噂と不運

ある噂にまっさきに巻き込まれる不運な委員会。でも、委員長の伊作は、後輩たちを守るために精一杯頑張ります。それでもどうしようもないときに現れた人物とは…。

噂というのは、時に制御不能に広がって、常であれば惑わされないような人々も巻き込んでいきます。そのような事態に直面した時、人はどう振る舞うべきか。書きながら少し考えさせられました。

 

 

「それでは、これで本日の忍者会議を終了します。皆さまお疲れさまでした」
 司会役の忍者が声を上げると、会場に張り詰めていた緊張感がふっと消えて、室内はがやがやとした話し声や、荷物をまとめる音で満ちた。
「おう、伝蔵」
 呼びかける声に振り返った伝蔵の表情が明るくなる。
「おお、照信ではないか。お前も出席していたのか」
 かつて一緒に戦忍として働いていた仲間だった。
「今日はこんな時間だ。どこかに泊まっていかんか」
 話がまとまるのは自然だった。

 

 

 

「照信も達者でやっているようだな」
 夕食後、部屋で酌み交わしながら、伝蔵はしんみりと声をかける。
「おう。元気だけが取り柄だからな。伝蔵はたしか教師になって…」
「10年になる」
「そうか。10年か…あっという間だなあ」
「あっという間だ」
 互いの相貌に年齢を重ねたしるしを認めて、二人は改めて過ぎ去った年月の長さを思い知る。そしてどちらともなく話題は近隣の城や忍者隊の話へと移っていくのだった。
「ときに伝蔵」
 ふと思いついたように照信はふたつの杯を満たしながら身を乗り出す。
「どうした」
「忍術学園とタソガレドキの関係はどうなんだ?」
 その口調に探るような気配を感じて、伝蔵は悟られない程度に注意をしながら口を開いた。
「タソガレドキは戦ばかりしている城だ。学園と関係のいい城ともな」
 あとは言わずとも分かろう、と言うように伝蔵は相手を見やる。
「タソガレドキが忍術学園を狙っているそうだが」
 照信の声も表情も、いつの間にかポーカーフェイスになっている。どんな意図でそのような話を振ってきたのかを察するのは難しかった。
「敵対していると言われてもいい関係だ。そのような話が出てきてもおかしくないな」
 困惑を隠しながら伝蔵は杯をぐいと空ける。
「だが、今回は本気らしいぞ。忍軍トップの雑渡昆奈門が学園の生徒の一部に近づいて昵懇になっているのもそのためだとか」
「ふむ…」
 いきなり鋭く切り込まれた伝蔵が返答に詰まる。たしかに保健委員の生徒たちがタソガレドキ忍軍と親しくしているのは事実だったが、それほど広く知られていたとは。
 -しかも、学園の情報を探るために昵懇になっていただと?
 善意そのものの保健委員たちを通じてどれほどの情報を探りうるのか疑問ではあったが、相手は優秀なタソガレドキ忍軍である。なにか学園の防備の隙を突けるような情報を得られたのだろうか。
 -まあいい。忍術学園に戻ったら、新野先生に聞いてみよう。もしかしたら何か事情をご存知かも知れない…。
 だが、事態はすでに動き始めていた。

 

 


「おや? あれは…」
 学園に戻った伝蔵は、大川に出張の報告を済ませると医務室に向かった。そこで目にしたのは、医務室の前の廊下に力なく座り込む保健委員会の後輩たちだった。
「お前たち、こんなところで何をしている」
「山田先生!」
 弾かれたように立ち上がった乱太郎が駆け寄る。「たいへんなんです! タソガレドキと私たちがなにかへんなことしてるんじゃないかって先生たちが押しかけてきて…」
「少し落ち着け、乱太郎」
 後からやってきた左近が乱太郎の肩に手を置く。
「どういうことだ。先生方がどうしたというのだ」
 いまこの場でいちばん落ち着いて事情を説明できそうな数馬に、伝蔵は訊く。
「はい。僕たちも訳が分からないのですが…どうやらタソガレドキが忍術学園に攻め込んでくる、僕たち保健委員会がタソガレドキに情報を流している、という話を先生方が聞いたらしくて、説明をするようにと来られているのです。でも、伊作先輩が詮議は自分だけで受けるから、僕たちは外にいなさいと仰って…」
 そこまで説明すると、数馬はうつむいて唇をかむ。
「そうか」
 これは容易ではないと思った。だが、まずはこの取り調べまがいのことを止めさせなければならない。保健委員の生徒たちに無用なショックを与え、ほかの委員会の生徒たちに疑心暗鬼を生じさせるだけである。だから、すがるような眼で自分を見上げる保健委員たちに言う。
「お前たちは長屋に戻っていなさい。ここは私が何とかするから。他の委員会の生徒に何か言われても、私が対応していると言えばいい。よいな」
 そして襖をあけて医務室に足を踏み入れる。

