危険な休暇(2)
「善法寺君といったね。君、なかなか評判だよ」
廻翁の講義の後、講堂の掃除を始めようとした伊作に皮肉な言葉をかけたのは、廻翁の高弟のひとりである味岡東庵である。
「は、はあ…」
腕をまくって襷をかけようとしていた伊作が眼を丸くして振り返る。
「どういうことでしょうか」
「越生廻翁先生の門下では珍しいキャラクターということだよ。いろいろな意味でね」
「はあ」
後ろ手に組んで立っている東庵は、三十代になったばかりの中肉中背だが、その眼はいかにも少壮の有能な研究者らしい鋭さを持っている。
「下働きに雇われたわけでもないのにこうやって掃除しようとするところもそうだし、やたらとドジなところもね」
「ああ、そういうことでしたか」
苦笑しながら頭を掻く。「短い間とはいえ、有難い知識を教えていただいているわけですし、皆さんのお世話になっているわけですから、掃除くらいは当然のことです。それに、ドジなのは天性のことなので」
「なるほどね」
口角を少しゆがめて皮肉っぽい笑いを受けべたまま東庵は続ける。「ところで君は三紀をどう思う」
「どうと言いますと…?」
「同じ部屋にいるなら分かるだろう。彼がどのような研究をしているかを」
ふいに東庵の声が苛立ちらしい感情を帯びる。「彼が何に関心を持っているかは明らかだ。烏頭(ウズ・トリカブト)、狼毒(ロウドク・トウダイグサ)、昇汞(ショウコウ・塩化第二水銀)、みんな毒物ばかりだ」
「そうなんですか? 知りませんでした」
そのようなものに関心を示しているとは聞いていなかったし、部屋にある本や実験材料にもそのようなものは見当たらなかった。
「とにかくそうなのだ。過去にはずいぶん多く手配して何やら実験をしていたようだが、その結果がどうだったのか明かされたことは一度もない。先生は鷹揚だから本人が報告してくるまで待つとのスタンスだが、本当にそれでいいのか、私にはきわめて疑問だ」
口調に苛立ちが増す。
「そういうことでしたか」
否定も肯定もしないよう、注意深く言葉を選ぶ。東庵が何を言いたいのかまだ見えなかった。
「いやしくも我々は医者であり、研究者だ。人の命を救うために学んでいる。本草も医術もそのための手段だ。だが、彼はその手段を悪しき目的に利用しようとしているようにしか思えない…ちょっといいか」
周囲に誰もいないのを素早く視線を送って確認すると、東庵は伊作を襖の陰に引き込んだ。
「三紀はドクツルタケが送り込んだ間者という噂もある」
伊作の耳元で東庵の嗄れ声が低く響いた。
「ドクツルタケ城の…忍者ということですか?」
驚いた伊作がまじまじと東庵の顔を見つめる。
「そういう噂もある、ということだ。知ってのとおり、ドクツルタケは戦も強いが、とかく暗殺の噂が多い城だ」
ドクツルタケ城が絡んでいるといわれる暗殺事件が多いことは、伊作も知っていた。
「ということは、三紀さんは新たな毒薬の研究のために…?」
「それを君に探ってほしいのだ、善法寺君」
「ぼ、僕にですか!?」
思わず声が上ずる。
「静かに」
東庵が再び鋭い視線で周囲を探る。
「しかし、僕はほんの十日かそこらお世話になるだけの身です。そんな大それたことができるとは…」
声を潜めて抗弁しながら、この高弟は自分の属性を知っているのだろうかとふと考える。
「だからこそ、なのだ」
不意に東庵の声が普段と変わらない調子に戻る。
「だからこそ?」
「ここにいる期間が短いからこそ、君が余計な情報を知る機会は少ないと考えるのが普通だ。だから三紀が君には尻尾を見せる可能性が高い」
「しかし、毒薬に関する知識など、僕には…」
新野から引き継いだ膨大な本草の書には当然毒薬に関する知識も含まれていたが、それは伏せて伊作は逡巡するように言う。
「彼はいつも文机で何やら書き物をしているだろう」
不意に東庵が伊作の顔から視線を放した。「だが、その書いたものをどこにしまっているのか見た者はいない。おそらくどこかに厳重に隠しているのだろう。何度か廻翁先生の講義中に彼の部屋を探させたことがあるが、どうしても見つからなかった」
ふっとため息をつく。
「…君なら探せるだろう。少なくとも、彼がどこに隠しているかを見るチャンスがあるはずだ。それを教えてくれればいい。そこに何が書かれているかを見ることができれば言うことはない。もちろん、成功すれば相応の礼はする」
「そう言われましても…」
言いかける伊作の肩を東庵の手が捉えた。
「ことによっては廻翁先生が暗殺されるリスクがあることを、我々は深く憂慮している。言いたいことは分かるね」
「…考えさせてください」
小さく肩を振って東庵の手から逃れると、伊作は早足で水を汲みに立ち去った。その後ろ姿に眼をやっていた東庵も、ふと伊作の肩を捉えた手に視線を落とす。
-あの善法寺伊作という男、華奢に見えてずいぶん筋肉質だったが…なにか特殊な訓練でも受けているのだろうか…?
