詩人は語る

 

シューマン「子供の情景」シリーズ、ようやく完了です。いったい何年かけたというのでしょう。

詩人というと、つい私などは現実から遊離した言葉の魔術師みたいなイメージを持ってしまうのですが、実は社会のあり方に対して強いメッセージを放つ存在でもあるようです。

さて、土井先生はどのようなメッセージを放ってくれるのでしょうか。

 

タイトルはシューマン「子供の情景」より、第13曲’Der Dichter spricht'

 

 

「お前たち、なにをやってるんだ?」
 放課後、校庭の隅にしゃがみ込んで何やらしている乱太郎、きり丸、しんべヱを見かけた半助が声をかける。
「あ、先生…これなんですけど」
 振り返った乱太郎が何やらつまみあげて示す。
「なんだそれは」
 興味をひかれた半助が近寄る。
「綾部せんぱいが掘った落とし穴の土のなかにあったんです」
 しんべヱが指差した先にはぱっくりと落とし穴が開いていた。
「なんだ。お前たちが落ちたのか?」
 呆れたように腰に手を当てた半助が声を上げる。「ここにちゃんと落とし穴の印があるじゃないか」
「いえ、落ちたのは伊作せんぱいです」
 乱太郎が淡々と説明する。「伊作せんぱいは食満せんぱいがたすけだしたんですが、穴の横にあった土の中からこんなのが見つかったもんですから」
「ふむ…焼き物のようだが、それにしても分厚いな」
 土まみれのその塊は壺かなにかのかけらのようだったが、陶器の破片というまでしか半助にも分からなかった。
「土井先生にもわかりませんか?」
 いくらか失望したような眼で乱太郎が見上げる。
「ああ。私もこういう方面は疎いからな…もしかしたら学園長先生ならなにか分かるかもしれないが…」
 言いかけたところで「じゃ、行きましょう!」と唐突に手をぐいと引かれて半助はバランスを崩しそうになる。
「お、おい、どうした」
「学園長先生のところにいくにきまってるじゃないですか」
 手を引っ張りながら乱太郎がにっこりする。
「い、いや、私は次の授業の準備があるんだから…」
 困ったようにを声を上げる半助だが、「まあいいじゃなすか」と後ろからきり丸に腰を押される。
 -まったく、しょうがない…。
 生徒たちに強引に連れ去られながら苦笑する。

 


「ふむ…これが綾部の掘っていた落とし穴からのう…」
 期待に眼を輝かせる三人組の傍らには、半助が居心地悪そうに端座している。手渡された破片を矯めつ眇めつしながら大川は呟く。
「古拙を装っているようにも見えるが、釉薬もないのは解せぬし、少々分厚すぎる…これはあるいは相当古い時代のものかも知れぬな…」
「てことはひょっとしてアンティーク!?」
 すかさず銭目になったきり丸が身を乗り出す。
「なんでそんな言葉しってるんだか」
 醒めた声で乱太郎が突っ込む。
「残念じゃがそれほど価値のあるものではないの」
 破片をきり丸に返しながら大川は言う。
「え~っ!? お宝じゃないんスかぁ?」
 露骨に失望した声を上げるきり丸である。
「おそらくは壺かなにかだったのじゃろうが、こんな破片だけではの」
 きり丸の手に戻されたいくつかの破片に目をやりながら大川は肩をすくめる。
「では、どーしましょうか」
 落ち着き払った乱太郎が訊く。
「ふむ…綾部の掘った穴から見つかったものなら、同じ穴に戻してやればいいのではないかの」

 


