逢はず帰る

 

逢はず帰る、というと古今あたりの恋の歌にありそうなテーマですが、このお話はそんな艶っぽいものではありませんw

ただ、人に教えていただいた堀田善衛の「定家明月記私抄」にちょっとだけ登場した実朝公の歌を取り上げたシーンにしびれまくって書いてしまったお話です。このシーンを思い出すと今すぐにでも冬の伊豆の海を見に行きたくなる衝動を抑えきれず…ということで、そのあたりの想いを金吾パパに語っていただきました。

 

 


「…さようですか。あまり先生方にご迷惑をおかけしていなければいいのですが」
「そんなことはありません。たいへん元気で、私たちの言うことにも素直に従っていますし」
「戸部先生によると、剣術の腕前も少しずつ上がってきているということです」
 教師長屋の一室で、一年は組担当の伝蔵、半助と向かい合って座っているのは皆本武衛である。
「成績表を見ましたが…どうも覚えが悪いようで、申し訳ないことです」
 火鉢に手をかざしながら武衛はため息をつく。
「いえいえ…」
 茶を淹れていた半助が慌てて手を振る。「今はまだついていけてないところはありますが、慣れればきっと…」
 それは半助の願望でもあったが。
「それにしても冷えますな」
 外は晴れていたが、底冷えするほど寒い日だった。伝蔵は半助がすすめた茶碗を両手で包み込むように持ちながら、ずず、と茶をすすった。
「そうですな」
 山中にある学園は、海辺の鎌倉よりも寒さがしみるわい、と思いながら武衛は応える。

 

 

 出張で畿内にやってきた武衛は、同行した部下や供に休暇を取らせて忍術学園を訪れていた。担任教師たちとの話を終えて剣術師範の戸部のもとへと向かう。
 -戸部殿は道場にいると聞いたが…。
 道場に続く渡り廊下を歩いていた武衛は、ふと聞き覚えのある声に足を止める。
 -金吾…?
 てっきり戸部のもとで剣術の稽古に励んでいるとばかり思っていた息子の声が近くから聞こえる。声のほうに視線を向ける。
 -あれは…金吾と、風魔の里の出という喜三太君ではないか…。
 陽だまりに山伏姿の異形の青年と二人の忍たまが座っていた。
「喜三太、こうやるんだぁ」
 三人は手にした小刀で木片を切り出して何やら作っているようである。
「う~ん、むずかしいなあ」
「そうだね…」
 二人の少年の作業は難航しているようである。
「ほ~れ、金吾、そんな持ち方してたらあぶねーべ」
「でも…」
 言いさした喜三太は、指先に息を吐きかけている。
「手ェかんじかなった(かじかんだ)か?」
 与四郎は小刀と木片を置くと、両掌で喜三太の掌をはさんで小刻みにこすり合わせる。
「あはは…与四郎せんぱい、くすぐったいよ…でもあったかいな」
「あったかくなったべ。ほ~れ、金吾も」
 言いながら今度は金吾の掌をはさんでこすり合わせる。
「ホントだ! すっごくあったかいです!」
 金吾が声を弾ませる。
「手ェかんじかなると動きが固くなんから、小刀使うときは注意するだーヨ」
 言いながらふたたび小刀と木片を手にした与四郎は説明を続ける。
「よ~ぐ見れ。小刀はこう持って、こーすんべ」
「ふ~ん」
「へ~え」
 見やすいようにゆっくりと小刀を動かす青年の手元を金吾と喜三太がのぞき込む。
 -…。
 眼を輝かせながら熱心に見つめる息子の姿をしばし眼に焼き付けると、武衛はおもむろに道場へと足を向ける。戸部にも金吾が世話になっている礼かたがた話を聞きたかった。 

 


