぞ」
「動きが変だな…妙に遅い」
 夜の自主トレから戻ってきた五年ろ組の雷蔵、三郎、八左ヱ門は、グラウンドに小さな影が動いているのに気がついた。
「あれは下級生じゃないのか」
「こんな夜中にか?」
「行ってみようぜ」
 雷蔵たちがそっと近付く。
「あれ、一年は組の三治郎じゃないか?」
 近くの木立に身を潜めたところで、雷蔵がその姿を捉えたようだ。
「ホントだ。こんな時間に丸太引きなんて、あんま一年生のやることじゃないよな」
 三郎がつぶやく。
「だいたい、一年生がこんな時間に起きてちゃダメだろ」
「俺、ちょっと声かけてくる」
 八左ヱ門が立ち上がる。
「…三治郎は、俺と同じ生物委員だからな」

 


「三治郎、こんな時間になにやってるんだ」
 星明りがあるとはいえ、夜のグラウンドでふいに自分の前に現れた大きなシルエットに、三治郎は思わず飛び上がった。
「だ…だれだ!」
「俺だ。生物委員会の竹谷八左ヱ門だ」
 安心させるように声を少し低めて八左ヱ門は言う。
「竹谷先輩?」
 三治郎は首をかしげて、星明りに照らされた顔を覗き込もうとする。
「先輩…こんな時間に、どうしたんですか?」
「俺たちは、夜間自主トレをやってたところだ。三治郎こそこんな時間になにしてるんだ? 一年生はもう寝てないとだめだろ?」
 上背をかがめて、八左ヱ門は三治郎に顔を近づける。三治郎は視線をそむけた。
「ぼくも、自主トレです」
「なんの自主トレだ?」
「早く走るための、トレーニングです」
「三治郎は、走るの早いじゃないか」
「もっと…早く走りたいんです。だから、とめないでください」
 ふたたび三治郎が足を踏み出そうとする。と、引いていた丸太が急にびくとも動かなくなっていた。思わず体勢が崩れる。
「ほう、そうか。それなら私も応援するぞ」
 いつの間にか、丸太の上に三郎が立っていた。
「おい、三郎、よせったら」
 雷蔵が当惑声で止めるが、振り向いた三治郎は小さく笑って声を上げた。
「ありがとうございます、鉢屋先輩。もっと重い方が訓練になるので、そのまま乗っていてください!」
 そう言うと、三治郎は全身に力をこめて身体を前に運ぼうとする。ついに、ずず、と三郎を乗せたままの丸太が動き始めた。
「お、三治郎、おまえ結構根性あるな」
 三郎が感心したように呟くが、八左ヱ門が黙っていない。
「おい、三郎! いくらなんでも負荷のかけすぎだろうが! 一年生のやる訓練じゃねぇ! すぐ下りろ!」
「そうだよ、三郎。下りろったら」
 雷蔵からも言われた三郎は、「お、わかった」とあっさりと言うと、丸太から飛び降りた。
「え? あっ、うわぁっ!」
 急に負荷を失った三治郎の身体が、弾かれるように前につんのめる。
「お? …うぐ!」
 正面にいた八左ヱ門が三治郎の身体を受け止めようとするが、勢いがつきすぎた三治郎の頭突きをまともに胸に受けてしまい、おもわずよろめく。そして、胸に三治郎の頭をめりこませたまま尻餅をついてしまった。
「痛ってぇ~」
「いててて…」
 尻餅をついたままの八左ヱ門と、頭をかかえた三治郎のもとに、雷蔵が駆けつける。
「大丈夫かい、2人とも」
「俺はまあ…三治郎、大丈夫か」
「はい…なんとか」
「八左ヱ門も案外だらしないんだな。そのくらい、ちゃんと支えてやれよ」
 頭の後ろで腕を組んだ三郎が、涼しげに言い放つ。
「三郎! おまえな…!」
 拳を握って八左ヱ門が立ち上がる。
「もとはといえば、お前が原因だろうがっ!」
「んなことないと思うけどなぁ…な、三治郎?」
「…」
「三治郎、どうした?」
 八左ヱ門が振り返る。と、その視界に、うずくまって抱えた膝に顔を埋める三治郎の姿があった。
「お、おい…どうしたんだ、三治郎」
 八左ヱ門が傍らに片膝をつく。心配げに顔を覗き込む。
「痛いのが我慢できないなら、すぐ新野先生を呼んでやろうか?」
「いえ、ちがうんです…」
 顔を伏せたまま、三治郎は言う。
「ならいいんだが…本当にだいじょうぶか?」
 三治郎の声音に思いつめたものを感じた八左ヱ門は、頭をごしごしとなでながら、なおも三治郎の表情を見定めようとする。
「はい…だいじょうぶです」
 押し殺したような声で、三治郎は答える。
「だったら、もう寝るんだ。ちゃんと寝ないと、大きくなれないぞ」
 三治郎に並んで座って、八左ヱ門は頭をなでていた手を肩に置いた。
「そうだよ。寝る子は育つ、ってね」
 三治郎を挟んで座った雷蔵が続ける。
「…でも」
「でも、どうした?」
 三治郎の後ろに立った三郎が、頭をなでる。
「でも、ぼくは、乱太郎に勝ちたいんです…」
 いや、むしろ、勝たないといけない…三治郎は歯を食いしばる。 
「どうして、そんなに勝ちたいんだい?」
 穏やかな声で、雷蔵が訊く。
「それは…」
 もちろん、運動会のリレーでアンカーを勝ち取るためだった。だが、それだけではなかった。自分の中でもまだもやもやとした不安感でしかなかったが、三治郎は恐れていた。もしこのまま一度も乱太郎に勝つことができなかったら、どうせ自分は何をやってもだめなんだと思い込んでしまいそうだったから。それは、いつも前向きに、自分を信じて生きてきた自身を、負け犬根性という鎖でつなぎとめてしまうことを意味していた。
「とにかく、乱太郎に勝ちたいんです。もう少しで乱太郎に勝てるんです。だから…」
 奥底にひそむ恐れをうまく言葉にできず、三治郎は口ごもる。