 

 

 

「いいですか! これほど広く噂が広がっている以上、何らかの事態が起こっていると考えるのが普通でしょう! さあ言いなさい、タソガレドキにどんな情報を流したというのです!」

 いま、拳の先で床をコツコツと叩きながら甲高い声を上げているのは安藤である。
「そう仰いましても、本当に、情報など流してなどいません! 信じてください!」
 数人の教師たちの前に端座した伊作が訴える。
「だが、保健委員会のメンバーが個別にタソガレドキ忍軍と接しているという話も聞いている」
 眼鏡を光らせながら野村が口を開く。「やはり、それぞれの生徒にも聞いたほうがよいと思うが…」
「やめてください!」
 必死の形相で伊作が声を上げる。「後輩たちにはショックが大きすぎます! 詮議は僕だけにしてください! お願いします!」
 そして額を床にこすりつける。
「しかしね…」
 当惑したように野村が視線を泳がせる。「伊作が知らないところで接触があったということも考えられるのではないかね…」
「その通りです!」
 尻馬に乗ったように安藤の声のトーンが一段と上がる。「ショックだなんだと甘いことを言っている場合ではないのですよ!? 分かっているのかね!?」
「まあまあ、安藤先生。そう興奮なさらず…」
 ようやく口をはさむ間ができて、伝蔵は教師たちが座っているほうへと足を進める。
「山田先生…」
 ようやく伝蔵の存在に気づいたように、数人の教師が顔を上げる。
「新野先生はどうされたのですかな」
 腰を下ろしながら伝蔵は訊く。
「出張だそうです…まったく、この大変な時に」
 安藤が吐き捨てるように言う。
「それにしても、先生方がこれだけ集まって、いったいどうしたというのです」
 まずは自分は何も知らないということにして、状況を把握しようと伝蔵は口を開く。
「何をのんびりしたことを…タソガレドキが忍術学園を攻撃しようとしていて、おまけに忍術学園の生徒から学園の情報を集めているというのですよ!」
 甲高い声を上げる安藤に続いて、「私も…」と日向が声を上げる。「タソガレドキ忍軍が忍術学園の生徒を抱き込んで、かなりの情報を手に入れていると」
「私も同じような話を聞いています」
 腕を組んだまま厚着がうめくように言う。「すでにタソガレドキの攻撃態勢は最終段階にあると。そして、いざ攻撃となった時には、学園の生徒が手引きする手はずになっているらしい」
「私も同じような話を聞いている」
 難しい顔をして野村がため息をつく。「これだけの先生方が同じような話を聞いているということは、何かしらの事実があると考えるのが普通ではないかと思うのだが、伊作には本当に心当たりはないのか」
「ありません!」
 伊作の返事は早かった。「お願いです! 信じてください!」
「あれほどタソガレドキの連中と馴れ合っていて、信じろと言われてもね…」
 肩をすくめた安藤が鼻を鳴らす。
「実際、伊作たちよりタソガレドキと接点のある忍たまがいるとは…」
 髭を撫でつけながら野村が首をひねった瞬間、すっと襖が細く開くと煙球が投げ込まれた。
「うっ…!」
「これは…」
 教師たちが一斉に口と鼻を押さえる。
「げほげほげほっ」
 立ち込める煙の中から現れたのは大川である。
「学園長先生!」
 何もこんな時に煙球を使って登場しなくても…と思いながら伝蔵が声を上げる。だが、大川は意に介せず部屋の中央に進み出ると、呆然と座り込んでいる伊作の手首をむんずと掴んで立ち上がらせる。
「これから出かけるぞ! 伊作、供をせい!」
「は、はい?」
「何をおっしゃるのです!」
 立ち上がった教師たちが詰め寄る。
「いま、伊作に事情を聞いている最中なのですぞ!」
「そもそも、学園が狙われているというときに外出されるなど…」
「いいや! 出かけるのじゃ! いや、出かけねばならぬのじゃ!」
「それで、一体どちらへ出られるというのですか…」
 なおも言い募る大川になかば根負けした伝蔵が訊く。
「今日は楓さんのお誕生日なのじゃ!」
 全員が脱力した。
「お誕生日パーティーをするのじゃ! 如月さんも呼んでおるぞ。食堂のおばちゃんにパーティー料理を頼んである! おお、いまから楽しみじゃ!」
「あの、学園長先生…なにもこのようなときにそのようなご用でお出にならなくても…」
 安藤の口調も表情も当惑そのものである。
「何を言う安藤先生! お誕生日は一年にたった一回しか巡ってこぬのじゃぞ! 楓さんもわしが祝ってやるのをと~っても楽しみにしておるのじゃ! 今日祝ってやらずしていつ祝うというのじゃ!」
「いやしかし…」
「それに考えてもみよ! 今日、楓さんのお誕生日を祝わずして、次に如月さんのお誕生日を祝ってやったら、不公平になるじゃろうがっ! わしにはそんなかわいそうなことはできぬわい!」
「ですが、今はあまりに…」
 木下がうろたえたように言いかけるが、大川は耳に入っていないように続ける。
「伊作! なにをぼんやり突っ立っておる! 早く食堂のおばちゃんのところに行ってパーティー料理を受け取って門前で待っておれ! わしも楓さんへのプレゼントを持ってすぐに行くからの」
 言い捨ててスキップしながら大川は立ち去る。
「あ、あの…」
 伊作が周りの教師たちを見上げる。
「仕方がない…」
 額に手を当てながら伝蔵がうめく。「伊作はすぐに準備をして出かけなさい。あとは私たちでなんとかする」
「は、はい」
 伝蔵の声に押されるように、伊作は食堂へ向かって駆け出す。その後ろ姿を見送った伝蔵が、教師たちに向き直る。
「この続きは、私の部屋で行いたい。よろしいですな」

