危険な休暇(4)
「伊作、話がある」
夕刻、一日の研究の手じまいや夕食の準備で屋敷中が慌ただしくなる時間を盗むように、留三郎が天井裏から声をかけてきた。
「わかった。僕についてきて」
呟いた伊作はふと何か用事を思い出したように立ち上がると、人気のない廊下を縫うように歩いて屋敷の外に出て、裏に広がる畑の中で足を止めた。
「ここは…?」
そこは麻畑だった。一面に広がるぎざぎざ形の葉が夕日を浴びて緑色の濃さを増している様子を、戸惑ったように留三郎は見回す。
「気をつけて。留三郎も覆面をして」
短く命じながら伊作が覆面をする。
「ただの麻畑じゃねえかよ。なんで覆面なんかするんだよ」
ぶつくさ言いながら留三郎も覆面をする。
「麻酔いってのがあるだろう?」
口早に伊作が説明する。「ここに植わってるのは天竺の麻なんだ。特に麻酔いが強いといわれていて、門下の人たちもあまり近づかないようにしている」
「なるほどな。それで三紀の薬棚の件、ようやくからくりが分かったぜ」
「からくり?」
覆面の下でも得意げに小鼻を膨らませている様子が目に見えるようである。
「ああ、アイツ、あの薬棚の下に別に隠し扉を作ってやがった。しかも、その鍵は薬種のなかに突っ込んで隠しておく周到ぶりだ」
「そうか…そこに書類を隠してたってわけなんだね」
「そういうことだ」
「で、何が書いてあった?」
「それがだな…」
急に当惑したように眼をそむけた留三郎が頭をがしがしと掻く。「なにがなんだかサッパリ分からなかった。なんだか薬の処方みたいだったが訳わからなくてな」
「そうか。やっぱり毒薬の処方をメモしてたんだね」
顎に手を当てた伊作が頷く。六年生にもなれば基本的な本草の知識は学ぶから、留三郎が全く理解できないと言うからにはそれを上回る高度な内容に違いなかった。
「だから、あとで伊作に解読してもらおうと思って全部かっさらってきたんだ。ちょっと見てくれないか」
言いながら懐から紙束を取り出す。
「ちょ、ちょっと待って」
とっさに紙束を掴む留三郎の手を両手で押しとどめる。
「どうした?」
キョトンとしたように切れ長の眼が見開かれる。
「えっと…その紙束ってひょっとして、隠してあった書類、全部持ってきちゃったの?」
「ああ、そうだが」
何事もなかったように応える留三郎に、気が遠くなりかける。
それじゃすぐに三紀さんにバレてしまうじゃないか、と言いかけて慌てて口をつぐむ。ここは自分も覚悟を決めるしかないと思った。
「わかった。すまないけど、その書類はすぐに新野先生に届けてもらえないか」
一瞬考えた伊作だったが、結論はすぐに出た。
「新野先生に?」
留三郎が意外そうに眉を上げる。
「そう。きっと、僕じゃ手に余る内容だと思うし、もし危険な研究をしていたとすれば急を要する。ここは新野先生にお願いするしかないと思うんだ。だから早く届けてくれないか」
「伊作がそう言うならそうするが…で、お前はどうするんだ」
紙束を懐に戻しながら訊く。
「僕は少しでも三紀さんの動きを封じるように手を尽くす。もし三紀さんが本当にドクツルタケ忍者だったとしたら、書類がないことに気づいたらドクツルタケ城を通じて軍勢を出しかねないから…さ、だから留三郎も急いで!」
「お、おう。わかったよ」
一方的にまくしたてる伊作に急き立てられて立ち去りかけた留三郎が足を止める。「そういや伊作」
「なに」
伊作には珍しく苛立ちを隠さない声が返る。
「あの東庵とかいう偉そうな弟子だけどよ、アイツにも気を付けたほうがいいかもな」
「東庵さんが?」
ぎょっとしたような声を上げる伊作に、留三郎が眉を上げる。
「どうした?」
「いや、だって、僕の見るところ、東庵さんは忍者じゃない」
