危険な休暇(3)
「ずいぶん熱心に勉強しているね」
部屋の片隅で文机に向かっている伊作に、三紀は声をかける。
「はい。廻翁先生のご許可をいただいたので、お借りした本を写しているのです…とても素晴らしい内容なので」
だから急いで写してお返ししないと…と付け加える。
「なるほど。だが、見たところ今日のところはもう集中力が途切れてしまっているようだが」
三紀に言われるまでもなく、先ほどから伊作は筆を取り落してばかりである。どうにも指に力が入らないのだ。
「おっしゃる通りですね」
苦笑した伊作は、本を閉じると筆先を筆洗ですすぐ。どうやら疲れが出ているらしい。新たな知識を得ることは刺激的な喜びであったが、同時にひどく疲労を伴うことでもあった。おまけにもう一つ課された任務のために常に神経は張りつめ、怪しまれないための下働きは肉体に疲労を積み増していた。
-それにしても、今まで感じたことのないことばかりだ。
突然手が痙攣したように震えたり、指先から力が抜けたり、時折感じる立ち眩みや動悸は、いずれも伊作の若い身体が今まで経験したことのないものばかりだった。
-あの麻畑の毒気のせいなのだろうか…。
あの朝、三紀に教えてもらった天竺の麻の持つ毒気のせいかもしれないという疑いが芽生えつつあった。麻の畑には近づかないようにしていたが、毒気が屋敷まで流れてきているかも知れない。そして、ここに長くいる廻翁や門人たちにはできている免疫は、自分にはないのだろう。
「いい薬がある。君にぜひ処方してあげよう」
悪戯っぽく笑った三紀は立ちあがると、戸棚から酒の入った酒壺を取り出した。
「いやしかし、僕はまだ…」
飲めないとは言わないが、先日の大酒以来、あまり酒を口にしたい心境ではなかった。特にこの屋敷にいる間は。それも相手は三紀なのだ。
「酒は百薬の長ということくらいは知っているだろう? ここは私の処方を大人しく受けるべきだよ、善法寺君」
そう言いながら、すでに伊作の手には濃い白濁の液体が満たされた湯呑が持たされている。
「は、はい…ありがとうございます」
半ば強引にすすめられるままに湯呑を口にする。
「!」
液体を一口含んだ伊作は、思わず眼を見開く。
-これ、なんておいしいんだろう…! 留三郎にも飲ませてあげたいな!
とっさに最も近しい友人と分け合いたいと思ってしまう自分に苦笑する。そして、その様を想像してしまうのだ。きっと留三郎なら弾んだ声で言うだろう。「おっ! これうまいな、伊作!」と。
「どうだい。疲れも吹っ飛ぶだろう?」
三紀の声で伊作は我に返った。
「はい…! こんなにおいしいお酒は初めてです」
「これは博多練絹という。練絹のような色合いといい、芳醇な甘酸っぱさといい、当代最高の酒のひとつだよ。これでも百薬の長の効能を君は否定するかい?」
「いいえ! 疲れが吹っ飛ぶような気がします!」
まだ湯呑の半分も飲んでいないのに、もう伊作は陽気な口調になっている。
「それは祝着だね。ささ、もっと飲んだ飲んだ」
酒壺を構えられては仕方がない。伊作は残りの酒をぐっと空ける。
「それにしても、このお酒、すごくお高いのではないのですか?」
何杯となく酌み交わしながら雑談をしていたが、伊作はさっきからあまりに気前よくすすめる様に気が気ではない。
「なに、たいしたことはない」
三紀もさすがに酔ったのか、頬が染まっている。「練絹は武将たちが出陣前の景気づけに飲むともいわれているが、所詮酒は酒だ。いつまでも飲まずにおいては酢になってしまう。それならば同室の仲間と酌み交わす方がはるかにいい」
「おっしゃる通りです」
気軽に伊作も同意して頷こうとする…と、急に上半身の力が抜けて床に伏せてしまいそうになる。