 -そうか。三治郎は、一足飛びに追いつこうとしているんだな。
 その危なさも思い当たる節があって、雷蔵たちは視線を交わして頷きあう。

「なあ、三治郎。乱太郎はたしかに足が速いけど、三治郎だって速いだろ?」
 八左ヱ門が三治郎の顔を横から覗き込む。
「でも…でも、乱太郎のほうがはやいんです。いままでどうしても勝てなかったんです。だから、こんどこそ勝たないと…」
 思いつめた三治郎の口調に、八左ヱ門は当惑顔を上げる。
「あのさ、三治郎」
 雷蔵が代わりに声をかける。
「…乱太郎に勝つために頑張ることは大事だし、頑張ればいつか必ず結果に現れる。だけど、やみくもに頑張ればいいってものでもないんだよ」
「どういう…ことですか?」
「人には、どんなに頑張っても、成長できる限界がある。短い間に一気に鍛錬したからって、すぐに結果がでるっていうわけにはいかないし、かえって害になることが多い。徹夜して勉強しても、テストのときに寝てしまったら意味がないだろう?」
 諭すように低く語りかける雷蔵に、三治郎は小さく頷く。
「だけど、頑張ることがムダってわけでもないんだぜ」
 八左ヱ門の声に、三治郎が問いかけるような視線を向ける。
「雷蔵の言うように、人はけっして一気に成長することはできないけど、ちょっとずつ、必ず成長する。だから、頑張り続ければ、その分ぜったいに成長できる。そんでもって、一年もすればとてつもない差になるんだ」
「一年…ですか?」
 三治郎が首をかしげる。まだ一年生の三治郎には、一年という時間のもつ圧倒的な差を実感するのは難しいかもしれない、と思いながら、八左ヱ門は続ける。
「そうさ。一年っていうのは、ものすごく大きい差なんだ…俺たちにとってはな」
「…だね」
 雷蔵が俯く。
「たった一年の違いだけど、たとえば俺たち五年と六年の先輩はぜんぜん違う…どうしようもなく埋められない差があるんだ」
「そうなんですか? 優秀な五年生の先輩たちでも、そう思うんですか?」
 意外そうな三治郎に、寂しげに八左ヱ門が微笑む。
「ああ。どうしようもなく、な」
「でも、だからこそ、僕たちは頑張ろうと思えるんだよ」
 雷蔵が笑いかける。
「…どういう、ことですか?」
「たった一年、だけど、一年努力すれば、ぜったい先輩たちのようになれるっていうことでもあるんだ」
「そうなんですか?」
「ああ、そうさ。私たちくらいの年になれば、先輩たちがどのくらい努力してああなったかもだいたい分かるからね」
 三治郎の頭をなでながら、三郎が微笑む。その声にいささか苦渋が混じっていることに、雷蔵と八左ヱ門は気づいたが、真剣な眼で見上げている三治郎は気づかない。
「…そこまでの道は途方もなく遠いように見えるけど、でも一年で行かなければならないんだ」
「鉢屋先輩でも、そう思うんですか?」
「もちろんさ。私だって、変装では先輩たちの誰にも負けない自信はあるが、それ以外のことも含めた総合的な実力は、とても先輩たちには及ばないと思っている」
「でも、ぜったいに先輩たちみたいになってやろうと思って、努力すれば、必ず追いつくことができる。そのために、自分を信じて鍛錬を続けるしかない。でも、いくら焦っても、一足飛びに追いつけるものでもないんだ」