-ややこしいことに巻き込まれてしまったな…。
桶に汲んだ水で雑巾を絞りながら伊作は考える。
-どうやら東庵さんは僕が忍たまであることは知らないようだ。だけど、三紀さんがドクツルタケ城の忍者かもしれないとは…新野先生のご心配が本当だったということか…。
床を蹴って雑巾をかける。じっと座りこんで考えるよりも、身体を動かしていた方がより考えが整理できる気がした。特にこの屋敷に関わる人々の込み入った意図を整理するためには。
-そうでなくても新野先生から承った任務はむずかしいのに…。
壁に達してターンするとまた駆け出す。
-だけど、永山三紀さんに疑惑が集中していることは、むしろ好都合かも知れない。
新野が伊作に与えた任務は、廻翁のもとで本草を学ぶだけではなかった。
「廻翁先生は、現在の日本でもっともハイレベルな研究を行っているひとりです。当然、多くの門人が先生を慕って集まってくる」
新野は言った。「しかし、中には悪しき意図を持った者もいるようです」
「どういうことでしょうか」
あの日、蟾酥を取ってきたばかりの、泥遊びから帰った子どものように泥だらけだった自分に新野は告げたのだった。
「廻翁先生の高度な本草の研究からは、意図せず危険な毒物が発見されてしまうリスクがある。そうでなくても兵器に転用しうる毒物に関する知識の集積もある。これまで先生は研究に資する頭脳を持つ人間はどんどん門人としてこられたが、どうやらその中には先ほど言ったような者が紛れ込んでしまっているのではないか、と心配されて私に相談してきたのです。そのような者をあぶり出したい。すぐに破門することはないにせよ、危険な研究から手を引かせるよう働きかけたいと望まれている」
「しかし、そのようなことができるものでしょうか」
多くの門人の中から、あるいは何人もいるかもしれないそのような者を探し出すことなどできるものだろうか。まして、自分の休暇は短いのだ。
「廻翁先生は、そのような危険な手合いはどこかの城の間者ではないかと疑っておられる」
「間者…忍ということですか?」
「まだ証拠があるわけではありません。だから、ぜひ調査してほしいというのが廻翁先生の依頼です」
新野の話はそこで終わった。なぜなら、そこへ医務室に現れた左近が「伊作先輩、そんな泥だらけで何してるんですか! 早くお風呂に入ってきてください!」と言って医務室から追い出されてしまったから。
-東庵さんのお話がどこまで事実かは分からない。だけど、三紀さんがドクツルタケの忍とすれば、そして暗殺用や兵器になるような毒薬を研究をしているのだとすれば、つじつまが合う…。
伊作はすでに、部屋にこれ見よがしに並べられている錬金術用の実験器具は目くらましに近いものではないかと思い始めていた。抽出や分離に使ういくつかを除けば、手入れが雑だった。たまったホコリを布で払っている程度では、高い精度を求められる実験に使えるはずがない。それより、三紀が自分用の押入れの奥に薬棚らしきものを置いているのが気になっていた。
-だけど、もし三紀さんが忍なら、僕がうっかりそんなところをあさっているところを見たときには、間違いなく殺すだろう。
もちろん、そんな下手くそな探索などするつもりはなかった。自分は忍としての術を六年間も学んだ忍たまなのだ。もっとほかにいい方法はあるはずである。
-さて、終わった…っと。
広い講堂の雑巾がけを終えた伊作は、雑巾と桶を抱えると立ちあがった。とりあえずは東庵に任務を引き受けたと言いに行こうと思った。そのほうが、この屋敷の中での行動の自由度が上がりそうに思えたから。
薪を2,3本放り込むと、ぱちぱちとはぜる音がして炎が大きくなった。
「ふああ、気持ちがいいなあ」
高いところにある格子窓の向こうから声が響く。
「どれ、俺も入らせてもらおうか」
ざばっと湯船から湯があふれる音がする。
-湯加減はちょうどいいようだな。
竃に薪を放る手を止めた伊作は、額の汗を拭った。
「ところで、こんど短期入門とかで来た善法寺伊作のこと、知ってるか」
湯船につかっているらしい人物の一人が声を上げる。
