届かぬものに祈りあれ(2)


「では、これが先方へのお手紙です。くれぐれも落とさないように。それから寄り道はしないように。知らない人にはぜったいに付いていってはいけませんよ」
 こまごまと注意しながら吉野が門前で見送る。
「やだなぁ、吉野先生。そんな子どもみたいなこと言われなくても、ちゃんとお使いくらいできますって」
 言いながら懐の手紙を確かめ、荷物を結びなおした小松田が口をとがらせる。
「それならいいのですが、学園長先生の大切なお手紙なのですからね。間違いのないように頼みますよ」
「だいじょうぶですって! じゃ、行ってきまーす!」
 元気よく返事すると、大きく手を振りながら歩き去る。
 -やれやれ、彼がきちんと帰ってこれるかも心配の種だが…。
 後ろ手に組んでその後ろ姿を見送りながら吉野は小さくため息をつく。
 -小松田君を使いに出してまで、カエンタケをあえて学園内に入れるつもりとは、学園長先生は何を考えておられるのやら…。
 そして、また学園中を巻き込む大騒動になってしまいそうな予感をおぼえて思わずこめかみを押さえる。そして、その様子をうかがう影があった。
≪ようやくあの小僧がいなくなったぞ≫
≪よし、いまが潜入のチャンスだ≫
 矢羽音を交わしながらカエンタケ忍者が鉤縄で塀を越えると、素早く建物の影に姿を消す。
  

 

「薬の量はこれくらいでいいでしょうか、新野先生」
「あ、ああ…それは当帰というのだがね…それくらいでいいでしょう。細かくなるまですりつぶしてください、善法寺君」
「はい」
 覆面姿の青年が薬研をつかってごりごりと薬草の根をすりつぶし始める。
≪あれが善法寺伊作か≫
 医務室の天井に潜んだ忍が素早く目配せする。その気配に、新野と留三郎はすでに気付いていた。
 -いいですね。あなたは善法寺君なのですからね。
 -分かっています。
 しばし、医務室の中には、新野が文机に向かって筆をすべらせる音と留三郎がつかう薬研の音だけが響いていた。
 -くそ、なぜ動かない…!
 今すぐにでも鉄双節棍を手に天井裏に躍り込みたい衝動を苦労して抑えこんでいたとき、突然天井板が外れて覆面姿の2人の忍が医務室に躍り込んできた。
「善法寺伊作だな。来てもらうぞ」
 ひとりが言い終わらないうちにもうひとりが留三郎を後ろ手に縛り、猿轡をかませる。
「行くぞ!」
 たちまちのうちに捕えた留三郎を小脇に抱えた忍たちが姿を消す。

 


 -よし、このあたりでいいか…。
 学園から十分離れた峠道にさしかかったところで留三郎は鋭い眼であたりを探ると素早く隠し持っていた小しころで縄を切るや自分を担いでいた忍の脇腹を蹴りとばした。
「うっ!」
 突然の衝撃に留三郎を担いでいた忍がバランスを崩して道端に倒れ込む。
「どうした?」
 傍らを歩いていたもう一人の忍が顔を向けた途端、脛に全身に響くような衝撃をおぼえた。
「な、なに…?」
 すぐには立ちあがれずに道に這いつくばった忍が顔を上げる。そこには鉄双節棍を肩にかついだ忍がいた。いや、ついさっきまで善法寺伊作として拉致したはずの男が立っていた。
「お、お前…」
「な、なんとか言いやがれ」
 だが、猿轡で半ば顔を覆ったままの男は、無言でさらに襲い掛かってくる。
「ぐっ!」
「ひえっ!」
 逃げようとした2人のカエンタケ忍者だったが、鳩尾に鉄双節棍を食らわされてたちまちのうちにうめき声をあげて静かになった。
「…」
 横たわる2人を縛り上げた留三郎は、立ちあがりざま片手で解いた猿轡を投げ捨てると、ついと背を向けて歩きはじめる。
 口ほどにもない連中だ、と思いながら。

 

 