「おっとっと…」
慌てて片腕をついて上体を支える伊作をちらりと鋭い眼で捉えると、すぐに三紀は元の表情に戻って伊作の湯呑に酒を足す。そして自分の湯呑にも注ぎながら何気なく言う。
「それにしても、監視対象と同じ部屋で寝起きしなければならないとは、君も難しい立ち位置だね」
「何を…おっしゃりたいのですか」
片腕で苦労して上体を持ち上げていた伊作の声が強張る。
「別に」
いなすように言い捨てて湯呑を口に運ぶ。そして再び顔を上げた三紀の眼は、鋭く伊作を捉えていた。
「…だが、あまり私のことを嗅ぎ回ってもらっては困るね。とても目障りだ」
「どういう…ことですか」
視線に射すくめられた伊作が辛うじて声を絞り出す。
「特に伝票を漁られたのは困ったよ。せっかくあの脳たりんの事務員たちを手なずけたというのにね」
「…」
「むしろ、君には私の助手になってもらわなければと思っていたところなんだよ」
湯呑を置いた三紀がおもむろに立ちあがる。ゆっくり歩を進めて座り込んだままの伊作に向かって上体をかがめる。
「な…」
何をする、と言おうとしたが、舌が強張って動かない。
「…そろそろ薬が効いてきたようだね」
-薬、だって!?
いつの間に仕込まれていたというのだろう。十分注意していたはずなのに。
「君が飲んだのは阿芙蓉(あふよう・アヘン)の精製物だよ。阿芙蓉よりもさらに効き目が高い代物だ。君が飲んでいる湯呑の内側にたっぷりと塗っておいたが、さすがの君も練絹の濃い味にごまかされたようだね。だけど、君には、実はずっと前から阿芙蓉の精製物を飲んでもらっていたということも、知っておいても損はないかもね」
-阿芙蓉を…前から飲んでいた? そうか、手が震えたり力が抜けたりするのも…!
自分の身体に訪れた異変の原因を思わぬ形で知らされる。
「ついでに言うと、阿芙蓉には神経作用のほか幻覚作用がある。その精製物だから、効き目はまだ未知のエリアだ。つまり君はいま、最先端の薬物の効果を満喫しているというわけだ」
三紀の手が伊作の着物の袷をゆるゆると押し開く。肌が露わになる感覚が、なぜかひどく淡かった。
「これがおそらく廻翁先生が求められている麻酔効果のひとつだ。どうかね、君の全身から力が抜けているところだろう。もうすぐ君は上体を支えることもできなくなる」
三紀の言葉をなぞるように、上体を支えていた腕から力が抜けていく。気がつくと上半身が裸のまま床の上に仰向けに伸びていた。
「だが、君の頭はこれまでにないほど冴えているはずだ。きっと君はいま、世界で最も頭のいい人間になっているはずだ。君の頭の中にはとてつもなく素晴らしいアイデアが渦巻いているだろう。どうだい、世界の頂点になった気分は…だが、それは所詮幻覚にすぎないんだよ」
いつの間にか三紀の手に剃刀があった。
「…君はきれいな肌をしているね」
剃刀の刃が胸に押し当てられる。
「だが、今の君はこの刃で肌を切り開かれても何も感じないはずだよ。実に残酷なことだと思わないかい? 意識はフル回転しているというのに、身体はもはや死体同然なのだから。だけど、本当の地獄はこれから始まる」
ゆっくりと楽しむように剃刀をすべらせると、今度は頸動脈の真上で刃を止める。
「薬の効果が切れたときが、君の地獄の始まりだ。あらゆる拷問より激しい禁断症状が君を襲う。君が苦痛から抜け出せるのは、薬を飲んだ時だけだ。そして薬の効きは徐々に短くなり、君は薬なしでは生きて行けなくなる。ついに薬がまったく効かなくなった時が君の最期となる」
刃はまだ頸動脈の上で止まったままである。
