Morgenrot

 

登山用語でいうモルゲンロートとは、単なる朝焼けではなく、朝日を浴びた山肌や雲が明るく輝く様を指しているようです。

対する夕焼けはAbentrotといいますが、モルゲンロートはピンクを帯びた明るい赤、アーベントロートは深い赤に見えるそうです。そしてモルゲンロートはこれから明るさを増していく初々しい初恋のような赤、アーベントロートはこれから闇に向かっていく深酒をした時のような赤、と表現するサイトもあったりしてなかなか興味深いものです。

であるならば、兵助と八左ヱ門に似合うのは、もちろん初々しい初恋のようなモルゲンロートしかないでしょう!

 

 

「くそ、視界が…」

 休日に冬山に自主トレに出た兵助と八左ヱ門が、吹雪の中を難渋しながら進む。朝、学園を出たときには晴れていたが、午後になって降り始めた雪は急速に強くなり、強風も加わって極度に視界が悪くなっていた。
 -こんなに急に吹雪になるなんて…。
 先を歩く兵助は、天候の急変を読み切れなかった迂闊さを悔やみきれずにいた。基礎体力作りを兼ねて、雪の山中での自主トレを誘ったのは自分だったから。
 覆面と頭巾の間からのぞく眼にも容赦なく雪が吹き付ける。思わず顔をそむけた瞬間、足が吹き溜まりを踏み抜いてずぶずぶと雪の中へと沈む。
「うわっ」
「大丈夫か、兵助」
 八左ヱ門に手を引かれて、苦労して雪の中から足を引き抜く。
「これ以上は危険だ。ここでビバークしようぜ」
 あたりを見回しながら八左ヱ門が言うが、その声も耳元で甲高い音を立てて吹き抜ける風の音に遮られて切れ切れにしか聞こえない。
「そうだな」
 雪まみれの藁沓を払った兵助も、もうこれ以上進むのはムリだと諦めるしかなかった。木々の梢はごうごうと鳴り、白い切片は気まぐれに吹きすさぶ風にあおられて幕のように視界を覆う。どんよりとした空はいつの間にか薄暗くなっていた。
「あそこにしようぜ」
 肩に手を置いた八左ヱ門が指さした先に大木があった。
「ああ」
 強風によろめきながら近づいて根元の雪を掻くと、奥行きは浅いものの洞が空いていた。洞の手前に掻きだした雪で屋根や壁を固める。中に潜り込んで入り口をふさぐと、ようやく激しい吹雪から解放されて、二人はほっとした。
「やれやれ」
「ひどい目にあったな」
 雪穴の中は、二人が肩を寄せて膝を抱えて座るほどのスペースしかない。
「先生たち、心配してるかな」
「外出届は出したから俺たちがこの辺にいるのは分かってるだろうけど…この吹雪じゃ捜索はムリだろうな」
「さっき空を見たけど、もう暗くなりかけていた」
 抱えた膝に顎をのせた兵助がぽつりと呟く。「吹雪がやんでも、明るくなるまでは動かないほうがいいんだろうな」
「だな」
 八左ヱ門も頷く。「なあ、兵助はなにか食いもの持ってるか?」
「高野豆腐ならあるよ。八左ヱ門は?」
「俺、持ってないんだ。おばちゃんが持たせてくれた弁当、ぜんぶ食っちまったし」
「じゃ、分けてやるよ。これ、一週間干して今日できたばっかりなんだ」
「兵助が一緒で助かったよ。きっと何か持ってると思ってたんだ」
「そりゃ、俺が豆腐を欠かすなんてありえないからね」
「さすが兵助だな」
 かじった高野豆腐を唾液で戻しながら食べる。
「どう? 美味い?」
 このような状況でも、何事もなかったように豆腐をすすめた上に、味まで気にする平常運転ぶりに、もはや豆腐小僧などと呼んではバチが当たると考える八左ヱ門だった。
「もちろん美味いさ。さすが兵助の豆腐だな」
「ありがと」
 ぼそぼそ話を交わしながら食べ終えると、もうやることはない。
「ぶるるっ」
 兵助が膝を抱えたまま震えあがる。
「どうした」
「ああ…ちょっと寒くて」
「そうだな。俺もだ」
 それまで空気穴から辛うじて差し込んでいた外の明かりもほぼ尽きて、雪穴の中は暗闇になりかけていた。腰を下ろした地面から寒さが凍み上げてくる。
「大丈夫か」
「うん…」
 兵助は身体を縮ませて細かく震えている。体温が下がっている証拠だった。これはまずいと考える。
 -こーゆーとき、体温を維持するには…。
 授業で習ったはずのことを必死で思い出す。
 -そうだ! こういう時は互いの体温で…。
 ようやく思い出すと、もぞもぞと身体を動かして自分の着ていた蓑を敷こうとする。
「なにやってんだ?」
 八左ヱ門の動きに、兵助が不思議そうに訊く。
「俺の蓑を敷くんだ。そうすれば、下からの寒さを防げるだろ…ほら、兵助も尻上げろ」
「でも、それじゃ…」
 八左ヱ門が寒いだろ、と言いかけるが、その間に八左ヱ門は上着も脱いで襦袢一枚になっていた。
「兵助の蓑は壁にかけるんだ。そうすれば寄っかかっても背中が冷たくならない。あとはできるだけくっついて二人分の上着を掛けるんだ。とにかく体温を温存するのがこーゆーときの大原則だって習ったろ?」
「あ、ああ…」
 したり顔で白い歯を見せて笑う八左ヱ門の表情が想像できて、兵助は少し可笑しくなった。いつもなら、授業で習ったことを思い出すのは自分だったから。
 -八左ヱ門のやつ、ぜったい俺に勝ったって思ってるな…。
 そう考えている間にも、八左ヱ門に手伝ってもらいながら脱いだ蓑を背後の洞の壁に引っかけ、上着を脱ぐ。露わになった腕や肩が冷えた空気にさらされて、思わず震えあがる。
「そしたらこうするんだ」
 傍らから八左ヱ門の声がして、片側の腕から肩にひやりとした感触が当たった。
「うわっ」
 なにすんだよ、と言いかけるが、その間に手早く身体のうえに二人分の上着が重ねられる。
 ひやりとした感触は最初だけだった。すぐにじんわりとした温かさに変わり、そしてやがて熾火にあたっているような熱さを帯びてきた。
「八左ヱ門、あったかいな」
 おもわず口から洩れていた。温かい身体から発する熱は上着と蓑でカバーされて、兵助の身体を着実に温めていた。
「だろ?」
 また自慢げにニヤリとしたな、と思った兵助は減らず口をたたく。
「子ども体温か?」
「うっせーな。俺には熱い血がたぎってるんだよ」
 言い返しながらも八左ヱ門は内心ほっとしていた。ようやく兵助の身体からも声からも震えが抜けてきたから。