「よっ、伊作」
「留三郎!」
 部屋の戸板をがらりと開いて現れたのは留三郎だった。
「でも…どうしてここに…?」
 警備の厳重なタソガレドキ城に首尾よく忍び込んだとはとうてい思えない。
「学園長先生のご指示だ」
 伊作のそばにどっかと腰を下ろしながら留三郎はにやりとする。
「学園長先生の?」
 伊作がきょとんとする。保健委員会を人質にしてまで戻って来るなと言ったと思えば、留三郎を寄越すとはどういうことだろうか。そもそも留三郎がここにいるということは、昆奈門たちがすんなり通したとしか思えない。そんなことを通せるような人物もまた限られていた。
「ねえ、留三郎…僕は、学園長先生のご指示で学園に戻るなといわれているんだ。そのことと、君がここに来たことはきっと関係があるよね」
「どうだかな…」
 思いつめた表情で訊く伊作に、留三郎は当惑したように腕を組む。「俺もよく分からないが、俺は伊作に変装してカエンタケ忍者にさらわれるよう指示されたんだ。で、途中で本性を現してひと暴れしたらタソガレドキ城にいる伊作と合流しろとな…そもそも伊作はタソガレドキ城の伝染病を治しに来たんだろ? そっちはどうだったんだよ」
「そんなものは存在しなかった…ウソだったんだ」
 膝の上に置いた拳が細かく震える。「僕は、それも学園長先生の算段だったと思っている」
「…だろうな」
 腕を組んだままの留三郎が、何かに納得したように頷く。「俺は分かったぜ。学園長先生のカラクリが」
「どういうことだい?」
「お前はカエンタケ城に狙われていた。きっとお前の本草や医術の腕の噂を聞いたのだろう。カエンタケは戦好きで有名だから、拒めば学園を攻めてくるかもしれない。だから、学園長先生は伊作を学園の外の安全な場所に隠すことにした。それがタソガレドキというわけだ。いくらカエンタケでも、タソガレドキを相手にするのはリスクが高いからな。ただ、いつまでも伊作を外に出しておくわけにはいかない。だから、俺が伊作の身代わりになるよう命じられた。俺が一暴れすれば、カエンタケ忍者の2人や3人、簡単に叩きのめしてやれるからな」
 胸を張った留三郎は、自慢げに小鼻をふくらませる。
「あ、ああ…そうだね。それで?」
 最後の点には、学園長の意図には含まれてなかったのではないかと思いながら伊作は続きを促す。
「カエンタケは、実は伊作がけっこう手強いと知って手を引く。そこで、伊作も晴れて学園に戻れるというわけだ。ま、学園長先生のお考えはざっとそんなところかな」
「じゃあ、僕はもう学園に戻ってもいいってことかい? 僕が戻っても、保健委員会は取り潰されないで済むと考えてもいいのかな」
「当然だ」
 力強く留三郎は言い切る。「帰ろうぜ。俺と一緒に」
 大きな掌に拳を覆われて、伊作は小さく苦笑する。

 


「いいのですか、組頭。忍術学園の忍たまを2人も城内に入れてしまうなんて」
 物陰から様子をうかがっていた昆奈門と尊奈門が自室に向かって歩いている。
「なに、これも作戦のうちだ」
 昆奈門さらりと受け流す。「まあ、私も思うところがないではないが、実に睦まじかったではないか」
「睦まじいって…男同士ですよ?」
 呆れたように首を振りながら尊奈門が言う。
「若さの勝利というものだ…まったく、おじさん妬けちゃうね」
 棒読みだからこそ思うところ大なりなんだろう、と尊奈門が思ったとき、影のように陣内が背後にあらわれた。
「伊作君たちが城を出ました」
 短く報告すると素早く姿を消す。
「あっそ」
 泰然と声を上げる昆奈門に、尊奈門が眼をむく。
「そ、そんなのんびりしたことを言ってていいのですか? 忍術学園の学園長から預かるよう頼まれたんですよ!?」
「確かにそう頼まれた…だが、出ていくのを止めるなとは頼まれてないからね」
 隻眼の目尻がにやりと下がる。
「そんな屁理屈を…!」
「お前がムキになることはない」
 言いかけた尊奈門を軽くいなす。「忍たまとはいえ六年生だ。世話したお礼にそれなりに面白いものを見せてくれるだろうよ…行くぞ」
 突然足を速める昆奈門に、慌てて尊奈門が追いすがる。
「ちょ、ちょっと待ってください組頭ぁ…私には何のことやらちっとも…」