「そうなるまでの間は、君は私の奴隷になる。君が役立つ間は、私は君に薬を与える。もし君が変な気を起こしたときには、君に薬は与えられず、禁断症状というお仕置きが待っている。すでに君の身体は阿芙蓉を忘れられなくなっているはずだ。つまり君の運命は私の手の内にあるということだ」
伊作に顔を寄せた三紀は続ける。
「…だからね、実のところ剃刀など必要ではないんだよ。君はすでに中毒を起こすのに十分な量の阿芙蓉を摂取してしまったのだからね」
「…」
少しの間とろんとした眼で三紀を見つめていた伊作が、ゆっくりと顔をそむけた。
「どうかね、善法寺君は」
「あまり芳しくありません」
夜更けの廻翁の座敷に、東庵が訪れていた。
「どういうことかね」
廻翁の口調は変わらない。だが、重くたるんだ瞼の下から覗く瞳が鋭さを増している。
「三紀がどんな手を使ったか分かりません。ですが、してやられました…同じ部屋にしたのは失敗でした。まさか阿芙蓉中毒にさせてしまうとは…」
三紀が伊作に阿芙蓉を飲ませた夜のやりとりは、実は東庵の部下の一人が捉えていた。報告する東庵の声には深い懊悩が刻まれている。
「…そうか」
小さくため息をついた廻翁は、しばし黙り込んだ。
「…新野君には悪いことをしてしまったようだ」
苦しげな声が絞り出される。
「新野君が本当に大事にしていた弟子の将来を、私は奪ってしまったかもしれない。三紀が阿芙蓉を隠れて手に入れていたことを掴んでいたにも関わらずだ。一人の有為な若者の将来を…」
最後は呻くように声が絶えた。
「とにかく、このまま善法寺君を置いておくわけにはいきません。至急、新野先生にお知らせして、引き取らせるべきと思います。阿芙蓉の中毒がどのくらい重いかは分かりませんが、このまま三紀の側で阿芙蓉を飲ませ続けるよりは…」
「そうだな、そうだった…」
ふたたび重いため息とともに廻翁は立ちあがる。
「新野君に手紙を書く…」
「善法寺君、新野先生からのお使いが来ているよ」
門弟の一人が声をかける。
「はーい、いま行きます」
顔を上げたときには門弟の姿はすでになく、数人の門弟が慌ただしげに書類や薬壺を抱えて小走りに廊下を移動する姿だけが眼に入った。
-誰だろう…。
玄関先に佇む青年の影に、伊作の表情が輝く。
「留三郎!」
「よっ」
軽く手を挙げて笑いかけた留三郎だったが、その動きが止まる。駆け寄ってきた伊作が、指先で肩を捉えながらそっと身体を寄せてきたから。
「お、おい…伊作?」
女のようななめやかな動きに、留三郎はうろたえた声を上げる。
「留三郎も僕を抱いて」
あえて矢羽音ではなく耳元に寄せた口から発せられた声に、留三郎はたじろぎながら周囲に眼をやる。
「ど、どういうことだ…!」
あるいは男ばかりの寮生活で同室の友人が衆道に目覚めてしまったということなのだろうか。だが、その友人がほかでもない自分を求めてきた場合、友として自分はどう振る舞うべきなのだろうか。そもそもここは高名な医家の屋敷の前で、しかも昼日中の往来のど真ん中である。
「ねえ、留三郎」
頭の中を駆け巡るいくつもの考えにフリーズ状態の留三郎の表情にまったく気づかないように、熱っぽい眼で見つめながら身体を寄せてくる伊作の口から思いがけない言葉が漏れた。
「…見張られている」
「んだと?」
はっと現実に引き戻された留三郎が、思わず鋭い視線で周囲に眼をやる。
「周りを見ないで。気付かれる」
耳元の口がさらに近くなる。
「誰に見張られてるというんだ」
声を潜めて留三郎が訊く。
「永山三紀という、僕と同室の研究生。ドクツルタケ忍者らしい」
「ドクツルタケだと!?」
思わず顔を離して伊作を凝視しようとしてしまう。だが、肩を捉えた指に力がこもって、より留三郎の身体は伊作に押し付けられる。
「抱いてって言ったよね」