「ああ。先生のお知り合いの弟子らしいな。ずいぶん若いようだが」
「だな。それにしても、お世話になるからってあそこまで下働きみたいなマネをするとはな。先生はすっかり感心していらっしゃるが、あれじゃ肝心の勉強ができないだろうよ」
「それでは本末転倒だな。別に先生はそんなことを求められてはいないだろう」
ははは…と笑い声が風呂場エコーとともに響いた。
実は伊作が下働きを買って出ているのは、こうやって廻翁門下の人々の生の声を集めるためだった。竃の前にうずくまった伊作は、また薪を数本放り込む。
「そういえば、永山君がずいぶん蓖麻子(ひまし・トウゴマ)を使っているが、知ってるか?」
「さあ。だが、蓖麻子なんてそんなに使うモノでもないだろう」
-蓖麻子?
のんびり風呂につかりながらの噂話に、ふと伊作の注意が引かれた。
-腫瘍の排毒用に外用薬として使うし、ヒマシ油は便秘の治療に内服するが、それにしてもそんなにたくさん使うものではない。それに、毒性としては小毒だから暗殺に使えるようなものでもない。三紀さんはなぜそんなに蓖麻子を使うのだろう。
「すごい量のヒマシ油を壺に入れてたんだ。『温湿布にすると美容効果があるんだ』なんて言ってたが、街で商売でも始める気なのかな」
「先生はあまりそういうことは気になされないが、ウチの門下としてはどうなんだろうな。先生も御典医というお立場があるのだから、我々門人としてはあまり変な商売で目立ってしまうのもどうかと思うが」
-そんなにたくさんの量を、一体どうする気だろう…これは新野先生に質問するしかないか…。
竃の前で考え込む伊作だった。
「君は、ここに下働きに来たわけではないだろう?」
その夜、三紀は2人でゆっくり飲まないか、と酒をすすめてきた。
「はい。でも、お世話になる以上は少しでもお役にたちたいと思いまして」
杯に酒を受けながら伊作は小さく笑う。
「それはまた殊勝なことだね。下働きの連中はさぞ喜んでいるだろうね」
皮肉な口調で自分の杯を満たした三紀は、ぐっと飲み干す。
「そのくらいは当然のことです。廻翁先生の麻酔のお話はとても刺激的ですから」
静かに言いながら杯を口に運ぶ。
「刺激的、ね」
三紀は大仰にため息をつく。「その実現性がどの程度かも、君なら分かりそうなものだがね」
「たしかに、難しい研究だと思います」
伊作も否定しない。「でも、それだからこそ、取り組む意義のある研究だと思うのです。いまの外科手術はあまりに患者の負担が大きすぎますから」
「その研究のためにどれだけ犠牲を払っても構わないと?」
ふいに鋭い視線を伊作に当てながら、固い声で三紀が訊く。
挑発だ、と感じた。だが、それで自分の本音をあぶりだしたとして、どうするというのだろう。
「研究にはいろいろな方法があるのではないかと思うのです」
「なるほどね…君は若いのに、ものの言い方が実にうまいね」
射るような視線はほんの短い間だった。三紀はふたたび視線を落として、皮肉っぽい口調に戻る。
「いたみいります。ささ、どうぞ」
怒車の術にそう簡単にはまるものでもない、と思いながら、伊作は如才なく酒をすすめる。「ところで、お掃除しているときにこれを見つけたのですが、なんだと思いますか?」
懐から植物の種を取り出す。
「ああ、それは蓖麻子(ひまし)だよ。排膿や止痛に使う。知らないのかい?」
「はい…まだまだ不勉強でして」
いかにも初めて知ったように手にした種を眺めまわしてみせる。
「本当かい?」
果たして三紀は呆れた表情になる。「君は若いのになかなか本草に通じていると思ったが、意外に基本的な薬種を知らなかったりするね」
「はい…もっと精進します」
照れたように頭を掻く。
「排膿や止痛ということは、外用薬として使うのですか?」
「そうだね。そのほか、絞ればヒマシ油を取ることもできる」
「それも外用薬になるのですか」
「薬というよりは、温湿布にすると美容効果がある」
「なるほど。女性が喜びそうですね」
「ああそうだね。だが、それ以上のなにものでもない」
-あれ?