 


「ねえ、留三郎…どこに向かうんだい? それにこの荷物…」
 背の荷物を振り返る。「タソガレドキ城から勝手に借りてきちゃったんだろ? まずくない?」
「まずくもないが、うまくもないな」
 澄ました顔の留三郎が混ぜっ返す。
「もう、留三郎ったら」
 伊作が口をとがらせる。
「俺たちは六年生だ。プロの忍者に近いほどの実力があると言われている。だが、『は組』の連中は、と言われているのも事実だ。ここは、俺たちは組も実力では負けないことを示す必要があると思わないか?」
 不意にまじめな顔になった留三郎が、もっともらしいことを言う。
「だからカエンタケの目的を探るってわけかい?」
 諦めたように伊作は肩をすくめる。「それで、わざわざ薬売りに化けて…」
「そういうこと!」
 腰に手を当てた留三郎がにやりとする。「さすが、俺の伊作だな!」
「誰のでもいいけど…」
 伊作がため息をつく。「いいのかなあ。学園長先生のご指示もないのに勝手なことをして」
「気にすんなって。これは俺たちの自主トレだと思ってさ」
「自主トレね…」
 呆れたように言う伊作だが、少し気が乗ってきたらしい。「まあ、カエンタケが僕を狙う事情を探ることは意味があるかもね」
「だろだろ?」
 留三郎が身を乗り出す。「よし。さっそくカエンタケの城下へゴーだ!」

 

 

「ところであなたはずいぶん薬草にくわしいが、医術の心得はおありなんですか」
 カエンタケ城下の薬種問屋を伊作は訪れていた。薬種の在庫や新しい薬の配合などを城の動静を絡めた世間話に紛らわして交わしていた主人が、ふいに訊ねた。
「それはまあ、多少は…」
 薬売りなら多少の医術の心得があるのが当然なので、伊作は曖昧に頷く。
「どなたかの門下で学ばれたとか?」
「いえ、それほどでも…親方から少しばかり手ほどきを受けただけです…医者が必要なのですか?」
 いかにも薬売りらしい答えをしながら、問いかけの真意を探ろうとする。
「それがですな…お城で医者を求めていらっしゃるようで」
 -カエンタケ城が医者を求めている?
 驚きが表情に出ないように動揺を苦労して抑えこみながら伊作は考える。そして、そんな話を唐突に振る主人は、あるいは忍ではないのかと疑った。
「医者なら城下にいくらもおりますでしょうに」
「詳しいところは私もよく分からないのですが」
 小さく首を振りながら主人は言う。「どうも難しいお話のようで、お城に召された医者たちもみな首をひねるばかりとか」
「それはそれは」
 苦笑する主人に合わせて相槌を打つ。「それでは私のようなしがない薬売りではなおさら…」
「でも、行かれる価値はあるかもしれませんよ」
 主人がにっこりする。「うまくいけば褒美はたっぷり、うまくいかなくてもお城から追い出されるだけですからな」
「そうなのですか?」
「お城の前の高札をご覧になっていないのですか?」
 伊作の迂闊さを揶揄するように主人は言う。「少しでも医術の心得のあるものは城に出向くようにとありますよ。いままで通りすがりの薬売りも含めてずいぶん多くの者がトライされたようですな…もっとも、いまだに高札があるところを見ると、うまくいった者もいなかったのでしょうが」
「ご褒美が出るというのはいいですね」
 いかにも褒美に惹かれたように伊作は言う。そして考える。
 -留三郎に相談してみよう。

 


