危険な休暇
以前、小平の薬用植物園に行ったときにケシの花を見て浮かんだストーリーをちまちまと書いていたのですが、描いているうちに想定外に膨らんでしまってけっこうな長さになってしまいました。
このお話では阿芙蓉(あふよう・アヘン)がメインになっていますが、アヘンはれっきとしたハードドラッグで持っているだけで犯罪になります。ちょっとトライしてみようなどとはゆめゆめ思わないでください。ダメ・ゼッタイ。
「捕まえた!」
「こっちも!」
生物委員と保健委員たちが合同で捕獲作戦に勤しんでいるのは、ガマガエルである。腰につけた魚籠(びく)のなかには、すでにたくさんのガマガエルがひしめいている。
「それにしても、こんなにガマガエルをつかまえて、伊作先輩は何をするつもりなんだろう」
乱太郎が汗を拭いながらぼやく。
「それに、生物委員会の上級生に秘密ってのもへんだし」
伏木蔵もぼやく。
「上級生ってのはちょっと外れ。正確には、孫兵先輩に秘密ってこと」
いままさに両手でガマガエルを捕らえた虎若が指摘する。
「どうして?」
「決まってるだろ? 孫兵先輩がこんなの見たら、ぜったい飼うって言うに決まってるから」
虎若の手元に魚籠を近づけながら、三治郎が説明する。
「まあそれは、分かるけど…」
伊賀崎孫兵の有毒生物嗜好を知る乱太郎たちが、納得顔で肩を落とす。
「伊作先輩、このくらいでいいですかぁ」
乱太郎たちが、数馬たちとガマガエル捕獲に勤しむ伊作に声をかける。
「やぁ、ご苦労さん。どのくらい捕まえたかい?」
「ざっと4,50匹くらいだと思います」
「そうか。それはたくさん捕まえたなぁ」
額の汗を拭いながら伊作が笑顔を見せる。湿地をはいずり回っていたので、顔も腕も泥だらけである。
「で、どこにもって行けばいいですか」
「ここでいい。水を汲んできてくれないかな」
へ? と乱太郎たちの目が点になる。
「で、ここで何をするんですか?」
「蟾酥(せんそ)をとるのさ」
「せんそ?」
「そう。生薬の一種になるんだよ」
言いながら、伊作は一匹のガマガエルの泥を洗い流すと、背中の隆起した部分をピンセット状の器具でつまむ。と、白っぽい分泌液がしぼりだされてきた。それを小さなへらですくう。
「これが蟾酥だ。強心作用や局部麻酔作用がある劇薬なんだ。学園ではおもに歯痛に使うけどね」
そのほか、軽い幻覚作用があることや、媚薬としての用途があることも校医の新野から聞いていたが、低学年たちには話すべきではないだろうと判断する。
「蟾酥はしばらくすればまた分泌される。だから、蟾酥をとったあとのガマガエルは逃がしてやってくれないか」
次々とガマガエルを摘み上げては、手際よく分泌液をすくい取りながら、伊作は説明する。
「なるほど」
「だから、ここで取るだけ取って、逃がしてしまおうって訳ですね」
乱太郎たちが感心したように言う。
「そう。学園で飼えばいつでも取れるかもしれないけど、一匹から取れる量は見たとおり、ほんの少しだし、ガマガエルは肉食だから、飼うのはたいへんなんだ…数馬もやってみるかい?」
「いいんですか?」
「何事も経験さ…そう、そこをつまむと蟾酥が出てくる。あまり強くつまむと、ガマガエルが痛がって暴れるから気をつけて…そう、へらですくうんだ」
慣れない手つきで蟾酥をとる数馬の手元を、興味深そうに乱太郎たちが見つめる。
「でもこれば、ほんものの蟾酥ではないんだ」
伊作が説明する。
「どういうことですか?」
「ほんものの蟾酥は、明からの輸入品をいう。効き目はいちばんだけど、値段も高い。保健委員会は予算がないからね、あまり高い薬は買えないんだ」
「新野先生、お呼びですか」
「ああ、待っていましたよ」
泥だらけで蟾酥取りから帰って風呂に向かおうとしていた伊作たちだったが、留守番をしていた左近に呼ばれてひとり医務室にやってきた。
「蟾酥はとれましたか」
「はい。数馬や乱太郎のほかに、生物委員会の一年生たちにも手伝ってもらえたので」
晴れやかな笑顔になる伊作に、新野は一瞬言葉を呑み込んだ。顔や腕は洗って来たらしいがまだ髪や首筋には泥が残っているし、制服にもあちこちに乾いて白茶けた飛沫がこびりついている。まるで泥遊びから帰ってきたばかりの無邪気な少年のような伊作に、自分は重い指令を下そうとしている。
「それはよかったですな」
苦労して笑顔と共にねぎらいの言葉をひねり出す新野に伊作は不意に真顔に戻って訊く。
「はい。それで、ご用とは?」
「そうでしたな。伊作君、もう少し近くに来てください」
「…はい」
気を取り直した新野の言葉に、伊作が膝を進める。その耳元に口を寄せた新野が何やらささやく。
「ごめん…ください」