 

 

 

「なぜ山田先生のお部屋なのですかな」
 真っ先にやってきた野村が部屋を見回しながら訊ねる。
「土井先生が不在のようでしてな、部屋が広く使えることがひとつ。もう一つは、学園長先生と他の先生方との温度差が気になったからです」
「温度差、ですか?」
 気取った手つきで髭を撫でつけながら、野村は軽く首を傾げる。
「実は、私も忍者会議でタソガレドキの噂は耳にしました。しかし、出張から戻って学園長先生に報告しても、なにも仰いませんでした。それなのに、一方では先生方が集まって保健委員長を詮議している…この差はなんだろうと思いましてな」
 話しているうちに他の教師たちも続々と集まってきた。
「まったく、この非常時に学園長先生はいったいなにをお考えなのやら…」
 ぶつくさ言いながら現れた安藤が憤然と胡坐をかく。
「いささか強引に過ぎるのではと、私も思います」
 安藤の隣に腰を下ろした厚着が眉をひそめる。
「まあとにかく、行かれてしまったものは仕方ない。あえて護衛をつけなかったのも、なにかお考えがあってのことなのでしょう」
 野村の眼はまっすぐ伝蔵を捉えている。
「さよう」
 伝蔵が頷くとともに、「よろしいのですかな、本当に」と安藤が声を上げる。
「私には、学園長先生にはお考えがあってのことだと思えてならない」
 あつまった教師たちの顔を見渡しながら、伝蔵は口を開く。「あえて言えば、何らかの背後関係をご存じなのではないかとさえ考えているのです」
「背後関係、ですと?」
 野村が指先で眼鏡を押し上げる。
「まさか…」
 腕組みをした木下がうなる。「いつぞやの学園祭の時のように、あえて部外者を入れて混乱を起こしておきながら、ご自分は楓さんや如月さんとデートを楽しまれるという…?」
「その可能性も否定できません…学園長先生のことですから」
 伝蔵も否定しない。
「しかし、そうだとすればなぜ保健委員会を巻き込むのかが解せぬところ」
 木下はなおも納得できないようである。
「私も同じです」
 あっさりと伝蔵が言う。「しかし、私としては、先生方がどこでこのような話を耳にしたかを、まずは知りたいところです」
「マイタケ城とチャミダレアミタケ城から照会があったのです」
 安藤が懐から書状を取り出す。「そのような噂があるが、学園はどうするつもりかと。学園長先生に報告しましたが、放っておけの一言で…楓さんの誕生日とやらで頭がいっぱいなのです。まったく事の重大性を認識されていない!」
 言いながらまた頭に血が上ってきたらしく、口調が激しくなる。
「私は…」
 ぎりと奥歯を噛みしめる野村だった。「よりによって大木雅之助が…!」
「ああ、なるほど」
 これは厄介そうだな、と思いながら伝蔵が相槌を打つ。
「街に行ったときに、たまたまヤツも作物を売りに来ていたのに会ってしまったのです」
 野村は「作物」と言い紛らわしたが、間違いなくラッキョを売りに来たのだろう。
「…ヤツも街で商売をしている間にその話を聞いたそうです。そこでヤツが『忍術学園の教師がそんな話も知らんとはな』なんぞと挑発してきたので、私もついカッとなってしまいまして…まずは学園に戻ってタソガレドキと最も関係の深い保健委員会に話を聞こうと思ったのです」
「私は、友人の忍者から話を聞きました」
「私は、ナラタケ城から照会を受けました」
 他の教師たちも次々と事情を説明する。
「なるほど」
 伝蔵が頷く。「実は、私も忍者会議で会った友人からこの話を聞きました。その時はいつものこととさほど気にもとめませんでしたが…」
「タソガレドキは学園と敵対関係にあるのですよ…一部認識の甘い生徒たちもいるようですが」
 安藤の声が尖る。
「それもそうですが、そのような噂が同時多発的に流れるということ自体がおかしいと思いませんか」
 教師たちの話を聞いて、伝蔵がもっとも疑問に思っていたことだった。
「それは我々も疑問に思っていたところです」
 日向が常になく難しい顔で言う。「なので、土井先生が事情を探りに出ています。我々も行こうと思ったのですが…」