「そういうこと。だから、努力し続けることは大事だけど、ムチャをしてはいけないってことだ。わかったか」
「そうだ。だから、今日はもう寝ろ。な、三治郎」
 八左ヱ門が三治郎の肩に手を置いた手に力をこめる。と、膝に埋めていた三治郎の頭ががくりと傾く。
「おい、寝ちゃってるぜ」
「どうしようか?」
「って、ここに放っておくわけにもいかないからな…忍たま長屋まで連れてってやるしかないだろ」
 ごそごそと話し合っているところに、三郎が声を上げる。
「こういうときは八左ヱ門、おまえ連れてってやれよ」
「げ、俺がかよ…」
 八左ヱ門がぎょっとした顔で逃げ腰になるが、三郎は腰に手を当ててにやりとした顔を突き出す。
「同じ生物委員会のかわいい後輩だろ。八左ヱ門以外の誰が適任者だって言うのかな?」
「わ、わかったよ」
 雷蔵たちに手伝ってもらって、寝入った三治郎を背負う。三郎が先導して、一年長屋の三治郎の部屋を探す。
「ここだ…兵太夫と三治郎の部屋だ」
 そっと襖を開ける。奥の布団にある寝姿は兵太夫だろうか。手前にもう一組布団がのべてある。
「ここだな」
「気をつけろ。三治郎たちの部屋はカラクリがそこら中に仕掛けてあると聞いたことがあるぞ」
 三治郎を背負った八左ヱ門が声を潜めて注意する。
「あ…手前から三枚目の板はなにもしかけてないからだいじょうぶです…」
 不意に三治郎が口を開いたので、八左ヱ門たちはびくっとした。
「三治郎…起きてるのかい?」
 雷蔵が声をかけるが、三治郎はむにゃむにゃとなにやら言いながら八左ヱ門の背に寄りかかるばかりである。
「手前から三枚目が大丈夫だって言ってたな」
 八左ヱ門がそろそろと三枚目の板に足を乗せる。
「どうだ?」
 息をつめた雷蔵と三郎が声をかける。
「…なんとかなりそうだ…ちょっと雷蔵、手伝ってくれないか」
「わかった」
 雷蔵が手を貸して、三枚目の板に足を乗せたまま、三治郎の身体を布団に移すことができた。
「…ふぅ」
 いつの間にか額に浮いていた汗を拭って、八左ヱ門がため息をつく。 
「ったく、一年ボーズの部屋に入るのにこんなに緊張するとは思わなかったぜ」
「だけど、やっぱり一年はまだ子どもだよな…見ろよ、この寝顔」
「ああ、かわいいもんだよな」
 部屋の外に足を戻した雷蔵たちが、星明りに照らされた三治郎の寝顔を眺める。
「さっきまで、あんなに乱太郎に勝つんだってムキになってたのにな」
 八左ヱ門がぼそっと呟く。
「そう思う気持ちも大事だけど、やっぱり一年は一年らしく無邪気にしてたほうがいいよな」
 三郎がそう言ったとき、全員が、自身はとっくにどこかに置いてきてしまったものを思い出して、そっと視線を交わすのだった。
「僕たちも、そろそろ寝ようか」
「…だな」 

 忍たま長屋の自分たちの部屋に、八左ヱ門たちは言葉少なに向かっていった。それぞれが、自分の置いてきたものに思いを馳せていた。
 ひそやかな足取りの少年たちを、星明りが照らしている。

 

<FIN>