「たしかにアイツは忍ではないだろうが、アイツの部下のうち少なくとも二人はヒトヨタケ城とツキヨタケ城の手の者だ。それぞれの城の忍者と接触するのを見たからな」
「ヒトヨタケ城とツキヨタケ城…そうか」
不思議と動揺はなかった。三紀がドクツルタケ忍者ではないかと言われた時のことを思い出した。
「…そういえば東庵さんも、門人の人たちをつかって三紀さんを見張らせてるって言ってた」
「ああ。たしかに見張ってるようだったな。まあ、あまりにシロートっぽすぎて三紀にバレバレだったけどな」
「そうだろうね」
だから、東庵の調査はうまくいかなかったのだ。そして、自分に調査をゆだねた。
「東庵もどこかの城とつながってるかもしれない。伊作、気をつけろよ」
心配そうに顔をのぞき込む留三郎だった。
「大丈夫。さ、留三郎はその書類を早く新野先生に届けてくれないか」
あまり人が近づかない麻畑とはいえ、誰に見られるか分からない。焦りを帯びた口調で伊作が出発を促す。
「お、おう…じゃ、伊作も気をつけろよ」
「ああ。留三郎も」
いつしか陽が落ちて、麻の葉のシルエットに留三郎が姿を消すのを見届けると、伊作も葉陰に身をひそめるように麻畑を後にする。
-さて、僕も時間稼ぎをしないと…。
「失礼します」
「ああ、入りなさい」
伊作が向かったのは東庵の部屋だった。
「ちょっとご報告が」
声を潜める伊作に、東庵が軽く眉を上げる。
「三紀の書類を見つけたのか」
「はい」
東庵の眼が見開かれる。
「それで、書類は?」
「新野先生のもとにお送りしました」
「なに?」
見開かれた眼が険を帯びる。
「ここに置いておくと三紀さんに取り返される恐れがありますから」
短く返されて、東庵もそれ以上追及する気になれなかったらしい。
「わかった。で、書類には何が書かれていた。内容は確認したのだろう?」
「いえ、ほとんど見ていません」
「どういうことだ?」
東庵が眼を細める。
「書類は私の仲間が持ち出しました。三紀さんの筆跡は確認しましたが、内容までは読む時間がありませんでした。すぐに仲間には学園に向かってもらったので」
「…そうか。まあいい」
明らかに落胆したように東庵はため息をつく。「とにかく君は、今夜から私の部屋で過ごしなさい。三紀と同じ部屋に戻るのは危険だ」
「その前に、ひとつお願いしたいことがあります」
真剣な眼差しで東庵を見つめながら伊作が膝を進める。
「君、これ、どういうこと?」
壺の蓋を解いた三紀がとがった声を上げる。
「なんの…ことですか?」
びくっと背を震わせた伊作が、上目遣いにおずおずと顔を上げる。
「この壺!」
ぐいと壺を押しやりながら、三紀の声のトーンが上がる。「違うじゃないか、中身が!」
「そんなはずは…」
慌てたように伊作が壺の中身を覗こうとする。
「これが薬に見えるかい? まるきり味噌じゃないか! 実験用の壺はいったいどこにやったんだ、ええ?」
「いえでも…」
伊作は口ごもってみせる。「たしかにいつもの場所に…」
「置いたんだったら中身が味噌になるわけがないよな。さあ、おふざけは終わりだ。さっさと実験用の壺を持ってこい!」
「そんな…はずは…」
「じゃあ、どこかの誰かが壺を入れ替えたというわけだ」
いまや血走った眼で伊作に詰め寄る三紀だった。「だったらそいつから壺を取り返してこい! 今すぐにだ! とっとと行け!」
「そんなことを言われましても…」
部屋の片隅にうずくまった伊作が泣き声を上げる。「ほんとうに、知らないのです…信じてください…」
「…ほう」
ふいに三紀の表情が変わる。「本当に知らないのか?」
「知りません…信じてください…」
か細い声で答えながら、また上目遣いになってちらと三紀を見上げる。
-さあ、いつもならこのへんで『正直に言わないなら、薬はなしだ』って言いだすころだ…。
