孤蛙


季節が秋めくにつれて、夜通し鳴いていた蛙の声がいつしか虫の声に代わっていく、そんな中で仲間たちに取り残された蛙が一匹、己の境遇を知ってか知らずか姿を見せる…そんな孤蛙の姿に、一人きりを知る少年はなにを思うのでしょうか。



 -あーあ、思った以上に時間がかかったな…。
 心の中でぼやきながら急ぎ足で用具倉庫に向かう守一郎だった。
 -用具委員はたいへんだって聞いてたけど、予想以上だぜ…。
 いつものように用具倉庫の前で用具の修補を行っていた用具委員たちだったが、喜八郎が掘った落とし穴に落ちた学園長から埋戻しを命じられ、医務室に侵入してきた雑渡昆奈門を追いかけまわした文次郎が暴れてズタズタにした障子の修理を伊作から頼まれ、忍術の練習をしようとした小松田秀作が暴発させた焙烙火矢で破壊された塀の修理を吉野から命じられ、手分けして修補に走り回る羽目に陥った。その間、用具倉庫の前に修補しようとしていた用具が出しっぱなしになっていたことを思い出した留三郎が、守一郎に片づけてくるよう頼んだのだ。
 -留三郎先輩の言っていたことがようやく分かった。修補しなきゃいけないものはたくさんあるのに手が足りないって、こういうことなんだ。
 ようやく用具倉庫の前にやってきた守一郎は、筵の上に広げたままの修補中の用具をかき集める。
 -この鉤縄なんて、縄を取り換えるだけですぐ使えるようになるのに、その時間すらないなんて。
 だが、片づけたらすぐ戻ってくるよう言われているので仕方がない。泥を洗い落とすために手桶に汲んであった水を撒いてしまおうと持ち上げたとき、守一郎の手が止まった。
「あ…」
 手桶の下に潜り込んでいたのは小さな蛙だった。
「もう夏も終わりだってのに、まだいるんだな」
 あとで水練池に連れて行ってやろうと思った。こんなところにいては干からびてしまうだろうから。



「ほら、池についたぞ」
 掌のなかに包んでいた蛙をそっと石の上に置く。しばし石の上に佇んでいた蛙は、やがて一飛びするとちゃぷんと音をたてて池の中へと姿を消した。
 -じゃあな。
 水面の波紋を黙然と見つめていたとき、
「あ、浜せんぱ~い!」
「はやくきてくださいよ~!」
 ばたばたと足音を立ててしんべヱと喜三太が駆けてきた。
「医務室のほうはもうすぐ終わるから、塀の修理をはじめてくれって食満せんぱいが~」
「お、おう、わかった!」
 我に返った守一郎が喜三太に手を引かれて走り出す。その後ろを「まってよ~」と息を切らせたしんべヱが続く。



