Memento Mori
メメント・モリ~死を思えとは、自分がいつか死ぬことを忘れるなという有名なラテン語の警句ですが、実はそれは中世ヨーロッパの解釈で、古代ローマでは「現在を楽しめ」という意味で捉えられることが多かったようです。
さて、中世ヨーロッパ的思惟とは少し異なりますが、このお話ではタソガレドキの組頭が死の意識を抱きます。タソガレドキの組頭であるゆえに意識せざるを得ない死と、求められる生に、この人物はどう折り合いをつけるのでしょうか。
「…うう」
押さえつけられているような低いうめき声が耳に届いて、尊奈門ははっと目覚めた。
-あれは…。
静かに上体を起こして板戸を見つめる。うめき声は板戸の向こうから聞こえていたように思えた。そこに眠っているのは、彼の上官、タソガレドキ忍軍のトップである。
-どうされたのだろう。
実は数日前から気になっていたことだった。
はじめは耳の錯覚だと思った。子どものころからずっと側近くに仕えていたが、夜中にうめき声を上げるなどということは絶えてなかった。大火傷を負って重篤な状態が続いていた時でさえ、治療中はもちろん夜中にもうめき声を漏らすことはなかった。耐え難い苦痛だったに違いないのに。
-だけど、あれはやはり組頭の声だ。
だとすれば、これまでにない異変が起こっているに違いない。ここは、きちんと確かめるべきだと思った。寝所にはもっとも近しい部下でさえもめったに入れることのない昆奈門だったが。
そこまで考えが至った尊奈門は、板戸越しにそっと声をかける。
「組頭…どうかされましたか」
「いや、なんでもない」
すでに昆奈門は眼を覚ましていた。横になったままぼそりと応える。
「うなされておられたようですが…」
「たいしたことはない。尊奈門も寝ろ」
あっさり寝所に入れてくれるはずもないことは分かっていたが、これ以上の介入をきっぱり断るような言葉に、尊奈門はうなだれて答えるしかなかった。
「は、はい。組頭」
-そうか。うなされていたか…。
ふたたび眼を閉じながら、思う。
全身に負った火傷が、時にきしむような痛みをもたらすこともあった。尊奈門が心配したのもそのことだろう。
-だが、私がうなされていたとすれば、きっとあれだ。
最近眠る昆奈門を苛むのは、果てしない落下感覚を伴う悪夢だった。見る夢はいつも同じだった。不意に足元の地面が消えて、底も知れぬ深みへと落ちてゆくのだ。そして感じるのだ。その深みから自分を絡め取ろうとする気配を。
-埒もない。
自分が手をかけた者たちが、自分を誘っているというのだろうか。
-まあ、たしかにそうされても仕方のないことだ。
タソガレドキに恨みを抱いて死んでいった者たちは多い。彼らの情念がいつか自分を絡め取っていったとしても、さして不思議ではなかった。それだけのことをしてきた自覚はあった。
-そうか。私も連中と同じところに行く日が近づいているということか。
いずれは迎える日と覚悟はしていた。だが、不思議とそれは今ではないという漠とした思いもあった。では、それはいつ訪れるのだろうか。
「お待ちしていましたよ」
天井板を動かす気配に、薬研をつかっていた新野が朗らかに声をかける。
「それはありがたいことだね」
医務室の床に降り立った昆奈門が無表情な声で応える。
「そろそろ見える頃だと思っておりました」
だが、善法寺君のいない時に来られるとは、と付け加える。
「なに、こちらも忙しいのでね。なかなか都合を合わせるのは難しい」
「さようですか。では診察を始めましょうか」
伊作がいない時を見計らって現れたことは明らかだったが、なにも気付いていないように新野は忍装束を脱いだ昆奈門の包帯を巻き取っていく。
「…新野先生。ひとつ聞きたいのだが」
不意に昆奈門が口を開いた。
「なんでしょうか」
「あんたは死神というものを信じるかね」
「ほう? あなたらしくもないご質問ですな」
「なに、最近見るのでね」
「そうですか」
薬をぬりながら泰然と新野は言う。「あなたからそのようなお話をうかがうとは、いささか意外ですな」
「ああそうかね」
昆奈門もそっけなく返す。