だが、三紀の反応は違った。腕を組んで伊作を見下ろしながら、満足そうに腕を組む。「どうやら第二段階に達したようだね」
「どういう…ことですか」
いつもと異なる反応と眼に宿った暗い炎に軽く慄きながら伊作は訊く。
「残念だが、阿芙蓉中毒の第二段階、すなわち認知機能の著しい低下が現れてきたということだ。実に残念なことにね」
言葉とはうらはらに楽しそうな口調で近づいてきた三紀がひょいと腰を下ろすと、指先で伊作の顎を持ち上げる。「君に残された時間は、あとわずかなようだ」
「そんな…」
顎を持ち上げられたまま眼をそらす。
「だが、第二段階とはいえまだ君の認知機能は完全には失われていない。さあ、おふざけは大概にして私が指示した壺を持ってくるんだ。そうでないと…」
伊作の顎から離れた指が懐にもぐり、小刀を取り出す。
「ひぃっ!」
悲鳴を上げた伊作が頭を抱えてうずくまったとき、
「いい加減にしなさい」
ガラリと襖をあけて入ってきたのは東庵だった。
「なにっ!?」
三紀が振り返った瞬間、東庵の傍らに控えていた門人二人が素早く駆け寄って小刀を取り上げる。
-ふう、作戦成功。
うずくまったまま様子を見ていた伊作がほっとして立ち上がる。
「君がヒマシ油を使ったよからぬ研究をしていることは分かっている。先生のところで申し開きをしてもらおう」
手を後ろ手に組んだ東庵が厳しい口調で言う。
「たわけたことを」
門人たちに腕を捉えられた三紀が小馬鹿にしたように唇をゆがめて笑う。「たかが小毒のヒマシ油で何をしたと?」
「ヒマシ油と硝石や水銀や烏頭(トリカブト)を合成しているのを知らないと思っているのか」
「もちろん知ってたさ」
まったく堪えていないように三紀は言う。「だが東庵さんよ、あんたももう少し優秀な手の者を使えなかったのかい」
「なんだと?」
東庵の視線がきつくなる。
「こいつらに私を探らせていたようだが」
三紀は左右から腕を捉える二人に眼をやる。「忍者の真似事をさせるにはぜんぜんダメだったな…ツキヨタケ城とヒトヨタケ城とそれぞれ通じてるわりにはな」
「忍者など雇った覚えはない」
東庵の口調は変わらない。「二人とも医者であり、研究者だ。君は違うようだがな」
「私が忍者だと言わんばかりだが」
なおも挑戦的な口調で三紀は言う。「それはとんだ見込み違いだね」
「君が忍者かどうかはどうでもいい。だが、君は君の研究について先生に説明する義務がある」
「東庵さんに言ってやってくれないかね、善法寺君」
唐突に名前を呼ばれてびくっとする伊作だった。
「な、なにをですか…」
「私たちの実験についてだよ。東庵さんが騒ぎ立てるほどのものではないとね」
「…たしかにそれほどの実験ではなかったかもしれません」
押し殺した声で答える伊作だった。
「ほらね。善法寺君もそう言っている」
勝ち誇ったように胸を反らせる三紀だった。
「でも、事務の人たちを買収してまで硝石や烏頭が必要だった理由は、僕には分かりません」
「そうかね。では教えてあげようか」
三紀が見据えたのは伊作ではなく東庵である。「それは、ツキヨタケ城とヒトヨタケ城にメッセージを送るためだったのだよ。私の実験はことごとく失敗しているというメッセージをね」
東庵と三紀の腕を捉える二人がぎょっとしたように視線を交わす。
「私は逃げも隠れもしない。放してもらおうか」
左右の腕を捉える手を振り払った三紀が、なおも口を開く。「アンタたちが私のことを疑っているのはとっくに分かっていたからね。あまり周りをうろうろ嗅ぎまわられては迷惑だ。そのためのメッセージだったのに、東庵さん、アンタは本当に疑い深い人だ。こんどは善法寺君を使って探らせるとはね」
「では、あの実験は意味がないと分かっていて…」