「ほう。それで穴に戻したと」
「はい」
 教師長屋で話す伝蔵と半助だった。
「ま、妥当な判断でしょうな」
 出張を翌日に控えて慌ただしく作成していた書類を書き終えた伝蔵が、筆洗で筆先をすすぎながら言う。「妙な憑き物でもいたらことですからな」
「山田先生らしくもありませんね」
 テストの採点の手を止めた半助がからかう。「いつもの山田先生なら、そんな非科学的なことをおっしゃらないと思うのですが」
「ま、そうかもしれんが」
 曖昧に咳払いをした伝蔵が続ける。「古いものにはそれを使っていた者の思念が残るということは古い物語によくあることだ。そうであるならば無駄にリスクに近づくこともあるまいということだ」
「そうですかねえ」
 半助は首をかしげる。「私にはむしろ、古すぎてそのようなドロドロしたものもすべて枯れ果てたように見えたのですが」
「なるほどね」
「でも、どんな人があの壺を作って、使っていたのかなと思うと、いろいろ想像したくもなりますね」
 筆を持ったまま手の甲に顎を乗せて半助は視線を泳がせる。
「土井先生も案外ロマンチストなんですな」
 感心したのか呆れたのか、伝蔵が肩をすくめる。
「そういうわけでもありませんが」
 照れくさそうに半助が言う。
「あ、それより、私の留守中、実技の方も頼みましたぞ。あと六年生の実習の準備は、書類はここにありますからあとで厚着先生と内容を詰めてもらえますか。本当は私がやらねばならいのだが、学園長先生が直前になって出張を思い出されるものだからもう…」
 唐突に出張モードに戻ったらしい伝蔵が、依頼と愚痴をごたまぜに並べながら立ち上がる。「そうだ、食堂のおばちゃんに明日の弁当を頼んでおくのを忘れるところだった…」
 あたふたと食堂へと向かう背を見送りながら、半助はふと、今晩は一人かと考えた。

 

 

 -勢至丸よ、敵を恨んではならぬ。お前が敵を恨めば将来敵の子孫がお前を恨む。尽きることのない恨みの連鎖を私は望まぬ。それよりお前は、殺生や怨念を絶って生きるのだ…。
 それは屋敷を覆う業火の中で父が最後に残した言葉だった。そして自分は父や家臣たちが斃れ炎に包まれた屋敷から連れ去られ…。

 


 -またこの夢か…。
 がばと布団から身を起こした半助が額の汗をぬぐってこめかみを押さえる。まだ心臓が大きく轟いていた。
 -もう忘れたいのだが…。
 記憶の断層の向こうに封じ込めたはずの過去が生々しくよみがえる。それはいつも半助の心に新たな傷を刻むのだった。
 -なぜだ…。
 忍として生きているときにはついぞ見ることのなかった夢だった。福原の領主の子として幸せに生きていた日々が唐突に断ち切られた夜、敵襲で屋敷は炎に覆われ、父や家臣たちが斃れる中、自分は一人助け出されたのだった。父の最後の声に押し出されるように。
 -埒もない。
 学園に来て、教師となって、ようやく訪れた穏やかな日々が過去を呼び起こすのだろうか。なぜかあの夜の夢は、教師長屋で同室の伝蔵が出張で不在だったり、休みの間家に引き取っているきり丸が乱太郎やしんべヱの家に泊まりに行って一人で過ごす夜によく見る…。
 -結局、私は父上の申しつけ通りには生きられなかった…。
 額に手を当てて苦い記憶がこれ以上溢れないよう押さえつける。忍だったころの無機質な殺人機械だった自分は、父の願いとは程遠い姿だった。そして今もまた、忍を育てる立場として、忍術という名の破壊兵器や詐術を教えている…。
 -父上。もう私は、父上に会いまみえる資格はないのです…。
 それは半助にとってひとつの絶望だった。だが、とっくに諦めとともに折り合いをつけた絶望でもあった。それに、今の半助にはもっと気遣うべき存在がいた。
 -きり丸…。
 休日、二人で自宅で過ごす夜に時折うなされているのを半助は知っている。まだ10歳のきり丸にとって、幼少期に村を襲った戦火の中で家族と家を喪った記憶は、はるかに生々いものであるに違いない。
 -いや、違う…。
 記憶というものは、どうやらその上に厚塗りすれば薄まるようなものではないらしかった。25歳になった今も子どもの頃の記憶にうなされる自分がいい例ではないか。きり丸を苛む記憶も、これからも纏わりついて消えることはないだろう。おそらく一生。
 そうであれば、受け止めてやるまでだと半助は考える。図らずも自分と同じような育ち方をしてしまったきり丸が、これ以上自分と同じように苦しまないように。
 だから、きり丸がうなされているときはそっと抱きしめることにしていた。その寝顔が穏やかになるまで、頭や背中をそっと撫で続けた。きり丸が必要とする限り、自分はその苦しみを受け止めるだろう。いつかつらい記憶をやり過ごせるようになるまで。
 -そういえば、明日から休みだった…。
 ぼんやりとたゆたう考えがスケジュールへと漂着する。
 -また、うなされるのだろうか…。
 そうなれば、受け止めてやるまでだ。

