二つの知のカタチ

 

一応、まだ続いていた「五年生と顧問」シリーズ、雷蔵の段です。

図書委員の顧問、松千代先生は、とても恥ずかしがり屋さんではありますが、いろいろなことを知っていそうです。

ということで、先生には知のあり方を暗黙知と形式知の断面から語っていただきました。暗黙知についてはいろいろな解釈があるようですが、日本では形式知と対置させた野中郁治郎の説がもっとも広く受け入れられているようです。

このお話では、暗黙知=経験及び勘としました。暗黙知は雷蔵の迷い癖を克服できるのでしょうか。

 

 

「ただいまー」
 がらりと襖を開けて入ってきたきり丸は、大きくあくびをする。
「おつかれさま。おそかったね」
 寝間着に着替えていた乱太郎が声をかける。傍らのしんべヱはすでに鼾をかいている。
「ああ。長引いちゃってさ、委員会が」
「本の整理でもしてたの?」
 そういえば放課後は図書委員の集まりが入ったといって一緒に遊べなかったことを思い出す。
「…じゃないんだけどさ」
 のろのろと布団を敷きながらきり丸がぼやく。
「雷蔵先輩さ」
「雷蔵先輩がどうかしたの?」
「こんど図書委員で買う本のうち忍たま用の本をえらんどくように中在家先輩から言われたんだ。で、どの本にするかリストみながらみんなで考えてたんだけどさ…」
「ああ、わかった」
 枕元にたたんだ制服の上に眼鏡を置いた乱太郎が小さく笑う。その後の展開は簡単に想像がついた。
「…で、決まったの?」
「決まるわけねーだろ」
 寝間着に着替えたきり丸が肩をすくめる。
「…雷蔵先輩が迷い寝しちゃったから、能勢先輩もどーしよーもなくなって、お開きってわけ」
「で、先輩は?」
「図書室で寝てる」
 もうこれ以上は口をきくのも億劫とばかりにきり丸は布団をかぶる。

 


「しまったなあ…」
 廊下をとぼとぼ歩きながら、雷蔵はうなだれる。
 -いくらなんでも、迷い寝しちゃって、忍たま用の本が一冊も決まらないなんて…。
 委員長の長次も顧問の松千代も口数が多い方ではなかったから、厳しく叱責されるということはなかったが、それだけに自分が情けなかった。
 -どうしてこんなに迷ってばかりなんだろう…。
 数百冊ものリストから数冊をえらぶというのがいかにハードルの高いものだったとしても、一冊も決められずに迷い寝して朝まで図書室にいたというのは、あまりにみっともなかった。
 -それにしても…。
 だから、今日こそ決めさせてほしいと松千代に言ったのだが、返ってきた答えは意外なものだった。
 -それはいいから、マイタケ城に行ってほしいって、どういうことだろう?

 


「それより、君に、頼みたいことがあります」
 声はするが、姿は見えない。図書室の本棚の向こうから聞こえる震え声に向かって雷蔵は端座していた。
「…なんでしょうか」
「マイタケ城に、巻物を受け取りに行ってほしいのです」
「マイタケ城ですか?」
 意外な用件に、きょとんとした声の雷蔵が応える。
「そうです」
「わ…わかりました」
 マイタケ城は学園とは友好関係にある城である。使いも低学年たちが行くことが多い。
 -それなのに、なぜ僕なのだろう…。
 そんな疑問がふと頭をよぎったが、それも続けて放たれた台詞にかき消された。
「マイタケ城には、中在家君と一緒に行くように。いいですね」
「中在家先輩と…ですか?」
「そうです。この任務はたいへん重要で、危険なのです」
「といいますと」
「マイタケ城の殿様が学園に貴重な巻物を譲ってくださることになりました。しかし、それは他の城も前々から狙っていたものなのです。これまでは城の外に出ることがなかったから敵も手が出せなかった。だが、今回、それが外に出ることになる。当然、巻物を狙う者は、この機会を逃さないでしょう。だから、中在家君と行く必要があるのです」
「…」
 急に重い展開になって雷蔵は返す言葉が見つからなかった。そのような重要かつ危険な任務を、上級生とはいえ忍たまだけで行ってもよいものなのだろうか。万一、敵に巻物を奪われたとき、その責任を負うのは忍たまではなく、学園なのだ。マイタケ城との現在の友好関係にひびが入るリスクを冒してもいいものなのだろうか…。
 考えれば考えるほど分からなくなる雷蔵だった。
「どうかしましたか、不破君」
 黙りこくった雷蔵に、震え声が問う。
「いえ、その、そんな重要な任務に、忍たまだけで就いてしまっていいのかな、と」
「これは、学園長先生の思いつきです」
 相変わらずの震え声に懸念や苦渋が混ざっているか、雷蔵には分かりかねた。
「僕が行くということも、学園長先生の思いつきですか?」
 だが、返事はなく、松千代の気配は消えていた。