いまや苛立ちさえ混じった声で伊作は耳元でささやきかける。「早くして」
「お、おう…」
留三郎の腕が、ためらいがちに自分に寄せられた身体に回される。最初はそっと、やがて力強く。
「右腕をもう少しあげて。そうすれば僕の口元が隠れる」
男の腕の下で喘ぐように顔をそらせた伊作が低く言う。
「こ、こうか…?」
伊作の頭を抱え込んでいた右腕を持ち上げる。左腕は伊作の細い背中を捉えて傍からはしっかりと抱きしめているように見えるはずである。
「それでいい」
心なしか潤んだように見える眼で見つめる伊作に、留三郎の身体が火照りをおぼえる。
-な、なんなんだこれは…。
あくまで人の眼を欺くための芝居であり、しかも相手はこの六年間もっとも間近に過ごしてきた男である。それなのに自分はいま、恋する者を掻き抱いているような心の高ぶりを感じている…。
「…それで、そのドクツルダケ忍者が何をしようとしているんだ」
今は任務が優先だ、と軽く頭を振った留三郎は、伊作の耳にみそかごとをささやきかけるように顔を近づける。
「新しい毒物の研究みたい。いろんな危険な薬物を使って実験しているけど、廻翁先生が麻酔の研究で毒物を扱われているから周りをうまくごまかしている。むしろ、そのような研究をしているから三紀のような人物が送り込まれているのかもしれない。それに、他にも忍が潜り込んでいる可能性がある。留三郎…」
不意に伊作の口調が変わった。声が小さく震えている。それはすぐに全身に広がり、伊作の身体は留三郎の腕の中で小刻みに震えていた。
「実は、僕はもうあの人に怪しまれている。あの人は僕を阿芙蓉(アヘン)中毒にしようとしたんだ。たぶん量を間違えたおかげで、中毒にならずに済んでるけどね」
「阿芙蓉の…中毒?」
どれがどういうものか全く見当がつかなかったが、震えている身体を支えるように腕に力を込める。
「とても危険な薬らしい。中毒になると、薬なしではいられなくなる。あの人は僕が中毒になったと思いこんでいるから僕もお芝居をしているけどね…本当に中毒になったら、薬のためなら殺しでもなんでもするようになるらしい。そうやって、あの人は僕を支配しようとしている」
冷静に説明しようとする伊作だったが、その声は震えている。
「…僕はこわいんだ。これ以上あの人をだましとおせるか自信がない…もしばれたら、どんな方法で殺されるかも分からない。毒薬についての知識はすごい人だから…それに、もしかしたら僕の気付かないうちに遅効性の毒を飲まされているかもしれないんだ。だから…」
「いい。もういい、伊作!」
気がつくと伊作の身体を本気で抱きしめていた。あんなにおびえた眼を初めてだった。
「俺と学園に帰ろう。任務は終わってないが、新野先生には俺も一緒に謝りに行ってやる。こんな危ないところにお前ひとり置いていけるか…!」
「でも…」
「でももクソもあるか! これ以上身を危険にさらしてまでやる必要がどこにある! お前に何かあったらどうすんだよ!」
「留三郎…」
激した友人の口調に、却って冷静になる自分がいた。この友人がいるなら、こんなに心配してくれるなら、もう少し頑張れるかもしれない…。
「心配してくれてありがとう。でも、もう少しだけやらないといけないことがあるんだ」
「やらないといけないこと?」
伊作の声に冷静さを取り戻した留三郎が、抱きしめる演技を続けながらささやきかける。
「僕はまだ、三紀さんの正体を暴いていない。彼が何をしようとしているかも」
「その前に、そいつにもっと毒を盛られるかもしれないんだぞ」
「そう。その危険がある。だから…」
頬が触れるほど顔を近づけてささやく。
「協力してほしいんだ。まずは用が済んで帰ったふりをして、それからこの屋敷に潜り込んでほしいんだ…」