 言いさして安藤に眼を向ける。
「当然でしょう!」
 安藤が言い切る。「もし噂が本当で、タソガレドキが攻撃してきたらどうするのです? 先生方が調査に出て学園が空っぽなどということが許されると思っているのですか?」
「それも一理あるということで、調査は土井先生にお任せしたのです…」
 震え声で付け加えるのは、いつものように人魂を漂わせた斜堂である。
「とにかく状況は分かりました」
 頭の中で考えをまとめながら伝蔵は口を開く。「ともかくまだ分からないことが多い、ということは、用心に越したことはないでしょうな」
「他の城からの照会には、どう回答しましょう」
 日向が訊く。
「私がまとめて回答しましょう。日向先生は、木下先生たちと、学園の防護体制をまとめてもらえますか」
「分かりました。では、私が上級生を中心に防備体制を組みましょう。日向先生は、いざというときは下級生たちを学園の外に避難させる手はずを整えるということで」
 木下が頷く。
「では、私と厚着先生は、土井先生に加勢して情報収集に」
 野村が立ち上がる。
「頼みましたぞ」
 

 

 

「あのぉ、山田先生」
 部屋に一人残った伝蔵のもとを訪れたのは小松田である。
「なにかね、小松田君」
 各地からの照会への回答を書いていた伝蔵が苛立たしげに顔を上げる。
「利吉さんがいらっしゃいましたが…」
「だぁっ、この忙しい時に…!」
 出直すよう伝えろ、と言いかけてふと考えが変わる。
 -そういえば洗濯物がたまっておった。そろそろ持っていかさねばと思っていたところだ。それに、利吉にも土井先生を手伝わせたほうがよかろう。変な噂が広範囲に広がっているようだから、土井先生たちでは手に余るかもしれぬ…。
「わかった」
 通しなさい、と言いかけたところで「父上」と涼しげな声がして、上がり框にすでに利吉が立っていた。
「来ておったのか」
「お忙しそうですね」
「まあな」
 言葉を交わす間に利吉は向かいに座っていた。
「で、これが洗濯物だが」
 背後の風呂敷包みを押しやりながら、ふと利吉の表情を上目遣いに探る。いつもであればそこでスイッチが入ったように家に帰れと騒ぎだすはずだった。
「ああそうですか」
 いつもと違う反応に、思わず顔を上げる。利吉の表情に動きはない。「ではお預かりします」と手元に引き寄せる。
 -これはどういう風の吹き回しだ?
 これは絶対なにか企んでいるに違いない、と思った伝蔵がふいに異変に気付く。
「利吉、母さんからの洗い物は預かっていないのか」
 いつもなら、なんだかんだ言いながらも持ってきているはずの妻からの風呂敷包みがない。
「母上から言付かっております。『そんなに洗い物が必要なら、取りにくればよろしいのですわ』と」
 澄ました表情で言い終えると、伝蔵を見据えてニヤリとする。「私もそれは実にいい方法だと思ったので、今回は持ってきていません」
「な、なんだとォ!」
 逆上した伝蔵が立ち上がって怒鳴る。「私がどんなに忙しいか分かっているのか! 休みはぜんぶ追試か補習か出張でつぶれておるのだぞ! とても家に帰っているヒマなぞないというのに何を考えているのだ母さんはっ!」
「まあそんなに騒ぐものでもないでしょう、父上」
 落ち着き払って利吉は言う。「誰も家まで取りに帰れとは言っていないのですから」
「なに、どういうことだ…」
 すぐにはその意味を測りかねて伝蔵が口ごもる。と、庭先を振り向いた利吉がこれ以上もない爽やかさで声を上げる。「母上」
「久しぶりですわね、あなた」
 楚々と現れたのは妻である。
「お、おまえ…」
 異形のものでも見たかのように後ずさる伝蔵だった。
「あなたがあんまりお帰りにならないものですから、私が参りましたわ。本当にそんなにお忙しいのか確かめるためにも」
 微笑みながら言うが眼は笑っていない。「でも、先に洗い物をお渡ししましょうね。はいどうぞ」
 言いながら手にしていた風呂敷包みを手渡す。
「あ、ああ…すまなかったな」