 


 -しまった!
 気が付くと、眼の前には覆面をした忍が2人。ひとりは忍刀、もう一人の手には苦無。
 味方の援護は期待できない。共に行動していた長次は、より多くの敵を食い止めている。
 だからひとりで戦わなければならなかった。とっさに忍刀を抜いて斬りかかる。だが、相手はプロの忍者だ。たちまち身をひるがえして避けると、次の瞬間、肩から腕にかけて火がついたような熱い衝撃が走った。うかつにも、3人目の敵がいたことに気がつかなかった。斬りかかってくる間際に辛うじてかわすことができなかったら、もっと深手を負っていただろう。
 刀を構えて敵に立ち向かいながら、雷蔵はそんなことを考えていた。頭の一方では、よくそんなことを考えていられるな…と半ばあきれながら。
 それは、必要に迫られてのことだった。そうしている間だけは、敵を眼前にした恐怖も、傷の痛みも忘れることができたから。
 いや、それも錯覚にすぎなかった。肩の焼けるような痛みはまったく衰えることがなかった。きっとひどく出血しているのだろう。全身から力が抜けるような感じがした。もはや気力だけで立って刀を構えていた。眼の前に迫る敵の表情は覆面に隠されている。だが、ふっと口角を上げて笑ったような気がした。倒れかけた標的をなぶるような笑い。もう、自分にはそんな相手に斬りかかる力も残されていないのか…。
 ふと、眼の前に立ちはだかる敵が、がっくりと膝をついて崩折れたように見えた。続いてもう一人も。だが、そんなことがあるのだろうか…。
 ふっと意識が遠のいた。


 


 視界の端にちらちらと明かりが明滅しているように感じて意識がゆるやかに戻ってきた。どこかに寝かされている、と思った瞬間、雷蔵ははっとして身を起こそうとした。が、次の瞬間、肩の焼けつく痛みがよみがえって、身をよじらせながら再び床に倒れ込んだ。
(まだ動くな。傷は思ったより深い。)
 横たわったまま眼を開く。もそもそとした口調は慣れた人物のものだった。
 -中在家先輩…。
 大きな背中が火に向かっている。
「僕は…どうしたんでしょうか」
 考えてみれば間抜けな質問だった。自分がどうなったかも覚えていないなんて。だが、長次は淡々と答える。
(巻物を狙う敵に囲まれた。敵の刀におそらく弱い毒が塗られていたのだろう。お前の傷が熱を持っているのはそのせいだ。いま、松千代先生が学園に救護を呼びに向かっている。)
 -そうだ、大事な巻物は…。
 巻物は雷蔵の身体に巻きつけて保管し、敵の襲撃があった時には長次が食い止めて雷蔵が搬送を担うことにしていたが、思ったよりも敵が多かったので雷蔵も戦わざるを得なかったのだ。辛うじて動かせる方の手で、身体をまさぐろうとする。

(巻物は私が預かっている。心配するな。)
 懐からちらと巻物を見せる。
 -よかった…安心しました…。
 雷蔵の身体から力が抜ける。長次がそばにいる安心感もあって、急速に眠気が押し寄せる。今は傷の痛みをこらえるより、眠気に身を任せてしまった方がいいのかも知れない。そう思った。だが、その前に長次の一言が気になっていた。
 -だけど、松千代先生って、どういうこと…?
 それだけは確認しておこうと声を絞り出す。
「先輩…松千代先生が、なぜ…?」
(先生は敵の動きが大きいことを察知されて加勢に来てくださった。)
 -そうだったんだ…。
 事情が判明すると、急に口をきくのも億劫になって雷蔵は眼を閉じた。ふいに鼻腔が長次のにおいを感じとっていることに気付く。
 -そうか。中在家先輩が上着を着せかけてくださっているんだ…。
 眼を閉じたままだったが、そう感じた。