「わかった」
伊作から少し顔を離して言う。「お前も気をつけろよ」
言いながら、身体の陰になって見えないように懐から取り出した手紙を伊作の懐に押し込む。
-新野先生から預かった手紙だ。読み終わったら燃やすように言いつかっている。
素早く矢羽音を放つと、何ごともなかったように身体を離す。
「新野先生からのお手紙だ。廻翁先生にお渡しするよう言付かっている」
改めて懐に手をやって、奉書紙に包まれた手紙を取り出す。
「わかった。先生にお渡ししておく」
「頼んだぞ。じゃあな」
先ほどまで熱く抱きしめていたとは思えないほど淡白な口調で軽く手を上げると、留三郎は往来の雑踏に姿を消した。
「君のお師匠様のお使いは、ただ者ではなさそうだね」
部屋に戻った伊作を、書を読んでいた三紀が皮肉な眼で見上げる。
「そうですか?」
自分の文机の前に座りながら伊作は言う。もはや監視していることを隠そうとさえしなくなった三紀がうとましかった。
「恋人を使いに立てるとは、君のお師匠様はずいぶんさばけたお方なんだね」
「恋人ですか…まあ、そんなものかも知れません」
もはや伊作も否定しない。そっけなく答える。
「人目もはばからず門前で公然と抱き合うとはね…まったく今の若い子はたいしたもんだよ」
「はい。ずいぶん久しぶりに会いましたので」
「久しぶり、ね」
三紀の眼が細められる。「君はここに来てまだ数日しか経っていないのだがね。それでも久しぶりというなら、それすら長く感じられるほどの恋仲ってことだね」
「はい」
面倒になった伊作はあっさりと頷く。「本当なら一日だって別々にいることなんてありえません」
「おやおや、ごちそうさま」
ついに三紀が肩をすくめて書に眼を戻す。
「だが、故意だか偶然だか知らないが、君のお相手はなかなかの手練れらしい。ちょうど君の口元に腕を回していたから、君が何を言っているのか見えなかったよ。実際、何を言っていたのかな」
「そんなヤボなことを訊かれるとは、三紀さんらしくありませんね」
「ほう…言いたくないなら構わないが、今日の分の薬はお預けになるまでだよ」
「…言えばいいんですか」
「そう、その通り…子どもはもっと素直でないといけないね」
「彼に言われましてね。『様子がおかしいから一緒に帰ろう』と。だから、『ここでやるべきことがあるから、もう少し待って』と答えたまでですよ」
「ほう。それだけかね」
「見ていたならお分かりのはずですが」
顔をそむけながら伊作は呟く。「息もできないくらい抱きしめられていたんですよ」
「なるほどね」
にやりとしながら三紀が言う。「薬がかかると、正直になるものだ」
「分かってくださったなら、薬をください」
「ほら、ご褒美だ」
三紀が放った丸薬を両手で受け止めると、そそくさと背中を向けて竹筒の水とともに飲みこむ振りをする。
-この芝居がばれたとき、僕は殺されるかもしれない。
と思いながら。
「ごほうびついでに用がある」
横目でその様子を捉えていた三紀が立ちあがる。「来い」
「これは…?」
台盤所の裏にある味噌蔵に伊作は連れ込まれた。
「見てのとおり味噌蔵だ。もっとも私の預かりものもあるけどね」
「預かりもの?」
「これだ」
蔵の壁に作りつけられた棚にはずらりと味噌壺が並ぶ。その下に、目立たぬようにいくつか壺が並んでいた。
「この壺を」
その中の一つを三紀が指差す。「夜のうちに我々の部屋に持ってきて、朝一番にここに戻す。それが君のミッションだ…もちろん、このことは他言無用だ。分かってるね?」
「…はい」
「ついでに君には実験も手伝ってもらう。君が優秀な助手になりうるか、腕の見せ所だよ?」
「…はい」