 


 
「こういう時って、寝ると体温が下がって凍死する可能性があるんだったな」
 ようやく優等生らしく学んだことに思いが至り始めた兵助だった。
「そっか…でも、俺、なんだか眠くなってきたんだけど」
 ほっとした瞬間、急速に疲れに襲われてうとうとし始めていた八左ヱ門である。
「おい、寝るなって」
 肩をもぞと動かして突っつく。
「う、悪ィ…だけど、やっぱ…眠い…」
「だったら、何か話してようぜ」
 狭い雪穴の中では、手足を動かすのもままならない。であれば口を動かすしかない。
「でも、何を…話すのさ」
「だからさ…たとえば、委員会のこととか。八左ヱ門、生物委員会の委員長代理でいつも苦労してんだろ?」
 八左ヱ門が眠ってしまわないように、必死で話の種を絞り出す兵助だった。
「ああ、生物委員会なあ…」
 果たして少しは眠気が晴れたのか、八左ヱ門の声に張りが戻ってくる。「ホントに、どうやれば下級生たちをまとめていけるんだろうな…」
「まとめてるように見えるけど」
 下級生たちは八左ヱ門に絶大な信頼を寄せているではないかと考える。
「これでもギリギリなんだぜ」
 八左ヱ門は小さくため息をつく。「下級生に甘いって言われるけど、じゃどーすりゃいーんだよってさ…他にやり方があるなら教えてほしいくらいだぜ」
「そういうことは、授業じゃ教えてくれないよな」
 ぼそっと兵助は呟く。「俺の火薬委員会も六年生の委員長がいないからさ…むしろそういうのこそ教えてほしいんだけど」
「兵助はどーしてんのさ。てか、火薬委員会は下級生だけど年上のタカ丸さんもいるし、余計ややこしいよな」
「ああ。そういうのはもういちいち気にしてたらやってられないから気にしないことにした」
 淡々と兵助は言う。「でも、人数が少なすぎるし、そもそも火薬委員会の存在意義を問われたりすると、もう立つ瀬がないっていうか…」
「でも、最近、メンバー増えたんだろ? ハニワとかいったっけ…」
「羽丹羽石人。二年生だけど、まだ学園に入学したばっかだし…」
「二年生か…それじゃ、まだ当てにするのは難しいよな」
「ああ。タカ丸さんは四年生だけど入学したばっかりだし、あとは二年の三郎次と一年の伊助で全部だし」
「生物委員会は一年生が多い割には他の学年は三年の孫兵だけなんだよな」
 何かを思い出したように八左ヱ門が重いため息をつく。
「一年が多いと何か困るのか?」
 いつも一年生にまとわりつかれて笑っている様子しか思い出せない兵助が訊く。
「困るってわけじゃないけどさ…」
 暗闇の中でも頭を振る様子がうかがえた。「生物委員会にもいろいろ力仕事あるんだけどさ、やっぱ一年にやらせるわけにはいかねえだろ? 飼育小屋の修繕とか、飼料用の畑を広げるとか」
「それでどうしてるのさ」
「…俺がやってる」
 ふいに八左ヱ門の声が深く沈んで、兵助の視線はすぐそばにあるはずの友人の顔を求めて暗闇をまさぐった。
「一人でか?」
「他にいねえし」
「…苦労してんだな」