突き放したような言い方に違和感をおぼえた。風呂焚きのときに聞いた話と反応が違う。風呂に入っていた門人たちは、三紀がヒマシ油の美容効果を生かした商売でも始めるのではと思っていたようだが、当の三紀はそのような意思はないようである。
-とすれば、大量にため込んでいるというヒマシ油を何に使うつもりなのだろう…。
「善法寺君、ちょっといいか」
翌日、講堂の掃除を終えて道具を片づけていたところに東庵がやってきた。
「はい、なんでしょうか」
「私の部屋に来てもらえないかね」
声を低めてぼそりという。三紀について何か探れたか訊くつもりだと思った。だから、さりげない口調で答える。
「わかりました」
「で、なにか分かったかね」
東庵の部屋は、高弟らしく廻翁の部屋に近い広い座敷があてがわれていた。
「ヒマシ油をたくさん作っているとか…」
実のところ、三紀のガードが厳しくて、書類を眼にすることはまだできなかった。
「そのようだね」
座敷の一画を茶室風に設えている。そこで茶をすすめながら東庵は話す。
「もう少し調査を進めた方がいいでしょうか」
訊きながら、懐紙に取った菓子を口に運ぶ。
「ああ、頼む。それにしても、蓖麻子など大した毒性もないのに何をする気なのだろう…毒性からいえば、烏頭(ウズ・トリカブト)などのほうがよほど強いというのに…」
手を腿の上に置いて、小さく湯気を上げる釜を見つめながら東庵がつぶやく。
「もしかしたら、私たちの眼をそらすための算段なのかもしれません」
茶碗を手に取って回そうとしたとき、茶碗に添えた右手がかく、と大きく震えた。
「あっ」
思わず声が漏れる。茶が波打って畳の上にこぼれてしまった。東庵がぎょっとしたように眼を見開く。
「し、失礼しました」
慌てて懐紙でこぼれた茶を拭う。
「まあいい…ところで、大量の蓖麻子は別の毒物研究のための目くらまし、というわけか?」
たった数日だったが伊作のドジにはもう驚かなくなっている東庵は、いつもの口調に戻っている。
「そうかも知れません」
残った茶を飲み干すと、茶碗を畳に置いて東庵の方へすべらせる。「こちらではたくさんの薬種を買われていると思いますが、帳簿はありますか?」
「帳簿?」
いかにも意外そうな東庵の表情に、却って伊作が驚いた。
学園では、委員会での支出はすべて帳簿への記帳が求められていた。そして、会計委員会のチェックを受けるのだ。余計なものを買ったと見なされれば、次期の予算会議では容赦なくその分の予算を削られてしまう。この屋敷でも、薬草園で作れない薬種は薬種問屋から買い入れているはずである。三紀がどれだけの薬種を購入したかを把握できれば、なにかヒントになるかもしれないと思った。
「畑で作っていない薬種などは、薬種問屋から買い入れているのではないかと思いまして」
「そうか。三紀が何を買ったか分かれば、あるいは何か分かるかも知れないということか」
納得したように東庵が頷く。だが、すぐに困惑した表情になって続ける。「しかし、ここでは大変な量の薬種を買っている。そのなかから三紀が何を買ったかをさぐるだけでも一苦労ではないか」
いつもであれば要領を得ない東庵に問いを重ねているはずだったが、伊作の頭は東庵の話がほとんど耳に届かないほど惑乱していた。
-どういうことだろう? あんなにいきなり手が震えるなんて…。
それは今まで経験したことのない痺れに似た感覚だった。変なこともあるものだと思いながら、一抹の不安を感じた伊作だった。
「薬種の購入伝票ですか? まあ、あるにはありますが…」
東庵の口添えで伊作が訪れた事務担当の部屋では、数人の事務員が多すぎる事務量に半ば埋もれていた。その事務員も、算術ができる程度の商家の丁稚をそのまま雇ったようで、必ずしも能力が高いようには見えなかった。