「どうだった?」
 街外れの辻堂の軒下に休む薬売りに、堂の中から問いかける声がある。
「城下の薬種問屋に寄ってみたんだけど…」
 薬売りがぼそりと答える。「特に病気が流行っているとか、薬の需要が高まっているということはないみたいなんだ。そっちは?」
「ああ」
 堂の中の暗がりが応える。「急な段銭(臨時課税)があって困ってるという話を聞いた。城への荷の出入りも増えてるから、戦が近いんじゃないかって噂になってるようだな」
「そうか…何を運び込んでいるかが問題だね」
「そういえば、やけに厳重に封印された荷物もあったらしいぞ。噂では、危険な薬品らしい」
「そう…やっぱり、火器の開発なのかな…」
 暗い眼で薬売りが俯く。

 


「そなた、ずいぶん若いが、医術の心得があると申すか」
 翌朝、伊作はカエンタケ城にいた。
「はい…多少は」
 二ノ郭にある殺風景な板の間の部屋に伊作はいた。向かいには担当らしい侍が座っている。
「では訊くが、硫火水(硫酸)を使った肺病の特効薬があることを知っておるか」
 -硫火水? そんな危険なもので内服薬など作れるわけがない…これってわざと訊いてるのかな。
 素早く考えを巡らせた伊作は、少し考え込む振りをしてからおもむろに口を開く。
「そのような薬があるとは聞いたことがありません。硫火水はきわめて危険な物質です。なにかの間違いではないでしょうか」
「さようか」
 無表情のまま侍は続ける。「硫火水がそれほど危険というなら、気体にしても危険なものなのであろうの」
 -硫火水をそのまま蒸発させても、多少は危ないかもしれないけどそれほど強い毒性を持つわけではない。気体にして毒性があるとすれば…海酸気(塩化水素ガス)かな?
 相手が硫火水に並々ならぬ関心を抱いている以上、求めているのはそこから何を生み出しうるか、ということだろうと考える。
「硫火水は、そのまま揮発させてもそれほどの毒性はありません。塩を加えれば別ですが…」
「合格だ」
 侍は満足したように頷いた。「ついて来るがいい」
「は、はい」

 


「それにしてもそなた、ずいぶんと硫火水に詳しいが、どこでそのようなことを学んだのだ?」
 城の奥へとつづく廊下を歩きながら侍が訊く。
「はい。以前、堺の貿易商人の元に奉公していたことがありまして、いろいろな南蛮の渡来品について学ぶことがありました」
 硫火水の質問があった時点でこのような問いがあることは見当がついていた伊作は、用意していた答えをよどみなく口にする。
「さようか」
 納得したかどうかは定かではないが、それきり黙ったまま歩いていた侍はある部屋の前で足を止めた。
「御免」
 侍に続いて部屋に足を踏み入れた伊作は、思わず眼を見張る。
 -なんだこれは…まるで実験室だ…!
 部屋には、以前、ツキヨタケ城の研究室で見たような南蛮の錬金術の実験器具がずらりと並んでいた。棚には厳重に蓋をされた壺がいくつも置いてある。文机に向かってなにやら書きこんでいた数人の医生が顔を上げる。
「なにごとかな」
 背を向けて文机に置かれた実験器具を見ていた人物がゆるゆると振り返る。
 -あ、この人…!
 動揺を苦労して抑えながら伊作は慌てて頭を下げる。
「は、はじめまして…」
 -ツキヨタケ城にいた葛西先生だ!