「むしろ私は、あなたがそのようなものに捉われるわけを知りたいですな」
「訳ねぇ…」
放念したように昆奈門が応える。「そう言われても難しいのだが」
「さようですか」
新野が言う。そしてそのまま言葉を切る。
「私に何を言わせるつもりかね」
「別に何も」
淡々と新野が応える。「言いたいことがあるなら伺いますし、言いたくないならあえて伺おうとは思いません」
「そうかね」
新野ならそのように応えることは分かっていた。そして、それでも聞いてもらいたいことがあって自分はここにいるのだ。
「近ごろ、よく夢に見る…私が手に掛けた連中が、彼らのところへ私を引き入れようとするのをね」
「それは、さぞ恐ろしいことでしょうな」
平板な口調で新野が応える。内心は思いがけない告白に驚いていたのだが。
「ああ。明日の朝には魂が抜かれているのではないかと思うよ」
「そうでしょうな…だが、あなたの命はあなただけのものではない」
手を動かしながら新野は言う。昆奈門の眉が上がる。
「私だけのものではない?」
「そうです」
隻眼を細めて続きを促す。
「伊作君から聞いていますよ。山本さんも高坂さんも、諸泉さんも、あなたを心底から慕っている。あなたのためなら命を投げ出す覚悟ができている。それはタソガレドキ忍者隊の多くの人たちも同じだと」
「そうであっても、私もいつ失う命かは分からないからね」
「わかりませんか?」
揶揄するようににっこりと笑みを浮かべながら新野は言う。「あなたにはそんなことは許されていないのですよ」
「なにを根拠にそのような戯言を」
自分の知らない何かを知っているかのような新野の言い方に、苛立ちが口調ににじむ。
「あなたの部下の方々を見ていれば分かります」
「私の部下を?」
「そうです」
薬をぬり終わった新野は、新しい包帯を巻き始める。
「火傷を負ったあなたを、諸泉さんは年端もいかないのに必死で看病されたそうですね。山本さんは副官としてあなたを影に日向に支えている。その中には、敵の矢面に立つことも含まれているようですな」
「それがどうしたというのかね」
「わかりませんか?」
包帯を巻く手を止めた新野は、じらすように少し首をかしげて再び訊く。
「まあ、あんたがタソガレドキの内部事情にどこまで通じているかは疑問だがね」
そうは言ったが、眼の前のいかにも好人物に見えて実に食えない医者に感じる内心のざわめきは抑えることができなかった。
「おっしゃる通り、タソガレドキ忍者隊の情報管理について私が知ることは少ない。だが、私でも分かることはある。あなたの命は、あなたの部下たちによって永らえられているということは」
「私はすでに一度死んだも同然だ。いま永らえている命は、夢幻にたゆたう死にぞこないの魂のようなものだ」
平らな口調で昆奈門は言う。「そこにどんな実体があるというのだね」
「夢幻であれば、傷の痛みは感じないはずだ。魂ならば薬など必要としないはずだ。あなたの部下たちはあなたという人間を必要としている。夢幻ではない、実体を持った、タソガレドキを導く意志と能力を持ったあなたを必要としているのですよ」
「だが、人間であればいつしかはかなくなるものだ」
「だから申し上げているのですよ」
解き諭すように新野は続ける。
「…あなたの言うように、あなたに命を奪われた者たちがあなたの命を絡め取ろうとしているとしても、あなたの部下たちがあなたを望む気持ちが勝っているうちはあなたは死ぬことが許されない、と」
「では、私にどうしろと言うのかね」
「生きるのです。ただひたすら生きること。あなたを必要とする人たちのために」
「ほう」
静かに語る新野から眼をそらして低く呟く。
「…現世にはいろいろ捉われるもの多いと思っていたが、私には死ぬ自由すらなかったとはね…」
「う…うう」
低くうなる声に、尊奈門が板戸越しにそっと声をかける。
「組頭…どうかされましたか」
「いや、なんでもない」
「うなされておられたようですが…」
今夜も自分の懸念はあっさり弾かれるだろうと思いながらも、尊奈門は言わずにはいられない。
「ああ…夢を見ていた」
「夢、ですか?」
「入って来い」