 


「ただいま~っ」
 暖簾をくぐって土間に駆け込みながらきり丸がアルバイトから帰ってきた。
「お帰り」
 囲炉裏端で魚に串を通していた半助が応える。
「あっ! どーしたんすか、その魚!」
 目ざとくきり丸が声を上げる。
「ああ、隣のおばちゃんが分けてくれてな」
 塩を振って串を灰に刺す。すでに火にかけられた鍋の中では雑炊が煮え始めている。
「え~っ! その魚うればゼニになったのにぃ…」
 手早く足を洗ったきり丸が囲炉裏端に這い寄る。
「こらこら、せっかくいただいたものを売り払うやつがあるか」
 育ち盛りの子どもといい若い者がそんな薄い雑炊しか食べてないなんて…とぶつくさ言いながら分けてくれた魚だった。
「ま、それもそうすね」
 気を取り直したのか、胡坐をかいて焼き加減を見ながらきり丸は言う。「タダだし…」

 

 

「あ~うまかった」
 満足そうに歯をせせりながらきり丸があいた手を背後に突く。
「そうだな」
 碗を置いた半助が「ごちそうさま」と手を合わせる。
「あ、ごちそうさまでしたっ」
 慌てて身を起こして手を合わせると、立ち上がって二人分の碗を片付けはじめるきり丸だった。
「そういや先生」
 湯呑で白湯を飲む半助に、碗を洗いながらきり丸が声をかける。
「どうした」
「こーゆーの、ひさしぶりですね」
「こういうの?」
「先生と二人だけでメシにするって…」
「そういえばそうだな」
 湯呑を置いた半助が頷く。休みの時に半助の家で過ごすときは、たいてい食事時に闖入者が現れるのがお約束だった。それは一年は組の生徒たちだったり、どこかの城の忍者たちだったりで、そこから騒動が展開していくのだった。
「まあ、こういうのもいいじゃないか」
「そうっすね」
 碗を洗い終えたきり丸が囲炉裏端に戻ってきて風呂敷包みを解く。「こうやってバイトに集中できるし」
「今度は何のバイトだ?」
「造花づくりっす。あとで先生にも…」
「断る」
「え~っ、どうしてっすかあ?」
「自分で引き受けてきたバイトは自分でやれ。それに私はは組の補習の準備をだな…」
「また補習っすかあ?」
 不服そうにきり丸が口を尖らせる。「そろそろそーゆーの、やめたほうがいいんじゃないっすか?」
「なにが『そーゆーの』だ」
 囲炉裏の火を燭台に移した半助が、立ち上がりざま頭を軽く小突く。
「いて」
 首をすくめたきり丸が見上げる。
「学問というのは積み重ねだ」
 文机に向かって座った半助が書類を広げる。「ひとつの知識をものにして初めて次の知識を受け入れて理解することができる。だからお前たちの理解が足りなければ補習と追試で理解を…」
「あーはいはい」
 手際よく造花を作りながら、きり丸は気のない声を上げる。「じゃ、今日はバイトの手伝いはしなくていいっすから」
「あのな、きり丸…」
 呆れたように振り返った半助が、小さくため息をついて文机に向き直る。
 -まあいい。今は穏やかな時間を取り戻すのが、きり丸にとって最優先だ…。

 


「う、うう…」
 くぐもった声に半助は眼を覚ます。
 -きり丸?
 背を丸めて、両の拳をぐっと握りしめて、眉間を深く刻んできり丸は歯を食いしばっていた。時折、苦しげに声を漏らす。
 -またつらい夢を見てしまったか…。
 きり丸の布団に身を移すと、腕を伸ばしてそっとその身体を抱き寄せる。丸めた背中を静かにさすりながら声に出さずに語りかける。
 -もう大丈夫だ。私がいる。もう怖いことなどないんだぞ…。
「う…ううん…」
 小さく唸ったあと、ふときり丸は眼を開いた。何かとても暖かい気配に包まれていた。そして、眼の前にはひときわ暖かく熱を発する鼓動をおぼえた。
 -せんせい…?
 夜着のあいだからはだけた胸板が眼の前にあった。しっとりとした汗のにおいが鼻腔をくすぐる。
 -土井せんせいのにおいだ…。
 急速に安心感に包まれて眼の前の肌に顔を押し付ける。一瞬、熱量が増したようにおぼえた。
「きり丸?」
 問いかける声が上から降ってくる。それでもきり丸は黙ったまま半助の胸に顔をうずめていた。
 -せんせい、あったかいや…。
 つい先ほどまで苛んでいた真っ暗で冷たい闇のなかに吸い込まれる落下感覚がすっかり消えていた。いま、きり丸の背はがっしりとした腕に包まれて、顔全体で熱い鼓動を受け止めていた。
 -よかった…せんせいがいてくれた…。
 たとえようもない安堵に心地よい眠気が意識を侵食する。きり丸はふたたび眼を閉じて自分を包み込む暖かさに身をゆだねた。