 


「その若さで硫火水に詳しいとは…誰の門下で学んだのかな?」
 2人を引き合わせた侍は去り、いま伊作は葛西と向かい合って座っている。
「いえ、特に師がいたわけではありませんが、堺の南蛮の商品を扱う店で奉公していた時にいろいろと学んだものですから…」
 まだ動揺が残っているせいか、答えもしどろもどろである。
「それだけで海酸気のことまで知っているとはね…たいしたものだ」
 胡散臭げな眼で伊作を見ながら葛西は無愛想に言う。
「ただ聞きかじっただけのことですので、あまり詳しいわけでは…」
 実際、こういう方面の知識には自信がない伊作は予防線を張る。あまり知識を要求されても困るのだ。そして、このような研究をしている目的を探らなければならなかった。
「…それにしても、どのような研究をされてるのですか? 貴重な硫火水をこんなに用意されているとは」
「こんなに? どこが『こんなに』というのかね」
 壺が並ぶ棚を一瞥した葛西が不機嫌に言う。「これだけではまともな実験もできない。結局のところ、我々ができるのは書物を調べるだけ調べて、確実だと思われたものだけ実験で確かめることに過ぎない。書物で得られる知見など知れたものにも関わらず…だ!」
「そ、そんなものですか…」
 どう答えたらいいものやらわからない伊作は曖昧に応じる。
「まあとにかく、君にもそれなりの知識があるようだからね、さっそく働いてもらおうか…これだが」
 文机に広げてあった紙を伊作に向けながら葛西が説明する。「目下、われわれは海酸気の固定化を目指している。固定化することにより、運搬が容易になり、戦場での使用が可能になるというわけだが…君はどう思うかね」
「はあ…」
 示された紙に眼を通しながら伊作は答える。「たとえば、蒸留するというのもひとつの方法とは思いますが…」
「蒸留ならとっくに試してみた」
 葛西がため息をつく。「みごとな失敗に終わったがね」
「そ、そうですか…」
 あまり当てずっぽうを言うものではないと思いながら伊作はぺこりと頭を下げる。
「まあいい」
 肩をすくめた葛西が続ける。「いずれにしても、現時点では考え得るあらゆる手段を検討してみなければならない。とにかく君もアイデアを出してほしい。どのようなものでもいいから明日、私に提出するように…ああ君」
 通りかかった医生を呼び止める。「彼を部屋に案内してやってくれ。私はちょっと報告事項があるからね」
 そして、医生とともに立ち去る伊作の後ろ姿を見ながらふと考える。
 -それにしてもあの若者、どこかで見たような気がするのだが…。

 


「あなたもあの高札を見て来たんですか」
 先導する医生が訊く。
「はい」
「だまされたと思いませんでしたか」
「まあ…ちょっと意外でした」
 どこまで答えられるか間合いを測りながら伊作は訊く。「あなたも、あの面接を受けられたのですか」
「ええ。私もさる高名な先生の門下として医術には自信がありましたがね、まさかこんな研究に携わることになるとは」
 ぼやく医生に伊作は重ねて訊く。
「ということは、硫火水についての知識もお持ちだったということですよね」
「知識というか…まあ、聞きかじった程度ですよ」
 医生が応える。「たまたま私の師が南蛮かぶれだったのでね」
「それでも大したものですよ。硫火水という存在を知っている人そのものが少ないのですから」
「まあそれでも、実験を通して硫火水の性質をもっと知ることができたなら、ここに来た意味もあったのでしょうがね」
 医生の口調が投げやりになる。「まったく、あのケチくささときたら…」
「はあ」
「あなたも聞いたでしょう。あの海酸気の蒸留の実験の話…あれだって、たった一回、それも実験器具の不具合で失敗しただけで、もうあんなふうに見込みのないような言い方をする。言っておきますが、いくらアイデアを出しても無駄ですよ。先生があれやこれや難癖つけて実験をやらない方向に持って行こうとするんですから」
「そんなもんなのですか…」
 いささか唖然としながら伊作は応える。

 

 

