トロイメライ

原作45巻は、茶屋にとってはいろいろな意味で画期的な巻で、とりわけ与四郎先輩の活躍には、空想を発展(或いは妄想が暴発)させずにはいられないものがありました。というわけで書いてしまったお話です。

したがって、45巻ネタバレ要素濃厚につき、未読の方は要注意です。

 

タイトルは、シューマン「子供の情景」より、第7曲  Trӓumerei(夢想)

 

 

「それでね、与四郎先輩がお話したんだけど、山田先生たちにはぜんぜんわかんなくて、通訳してって言われたんだ」
 放課後の用具委員会で、縄を綯(な)いながら喜三太が話し続ける。
「ふ~ん」
 興味深そうにしんべヱが顔を上げる。
「山田先生や土井先生にも、わからないことってあるんだ~」
「うん! ぜんぜんわからないって言ってたよ~」
「…」
 縄を綯う手を動かしたまま、留三郎は聞くともなしに、後輩たちの話に耳を傾けている。
「ねえ、その与四郎先輩って、どんな人なの?」
 平太が訊く。
「うん、とってもやさしい先輩なんだよ! いっつも遊んでくれたり肩車してくれたり…でも、すっごく強いんだ! 山野金太先生の片腕だって、みんな言ってる」
「ふ~ん」
「あ、そうだ」
 ふと思い出したように、喜三太が手を止める。
「与四郎先輩って、食満先輩によく似てるんだ」
 喜三太の言葉に、留三郎も興味をひかれた。
 -俺に似てる?
 もっとも、手がとまることはなかったが。
「どんなとこが?」
 平太が訊ねる。
「顔がそっくりなの!」
「へぇぇ」
「ほぇぇ」
「あ、もちろん、やさしいとことか、カッコいいとこも似てるけど」
 留三郎がその場にいることを急に思い出しでもしたのか、とってつけたように付け加える。
「顔が?」
「うん。ホントに」
 じーっと自分を見つめる後輩たちの視線に、留三郎は我に返る。手が止まったままの後輩たちが、興味深そうに自分の反応をうかがっている。
「…だそうですが」
 しんべヱが、綯いかけの縄をマイク代わりに突き出す。
「こら、お前たち、手が止まっているぞ」
 答える代わりにしんべヱの頭を軽く小突いて、留三郎は声を上げる。
「今日中に、必要な分の縄を作らないといけないんだ。手を止めるな」
「は~い」
「でも、どうして用具委員が縄を作らないといけないの?」
 しんべヱが訊く。
「あのなあ…」
 かたわらの藁を綯いこみながら、留三郎が答える。
「縄は忍がもっともよく使う道具だし、用具の修理にも不可欠だ。だから、縄は用具委員が常に用意しておかなければならない、いわば基本のキだ。わかるか」
「桜の木は木へんのキ!」
「金銀銅は金へんのキン!」
 喜三太と平太に、しんべヱが続ける。
「鯛と鮪と鮑と鯨は、魚へん!」
 言いながら、すでにしんべヱの口からはよだれが流れ出している。
「…よくそんなに難しい漢字がでてくるね…食べ物のことになると」
「それも、高級魚ばっかり…」
 喜三太と平太が突っ込む。
「鮑は、魚へんだけど魚じゃないよ…でもとってもおいしんだ!」
 以前、父親と明人の商人を訪ねたときに振舞われた鮑を思い出して、ふたたびしんべヱの口からよだれが流れ出す。
「いいんですか、先輩。あいつら、好き勝手にしゃべってますよ」
 にゃははは、と笑う一年生たちを横目に、作兵衛がささやく。
「放っておけ。とりあえず手が動いていればいい」
 何かを考えているように機械的に縄を綯いながら、留三郎はぼそっと言う。
 決して愛想はよくないが、後輩たちが楽しくしゃべっているのをできるだけ邪魔しないようにしている、この人らしい優しさだと、作兵衛は考える。
 一方で、留三郎は考えていた。
 -喜三太の言っていた、俺に似ているという錫高野与四郎という風魔の先輩とは、どういうヤツなんだ…。
 話で聞く限り、優秀な生徒であるようではある。
 -優しい先輩だと、喜三太は言っていたな。
 一緒に遊んでくれる、優しい先輩だと。
 自分が後輩たちと、そのように遊び戯れたことはなかったし、むしろ、後輩たちからは、近寄りがたい、峻厳な存在として見られたいと思っていた。それでも、喜三太は自分を優しいと言う。
 後輩たちを可愛く思っていることは事実だった。それが態度に出てしまうのだろうか。それゆえ後輩たちが自分を慕うことに不満はなかったが、目指していた自分像とはだいぶ違うものになっていることは確かなようである。