「これです」
事務員が指差した先には、それぞれの門人たちが出した購入依頼伝票と薬種問屋の請求書、領収書などが整理もされず突っ込まれた箱があった。東庵たち研究生がまったく関心を持たない事務処理を、能力の低い事務員が手当たり次第にこなしている実態が目の前に容赦なく展開されていた。
-うわぁ、こんなの文次郎が見たら、怒りすぎて失神するかも…。
鬼の会計委員長がいたら、事務員たちを一か月徹夜させてでもきちんとした帳簿を作らせるだろうと考えると、少し可笑しくなった。もっとも、いまそのカオスに立ち向かわなければならないのは自分である。
-やれやれ、思った以上の惨状だな…。
事務室の一隅で伊作は伝票に埋もれていた。まったく整理されていない伝票や請求書、納品書などを突合する作業から手を付けることにしたのは、まずどの発注伝票が処理済みでどの発注伝票が未発注なのかを確認するためだったが、照合は困難を極めた。発注伝票と納品書を突き合わせても、一部の薬種しか納品されていなかったり、数量が違っていたりすることが多かった。甘草や大黄のようなよく発注される薬種では、複数の伝票をまとめて処理したらしく、しかもどの伝票の分が納品に反映されているか全く分からなかった。発注伝票の日付からすぐに処理されていることもあれば、数か月後に処理されたものもあった。
-これで、よく誰も文句を言わないものだ。
思わずため息が漏れそうになる。発注した薬種がなかなか届かない、届いても必要な数量がない。いつの間にか発注漏れのまま忘れ去られているというような状態で、果たして診療や研究がうまく行くものだろうか。それなのに、廻翁も門人たちもそのことで苦情を言い立ててるようには見えない。
-これは小松田さんを上回るひどさだ。
生徒としての自分は、学園の事務処理がどのように行われているかなど考えたこともなかったが、少しは吉野の苦労に思いを馳せるべきなのだろうと考える。
-あれ?
苦笑しながら伝票をめくっていた手が止まった。今まで一枚も見つからなかった三紀の名前が記された発注伝票がまとめて出てきたのだ。
-これは蓖麻子の発注伝票だ。それにしても、たしかに量が多いな…。
これだけの量を発注しても、淡々と購入処理してしまうのがこの事務室らしさだった。普通なら責任者に確認するだろう。一人で大量の薬種を注文することは、きちんと許可を得てのことかと。
-これも三紀さんの注文伝票だ。
もう一枚の伝票が出てきた。そこに記された薬種に伊作の視線が吸い寄せられる。
-これは…ケシの種だ…!
ケシから取れる阿芙蓉(あふよう・アヘン)の話を思い出す。だが、ケシの種なら広大な薬草園に植えられたケシから相当量が取れるはずである。それなのに、わざわざ薬種問屋から買うとはどういうことなのだろうか。
-きっと、表に出せない目的があるんだ…。
そして手元に三紀の発注伝票だけをまとめたとき、ふと気がついたことがあった。
-三紀さんの伝票はずいぶん処理がはやいな。それに、発注漏れもないみたいだ。納品書ときちんと突合できる。
他の発注伝票とはずいぶん扱いが違うようである。そのとき、事務員の一人が寄ってきて声をかけた。
「ずいぶん熱心に伝票を見ているんですね。なにかお探しなんですか?」
悪意すら感じる伝票の扱いの粗雑さとは無縁そのものの善意あふれる表情と言葉である。
「え、ええまあ。この伝票の処理はどなたがされているんですか?」
どういう事務処理だ、と問い詰めたくなる気持ちを抑えて、苦労して笑顔を浮かべながら伊作は訊く。
「ああ。伝票はここにいる事務員みんなでやっていますが、一応管理は私がしています」
-これのどこが『管理』だ…!