「カエンタケの狙いが分かりました」
 自室で陣内となにやら話し込んでいた昆奈門は、部下の声に黙って続きを促す。
「カエンタケは最近、南蛮の硫火水(硫酸)を極秘に買い入れています。ツキヨタケ城での先行研究の情報収集にも熱心です」
「だが、ツキヨタケ城でのその手の研究は、忍術学園がつぶしたのではないのか」
 一教育機関が城を完膚なきまでに叩きのめしたという点でセンセーショナルな事件だったと思いだしながら昆奈門が低く訊く。
「当時研究に携わっていた者を見つけ出しては情報収集に当たっているようです…ただし、肝心な部分の知見は集められずにいるようです」
「分かった。下がれ」
「は」
 部下が姿を消す。
「どう思うかね、陣内」
 自分の前に控えている小頭に訊く。
「たしかにカエンタケの城主は毒草を含む本草の研究に凝っていると聞いていますが、伊作君を狙ったのはおそらく、南蛮の硫火水をベースにした兵器の研究をするためでしょう。鉄をも溶かす危険な物質と聞いていますし、忍術学園の新野先生が硫火水をベースにした新たな物質の研究に長けているとも聞いています。伊作君が新野先生からその種の知識を与えられていても不思議ではありません」
「そうだろうな」
 ぼそりと応えて昆奈門は考え込む。
 -本草の知識でさえ、人を殺めかねないことに苦しむ伊作君のことだ。硫火水などという兵器にしか使いようのない物質についての知識など、彼にとっては重荷にしかならないだろう。そんな研究を強要されるくらいなら…。
 忍としての修行を積んでそれなりに食えない男となっている伊作ではあったが、その一方で医療に対しては赤子のように純真な気持ちで事に臨み、自分の命をも顧みない。さて、カエンタケに飛び込んだ伊作は、何をしでかしてくれるだろうか。

 


 とす、と音を立てて、一本の矢が庵の柱に突き刺さった。
「ヘ…ヘムヘム!」
 ヘムヘムが慌てて矢に結わえられた文を持ってくる。
「ほう…これはタソガレドキの…」
 呟きながら開いた文に眼を走らせる。

「ヘム?」

 文を手に縁側に立ち尽くす大川を、ヘムヘムが首をかしげて見上げる。

「いや…なんでもない」

 文を懐にしまった大川は、手を後ろに組んで空を見上げる。

 -そうか…伊作はカエンタケに行ってしまったか…。

 

 

「君はまだ残っているのかね」
 すでに夕刻となっていた。薄暗くなった室内で文机の燭台の灯をたよりに書物に眼を通している伊作に、腰を上げた葛西が声をかける。
「はい…もう少しだけです」
「研究熱心なのはいいが、あまり根を詰めると身体をこわすよ」
「お気遣い、ありがとうございます」
「では、私は先に上がるから。部屋の戸締りを頼むよ」
「はい」
 葛西の研究室で、伊作は「研究熱心な新入り」という立場を確立していた。毎日遅くまで研究に取り組む様子に、葛西もいつしか信頼を寄せ、伊作に研究室の鍵を預けるようになっていた。
 -そうだ。今日の実験で今の壺も残り少なくなってきた。次の壺を実験に使うご許可を頂いておかなければ…。
 研究室を後にした葛西は、ふと足を止めると担当の侍の部屋へと歩き始めた。
「失礼します…」
 言いかけた葛西は、中から聞こえてくる声に思わず動きが止まった。
「…それで、取り逃がしたと申すか」
「は…意外と手強い者でして」
 叱責する侍に応える声は聞いたことのないものだった。
「それにしても、2人がかりでたかが忍たま1人を取り逃がすとは、とても忍者隊の仕事とは思えぬな」
「申し訳、ありません…」
 どうやら抗弁の余地もないらしい。忍者隊の者らしい声はひたすら頭を下げているだけのようである。
 -取り込んでいるようだ。出直そう。
 盗み聞きなど、知識階級の者がするべきことではないと思った葛西は、踵を返すと自室に向かう。
 -それにしても、あの研究担当のお侍が忍術学園の忍たまに何の用だというのだろう…。
 忍術学園、という名前にふと胃液が逆流する感覚をおぼえながら葛西は考える。
 -ツキヨタケ城では王水の開発までいくことができたのに…何もかも台無しにされてしまった。あの忍術学園のせいで…。
 あの失敗のせいで、自分のキャリアは地に落ちてしまった。そもそもやたらと高いうえに入手困難な硫火水(硫酸)を使った兵器の開発に関心を示す城は少なかった。ようやくカエンタケ城にポストを得て研究を再開できたが、ツキヨタケ城のときよりはるかに低い水準での研究が辛うじて認められているにすぎなかった。その原因を考えるにつけても、忍術学園に対する恨みは片時も忘れたことはなかった。
 -そういえば新入りのあの弟子、ツキヨタケで見たような…もしかして、忍術学園の関係者か?
 つぎつぎと疑惑が湧き上がるが、その正体を突き止めあぐねて葛西はいつしか廊下に立ちすくんだまま考え込んでいた。