 

 打命寺へ向かう道すがら、喜三太は、堰を切ったように学園での生活を与四郎たちに語って聞かせた。クラスメートのは組のこと、教師たちのこと、委員会のこと、学園長の思いつきで勃発する行事に参加したこと、飼っているナメクジたちのこと…。
 語る言葉は自分たちと同じ言葉に戻っていたが、自分の知らない忍術学園という世界について語る喜三太に、与四郎は一抹の寂しさを感じる。
 -喜三太は、オラだちとは違う世界にえーべっただべか…。
 いずれは、風魔を背負い、自分たちの上に立つ少年だが、与四郎にとっては、相変わらず、つい構ってやりたくなる、可愛くてならない後輩だった。だから、少しずつ感じる距離が、たまらなく寂しかった。

 


「せんぱい?」
 気がつくと、喜三太が与四郎の袖を引っ張っていた。
「ん? どした?」
 慌てて作り笑いを浮かべながら、仁之進に助けを求めるように視線を送る。
「与四郎がぼさっとしてっから、喜三太が心配しただーよ」
 忍者としてはまだまだ修行の途上だが、人生経験は豊富なだけあって、仁之進はすぐに意を汲んでくれる。
「なんでもねえだーよ」
 仁之進に素早く眼で礼を言って、喜三太の頭に手をやった。
 -この手ェは、喜三太をなでる資格があるんだべーか。
 自分の手は、すでに血と硝煙で汚れている。今はまだ、その感触を知らない喜三太に触れてもいいものなのかどうか、与四郎は迷う。まだ小さい喜三太には、この感触を知らないままでいて欲しい、そんな願望に、ふと捉われることがある。そんな思いを押し殺して言う。
「さ、かーきさばいてとぶべー」

 


「せんぱいぃ、もうダメですぅ~」
 喜三太がへたりこむ。
「ほれ、喜三太」
 肩を揺すっても、喜三太はもはや一歩も動けぬ態である。
「しょーがなかんべー」
 苦笑して、与四郎は喜三太を背負う。とにかく、前進しなければならない。

 

 

 気がつくと、懐かしいにおいがして、喜三太は眼を閉じたままくんくんと小鼻を動かした。
 -与四郎先輩のにおいだ。
 目の前のがっしりした肩を覆う忍装束からも、うっすらと汗をにじませた首筋からも、懐かしいにおいを感じる。
 -風魔のにおいだ…。
 与四郎の体臭の一部となっている、足柄山の森のにおいや吹き降ろす風のにおいだった。
 -風魔の、グラウンドの土ぼこりと、焔硝蔵と、血のにおいも…。
 いつもは底抜けの笑顔で喜三太と戯れる与四郎が、教師である山野と共に任務に出かけるときは、別人のような険しい表情になっていることを、喜三太は知っている。そして、任務から戻った与四郎が、ときに血や硝煙のにおいを帯びていることも。いつの頃からか、その血のにおいが、他人のものか、与四郎のものかも、喜三太には分かるようになっていた。
 ふしぎと、なんの感情も湧かなかった。それが、与四郎なのだと思っていた。嫌がりもせず、一緒にナメクジを探してくれる笑顔の与四郎と、血と硝煙のにおいのする与四郎は、喜三太のなかでは矛盾せずに同居していた。あるいは、曾祖母にいつも言い含められていたからかも知れない。自分にもいずれ、作戦行動に携わり、与四郎たちと同じにおいを帯びる日が来るのだろうと。そして、与四郎たち風魔忍者の上の立場につく日が来るのだろうと。 
 ただ、一緒に風呂に入ったときに眼にした、背中のいく筋もの傷跡だけが、心に引っかかっていた。その傷跡を、自分の小さい指でそっとなぞったとき、与四郎は「くつぐったいべー」と笑った。その傷跡が、敵方に捕えられたときに受けた責めのせいだということも、喜三太の耳に届いていた。「山野先生がすぐに助けたからよかったようなもんだけんども、そうでなかったら五体満足で帰ってこれたかどうか」という大人たちの声が、まだ耳に残っている。そのとき感じたものは、なぜか悲しみだった。敵の前で裸にされて責めを受ける与四郎は、たった一人でどれだけの恐怖と戦ったのだろうか。
 傷跡は、あるいは転んですりむいた膝小僧と同じように、いずれは消えるものなのかもしれない。だが、心に刻まれた恐怖が癒える日はくるのだろうか。その笑い声と傷跡のギャップが、喜三太の記憶に小さな棘として刺さったままだった。