 

 


「思うんだけどさ、六年の先輩方って、やり方はすごい違うように見えるんだけど、しっかり委員会をまとめられているんだよな。あれって、どうしてなんだろうな」
 同意を求めているようでも独り言でもなく、茫洋と兵助は呟く。
「だな」
 たしかに、と八左ヱ門も思う。伊作や留三郎のように後輩の面倒見のいいタイプばかりではないのに、不思議と六年生たちが委員長を務める委員会はまとまっている。
「俺、けっこう六年生の委員長たちを観察してたつもりなんだけど、どうしてもつかめなかった。なにか、共通するコツみたいなものがあるんじゃないかと思ってたんだけどさ…」
 真面目な優等生らしい苦悩を漏らす兵助だった。
「そういえば、前、木下先生に言われたんだけど、委員長と委員長代理は求められるものが違うんだって」
「違う?」
 暗闇の中で兵助が身じろぎする気配があった。
「委員長代理ってのは、やるべきことをきちっとやれれば合格なんだけど、委員長をやるってことは、後輩に仕事を任せることで、任せられるようにいろいろやんなきゃいけないって」
「なんだよ、いろいろって」
「悪ィ。忘れた」
「おい」
 突っ込みながらもクックッと笑いをこらえている様子が腕の触れている部分から伝わってきて、八左ヱ門にも可笑しさが伝染する。
「あははは」
「なんだよ、いきなり笑って」
「兵助だって笑いかけてたぞ」
「そうだったな…ははは」
「だろ? …ははは」
 しばし二人は身をかがめながら笑った。あまり大笑いして雪穴が崩れないように。
「なんか、木下先生の言う通りかもしれないな」
「だろ? なんか俺も少しわかったような気がしてきたんだ」
「でも、任せるってのも難しいな」
「それ、俺も思ってた」
 暗闇の中だったが、確実にいま、自分たちは顔を見合わせていると二人は感じていた。腕越しに感じる熱量が、高くなる。
「これだけあったかくなれば、寝ても大丈夫かな」
「俺もそう思う」
「じゃ、寝ようか」
「ああ、おやすみ」
 体温を囲い込むことに成功した二人は、軽く汗ばむほど互いの熱を感じていた。空気穴から吹き込む冷たい風も、いつの間にか気にならなくなっていた。

 

 


 -ここは…?
 息苦しさをおぼえて、兵助は目を覚ました。暗がりの中で、眼の前には大きな温かいものが小さくうごめいている。
 -そっか。山の中でビバークすることにして、雪穴を掘って…。
 それにしては、自分の頭は誰かの腕に抱えられて、顔は温かいものに押し付けられている…その頬に鼓動を感じたとき、ようやく兵助は自分の置かれた状況が理解できた。だがそれは、あまりに非現実的な状況だった。つまり自分は、八左ヱ門に抱きすくめられていて、いま、胸に押し付けられた右頬で八左ヱ門の心臓の鼓動を聞いている。
 -でも、なんで…?
 薄い襦袢越しに熱い体温が伝わってくる。そういえば竹谷八左ヱ門という男は、何事においても熱い男だったと意識の片隅に過る。後輩たちに対するときも、生き物たちに対するときも、自分に対するときも。そして、自分の冷えた心をいつも溶かし解してくれた。
 とはいえ、ここまで直接的にその身体の熱さを感じたのは、仲間たちと相撲を取った時くらいではないだろうか。そういえば八左ヱ門との相撲は、いつも五分五分だったっけと思い出す。技で八左ヱ門を転がすか、力で押し出されるかが半々なのだ。
 -いや、そんなことはどうでもいい。
 今はこの状況をどうするか、なのだ。だが、どうしようというのだろう。少しくらい息苦しくても、汗臭さが鼻をついても、それは決して不快な感覚ではなかった。いやむしろもう少しこのままでいたいと思っていた。眠っている八左ヱ門を起こさないためにも、このまま身を委ねているしかないではないか。そう思い至った兵助は、そのまま眼を閉じることにした。