 

 

 

「そ、それにしてもあまり人を驚かせるものではない」
 茶を淹れながら伝蔵がぼやく。
「父上こそ、少し驚きすぎではありませんか」
 すかさず利吉がからかう。
「そんなに人をからかうものではありませんよ、利吉」
 口ではたしなめながら、面白そうに伝蔵の反応を見る妻だった。
「たしかになかなか帰れなかったのは悪いと思っておる…だがさっきも言ったように、仕事がだな…」
 煮え切らない言い訳をしながら茶をすすめる。
「ありがとうございます、あなた」
「なに、かまわんさ」
 ようやくくつろいだ表情になる妻にほっとする伝蔵だった。
「そういえば、今日は土井先生はお留守なのですか?」
 片付けられて壁際に寄せられた半助の文机を眼にした利吉が訊く。
「ああ、ちょっと任務でな」
 家族に忍術学園に関する真偽も定かでない噂を話すべきではないと判断した伝蔵は、話を濁す。だが、
「あら、タソガレドキ城の動きを探りに出られたのではないのですか?」
 当たり前のように妻から放たれた台詞に思わずお茶を噴き出す。
「げほ、げほ…お前、どうしてそんなことを…」
「道中、あちこちで耳にしましたわ」
 何事もなかったように湯呑に口をつける妻である。
 

 

 

「あの…学園長先生」
 あたりをきょろきょろ見回しながら伊作が声をかける。
「なんじゃ」
 後ろ手に歩きながら大川が返す。
「楓さんのお宅はこちらでよろしいのですか?」
「わしの後についてくればよいのじゃ」
「しかし、この道は…タソガレドキ城への道かと」
「そうじゃったか。では、タソガレドキ城にも立ち寄るとするかの」
「え、えぇっ?」
 素知らぬ表情の大川に、思わず伊作が声を上げる。すでに物陰から自分たちの姿を認めた忍たちが動き出している気配を感じていた。すぐにも迎撃部隊が動き出すだろう。だが、自分たちはたった二人である。
「よいから黙ってついて参れ」
「はい…」
 すたすたと歩く大川について歩いているうちに、タソガレドキ城の門前に着いていた。
「忍術学園長、大川平次渦正じゃ! 開門!」
 平然と大声で呼ばわる大川に、番兵たちもどうすべきか戸惑ったように立っているばかりである。やがて、連絡役の兵が戻ってきて何やらささやくと、おもむろに門が開いた。
「これはこれは学園長先生。今日はなんのご用で」
 そこには雑渡昆奈門が立っていた。
「近くまで来たものでの。黄昏甚兵衛殿にあいさつに罷り越した」
 一体どうなるかと肝を冷やしている伊作に構わず、いかにも当然のように大川は言う。
「それはそれは。ではどーぞ」
 平板な声で言うと、昆奈門が先に立って歩き出す。

 

 


 -ここは…?