 

 

 ふたたび眼を覚ました時、身体はもはや捉えられていなかった。傍らに穏やかな寝息があった。そして、自分は半助の腕に頭を預けて寝入っていたことに気付いた。
 -せんせい、よく寝てるや…。
 うっすら眼を開けて、呼吸に合わせて上下する胸板を見つめる。
 -せんせい、カゼひいちゃうぞ…。
 腹のあたりまでめくれている布団に手を伸ばそうとしたとき、「起きたか、きり丸」と声がした。
「せんせい…おきてたんすか?」
 顔を上げると、すでに半助は優しい眼で見下ろしていた。
「いや、いま起きたばかりだ」
 応えながら布団に眼をやった半助がきり丸の肩まで覆う。「ちゃんと布団をかぶって寝ないと風邪をひくぞ」と言いながら。
「それ、ぼくがさきに気がついたんすけど」
 きり丸が切り返す。「てか、せんせいこそあんなに布団をはだけてたらカゼひきますよ?」
「そうか。きり丸が先に気付いてくれてたか。ありがとうな」
 穏やかな声とともに頭を撫でる。
「ま、まあ…でも…」
 照れくさそうに顔をそむけながらきり丸は口ごもる。「もうこわくないし…」

 

 

「そうだな、ずいぶんうなされていたからな…怖い夢をみていたのか?」
 片腕をきり丸の頭に貸したまま半助は天井板に眼をやる。
「…はい」
 きり丸がこくりと頷く。
「そうか」
「あの…せんせい」
「どうした」
「その…おれの父ちゃんや母ちゃんは…」
 並んで天井板を見つめながらきり丸がぽそりと言う。「いまごろどうしてるのかなって…」
「そうだな…今頃、遠くからきり丸を見守っているのではないかな」
 だが、それはきり丸が求めていた答えではないようだった。
「それって、どこからみてるっていうんですか?」
「どこから…か」
 当惑したように半助は言葉を切る。おそらく、極楽から、という答えではきり丸は満足しないだろうと思った。「人は死ぬと次の人生を生きると、お坊さんは言うな…よい人生を送れば次の人生も人間になるだろうし、そうでなければ畜生としての生涯を生きるのだそうだ」
「そうすか…それじゃ父ちゃんたち、かわいそうだな」
 きり丸の顔は天井に向けたままである。半助は黙って続きを待った。
「…人間なんかに生まれかわっちゃったら、またいくさにまきこまれるかもしれないのに…」
 その口調は平板なままだったが、込められた痛みは半助もよく知るものだった。
 -それだけきり丸にとって、人間としてこの世に生きるとは、苦界に生きるのと同じようなものなのだろう。
 そう考えざるを得ないきり丸がいたましかった。
「せんせい、人間って、どーしても生まれかわらないといけないもんなんすか…?」
 問わず語りのようにきり丸が問いかける。「死んだら、あとはずーっと極楽にいるってわけにはいかないんすか?」
「もしそうなら、いいだろうがな…」
 ためらいながら半助は口を開く。「だが、私はそういう考えは聞いたことがない。どっちがいいのかも分からない」
「おれはイヤです」
 ぼそりと、しかしきっぱりときり丸は言い切る。「いくさも、父ちゃんや母ちゃんがいなくなっちゃうのも…おれ、死んでも極楽にいかなくていいから、もう人間になんて生まれかわりたくないです。そんなくらいなら、おれ…」
「なあ、きり丸」
 半助が静かに遮る。「たしかに戦の世に生きるのは辛いことだ。お前がご家族にそんな目に二度と遭ってほしくないと思うのも当然だ。だが、それでも、私は人間に生まれるというのは素晴らしいことだと思う」
「…」
 きり丸は黙って天井板を見つめている。その横顔にちらと眼をやってから半助は続ける。
「もし人間に生まれてこなかったら、この時代に生まれてこなかったら、乱太郎やしんべヱと友達になることもできなかっただろう。私と会うこともな」
「…」
 きり丸は身じろぎもしない。だが、全身で続きを待っていることが感じられた。
「今日、お前たちが古い壺の破片を見つけただろう?」