 


 
 夢の続きで何かを抱きしめている感覚が、リアルになっていた。夢の中で八左ヱ門は、誰かを必死に守っていた。それが誰かは覚えていなかった。だが、熱い義務感に突き動かされた感情だけが生々しく残っていた。
 -えっと、これって…?
 唐突に途切れた眠りから覚めた八左ヱ門は、すぐに自分の態勢の違和感に気づいた。眠りについたときには自分の膝を抱えていたはずなのに、いま、右腕は兵助の肩を、左腕は頭をしっかと抱きすくめていた。
 我ながら理解できない状況だった。だが、そうなった理由はなんとなく想像がついた。
 -守んなきゃいけないと思ったんだ…。
 それはまた、説明が難しい感情だった。客観的に、成績優秀、文武両道の兵助が自分に守られなければならない理由は見出しがたかった。だが、そうしなければと思ったのだ。
 確かに兵助は強かったが、同時に脆さを抱えた少年だった。非の打ちどころのない忍たまのはずなのに、繊細で傷つきやすい心を持っていて、時にどうしようもなく落ち込んで自分の殻に閉じこもってしまう少年だった。だから守ってやらなければ、支えてやらねばと思ってしまうのだ。なぜか自分でも分からなかったが、兵助が助けを求めている瞬間をいちばん早く捉えることができるのは、自分だという確信があったから。
 -それに、こんなに気持ちよさそうに寝てるし…。
 いま、自分の胸元で兵助は健やかな寝息をたてて眠っている。それがどうしようもなく愛おしく思えて、腕に力が入ってしまいそうになるのを辛うじて堪える。
 -ゆっくり寝てていいんだぞ、兵助…。
 声に出さずにそっと語りかける。
 -お前が必要なら、いつでも俺が守ってやるから…。
 それが独りよがりの感情であることにもとっくに気づいていたが、今はこうすることが必要だと感じていた。だから兵助に腕をまわしたまま眼を閉じる。

 

 


 ばさり、と重い音が響いて二人は目を覚ました。
「何の音だ…って、あれ?」
 身を起こそうとして抱きすくめられていることに気づいた兵助が、戸惑ったようにそっと身体を離そうとする。
「あ…ごめん」
 慌てて腕を放した八左ヱ門だったが、肩が雪の壁に当たって「つべてっ!」と声を上げる。
「だいじょうぶか、八左ヱ門」
「ああ…一気に眼がさめた」
 ぼやきながら、暗がりの中で自分の上着を手探りで探す。
「これだろ」
 懐の微塵がずっしりと重い上着を手渡された八左ヱ門が「サンキュ」と言いながら袖を通す。
「朝になったようだな」
 空気穴の先がほのかに明るくなっているのを見た兵助が、手早く上着を着ると、雪の壁を掻き崩して外にはい出る。
「うへ、寒ィ」
 盛大に白い息を吐きながら、上着を羽織った八左ヱ門もはい出して来る。
「雪、やんだな」
 いま、まさに峰の上にまぶしい朝日がのぞきかけていた。まぶしげに手をかざしながら兵助が呟く。
「おほ~っ! 見ろよ、兵助!」
 背後で弾んだ声がして兵助が振り返る。
「おおっ」
 兵助も思わず声を漏らす。
 峰からのぼった曙光に照らされた反対側の雪に覆われた稜線は、一面に淡いピンクがかった赤に染め上げられていた。
「…こんなすごい朝焼け、初めてだ…」
「俺も…」
 凍えるような冷たい風が袖をはためかせ、髷を揺らす。締め付けるような寒さも忘れて、白い峰に描かれた壮大なグラデーションに見入る二人だった。
「俺、こんなすげぇ朝焼け兵助と見れてよかった」
 半ば呆然とした表情で八左ヱ門が呟く。
「ああ、俺も」
 兵助が力強く頷く。「八左ヱ門と見たこの朝焼け、絶対に忘れない…!」

 

 
 <FIN>

 

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