「なるほど、そうでしたか…」
「いやいや、まったくもって大したものです」
 道場の一隅で戸部と話を交わしていた武衛は、ふと気が付いて訊ねる。
「そういえば、先ほど、金吾と喜三太君が山伏姿の若い人と遊んでいるのを見かけたのだが…」
「ああ、それはきっと錫高野君ですな」
 戸部が即答する。
「錫高野君…?」
 唐突に戸部の口から飛び出したいささか大仰な響きの名前に武衛が首をかしげる。
「さよう、喜三太が風魔流忍術学校にいた頃の先輩だったそうです。山野先生のお供でこのあたりに来ているとは聞いていましたが、学園にきていたようですな」
「そうですか。ずいぶん面倒見がいいようですな」
 喜三太と金吾の手を温めてやっている姿を思い出しながら武衛は言う。
「忍たまたちも懐いているようです…とはいえ、風魔ではかなり実力のある忍たまだとか」
「ほう…」
 後輩たちに向けた表情は柔らかかったが、精悍な顔立ちが印象的だったと改めて思い返す。
 -いずれ使えるかもしれぬ。憶えておこう。
 鎌倉と風魔はそう遠くない。何かの折に使える時が来るかもしれないと武衛は考える。
「さて、ここもそろそろ空けないといけないかな」
 呟きながら戸部が立ち上がる。いぶかしげに武衛が見上げる。
「どうかなさいましたかな?」
「今日はこれから道場で委員長会議があるのです。だから金吾にも今日は稽古は休みだと言ってあります。明日はテストだと土井先生から聞いてますから、勉強する時間も必要でしょう」
「…そうですか」
 とてもテスト前日とは思えない金吾と喜三太の姿を思い出す。
「どうかされましたかな?」
「あ、いえいえ」
 苦笑いしながら武衛も立ち上がる。 
「では、続きは食堂で。おばちゃんのお茶で温まりましょう」
 戸部の後に続きながら、武衛はようやく自分が火鉢ひとつない底冷えのする道場にいたことを思い出した。

 


「おや、君は…」
 出門表にサインして小松田ににこやかに見送られながら校門を出た武衛は、壁沿いにたたずむ青年の姿に声をかける。
「あなたは…」
 与四郎だった。
「私は皆本武衛といいます。一年は組の金吾の父です」
「鎌倉から来られたんですか」
「はい、出張で」
 言葉を交わしながら、ふと武衛は青年が地の言葉で話していないことに気付いた。
 -なるほど、言葉の使い分けができるのも、できる忍者の証なのかもしれぬ…。
「先ほど、ご覧になってましたね」
 どちらともなく歩き始めながら与四郎は言う。
「おや、お気づきになっておられたか」
 二人の後輩と遊んでいててっきり気付いていないと思ったが。
「はい…金吾君には会っていかれないのですか」
「…やめておきました」
 何気ない口調の短い答えに与四郎が顔を向ける。山道をすたすたと歩く武衛の横顔は前に向けられたままである。
「寂しがるのでは、ありませんか?」
 立ち入ったことかもしれないと思いながらも訊かずにはいられなかった。
「そうでしょうな」
 表情を変えずに武衛は応える。その口調ににじむわずかな苦渋に与四郎は気付かない。しばし黙って二人は足を進める。
「…金吾はとても甘えん坊でしてな」
 ぽつりと武衛は口を開いた。「いつも私のそばから離れようとしなかった…これではいけないと思い、私は一芝居打って金吾を旅に出した。いろいろあって忍術学園に入ることになりましたが、私はそれでいいと思っている。学園に入ってから、金吾は本当にしっかりしてきた…」
「…喜三太も甘えん坊です」
 与四郎が呟く。「山野先生は、私が甘やかすからだと仰います。でも、つい構ってしまうんです。甘えることが許されるうちは甘えさせてやりたいと思って…」
「なるほど、甘えることが許されるうち、ね…」
 それももっともだと武衛は考える。この戦乱の世では、侍であれ忍者であれ生きていくのはとてもシビアである。そう遠くないうちに世間の現実が突きつけられるなら、子どもでいられる期間は子どもでいさせてやりたい。それは武衛の願望でもあった。

 

 

 