 伊作がきょろきょろする。
「じっとしておらぬか」
 端座した大川が片目でぎょろりと睨む。
「す、すいません」
 慌てて首をすくめる。
 二人は謁見の間に通されていた。突然押しかけてまさか本当に城主が対面するとは思っていなかった伊作には意外過ぎる展開だった。
「殿のお成り!」
 控えの侍の声とともに、小姓を従えた甚兵衛が現れた。室内というのに大きな羽飾りのついた帽子をかぶり、マントを引きずっている。
「ようお越しくだされた、大川平次渦正殿」
 上段に腰を下ろした甚兵衛が口を開く。
「いつも学園祭や運動会にお運びいただいておりますからの、礼の一つも申し上げねばと思って罷り越した次第じゃ」
 たいていそれは小松田が招待状を間違って発送してしまったからだが。
「それはそれは。こちらからも招待せねばと思っておったところじゃ」
 大川の意図を図りかねて曖昧に返す甚兵衛である。
「本日は、手みやげに、学園の食堂のおばちゃんの料理を持参した。おばちゃんの料理は絶品でな。ぜひ甚兵衛殿にも召し上がっていただきたい…伊作」
「は、はい…」
 唐突に声を掛けられた伊作が、弾かれたように傍らに置いていた風呂敷包みから重箱を取り出して昆奈門に手渡す。
「うむ、これはうまそうじゃ」
 眼の前で開かれた重箱に、甚兵衛は箸をつけようとする。
「殿、毒見を…」
 控えていた侍が慌てて耳打ちするが、甚兵衛はかまわず煮物を箸に取ると口へと運ぶ。
「おお…なるほど、大川殿が自慢するわけじゃ」
「そうであろう。食堂のおばちゃんの料理は忍たまたちの力の素じゃからの」
 上機嫌で話す大川の横顔を見ながら、伊作はようやく大川が最初から黄昏甚兵衛に会いに来るつもりで出てきたことを理解した。
 -楓さんの誕生日は学園を出るための口実だったんだ…では、なぜ僕を連れてここに…?
「うむ、じつに美味い。わがタソガレドキの包丁人にも修業させたいほどじゃ」
 つぎつぎと料理を口にしながら甚兵衛は言う。控えている侍が青ざめている。もしこれで毒が仕込んであった日には、切腹は免れまい。
「ふむ、いかにも美味な料理であった。このような料理を日々召されるとは、大川殿は果報であることよ」
 ようやく腹がくちくなったのか、箸をおいた甚兵衛が嘆息する。
「いかにも。じゃが、学園を制されたとしても、おばちゃんの料理が食べられるわけではありませぬぞ」
 ふいに大川の口調が挑戦的になる。甚兵衛が太い眉をぐいと持ち上げる。
「なんのことやら」
「貴殿が学園を狙っておられるとか…じゃが、どうもわしには解せぬことがありましての。ぜひそれを伺いたい」
 ずけずけと話を進める大川だった。
「…忍術学園は城とは違う。領地を持っているわけでもない。生徒からの授業料で細々とやっておるに過ぎぬ。たとえ学園を制圧したとて、年貢が一石でも増えるわけではない。いったい何のメリットがあるのか、いくら考えても分からぬのじゃ」
 言いながら大きく首をかしげる大川だった。
「…ふ」
 甚兵衛が唇をゆがめて笑いを漏らした。「なかなか芝居が上手であるな、大川殿。それが忍者というものであるか…昆奈門」
「は」
 あらかじめ打ち合わせたかのように昆奈門が話を受ける。「仰るように忍術学園にそのような旨味はない。だが、その武力と同盟ネットワークは脅威」
「あらゆる脅威は除去するというのが、貴殿のやり方というわけですかな」
 大川が畳みかける。
「必要によりけりでありましょう」
 無表情に昆奈門が返す。
「なるほど、あい分かった」
 大川が膝を打つ。「貴殿が忍術学園を叩く理由はよく分かった…じゃが、わしはそうなったのであればそれも仕方のないことと考えておる」
 -学園長先生、それはどういう意味ですか…?
 傍で聞いていた伊作がぎょっとして大川の横顔を凝視する。控えの侍たちも、何を言い出したかとばかりに眼をむく。昆奈門ばかりは覆面の奥に動揺をたくし込んでいたが。
「忍術学園がなくなってもよいと仰らんばかりよのう」
 ぎろりと睨み据えながら、甚兵衛の声が低くなる。
「いかにも」
 ひょうひょうと大川は応える。「学園の煙硝蔵や武器庫をまるごと奪われたとしても、あるいは学園の建物も敷地も、望まれるなら奪い取るが宜しかろう。じゃが」
 大川もニヤリとしながら眼を光らせる。「そこに忍術学園の宝はない」
「どこかに隠しているとでも?」
 平板を装った声で昆奈門が訊くが、応えないまま大川は口を開く。
「わしが申し上げたかったのはそれだけじゃ。突然押しかけて時間を取らせて申し訳なかった。こんど学園にお越しの際は、腹を空かせて参られよ。おばちゃんのとっておきの料理を用意してお待ちしておりますからの」
「…ふむ」
 早く謁見を終えろと言わんばかりの口上に、立ち上がらざるを得ない甚兵衛だった。