「う、冷てぇ」
 朝晩はめっきり涼しくなっていた。早起きした守一郎は井戸端で顔を洗っていた。
  山中にある学園は秋の訪れもはやい。夜通しすだく虫の声が、まだ草むらから細く聞こえてくる。うっすらと霧がたなびいて湿り気を帯びた涼気が身体を包む。
 -そろそろ薪と食料の備蓄をはじめないとな。
 反射的に過った考えに思わず苦笑する。ひとりでホドホド城を守っていた時に身体にしみついた習慣は、容易に抜けるものではないらしい。学園と同じく山中にあったホドホド城では、秋の気配とともに冬の準備を始めないと冬を越すことはできなかった。全てをひとりでやらなければならなかったから。
 -もう、そんな必要はないんだな。
 いまは森の中をさまよって食料を探すことも、雪が降る前に慌てて薪を作っておく必要もない。学園で新しい知識を学び、仲間たちと過ごす日々が始まっているのだ。
 -そうだ。今日は火縄の実習だったっけ。
 他に誰もいない井戸端は静まり返っている。濡らした手拭いで首筋や胸を拭っていたとき、石畳の上をもぞもぞと動く影に気づいた。
「お前、こんなところにいたのか」
 思わず声を漏らす。そこにいたのは小さな蛙だった。用具倉庫にいたのと同じ蛙だろうかと考える。しゃがみこんで様子を眺めようとしたとき、
「おう、早いな」
 背後から声をかけられて慌てて振り返る。肩に手拭いを引っかけた八左ヱ門だった。
「竹谷先輩」
「そこになにかいるのか?」
 守一郎がしゃがもうとしていたところに眼をやりながら訊く。
「はい、蛙が」
「へえ、蛙か。まだいるなんて珍しいな」
「はい。俺もそう思って」
 顔を洗い終わった八左ヱ門も守一郎の隣にしゃがみこむ。蛙はちいさく白い喉をひくつかせながら石畳の上にとどまっている。
「この蛙、この前も見たんです。用具倉庫の前にいました」
「そうか。それなら、守一郎に会いに来たのかもな」
「俺に…ですか?」
「ほら、もうすぐ冬眠の時期だろ。他の連中はとっくにいなくなっているのにコイツだけ残ってるのは、挨拶に来たんじゃねえかってこと」
 くっとちいさく守一郎は笑った。「竹谷先輩は、面白いことを考えるんですね」
「そっかぁ?」
 朗らかに応える八左ヱ門である。「生物委員会で一年生の連中を相手にすることが多いからかな」
「竹谷先輩は、やさしいんですね」
「まあな…なんかちっこい連中見てるとほっとけなくてな」
「そうですね。みんなといると楽しいですよね…」
 台詞と裏腹に、思うところあるように呟いて蛙に視線を落とす守一郎だった。
「何かあったのか?」
 思い詰めたようにも見える横顔に、例によって直球で訊いてしまう。
「いえ、その…」
「俺でよかったら聞くぜ? 関わったら最後までってのが俺のモットーだからな!」
 明るく言い切った八左ヱ門が守一郎の肩を勢いよく叩く。
「あ…はい」
 痛そうに一瞬眉をひそめた守一郎だったが、すぐに顔を上げて八左ヱ門をまっすぐ見つめる。「実は、ちょっと考えることがあって」
「おう」
 軽く微笑みながら八左ヱ門も向き直る。
 -そっか。だから一年生たちが頼りたくなるんだ…。
 濃い眉毛を下げ、白い歯を見せた八左ヱ門の笑顔は、不思議に頼りたくなる安心感を感じさせた。歳はひとつしか違わない守一郎も甘えたくなるような笑顔だった。
「俺、ずっとホドホド城をひとりで守ってきました。忍術教えてくれるひいじいちゃん以外に会う人もいなかったし、同い年の連中と会うことなんてぜんぜんなかったんです」
 -そっか。独りぼっちだったんだな…。
 まっすぐな視線が訴えてくるものが見えた気がして、八左ヱ門は心が痛んだ。
「ひいじいちゃんはいつも、『忍は心に刃を乗せると書く。味方であっても他人に心を許すことは身を滅ぼすと思え』って言っていました。だから、ひとりでいてもなんともなかったんです。余計なことを考えなくて済むかなって」
「そっか」
「でも…」
 拳をぐっと握りながら守一郎は続ける。「同い年の仲間と過ごすのがこんなに楽しいなんて、俺、ぜんぜん知らなかった…飯食ってるときとか、寝る前とかにみんなとしゃべってると、もうホントに楽しくって…」
「お、おう、そうか…」
 四年生が寄り集まって会話が成立している様子が想像できない八左ヱ門が曖昧に頷く。
「だから、こわいんです」
 絞り出すように言って守一郎は小さく頭を振った。「もう、俺、みんなと一緒じゃない生活なんて考えられない。でもそれじゃ、ひいじいちゃんの教えとは違っちゃうんじゃないかって…」
「そっか」
「コイツ見てたら思い出したんです。コイツは仲間もいなくなってひとりなのに、俺はひとりになることが怖くてしょうがない、でも、俺、どうしたらいいか…」
 頭を抱える守一郎の気配に驚いたのか、蛙が跳びはねて石畳から姿を消す。
「なあ、守一郎」
 かけてやる言葉を探しながらも強い眼で見つめながら語りかける。おずおずと守一郎が顔を上げる。「お前のひいじいちゃんの言うことは正しい。忍は心に刃を乗せないといけない。だから俺たちはいろんな術を習う。お前も知ってるだろうが、ほとんどの術は、敵を心理的に撹乱させるためのものだし、それを知ることで自分を守ることもできる。相手が味方でもそれは同じだ」
「…はい」
「それに、いずれ俺たちは卒業する。そうすれば、一緒に学んだ仲間でも敵同士になることだってありうる。そん時は、仲間とか甘いことなんて言ってられない」
「…」
「でもな、守一郎」
 肩に手を載せながら八左ヱ門の口調が柔らかくなる。「だからこそ、今、仲間たちと過ごすことは大事だって俺は思う。いい仲間と過ごした楽しい記憶がある人生とそうでない人生と、どっちがいいかなんて考えるだけヤボだろ? お前はいろんなきっかけがあって学園に入って、いい仲間と知り合えたんだからそれでいいじゃねえか。そんなラッキーなこと、そうあるもんじゃないんだぜ?」
「…そうですね」
 小さく笑いながら守一郎は頷く。「やっぱり竹谷先輩、すごいですね。一年生たちが慕う理由が分かりました」
「え? そっか?」
 照れたように八左ヱ門の頬が染まる。「まあさ、守一郎も俺にとっては大事な後輩だからな。あんま落ち込まれちゃ困るってことさ」
「はい!」
 照れ笑いに紛らせた八左ヱ門に守一郎が大きく頷いたとき、
「お~い、守一郎!」
 ばたばたと足音を立てて三木ヱ門が駆けてくる。
「おうい、お早う!」
「よう!」
 立ち上がりながら守一郎が笑顔を向ける。
「ずいぶん早いじゃないか。先輩たちみたいに朝練でもしてたのかと思ったよ」
 井戸端にやって来た三木ヱ門が、傍らにいる八左ヱ門に気づいて慌てて頭を下げる。「なんだ、守一郎、竹谷先輩とお話してたのか?」
「ああ。いろんなことをな」
「いろんなこと?」
 三木ヱ門が頓狂な声を上げる。
「ああ! いろんなことさ。蛙のこととか」
「蛙?」
 ますます訳が分からなくなった三木ヱ門が首をひねる。
 -でも、俺、あの蛙に会えてよかったです!
 -だな。きっとお前の役に立ててアイツも喜んでるさ。
 八左ヱ門と守一郎の視線の視線が交わる。



<FIN>



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