反射的につぶやいた伊作だったが、拭いきれない違和感をおぼえていた。
-このままでは、三紀さんは見せかけの実験で失敗して、別の研究をしていたことになる。だけど、本当にそうなのかな…。
「まるで、失敗を装って裏で成功していたような言い方だな」
東庵が眼を細める。「何をやっていたのだ」
「いい着眼点だ、東庵さんよ」
ふてぶてしい笑みを浮かべる三紀だった。「もうアンタも気づいているようだが教えてやろう。阿芙蓉の精製品の実験だよ」
水を打ったような静けさが流れる。
「…君は、医者の風上にも置けない」
ややあって、東庵が声を絞り出す。「君は前途有為な若者の将来を奪った。先生がどれだけ嘆かれたと思っている。ご心労のあまり、寝込まれてしまったのだぞ」
「それは善法寺君を巻き込んだアンタの責任だろう」
にやついたまま三紀が応える。「まったく罪な男だね」
「くっ…」
東庵が歯を食いしばったとき、
「もういい加減、すべて白状されたらいかがですかな」
庭先からの声に、全員が振り返る。
「新野先生! 留三郎も…いったいどうして」
よろよろと立ち上がった伊作を、すぐに留三郎が駆け寄って支える。
「廻翁先生の手紙に返事をしたが、善法寺君のことがどうにも心配になりましてな。迎えにこちらへ向かっていたところへ、食満君に会ったのですよ」
よっこらしょ、と言いながら縁側へ上がる新野が説明する。「永山君はここでずいぶんいろいろな毒物の研究を進めたようだね。食満君が持ってきてくれた書類はすべて見せてもらいました」
懐から紙束を取り出す。
「な、なぜそれを…」
初めて三紀の声が動揺したように強張った。「善法寺、きさまか…」
うなり声を漏らしながら伊作に向き直る。
「おっと。俺の伊作に手出すんじゃねえよ」
いつの間にか手にしていた鉄双節錕を肩に掛けながら、留三郎が立ちふさがる。「俺たちのこと、知ってんだろ?」
「ああ、たいした恋仲のようだな。だが、お前の恋人はもう阿芙蓉中毒の第二段階だ。いずれ禁断症状で頭が狂って死んでしまうんだよ。お気の毒にな」
「そうでしょうか」
落ち着いた声で伊作が三紀を見つめる。「そもそも、阿芙蓉中毒がどのような段階で進行するか、本当にご存じなんですか?」
「まさに現在進行形で教科書が作られていたところだよ。君の観察という形でね」
高揚した口調で語っていた三紀の表情がふいに固くなる。急にその視線が探るように伊作に向けられる。「まさか…?」
「私も苦労しました」
晴れやかな笑顔で伊作が口を開く。「阿芙蓉中毒なんて、まだこの世に存在していない病がどんな症状なのかなんて、想像もつきませんでしたから」
「だからこそ、誰にも見破りようもなかったということですよ。善法寺君」
にこやかに新野が応える。
「ということは…きさま、まさか…」
「阿芙蓉中毒ではなかった…?」
三紀と東庵が呆然とした口調で言う。
「その通りです」
てへ、と伊作が小さく舌を出す。「でも、中毒症状が出たのは事実ですよ」
「その阿芙蓉を使って、廻翁先生の麻酔研究の向こうを張ろうとした、ということのようですな」
手にしていた書類にちらと眼をやった新野が、ふたたび顔を上げる。
「正確には、廻翁先生の研究をつぶそうとしていた、ということのようだがね」
いつのまにか冷静さを取り戻した東庵の声に、新野と伊作は反応する。
「どういう…ことですか?」
「廻翁先生は、阿芙蓉は麻酔薬の主原料たりえないとして、それに代わる材料を探されていた。そして最近、曼陀羅華(まんだらけ)、つまりチョウセンアサガオの可能性をいろいろ試そうとされていた。だが、それでは都合が悪いとばかりに、先生の曼陀羅華の研究をつぶし、阿芙蓉の使用を続けさせようとした」
「曼陀羅華…なるほど、華陀の発明したという麻沸散にも使われていたといわれているが、その配合は伝わっていない…」