 

 


「あの…学園長先生」
 城を出て何事もなかったように歩き続ける後姿に、おずおずと伊作が声をかける。
「なんじゃ」
「その…忍術学園の宝と仰ってましたが」
「ああ、あれか」
 なんじゃと思う? と訊きながらおかしそうにくっと笑う大川だった。
「いえ…分かりません」
 とっくに降参していた伊作がうなだれる。
「雑渡昆奈門もとぼけたことを言っておったのう…どこか別の場所にでも隠してあると思ったようじゃの」
 一層おかしげに大川は笑う。「じゃが、そんなことを考えておるようでは、見つけることなどできまいの」
「私にも…さっぱり分かりません」
 暗い声で伊作が呟く。「教えて、いただけませんか?」
「仕方ないのう」
 勝ち誇ったように大川は足を止めると振り返る。「それは伊作、お前たちじゃ」
「えっと…私たちですか?」
 とっさに意味を図りかねて伊作が声を上げる。
「そうじゃ。屋根はなくとも忍術は教えられる。じゃが、人がいなくてはそれもできぬ。よって、忍術学園の宝は、忍たまたちであり、先生方じゃ。タソガレドキが学園の建物や武器が欲しいなら奪うがよかろう。じゃが、それで忍術学園を奪ったことにはならぬのじゃ」
 ふぉっふぉっふぉっ…と高笑いしながら大川は再び歩きはじめる。

 

 

 

「それで大川は、何をしに罷り越したというのじゃ」
 常の間に戻った甚兵衛が苛立たしげに言う。「煙硝蔵や敷地を奪ってよいなどと、何を言っておるのかさっぱり分からぬ」
「おそらく、我々が忍術学園を狙っているという噂を確かめに来たのでしょう」
 控えた昆奈門が応える。それが答えとは自分でも考えていなかったが。
「そんなことは今に始まったことでも、忍術学園に限ったことでもない」
 指先が苛立ちを脇息に刻む。
「仰せの通りですが、たしかにわがタソガレドキ城が忍術学園を攻撃しようとしている噂が、それも広範囲に広がっています。いま、噂の出所を調査中です」
「そうであったとしても、なぜわざわざ大川が来るのじゃ。それも『忍術学園の宝』なんぞと思わせぶりなことをほざきおって…」
 -たしかにあれは妙な牽制だったな…。
 甚兵衛があえて大川の前で重箱に箸をつけたのは、現時点で敵とみなしていない、もっと言えば敵となるほどの勢力と認めていないことを見せつける意味があったと理解している昆奈門だったから、大川の思わせぶりな台詞には惑わずにいられなかった。
「なかなかにエキセントリックなご性格とも聞き及んでおります」
「そうであろうの」

 

 

 