「皆本殿は、お一人でここまで来られたのですか」
 しばし黙って山道を歩いていた二人だったが、その沈黙に耐え切れずに口を開いた与四郎だった。
「はい。今日がプライベートなので、部下たちはフリーにさせています」
「こんな山の中をお一人では、危険ではありませんか」
 宿まで送ったほうがいいだろうかと考えながら与四郎は訊く。
「いえ。これでも若いころは剣術の師範からそれなりに認められたのですよ。君はどこまで一人で行くのかな?」
「峠の東のふもとの村で山野先生たちと待ち合わせています」
「山野先生は、喜三太君には会われないのですか」
「本当は、山野先生にも会っていただきたかったのです。しばらく会えなくなるのですから…」
 ふいに与四郎の声が低く沈む。
「しばらく会えなくなる?」
「こちらでの用件も終えたので、風魔に帰ることになったのです。だけど、それを喜三太に言うと里心がつくからと…」
「では、君も喜三太君にそのことは言わずに?」
「…はい」
「そうですか」
 それも無理もないことだと武衛は考える。まさに同じ理由で、自分は息子と会わずに学園を後にしてきているのだ。そして、その事実にこの青年は懊悩を抱えている。
「…どうやら、我々は同じ後ろめたさを抱えているようですな」
「はい」

 

 

「そういえば、山田先生が仰っていたが、先日、山村リリーさんが学園に見えたとか」
 ふと伝蔵たちとの会話を思い出した武衛が口を開く。
「…そのようですね」
 頷く与四郎の声が屈託を帯びる。
「どうかしましたかな?」
「いえ…ただ、また連れ戻しに来たんだろうなと」
「連れ戻しに?」
「そうです」
 与四郎の口調が沈む。「リリーさんは、喜三太を風魔流忍者の後継者にするんだって連れ戻そうとするのです。やっと喜三太が忍術学園に慣れたとこなのに…」
「君は、喜三太君が風魔に戻ることに賛成ではないのかな?」
「…私は、喜三太が好きなようにさせてやりたいだけです。いずれ風魔流を継ぐとしても、今は忍術学園で学ぶほうがいいと思うのです。風魔しか知らないよりもそのほうが視野が広がると思うのです」
「…そうですか」
 傍らを歩く青年の喜三太への強い思いに、武衛は単に相槌を打つことでしか応えられなかった。そして、自分も与四郎も、学園に金吾たちの知る世界よりもはるかに大きい「世間」であることを期待していることを知った。

 


「皆本殿は鎌倉のお武家様と聞きました」
 しばし黙って歩を進めていた与四郎が口を開いた時には、すでにもとの口調に戻っていた。
「いかにも」
「鎌倉とは、どのようなところなのでしょうか」
 唐突な問いに武衛はその意図を図りかねる。
「どんなところというと?」
「私たちは忍なので、情報を取るのも任務のひとつです。情報を取るとき、私たちは相手が何を考えてそのような言動をするのかもつかむよう言われます。相手の考え方のくせを知ることができれば、一つの情報からものごとがどう動くかを推測しやすくなるからです」
「なるほど。合理的な考え方ですな」
「でも、お城のえらい人たちの考えていることだけは、どうしても分からないのです」
 陽灼けした精悍な顔を小さく振りながら与四郎は言う。「そういうえらい人たちがたくさんいて、政治をやっている鎌倉とはどういうところなのか、私には想像もつかないのです」
「…」
 しばし武衛は答えを探して黙りこくった。自分の理解する限り、忍とはもっぱら政治の方面で活用するものなのに、その当事者の考えがわからないというのでは困ったものだと思いながらも、政治に携わる者たちはすべて他人に考えを悟られてはお終いなのだから、分からなくても当然だとも考える。自分もその一角に関与している鎌倉での政治的意思の決定は、傍から見れば複雑怪奇そのものであろう。

 