顎に手を当てた新野が呟く。
「でも、どうして曼陀羅華では都合が悪いのですか」
伊作が訊く。
「曼陀羅華は毒性は強いが、中毒性はない。それが阿芙蓉との大きな違いだ」
東庵が説明する。「三紀が阿芙蓉にこだわっているのは、その中毒性を戦に活用しようとしていたからだ」
「戦だって?」
三紀が大仰に肩をすくめてみせる。「阿芙蓉を精製して毒性を高めたところで、それで兵がバタバタ倒れるわけではない。いくらアンタでもそのくらいは分かっていると思っていたがな。東庵さんよ」
「そのとおり」
鋭い眼で睨みながら東庵は応える。「永山君、君が狙っていたのは、敵国をまるごと阿芙蓉中毒にして国力を奪うこと。そうだろう?」
「それって…」
思い当たるように声を震わせた伊作の状態がぐらつく。「どうした伊作!」と慌てて留三郎が支え直す。
「阿芙蓉はとても不思議な症状が出るのです。身体からは力が抜けて動くのもだるくなるのに、頭だけは妙に冴えてくる感じがして…」
「それこそが阿芙蓉の精製物の効果だよ、善法寺君。ただの阿芙蓉では、頭も身体もだるくなるだけだ。だが、精製することによって症状が変わる。それこそが私の調べたかったことなのさ!」
妙に高揚した声を張り上げる三紀だった。「だが、実際のところどっちでもよかったのさ。阿芙蓉だろうがその精製物だろうがね」
「善法寺君がもう少し阿芙蓉の精製物を飲まされていたら、きっと飲むことが快感になり、それが転じて手放せなくなっていただろう。同じことを国中の民がやるようになったら、農民は働かず、兵たちは戦わず、国は中から滅びる。それが狙いだったということだ」
固い声で東庵が説明する。
「そんな大それたことを」
話にならないといわんばかりに三紀は首を振って見せる。「それだけの阿芙蓉をどこから手に入れるというのかね。何千、何万という連中を、しかも継続的にクスリ漬けにするなど…」
「君はすでにかなりの量の阿芙蓉の種をこの屋敷から持ち出している」
東庵の門人の一人が遮る。「本来なら次の植え付けのために保管しているはずの種がまるごと消えている。それだけでも足らず、薬種問屋にも大量に発注していたが、それも消えている」
「君は気づいていなかったようだが、君が宛先を偽装して発送した種がドクツルタケ城に届いていることは把握済みだ」
もう一人の門人も口を開く。「君と違って私は忍者ではないから、代わりに調べてもらったわけだが」
「そして、すでにドクツルタケの領内では秘密に阿芙蓉の大量栽培にも着手しているようだが」
東庵の声が低くなる。「もういい加減、諦めなさい」
「ふっ」
三紀が顔をそむける。「アンタにしては面白い話だな。だがすべて嘘だ。どこに証拠がある」
「証拠ならありますよ」
駘蕩とした声に「なんだとっ?」と血走った眼で三紀が振り返る。
「うっかり処分し忘れたようだが、食満君が持ってきてくれた書類の中に、ドクツルタケ城からの指令書がありましたよ。阿芙蓉の種を至急調達せよと」
懐から書類を取り出してヒラヒラさせたのは新野である。
「ふざけるな!」
飛びかかろうとする三紀を「お前こそな!」と言いながら留三郎が組み伏せようとする。
「そうはいくか!」
床に身体を転がされる前に留三郎の手から逃れた三紀が、庭に飛び降りる。
「茶番は終わりだ。せいぜい探偵ごっこの続きを楽しむがいい」
そして前栽を飛び越えて姿を消した。
「休まなくていいのか。まだ道中は長いぞ」
「大丈夫。少し動いたほうが、早く毒が抜けるような気がするし」
学園に向かって歩く新野と伊作、留三郎だった。
「そうですな。永山君が盛った量は大したことはなかったようですし、身体を動かして代謝を活発化させれば、毒も抜けやすいでしょう」