「ところで、なぜウスタケ城は、タソガレドキ城が忍術学園を攻撃するなどという噂を流しているのでしょうね」
 白くしなやかな指先で湯呑を膝に置いた伝蔵の妻のあっさりとした物言いに、再び伝蔵が盛大に茶を噴き出す。
「まあ、どうなされました?」
「大丈夫ですか、父上」
 利吉が慌ててその背をさする。
「げほっ、げほ…ちょっと待て、お前たち、どこでそんな話を…」
 噂の出所がわからずに往生していたというのに、妻はとっくに知っていたということなのだろうか。
「そんなと言いましても…ねえ、利吉」
「ひょっとして父上…まだウスタケ城の仕業だということをご存じなかったのですか?」
「むむ…知らなかった…土井先生が一人で探っていて、ついさっき加勢を出したばっかりだし…」
 言い訳がましくごにょごにょと言い紛らわす伝蔵である。「それより、どうしてお前たちはそのことを。なにか証拠をつかんでおるのか」
「母上と私がタッグを組めば、こんなものです」
 ニヤリとした利吉が湯呑を床に置くと、懐から地図を取り出す。
「学園に来る前に、私と母上はチャミダレアミタケ領の村で待ち合わせをしていました。私はタソガレドキ領、母上はマイタケ領を通ってきました」
「私がマイタケ領を通った時、タソガレドキ城が忍術学園を攻撃という噂を流している者を見かけました。うまく変装していましたが、あれはウスタケ忍者の長老でしたわね」
「私はタソガレドキ領を通りましたが、城下でも戦に向けた動きはまったく見られませんでした。それなのに、チャミダレアミタケ領でも同じような話を聞いたと母上が仰るので、一緒に調べたのです。チャミダレアミタケ領で噂を流していたのは、ウードン・臼茸でした」
「ウスタケ城はずいぶんあちらこちらで、同じような噂を流していたようですわね。目的までは探る時間がありませんでしたけど」
 洗い物をお届けしなくてはいけませんでしたしね、と付け加えて、再び湯呑を口元に運ぶ妻だった。
「ふむ…ウスタケが直接タソガレドキと対立関係にあるとは聞いておらぬが…あるいは相乗効果を狙っておるのかも知れぬな」
 腕を組んだ伝蔵が考え込む。
「タソガレドキが動くと聞けば、背後を衝こうとする勢力が動き出す。同盟を固めようと動き出す城もある。そんな動きを期待しているということでしょうか」
 そのような動きをしそうな城をいくつか頭に思い浮かべながら利吉が頷く。
「まあ、いずれにしましても、忍術学園の大勢には影響はございませんでしょう」
 落ち着き払って結論を下す妻である。
「それにしても、学園の生徒を抱き込んだというのはイヤな言い方ですね。保健委員たちにあらぬ疑いがかからなければよいのですが」
 タソガレドキ忍軍と保健委員との仲を知る利吉が、気がかりそうに言う。
「うむ…そうだな。ウスタケとすれば、特にどの生徒と定めたわけではないようだが…」
 落ち着かなく顎鬚を引っ張りながら伝蔵は曖昧に頷く。実態を知ればそれだけのことだが、まさに利吉が懸念していたことでついさっきまで蜂の巣をつついたような騒ぎになっていたのだ。それを妻と息子が知ったらどう思うだろうか…。
 -思えば、この件では先生方が常になく騒ぎすぎていたような印象がある。それに比べて学園長先生が落ち着きすぎていた印象も…どちらが正しかったのだろうか…。

 

 

 

「さて、伊作は急ぎ学園に戻って、事の次第を先生方に伝えるのじゃ。よいな」
 分かれ道で立ち止まった大川の唐突な指示に、伊作は惑う。
「え…ヱ事の次第ともうしますと…?」
「しっかりせい、伊作!」
 苛立たしげに大川が声を上げる。「さきほどの黄昏甚兵衛と雑渡昆奈門を見て分かったであろう。連中に学園を攻撃する意思はない。噂は単なる噂だったのじゃ。それを伝えよと申しておる!」
「しかし、学園長先生は戻られないのですか?」
「わしには本日最大のイベントが控えておる」
 じれったげに大川は続ける。「楓さんのお誕生日だと申したであろう」
「えっと…本当にお誕生日だったのですか?」
 口実だとばかり思っていた伊作には、もう訳が分からない。
「わしの大切な楓さんをダシに嘘などつくと思っておるのか!」
 一喝すると、一転してウキウキした口調で「これ以上楓さんと如月さんを待たせるわけにはいかん。おばちゃんのご馳走は黄昏甚兵衛にくれてやったが、わしの最高のブロマイドをプレゼントすれば、きっと楓さんも大喜びしてくれるはずじゃ☆ そういうわけじゃから伊作、とっとと学園に戻らんかい!」
 性急に言い捨てると、スキップしながら去って行く。

 

 


 -学園長先生…。
 しばし唖然とその後姿を見送っていた伊作だったが、やがて小さく顔を伏せて微笑む。
 -学園長先生、本当に僕たちのことを思ってくださっているんだ。
 そして顔を上げると、学園に向かって駆け出す。

 

<FIN>

 

 

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