 


「傷の具合はどうですか」
「はい。大丈夫です」
 数日後、図書室の本棚の陰に向かって端座している雷蔵の姿があった。
「そうですか」
「あの…」
 そのまま消えてしまいそうな気配に、雷蔵が上目づかいで声をかける。
「どうしましたか」
「…その、今回の任務では、申し訳ありませんでした。先生が来ていただかなかったら、巻物は…」
 敵に奪われるところだった。敵の数が多すぎたのは誤算だったが、敵をやり過ごすにはもっとやりようがあったのではないか、それがずっとわだかまっていた。
「そのことなら、気にするには及びません。すでに学園の蔵書とすることができました。ただ…」
「ただ?」
「…なぜ不破君は、敵に襲われた時、そのまま逃げてこなかったのですか。中在家君の話では、あのまま逃げていれば、敵が君を襲うことはなかっただろうと」
 雷蔵の肩がぎくりと震えた。
「中在家君は囮になるつもりでいた。分かっていますね」
「…はい」
 うなだれた雷蔵が絞り出すように答える。
「でも、それでは先輩が危ない、そう思ったのです」
 それが忍としては決定的な判断ミスであることは分かっていた。そして、続いて浴びせられるであろう言葉も。
「中在家君が危険だと思った、ということですか」
「…はい」
 そうだった。あのとき長次は、巻物を懐にもっているような素振りを見せていた。それが敵を引き付けるためのものであることは明らかだった。だとすれば、自分は長次を置いてその場を離れるべきだった。それが任務なのだから。
「中在家君を守るために、残ったのですか」
 その声に咎めるような響きはなかった。
「…そうでないと、先輩が…」
 それがとんでもなく傲慢な考えであることは分かっていた。仮にも忍術学園最高学年であり、パワーファイターぶりを誇る長次が、後輩の援護なしには切り抜けられないなど考えられないことだった。たとえ敵の数が少しばかり多かったとしても。

 