巨大な屋敷に気おくれを感じながら伊作が声を上げる。
「ああ、あなたが善法寺伊作さんですね。先生がお待ちです。さあどうぞ」
中から出てきた門人は、すでに伊作の来訪は聞いているらしい。すぐに中に通される。
「はい…失礼、します」
伊作が訪れたのは、越生廻翁という新野の古い医者仲間の屋敷だった。廻翁はアオタケ城の典医をつとめ、城下の街外れに広大な屋敷を持っていた。
すでに屋敷の裏には広大な薬草園があるのを伊作は認めていた。屋敷の敷地内で塀に囲われた一角にも、何やら貴重な薬草が植えられているのかも知れない。
新野の指示のひとつは、学園の休暇の間、この廻翁のもとで学んでくるようにとのことだった。
長い廊下を伝って奥に通される。いくつもの角を曲がり、いくつもの坪庭に面した廊下を歩いた先の座敷の前で、先導していた門人が膝をつくと中に声をかける。「善法寺伊作さまがお見えになりました」
「通しなさい」
しわがれ声がずいぶん遠くから聞こえたように感じた。
「どうぞ」と門人が襖をうやうやしく開く。そうして越生廻翁の待つ座敷に伊作は通された。
「お待ちしておりましたよ」
広い座敷の奥に床の間を背にして座っている白皙の老人がいた。道服のようなものを着ているせいか、仙人のようだ、と伊作は思った。
「善法寺伊作ともうします。お世話になります。よろしくお願いします」
端座した伊作は深々と礼をする。
「今回は新野君にずいぶん無理を言って来てもらった。君が忍術学園の生徒だということは誰にも知らせていない。君に頼みたいことは、新野君から聞いていると思うが…」
不意に廻翁が声を低める。
「こちらへどうぞ」
廻翁の座敷から下がった伊作は、続いて居室に案内された。門人が声をかけて襖を開ける。
「へえ、君が善法寺君っていうんだ」
案内された部屋には先客がいた。二十代前半といったところか。本が山積みにされた文机の前に座って何やら書き物をしていたが、その上体だけでもかなりの長身であることが見て取れた。
「はじめまして。短い間ですがよろしくおねがいします」
部屋の入り口で端座した伊作が挨拶する。
「まあ、そんなところに座ってないで入ってきなよ。ここは君の部屋でもあるんだから、さ」
くだけた口調で声をかける相手だったが、ほんの一瞬見せた、全身をスキャンするような鋭い視線に伊作は強い違和感をおぼえた。
-この人、もしかしたら…。
だが、その視線だけで相手が忍かどうかを見定める自信はなかった。
-まあいい。ただ、この人にはちょっと注意した方がいいかも知れない…。
「失礼します」
自分が忍たまだということを誰にも知らせていないと廻翁は言っていたが、あるいは自分の不用意な言動で悟られてしまうことは十分ありうる。どのような出方をされてもいいように、にこやかに微笑みながら、学園の寮の倍はありそうな部屋に入る。
「そこが君の文机。私物はそこの押入れを空けておいたから好きに使って…て、君、荷物少ないんだね」
袈裟懸けにしていた風呂敷を解いている伊作を物珍しげに見る。
「はい。短い間なので。それにしても広いお部屋ですね。いつもはおひとりで使っているのですか?」
部屋を見渡しながら伊作は答える。押し入れと対面の壁には二つの大きな書棚が設えられ、一つには本がぎっしり詰まり、もう一つには南蛮の錬金術のような実験器具が並んでいる。
「まあね。あ、まだ自己紹介をしていなかったね。私は永山三紀。よろしく」
「善法寺伊作です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「廻翁先生は私たち弟子の研究環境にもとても気を遣ってくださっているから、このように広い部屋を使わせていただいている。見てのとおり散らかっているけど、本は好きに見ていいよ。実験器具はちょっと危険だから、触らない方がいいかもしれないけど」
「部屋で実験したりすることもあるのですか?」
「もちろん。研究者は実験をしてナンボだからね。仮説と実験の繰り返しが質の高い研究につながる」
「そうですか。それは素晴らしいですね」
伊作は思わず嘆息する。学園でも、もちろん実験をすることはあったが、経費がかけられないため実験材料の確保にいつも汲々としていた。もちろん予算会議で要求したこともあったが、文次郎に『医務室は治療をするところだ! 実験など必要ない!』と一喝されただけだった。だが、ここでは実験材料はふんだんにそろっているようである。学園ではできない実験ができるかもしれないと思うと、伊作はここに来て初めて心が浮き立ってきた。
「う、う~ん…」
布団の中で目を覚ます。外はまだ暗い。身じろぎをしようとしたとたん、頭ががしんと痛んだ。思わず眉をしかめる。