 不意に半助の口調がのどやかになる。
「…はい」
 小さくきり丸は頷く。
「私はあれを見たとき、あの壺を作った人たちはどんな人たちで、どんな生活をしていて、どんなことを考えながらあの壺を使っていたのだろうと考えていたんだ…もしかしたら、きり丸や私はあの壺を使っていた人たちの生まれ変わりなのかもしれない、とな」
「でも、おれ、あんな壺をつかってたおぼえなんてないんですけど」
「そうだな。私も憶えていない」
 小さく笑う半助だった。「もしお坊さんが言うように私たちは何度も生まれかわっているのだとしても、どうやら前の人生の記憶はリセットされるものらしいな」
「なあんだ」
 失望したようにきり丸は言う。「それじゃ、なんど生まれかわってもおなじじゃないすか」
「そうかもしれないな」
 穏やかな声で半助は返す。「だが、何百年も前の私たちがどんな生き方をしていたのか、何百年も後の私たちはどんな社会で生きているのか、考えてみるのも面白いと思わないか」
「何百年…すか?」
 何百年という時間はおそろしく深く遠く、空恐ろしささえ感じる概念だった。遥かな遠くへと吸い込まれてしまいそうな気がして怖気を振るう。
「ああ。何百年、あるいは何千年という時間だ」
「…」
 言いしれない寄る辺なさをおぼえて、もぞもぞと半助の布団に潜り込んでその腕にしがみつく。半助がゆるりと顔を向ける。
「どうした?」
 問いかける声が聞こえるが、黙ったままきり丸は自分の数倍も骨太な腕に顔をうずめる。
 -なにか怖がらせるようなことを言ってしまったか…。
 思いながら包み込むようにきり丸の頭を撫でる。
「なあ、きり丸」
 静かに半助は語りかける。「いくら生きる時代が違っても、人とは同じようなものじゃないかと私は思う。何百年昔だろうが未来だろうが、人は笑ったり悲しんだり、親兄弟や友人と一緒に楽しんだりケンカしたりするものだろうと思うんだ」
「…そのころには、いくさはなくなってますか」
 腕に顔をうずめたまま押し殺したような声できり丸は訊く。
「ああ。なくなっているといいな」
 戦の世しか知らない自分には想像もつかないが、戦のない世とはどのようなものだろうかと半助は考える。
「なくなったら、どうなってるかな…」
 半助の想いを感じ取ったようにきり丸が呟く。
「そうだな。戦がなくなったら…」
 暗い天井板を眺め上げながら半助は口を開く。「自由になれるのかもしれないな」
「じゆう?」
「そうだ。戦がなければ関所もいらない。出会った人が敵か間者か疑う必要もない。いつ、どこでも行きたいところに行けて、好きなことができる。誰とでも友人になれて、好きなことを語り、詠み、酌み交わせる、そんな世の中になっているかもしれないな」
 ぷっと小さくきり丸は噴き出した。
「なんだ?」
「だって…先生、意外にロマンチストなんだなって…」
「そうか?…山田先生にも同じことを言われたんだが…私はそんなにロマンチストか?」
 空いた腕を布団から出して頭の後ろで組みながら、照れたように半助は言う。
「そうっすよ。そんな夢みたいなこと…」
 -そうか。夢みたいなことか…。
 きり丸も、同じく戦の世しか知らない。苛烈な記憶を抱えて生きていくしかない。
 -おそらく、私が生きている間に戦の世が終わることはないだろう。だが…。
「だが、戦などいつまでも続けられるものではない。きり丸が大人になるころにはなくなっているかもしれないな」
「え…」
 戸惑ったように声を詰まらせたきり丸だったが、やがて「そうなるといいな」と呟く。
「きっとなるさ」
 低く、だが力強く半助は言う。
 -こんな世の中だからこそ、その先に希望があることを語らなければならない。今はまだ、暗闇の中にいるとしても…。
 

 

 

<FIN>

 

 

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