「不破君。君はとても成績優秀な忍たまです。それは多くの先生方も認めていらっしゃる」
 松千代の口調は変わらない。
「だが、それはいわゆる形式知というものです。形式知の対義語はわかりますか…」
「いえ…」
 唐突に難しい話を振られた雷蔵には、答えようもない問いだった。そもそも、形式知という言葉の意味さえ分からなかった。しかし、世の中には形式知ともう一つ別の知識のかたちがあって、自分にはそのもう一つが決定的に欠けているらしいことはなんとなく分かった。
「それは、暗黙知というものです」
「あんもく…ち、ですか?」
「そうです」
「それは、どういうものですか」
「形式知とは、文章や図表に表すことのできるものです。たとえば、この図書室には、古今東西のたくさんの知識が詰まっています。これも、形式知の宝庫といっていいでしょう。君たちが学んでいる兵法や歴史、算術、忍術などもそうです。それは、書物に書き記し、伝えていくことが可能な知識と言っていい。しかし、暗黙知は違います」
「どう…違うのですか」
「暗黙知は、経験や勘に基づくものです。これは、ひとりひとりが身体で身に着けていくしかないものです」
「形式知と暗黙知は、どう関係するのですか」
「とても、深く結びついています。私は、形式知は道具、暗黙知はそれを使う手だと考えています」
「どういう、ことですか」
「たとえば敵に追われて逃げる時、逃げる手段はいろいろあります。火遁や水遁を使うときもあるかもしれませんし、鶉隠れや観音隠れ、タヌキ退きを使うという手もあります。どのような遁法をどれだけ知っているか、それが形式知です。しかし、それだけでは足りません」
「…はい」
 ようやく雷蔵にも、松千代の言わんとすることが少し見えてきた気がした。
「状況に応じて、どの遁法を用いるかを判断しなければなりません。敵の人数や周囲の状況、自分が持っている忍器などを判断してどの遁法が最も効果的かを判断する、それは経験や勘によってはじめて可能となるものです。それを暗黙知といいます。形式知である道具をいくら持っていても、それを使う手がなければ役に立たない。逆に暗黙知である手がいくら有能であっても、手にする道具がなければ限りなく無力になってしまう。だから、両方が必要なのです」
「とすると、僕には暗黙知が決定的に欠けている、ということですね…決断できなくて立ち止まってしまいますから…いつも」
 そう、いつもいつも迷ってしまって、隘路にはまりこんでしまうのだ。
「そうです。不破君は実技も教科も成績優秀です。つまり、形式知に不足はない。だから、それを使いこなすための判断力を高めなければいけません。それは、一瞬でさまざまな判断を下して行動しなければならない忍として生きていくには不可欠です」
 常ならぬ強い物言いに、雷蔵は黙り込むしかなかった。
「…しかし、いつもいつも瞬間的な判断ばかりが求められるものでもありません」
 その口調が少し穏やかになった。
「…どういう、ことですか?」
「物事には、熟慮しなければならないときもあります。あらゆる可能性を考慮し、あらゆる意見に耳を傾け、あらゆる選択肢を排除せずにじっくりと判断しなければならない、そういう問題もあります」
「でも、僕はそういうとき、決まって考え込んだまま固まってしまうのです」
 本当に情けなかった。五年生にもなって、来年は最上級生になるというのに、こんなことで悩んでいるなんて。
「ということは、不破君は、どのような場合には瞬間的な判断を求められ、どのような場合には熟慮を必要とするか分かっているということですね」
「それはまあ…そうですが」
 だからこそ、悩んでいるのだ。
「つまり、その判断には、迷わないということですね。中在家君とともに戦うことを選んだように」
「…」
 考えたこともなかった。そういえば、これが瞬間的な判断をするべきか、熟慮すべきかで悩んだことはなかった。気がついたら身体が勝手に刀を構えていた。
「不破君。君には確かに迷い癖がある。だけど、そればかりではないことも知っておくことが大事ですよ」

 次の瞬間、本棚の向こうの気配が消えた。
「あ、ちょっと、先生…」
 慌てて呼びかけるが、もう遅い。結局、暗黙知を高めるために何をしたらいいのかを聞きそびれてしまった。

 

 

「ふーん」
 三郎は壁に寄りかかって本を読みながら、感心しているのか生返事なのか分からないような返事をする。
「でも、僕はその暗黙知というものをどうやって学べばいいのか、訊けなかったんだ」
 忍たま長屋の部屋に戻った雷蔵は、同室の三郎に松千代とのやりとりを話していた。
「それならさ、一年は組は暗黙知のカタマリみたいなもんじゃないかな」
「一年は組が?」
 本に眼を落としたまま、三郎が突飛なことを言い出した。
「そうさ。だって、アイツら成績は庄左ヱ門以外はひどいもんだけど、実戦には強いだろ? ということは、とっさの判断力だけで動いているっていうことだと思うんだ。それって、松千代先生のおっしゃる暗黙知ってことだろ?」
「そうか…そうなのかも知れないね」
 では、一年は組に暗黙知について学ばなければならないということなのだろうか。
「でも、雷蔵が一年は組にわざわざ教えてもらいに行く必要なんてないと思うけどね」
 気持ちを見透かしたように三郎があっさり言う。いつの間にか本を傍らに置いてまっすぐ見つめていた。
「どうして?」
「暗黙知くらい、私が教えてやるさ…手取り足取りね」
 にやりとした三郎が傍らに腰を下ろす。
「でも、どうやって?」
「あと一年以上、学園のこの部屋で一緒にいるんだよ? 教える機会くらいいくらでもあるさ」
 -そうか、あと一年ちょっとか…。
 三郎の言葉は、雷蔵には別のイメージをもたらしたようだ。
 -あと一年ちょっとで、三郎と過ごす時間も、暗黙知を教えてもらう時間も終わってしまうのか…。
 その思いが表情に出てしまう前に、顔を上げた雷蔵はにっこりする。
「ああ、よろしく頼んだよ、三郎」

 

<FIN>

 

 

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