-そうだ…昨日はずいぶん飲まされたんだっけ…。
歓迎の宴で廻翁や弟子たちと親しくなれたのはよかったが、つぎつぎと杯をまわされて、伊作はすっかり酔ってしまったのだ。飲めないことはなかったが、あれほどの大酒は経験がなかった。
-あれ、刀は…そうか。枕元に置いたのだっけ…。
たとえ大酒を飲んだ後でも、夜明け前にきっちり目覚めるのは、学園で身体に叩き込まれた忍としての習性のようなものである。敵が襲撃をかけてくるのは、夜明け前であることが多い。忍たるもの、それに備えて準備を怠ってはならない。いつもなら布団の下に忍刀を隠しておくところだが、そんなことをするのは忍くらいだから、あえて普通の帯刀者のように枕元に刀を置いておいたのだ。
「やあ、お目覚めかい」
布団に身を横たえたままの三紀の声に伊作はびくっとした。
「すいません、永山さん…起こしてしまいましたか?」
三紀が忍かもしれないという疑念は、伊作の中ではいまだ疑念のままぶら下がっていた。だが、だからと言って自分が忍たまであることを示す必要はなかった。少なくとも三紀が自分のことをどこまで知っているか把握するまでは。
「いや。たまたま目覚めただけだ。だがいい機会だ。朝の薬草園を散歩しないか?」
言いながら三紀はすでに身を起こしていた。
「は、はい」
痛む頭を気にしながら、伊作もゆっくり起き上がる。
「いやあ、実に気持ちのいい朝だね。そう思わないか、善法寺君」
「はい…そうですね」
大きく手を振りながらぶらぶら歩く三紀の後ろを、さえない表情の伊作が続く。一歩足を踏み出すごとに、脳天に響くような頭痛がするのだ。とても朝の散歩を楽しめる気分ではない。
「君は若いのにいける口だね」
伊作の青ざめた顔に気付いているのかいないのか、三紀はのんびりと話しかける。
「…廻翁先生はかなりの酒豪だからね。その先生と対等に飲めるんだから大したもんだ。弟子たちもみな感心していたよ」
「…そうですか」
辛うじて返事を絞り出しながら歩いていた伊作がふと立ち止まった。
「これは…なんですか?」
気がつくと、広大な畑の中にいた。周囲は1メートルほどの高さの茎の上に奇妙な卵型の実をつけた草が一面に広がっていた。
「これはね、ケシというんだ」
「あまり見ない種類のケシですね」
「そう。これは天竺から渡来したものだ。この実から阿芙蓉(あふよう・アヘン)がとれる。目下、麻酔の最有力成分として廻翁先生も注目されている植物なんだ」
「麻酔に…」
「君は麻沸散を知っているかい?」
立ち止まった三紀が訊く。
「はい。唐の薬と聞いたことがあります」
だが、はるか昔の薬で、いまは処方も途絶えていると聞いていた。
「そう。天竺の麻あるいはケシから作られたと言われている」
「天竺のケシ…ということは、このケシから作れるのですか?」
そんな半ば伝説めいた薬が、眼の前の材料から作れるというのだろうか。
「ケシはとても危険だ。私は、おそらく先生の仮説は成立しないのではないかと思っている」
薄青く霞がかった朝の空を見上げながら、手を後ろに組んだ三紀は続ける。
「といいますと?」
「きわめて依存性が強い。一度ケシの実から採取した液の精製物を飲んだ者は、きわめて強い幻覚作用に襲われるそうだ。その感覚があまりに強烈なために二度と手放せなくなるという。一方で量によっては催眠作用もあるという。そんな薬で臨床実験をするなど、リスクが高すぎると思わないか」
「まあ、そうかもしれませんが…」
話についていけない伊作は曖昧に答える。
「先生は、華佗(かだ・古代中国の医師)ができたことなら再現することは可能だとお考えのようだ。だが、唐の大昔の医者の半分伝説のような話を真に受けて、こんなに広いケシ畑を作ってしまわれるのはどうかと思う。おまけに、ここの隣には天竺の麻の畑もあるのだ。あそこに行くときは注意した方がいい。あまり長い時間いると、麻の毒気で幻覚作用が見られることがあるからね」
「麻酔いとは違うのですか?」
時期によっては麻の畑で酒に酔ったようなだるさをおぼえることがあるとは聞いたことがあるが、幻覚作用があるという話など聞いたことがなかった。
「そうだね。どうやら日本と天竺の麻は違うらしい。ここに植えてあるのはあくまで天竺の麻だから注意した方がいいと言っている」
「分かりました。気を付けます」
「そうだね。さて、そろそろ戻ろうか。朝食までもうすぐだ」
大きく伸びをした三紀が言う。
「はい」
伊作も倣って大きく伸びをした。見上げた空に数羽の鳥が舞っていた。
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