 


 ぱらぱらと書物のページをめくりながら、伊作は何やら書きつけている。と、その筆が止まった。
「よお、伊作」
 天井から聞こえる声に、書物に眼を落としたままの伊作がぼそりと呟く。
「留三郎…待っていたよ」
「で、俺は何をすればいい?」
 天井板を外して研究室に躍り込んだ留三郎が訊く。
「そこにある壺」
 無表情に伊作は棚を指差す。「封印してある壺ぜんぶに穴をあけてほしいんだ。できるだけ分かりにくい場所にね」
「分かった」
 短く答えた留三郎は、懐から棒手裏剣を取り出すと、壺を覆う封印のそばの目立たない場所に穴をあけ始める。
「気をつけて。中身は危険な液体が入っている。うっかり触れると皮膚が溶けるよ」
「お、おう…よし、あけたぞ。これでいいか」
「ありがとう」
 注意深く穴をあけた壺を受け取った伊作は、床板を外すと壺を傾けて中身を地面に注ぎ始めた。
「なにしてるんだ、伊作」
 壺に穴をあけながら留三郎が訊く。
「捨ててるのさ、硫火水を」
 こともなげに伊作は答える。「今日は硫火水を使った実験をしたから部屋の中ににおいが残っている…だからチャンスなんだ」
「へえ、そうなんだ…ほら、こいつも穴をあけたぞ」
 興味なさそうに壺を手渡しながら留三郎が言う。硫火水がどれだけ危険で、かつ高価なものか知らないからこその台詞だった。
「で、このあとどうするんだ?」
「代わりに水を詰めておくのさ」
「よし、わかった」
 ことの重大性を理解していない気軽な返事が救いだった。
 -留三郎がいてくれてよかった…僕独りだったら、とてもここまで事務的にはできなかった…。
 研究室にある20~30壺の硫火水を買うのに、いくつの村の年貢が相当するのだろうか…考えただけで手の震えが止まらない伊作だった。何百、何千という百姓たちが納めた年貢を、自分はいま無駄に地面に垂れ流している。多くの民の血と汗を垂れ流しているのだ。
「どうした、伊作。具合が悪いのか?」
 脂汗を流しながら震える手で壺の穴から硫火水を流している伊作に、留三郎が声をかける。
「い、いや…なんでもないんだ」
 顔を上げた伊作の表情には、繕った笑いを顔に張り付いている。
「それならいいが…それにしてもひどい臭いだな」
 顔をしかめた留三郎がぼやく。
「覆面をした方がいいかも知れない。まだまだ未知の毒性を持ってる可能性がある水だからね…なにに反応して毒を発するか分からない」
「そっか」
 覆面をした2人は、しばし無言で作業を続けた。
「…これで封印をしてある壺はぜんぶ水と入れ替えたぞ。次はどうするんだ?」
 最後の壺を棚に戻した留三郎が訊く。
「もうここに用はない。学園に戻ろう」
 無表情に俯きながら伊作は答える。
「よしきた!」

 