ひどく驚いた。まさか昆奈門が自分から入って来いと言うとは。自分が何を言われたのか把握しかねて返事が遅れた。
「どうした」
「…はい」
いつもならありえないことだった。寝所に入ることを許されるのは、尊奈門の知る限り緊急事態の報告のようなごく限られた時にしかなかったから。
「もっと近くに来い」
端近に座ったが、さらに命じる声に慌てて立ちあがって昆奈門の床の近くに端座する。
「夢を見ていたよ…昔のね」
床から半身を起こした昆奈門が語る。
「…まだ子どもだったお前が、一生懸命介抱してくれていた…」
そんなこともあったと尊奈門は思い出す。あのときはひたすら怖かった記憶しか残っていない。今にも父親の命の恩人がはかなくなってしまうのではないかという恐れだった。だが、続いて昆奈門が口にした台詞は、いままで考えたこともないものだった。
「お前からすれば、こんな火傷の醜い傷など見たくもなかっただろうな」
「…なにを、仰ってるのですか…?」
その言葉が意味するものを捉えかねて、うろたえたように呟く。
「子どもだったお前には、刺激が強すぎたのではないかということだ」
-それは、言葉通りに捉えていいということですか?
だとすればとんでもないことである。
「そんなことが…あるわけないではないですか」
膝の上で拳を握った尊奈門が俯いたまま声を絞り出す。
確かに昆奈門の全身を覆ったケロイドは重篤だった。普通の者なら眼をそむけずにはいられなかったかもしれない。まして普通の子どもならトラウマになってしまったかもしれない。だが、自分に限ってはそんなことは全くなかったと断言できる。当時も今も。
「組頭がそのような火傷を負われたわけを考えなかった日など、一日もありませんでした…組頭は父を助けてくださいました。そのことで、私を助けてくださったのです…」
尊奈門の眼に涙がたまり、やがて両の拳の上に落ちた。
「助けた?」
「もしあの時父を亡くしていたら、今の私はいなかったと思います。私にとってはかけがえのない父であり、忍としての師でもありましたから。だから、組頭は私の命の恩人でもあるのです…そんな方の傷を醜いなどと…」
「…」
初めて聞く話に、昆奈門は黙りこくった。
-そういうことか。
ようやく新野の言わんとしたことが腹に落ちた。
-私は彼らに命をつながれ、生き続けることを望まれているのだ…それならば、望まれている間だけは生を全うしなければならない義務を負ったということなのだろうな…。
「組頭がそのようにお考えだったんだとしたら、今すぐそのようなお考えはお捨てください。もし私の態度が原因でそのようにお考えになったのだとしたら、今すぐ私を罰してください。私は、命の恩人である組頭の手当てをさせていただくことを厭うたことなど一度もありません! むしろ、側近くでお手伝いさせていただいたことが誇りでした。だから…」
流れ落ちる涙をぬぐいもせずに尊奈門は言いつのる。
「…わかった」
ぼそりと昆奈門は呟く。「だからもう泣くな」
「泣いてなどいません…」
袖でごしごしと眼をこすりながら尊奈門が抗弁する。「もし誤解があったのなら、解いておかなければと思っただけです」
「まあいい。お前の考えはよく分かった。きっと私が考えを巡らせすぎたのだろう。だから今の話は忘れろ。いいな」
「…はい」
「では下がれ」
「はい」
ふたたび寝所に独りになった昆奈門は、床に身を横たえる。
-そうか。部下たちの想いに、私は少し理解が浅かったのかも知れない。
あそこまで激して涙をながす尊奈門を見たのは初めてだったことに、今更ながら気付く。
-つまり、いくら連中が私を絡め取ろうとしても、部下たちに必要とされている限りは私は現世にしがみつき続けなければならない義務を負っているということか。
瞼を閉じながら考える。
-そうであれば、私も戦っていくまでだ。私を絡め取ろうとする連中と。
そして、小さくため息をつく。
-そしていつか私の命が尽きる日が来たときには、その時こそ待ち構えていた連中にこの身をくれてやろうぞ。とうに使用済みのこの身を…。
<FIN>
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