新野の言葉に留三郎も安心したようである。
「ならいいのですが、ムリすんな、伊作」
「うん。分かってるよ、留三郎」
応える伊作の足取りがしっかりしているのを見た留三郎が、ふいに新野に訊く。
「ところで新野先生」
「なんですか?」
「あの永山三紀というヤツ、あのまま逃がしてしまっていいのですか? 阿芙蓉とかいう危険な薬をドクツルタケでたくさん作ってるという話でしたが」
「ああ、それなら大丈夫でしょう」
何ごともなかったように応える新野だった。「ツキヨタケ城とヒトヨタケ城は、すでに阿芙蓉の栽培地を特定したようです。これから何らかの破壊工作をすることでしょう。あとは任せておけばいい」
「ということは、東庵さんのあのお弟子さんたちはやはり、ツキヨタケ城とヒトヨタケ城の関係者だったということですか」
「君たちも見て分かったでしょうが、あの二人はどう見ても忍者ではありません。学者です。それぞれの城の忍者との連絡要員に送り込まれたのでしょう。とはいえ、廻翁先生が心配されていた以上にいろいろな城の者が潜り込んでいることが明らかになりました」
小さくため息をつく。
「あれほどの研究環境はなかなかありませんから、入門希望者もたくさんいます。紛れ込むのは簡単だと思います」
あのようなミッションがなければもっと長くいたかった、と思いながら伊作が呟く。
「廻翁先生も今回のことで懲りたようですから、これからは少し気を付けられるでしょう…麻沸散の研究もまだまだ続けるおつもりのようだが」
「先生は、そういう研究はされないのですか」
新野ほどの医師なら、廻翁のような最先端の医術の研究に心動かされないはずがないと思う伊作だった。
「私は忍術学園の人間ですよ」
軽く微笑んで新野は言う。「学園は生徒たちの月謝で運営されているのです。私が勝手な研究をするくらいなら、用具委員会の修補の予算に回した方がよほど有意義というものです」
「でも先生、それが先生にしかできない大事な研究だとしたら…」
留三郎が言いかける。たしかに用具委員会はいつも予算不足だが、多くの命を救いうる研究と天秤にかけ得るものだろうかと思う。
「大丈夫ですよ、食満君」
留三郎らしいまっすぐな思いだ、と感じながら応える。「私は筆を動かすより手を動かしているほうが性に合ってましてな。現場で治療に当たっているほうがいい。だから、難しいことを考えるのは廻翁先生のような人たちに任せているのです。適材適所というものですな」
「お前はどうなんだ、伊作」
「僕かい?」
話を振られた伊作が首をかしげる。「僕はまだまだ修行中だからね。自分が研究向きなのか実践向きなのかなんて決められる段階じゃないよ。留三郎と違って」
「俺? 俺が何のタイプだっていうんだよ」
「自分で言ってるよね。戦い好きだって。作戦考えるより身体が動いちゃうってことだよね、それって」
「んだよ。俺だって作戦くらい考えるぜ」
「そうかなあ。それじゃ、あとで文次郎に聞いてみようかな」
「待て、アイツにだけは聞くな。アイツに聞いてもろくな答えは…」
「ライバル同士、案外冷静に見てるかもしれないよ?」
まぜっかえした伊作が小走りになる。
「おい、待て伊作! あのギンギン野郎にそんなこと期待すんな!」
「待たないっ。早く戻って文次郎に…」
「だからあのバカの名前をいちいち出すんじゃねぇっ!」
駆け出した伊作を追って留三郎が走り出す。
-だが、私も無関係を決め込むことはできない。
ふざけ合いながら走る二人の背を見る新野の視線が、力を帯びる。
-あの子たちのすこやかな将来のためにも、悪しき意図は全力で潰す。それが医術者たるわれわれの責務なのだ…。
<FIN>
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