「2人がカエンタケ城を脱出しました」
「ふ~ん」
 部下の報告を聞いた昆奈門がつまらなさそうに鼻を鳴らす。「今回はずいぶんと地味だね」
「何を期待されていたのですか」
 傍らに控えた陣内がしかつめらしく指摘する。
「そりゃもちろん」
 昆奈門の目尻が下がる。「こっちの手間を省いてくれるくらい派手にドカンとね」
「ツキヨタケは学園が総攻撃したからああなりましたが」
 呆れたような口調で陣内が続ける。「今回は2人だけなのです。多くを期待すべきではないかと」
「だが、脱出してきた以上は、何かやらかしているはずだ」
 にやけた表情を隠そうともせず昆奈門は言う。「連中がため込んでる硫火水とやらを無力化するくらいはやってくれただろうからね」
「であればいいのですが」
 ため息をつく陣内を横目に昆奈門は考える。
 -たしかに伊作君はその知識を生かして忍の仕事を成し遂げた…だが、彼にとってそれは本意なのだろうか。彼の知識は、彼にとって重荷でしかないのではないのか…。

 

 

「ひとつ伺いたいことがあります」
「なんじゃ」
 学園に戻った伊作は、庵で大川と向かい合って座っている。
「今回のこと、学園長先生のご采配だったのですか?」
「それはどうかの」
「お答えいただけませんか」
 思いつめた声で伊作が問う。視線がきっと大川を射る。庭の鹿脅しがすこん、と音を響かせた。
「そうじゃのう…」
 顎に手をやりながら、一瞬だけ大川は視線を泳がせる。「カエンタケが伊作を寄越せと言ってきたのは事実じゃ。嫌なら力づくとな」
「ということは…」
 伊作は膝に置いた拳を握りしめる。
「じゃが、連中が硫火水とやらの研究をしていることは知らなかった。今から思えば、連中は新野先生の代わりを求めていたのであろうの」
「新野先生の…?」
「新野先生の知識を受け継いでいるのは伊作、お前だけじゃ。連中がそのことをどこまで知っているかは分からん。だが、お前を狙うということは、それなりの眼の付け所といえよう。だから、お前をどうしても連中の手に渡すわけにはいかなかった」
「だから僕をタソガレドキに…」
「せっかくうまく隠したというに、わざわざ自分からカエンタケの懐に飛び込むなど…まったくどこまで無謀なことやら…!」
「申し訳ありません、学園長先生」
 身体をすくめた伊作が頭を下げる。「しかし、いまお話しいただいたことの一部でも知っていれば僕は…」
「なんとした?」
 ぎらりと大川の眼が光る。「いずれにせよ、カエンタケに潜っていたのではないのか?」
「たしかに潜っていたかもしれません」
 低い声で伊作が認める。「それも、硫火水など扱っていると知ってしまったのであればなおさらです」
「そうであろう」
 腕組みをした大川が頷く。「伊作なら、そうしたであろうの。その時点で、わしの思惑などとっくに離れたところにお前は行ってしまっておったのじゃ」

 


「…」
 庵に独り座り込んで大川は考え込んでいた。
 -伊作を一人前の忍者であり、医者とするためにわしらは全力を尽くしてきた。伊作もそれによく応えた…だが、それはすべて間違いだったのだろうか…。
 去り際、伊作は言ったのだった。
「なぜ、硫火水などというものがあるのでしょうか。あんなものが存在しなければ…」
 伊作がそう思うのも無理はなかった。鉄をも溶かすという毒性を持ち、おそろしく高価だという硫火水を購入する金があれば、どれだけ年貢を安くし、凶作にそなえることができるか。伊作ならそう考えるだろう。
 -だが、その問いは、すべての進歩を拒否するものでもあるのだぞ、伊作。
 人類の進歩とは決して一直線ではない。いくつもの隘路にはまりながらも、その過程で硫火水というあだ花が咲こうと、前へと進み続けることが進歩のプロセスだと大川は考える。
 -お前が人を救う新しい方法も、硫火水のような忌むべきものも、進歩がもたらしたものだ…好むと好まざるとに関わらず、我らはそれを受け入れるしかないのだ。それが進歩である限りは。
 そして、苦悩に打ちひしがれた伊作の表情を思い出して唇をかむ。
 -だからこそ伊作。お前は強くならねばならぬのだ。お前の優しさが命ずる道を進むためのあらゆる試練に立ち向かえるだけの強さが、お前には必要なのだ…!

 

<FIN>

 

 

 

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