「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよるみゆ…」
 ふと武衛の口から低く漏れた歌に与四郎は眉を上げる。
「その歌は…?」
「実朝公の歌だ」
 武衛はぽつりと言う。「ただの景色を詠んだ歌のように思えるだろう…だが、この歌を詠まれたとき、実朝公は位の絶頂にありながらも何の実権もない立場に祭り上げられていた。いずれ御身が頼家公のようになるという恐れも抱かれていたかもしれない。そのお心はどんなに寒々しかっただろうと思うのだ」
 峠の景色が一望できるところで足を止めた武衛が小さく首を振る。「鎌倉とはそういうところだ。もっとも尊ぶべき人を貶め、かつての家人が主君となり、従うべき者の意思がいつの間にか決定として人々を従わしめている。京はそれでも雅やかにカムフラージュする術を心得ているが、鎌倉にはそれがない分だけ政治が生々しく現れる、そういうところだ」
「…はい」
 思いがけず武衛の口からほとばしる糾弾に与四郎は息をのむ。
「だから、私はこの歌には冬の光と風をおぼえるのだ…」
「冬の…光と風…」
 手を後ろに組んで視線を遠くの山々に向けたまま、武衛は抑えた口調で言う。「君も風魔の育ちなら、伊豆の海の冬を知っているだろう」
「はい」
「鎌倉に帰るとき、私はいつも二所詣のために箱根権現から伊豆山に抜ける。途中の峠に立つといつも強い風が吹いているが、ことに冬は明るく晴れた日でも風は冷たく強い。私にはそれが、お若くして位を極められても決して安らぐことはなかった実朝公のお心に吹く風なのではないかと思えてならない」
 耳元をびょうびょうと吹きすさぶ風の音を思い出しながら武衛は言う。
「…」
 山がちな風魔の里は、ここ忍術学園と同様に冬には雲が垂れ込めて雪が散るような日が多い。だが、そう遠くもない伊豆の海に出ると景色は一変する。一面の青空から陽光が降り注ぎ、山の緑も海の青もひときわ鮮やかに照り輝くのだ。そして陽の暖かさを奪い尽くすように吹きすさぶ強い風。降り注ぐ光を透明に磨き上げるような冷たい風が吹きすさび、青く輝く海に白波を立てるのだ。

 

 

「だからこそ、鎌倉はいつも腕の立つ者を求めている」
 ふいに武衛が振り返った。「もし君にその気があるなら、鎌倉で腕を振るうこともできよう」
「…」
 しばし与四郎は言葉を呑む。武衛の言いたいことは分かっていた。ここでイエスと言えば、きっと侍として取り立てるつもりだろう。だが。
「オラは…私は、風魔に生きる者です」
 それが与四郎の答えだった。
「…そうか」
 視線を与四郎に戻した武衛が小さく笑う。「君は忍になるための修行をしているのだったな。であれば忍を目指すのは当然だ」
 愚問であった、と思いながら武衛は頷く。眼の前に立つ実直そのものの青年が、今更少しばかり立身の誘惑をちらつかせたところで進路を変えることなどありえないのだ。
 -そして、君は光にすら背を向けるということか。
 きらめく波がまばゆく映える冬の陽光と吹きすさぶ強い風にすら背を向けて、闇の世界へと歩んでいこうとする青年に心がきしむ武衛だった。

 

 

「私はここで暇とさせていただこう。君と話せて楽しかった。道中気をつけてな」
 穏やかな眼で与四郎を見つめながらおもむろに武衛は言う。
「私もです。ありがとうございました。皆本殿も道中お気をつけて」
「では」
 峠を下っていく白装束の背中をしばし武衛は見送っていた。
 -喜三太君や金吾と遊ぶ君の表情を思い出していた…実にいい笑顔だった。君にはそういう人生が似合うのではないかと思った。だが、君には自分の道を進む覚悟がとうにできていた。余計なことを言ってしまったのは僭越だったということだろう…。
 忍となったあの青年がこの乱世を生きながらえるか、闇の中で命を落とすかは分からない。どちらの人生だったとしても、彼の存在は世から見えない。
 -もはや、彼に会うこともないだろう。
 あの浅黒く引き締まった顔にうがたれた鋭い眼が子どもたちに向けられたときに見せる暖かさ、朴訥な口調ににじむ強い意思。いくつもの矛盾を内に秘めた青年の変貌を見届けたい、結局のところ、自分の言動はそんな願望に促されたものに過ぎない。
 -己の進む道を信じよ。
 踵を返して宿へと向かう武衛の面差しを、冬の柔らかな日差しが照らす。

 

 

<FIN>

 

 

Page Top ↑