顔が引きつるのを感じながらも、「ときに…」と伊作は続ける。
「伝票の処理に時間がかかるのとそうでないものがあるようですが、なにか理由があるのですか? たとえばこっちの伝票はすぐに処理されていますが」
三紀の発注伝票の一枚を持ち上げる。
「ああ、それ三紀さんの伝票だ」
事務員はにっこりする。「三紀さんは…ねぇ」
「そうそう」
「特別っていうか…」
後ろのほうで文机に向かっていた事務員たちもしたり顔で頷いている。
「特別…なんですか?」
「はい! 三紀さんはいつも私たち事務員にお菓子をおごってくださるので…そうすると、こっちもお礼に伝票をまっさきに処理しちゃおうかなって…へへ」
伊作より少し年上に見える事務員が、ひどく幼い笑顔で小さく舌を出す。伊作は思わず脱力感をおぼえる。
-ずいぶん安い買収だ…お菓子をちらつかせて薬種を最優先で手配させるとは。
そしてふと気になったことがあるのを思い出す。
「それにしても、蓖麻子をこんなにたくさん買ったりしてますが、薬種問屋さんもよくそんな注文にすぐ応えられるものですね」
「はい。うちに納めていただいてる問屋さんは種類も在庫もすごいんですよ」
「そういえば三紀さんは同じようなものを何度も発注するよね」
仕事の手を休めた別の事務員が話に入ってきた。
「そうそう。水銀だったり、硝石だったり、ドカッてオーダーしてくるよね」
別の事務員も文机に肘をつきながら口を開く。のんびりとしたおしゃべりだったが、聞いている伊作の背には冷たい汗が伝う。
-水銀に硝石? まるで、なにか新しい毒物を作り出そうとしているようなものばかりだ。この人たちはそれが何かも分かっていないようだけど…。
これはいよいよ新野に手紙を書いて意見を求めた方がいいと伊作は考えた。
-大量の蓖麻子? ひょっとすると…!
伊作の手紙を読みおわった新野ははっとして顔を上げる。
-蓖麻子そのものは小毒だが、ヒマシ油の搾りかすには猛毒が含まれている。猛毒の抽出方法を永山三紀という人物が知っているとすれば…。
冷たい汗が背を伝う。
-蓖麻子の毒は摂取から半日してから効き目がでるうえ、猛毒なのでごく少量で致死量に達するという。そんな猛毒をドクツルタケ城が手に入れたとしたら…。
伊作の手紙には、三紀がドクツルタケ城の間者かもしれないことも書かれていた。
-だが、蓖麻子なら、なにも廻翁の研究室に入らなくても、薬種問屋でいくらでも怪しまれずに手に入れられるはずだ。そのほかにも阿芙蓉、水銀、硝石を個人的に買い入れているということだが…そうだとすれば、善法寺君が言うとおり、蓖麻子は目くらましの可能性もある。
伊作としてはそちらの意見のようだが、新野はどうしても大量の蓖麻子、というくだりが引っかかっていた。
-善法寺君も蓖麻子の危険性は小毒という程度しか認識していないはずだ。そもそもヒマシ油の搾りかすから猛毒が抽出できることはあまり知られていない。むしろ水銀や硝石の方が目くらましのような気がしてならない…。
手紙を前に腕を組んで考え込む。
-仮に永山という人物が毒物を開発していたとして、善法寺君に何か危害を加える可能性があるとすれば…。
伊作が三紀の計画を探っていることが発覚した時だろう。
-だが、そもそも危険人物が永山だけとは限らない。
それも考慮すべき点だった。廻翁のような高名な医者の元に忍を送り込もうと考える城はいくつもあるだろうし、危険な計画を抱えている者も一人とは限らない。
-善法寺君にそこまで探らせるのは危険かもしれない。廻翁の元に入門させられる期間も限られているし…。
惑乱したまま考える。
-とにかく彼に手紙を書こう。永山なる人物が危険な研究に手を染めている可能性が高いことも、蓖麻子の危険性も伝えておかねば…。
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