 


「おう、やってるやってる」
 小平太がにやりとする。
「なにニヤニヤしてやがる。喜三太が危ないんだ。とっとと介入しろ」
 留三郎が苛立たしげに言う。
 六年生たちの目に入ったのは、喜三太たちが暗殺者たちに追われている場面だった。
「そうカリカリするなって、留三郎」
 あたりを見回すと、小平太は満足げに頷いた。
「広さは申し分ないな…よし、それじゃここでやるか」
 手にした鉄球を軽々と持ち上げると、小平太は与四郎と暗殺者の間に投げ込んだ。
「誰がこんな物を…」
 驚いて足を止めた暗殺者と与四郎が辺りを見回す。
「私だ」
 小平太が投げ焙烙を取り出しながら言う。
「忍術学園六年生の面々だ」

 


 -コイツが、食満留三郎つーヤツだべか。
 -コイツが、錫高野与四郎という風魔の六年か。
 穏やかに笑顔を見せ合いながらも、素早く相手を見極めようとする。値踏みするような視線が交錯する。今日のところは味方として共に焙烙バレーに興じた仲であっても、いずれ忍として、闘うかも知れない相手なのだ。
 -コイツと勝負するのはうざってーべな。
 -コイツを相手にはしたくねえな。
 互いの強さを認めるのに、時間はかからなかった。
 だから、先のことは先のこととして、今は喜三太の先輩同士ということで、互いの意思を確認する。
 -喜三太を、あんじょー頼んべー。
 -おう。任せておけ。
 彼らの引継ぎは、一瞬の目配せで終了した。
 こうして喜三太は、よく似た精悍な顔立ちの、心優しい青年たちの間で、滞りなく引き継がれた。

 


「はー、ひー、せんぱいぃ、まってくださいよぅ…」
 学園に戻る道すがら、喜三太はすっかりバテて座り込んでしまった。
「なんだなんだ、忍は体力だぞ。気合が足りん!」
 文次郎がいらだたしげに吐き捨てる。先ほどから機嫌が悪いのだ。
「だから、我々と一緒に走らせるのはムリだと言ったろう」
 仙蔵が肩をすくめる。
(六年と一年では、体力差がありすぎるからな) 
 長治がもそりと言う。
「まあ、こういうときは、委員会のなかでけりをつけるべきだろうな…喜三太は用具委員で、幸いここに用具委員長がいる」
 仙蔵がにやりとして留三郎を見やる。
「な、なんだよ…」
 いやな予感がして、留三郎が後ずさる。
「そうだな、留三郎。ここは用具委員が責任を持って喜三太を連れて帰ってもらおうか」
「そういうことだ。せいぜい頑張ることだな」
 小平太と文次郎がにやりとする。
「決まりだな」
 涼しげに言い捨てると、仙蔵はついと背を向けて走り出す。
「じゃーな」
「がんばれよ」
 文次郎たちも続く。
「おい待てよ…畜生」
 走り去る仲間たちに恨めしげに毒づくと、へたりこんでいる喜三太のかたわらに片膝をつく。
「おい、喜三太。どうだ、走れるか」
「ムリっぽいですぅ…」
 息が上がったまま、喜三太が絶え絶えに答える。
「しょうがないな…じゃ、俺の背中につかまれ」
「はい…」
「ちゃんとつかまってろよ」
 すでにぐったりと自分の肩に頭を凭れかけている喜三太に声をかけると、留三郎も仲間を追って走り出す。

 


 -与四郎先輩?
 頭を凭れていたがっしりした肩に与四郎と同じ感触をおぼえて、喜三太は鼻をくんくんさせた。
 -与四郎先輩のにおいじゃない…誰だろう?
「やっと起きたか、喜三太」
 顔を動かす気配に、留三郎が振り向きながら声をかける。
「あ…食満先輩?」
「そうだ。お前がへばってたからな…ま、俺たち六年と一緒に走るのは、ちょっと無茶だったかも知れんな」
「すいません。先輩」
「気にすんな。もうすぐ文次郎たちに追いつく。アイツら追い抜いて学園に一番乗りしてやるから、しっかりつかまってるんだぞ」
「はい!」
 負けず嫌いな言葉はいかにも留三郎のものだったが、ふたたびうとうとと肩に頭を凭れた喜三太は思う。
 -やっぱり、与四郎先輩と同じだ。やさしいところも、カッコいいところも…。
 確認するように、肩に頬を押しつける。
 -それに、寝心地も…。

 

 

<FIN>