-アイツが永山三紀ってヤツか…。
帰ったように見せかけた留三郎は、すぐに廻翁の屋敷に潜り込んでいた。伊作と三紀の部屋もたやすく見つけた。だが、三紀の動きを追うのに難渋していた。
-くそ。隙がねえ…。
留三郎の見立てでは、三紀は手練れといえるほどの忍ではない。だが、一通り基礎は身に着けているらしく、身辺の気配には警戒を怠らない程度の動きは見せていた。
伊作が廻翁たちと研究をしたり、屋敷の下働きで動いているあいだ、三紀はたいてい何やら書き物をしていた。伊作から書いたものをどこにしまっているか探るよう頼まれていたが、忍らしく隙のない動きに留三郎も近づきかねていた。
伊作から、三紀の使っている押し入れの奥に薬棚があることも聞いていた。もちろん留守中に探ってみたが、薬種がぎっしり詰め込まれているだけだった。もっと細かく探そうとしたところに三紀が戻ってきたので慌てて姿を隠したので、それ以上探ることもできずにいた。
-まあいい。ヤツだって四六時中警戒できるわけがねえ。必ず隙が生じるはずだ…。
その一方で、留三郎は、この屋敷の中で怪しさを感じる人物を三紀のほかにも見出していた。
「すまない。なかなか隙を見せないヤツでな…」
翌日、三紀が用足しに立ち去った部屋に留三郎が現れた。その表情には焦りが色濃い。
「仕方ないよ。お屋敷の人たちも何度も彼の正体を探ろうとしたけど、歯が立たなかったそうだから」
ため息交じりに伊作が応える。「だから、留三郎も気をつけて」
「わかった」
「彼は忍者かも知れないから」
「わかってる…だが」
「どうかした?」
留三郎は、自分の任務よりも憔悴しきった伊作の方が気がかりだった。
「大丈夫かよ。顔色が悪いぞ」
「ああ…夜更かしに付き合わされていてね」
「夜更かし?」
「三紀さんが寝かせてくれないんだ…ヒマシ油からなにかの毒物を合成しようとしていて、その実験を手伝わされてるんだ」
「ヒマシ油から?」
「そう。硝石や水銀や、いろいろな毒物を割合を変えながら混ぜている」
ゆっくりと顔を横に振る。「混ぜ込むものがものだから、きっと何らかの毒物の合成だと思う。それに、あれだけたくさんのヒマシ油の壺をわざわざ味噌蔵に隠すほどだから、誰にも知られたくないもののはずなんだ」
「そっか…それじゃ伊作も気をつけろよ」
「うん。留三郎も」
それだけのやりとりで留三郎はふたたび姿を消した。
-何も知らない留三郎をどこまで巻き込んでいいのだろう。
再び部屋に独りになった伊作は考える。
-留三郎にはああ言ったけど…。
新野からの手紙はとうに焼き捨てたが、その内容は今も強い衝撃とともに頭にこびりついている。
-ヒマシ油の搾りかすにそんな猛毒があるなんて知らなかった…いまのところ、三紀さんはヒマシ油に何かを混ぜて毒物を作ろうとしているから、猛毒を開発してしまうリスクはないけど…。
だが、三紀はヒマシ油の搾りかすも保管していた。いずれは搾りかすに着目するだろう。
-先生の手紙によれば、ヒマシ油の毒は苦みが強いから、食事に仕込んで毒殺するには向かないだろうということだったけど、そんなに強い毒なら矢じりや忍刀の刃に塗れば相手を倒しやすくなる。でも、その程度の用途ならトリカブトの毒でも十分だ…いや、待て待て…もっとほかの用途を考えて
いるはずだ。
床板をじっと見つめながら考える。
-…それだけ毒が強いなら、暗器に使うのかもしれない…たとえば、寸鉄の先端に塗りつけて、ターゲットをすれ違いざま刺すとか。いずれにしても、三紀さんが搾りかすに手を付ける前に、この研究をやめさせないと…。
Return to 危険な休暇(2)
Continue to 危険な休暇(4)
Page Top ↑