暗夜行路(2)

「伊作」
 仙蔵は、ゆっくりと上体を起こしながら言った。胡坐をかこうとしたが、包帯を巻いた方の脚は、傷口が開かないように伸ばしたままにした。
「どうした、仙蔵」
「…私はむしろ、伊作がうらやましいんだ」
「私が? うらやましい?」
 思いがけない台詞に、伊作はきょとんとした。
「そうだ」
「なにがさ」
 -忍術学園の最上級生にもなって、まだ忍に向いていないと言われている自分の、どこがうらやましいんだ。
「伊作には、医術という核がある。だが、私にはなにがあるのか」
「優秀な忍としての実力が、あるじゃないか」
「だが、まだまだ及ばないものが多い。忍術学園ではうまくやってきたかも知れないが、それが忍の世界で通用するのだろうか。どこかの城や忍集団に入るにしろ、やっていけるのだろうか。そもそも…忍など、長く続けていけるものなんだろうか」
 仙蔵はこめかみを押さえた。
「仙蔵、少し考えすぎじゃないのか。私たちはまだ15歳だぞ。先を思い悩むなんて早すぎる。そんなに気鬱なら、香蘇散を処方してやろうか」
「いや、そういうわけではない」
 仙蔵はこめかみを押さえたまま頭を振った。
「偉そうなことを言ったが、実は、自信がないだけだ。いわゆるスランプというやつだ。ちょっとした心の風邪みたいなもんなんだろう。じきに治るんだろうが、それまでは不安で仕方がないのだ」
「お前の一番いけないところだぞ、仙蔵」
 伊作は、いつになく厳しい表情で仙蔵に向き直った。
「?」
「いま、お前は自分がスランプと分析して見せた。いずれ治るとも予測して見せた。だが、それは、本当にお前が考えていることなのか? それは、お前が考えたいことなのではないか?」
「…どう、違うのだ? もう少し分かりやすく言ってくれないか」

 


 ふむ…と少し考えた伊作が、口を開く。
「よく医務室に来て、風邪をひいたから薬がほしい、という患者がいる。だが、風邪かどうかはわれわれが診断することだ。われわれが知りたいことは、患者がどんな病気だと思っているかではなく、どんな症状があるか、ということだ。まして心理的な問題の場合、外に症状が出るわけではないから、自分で勝手に分析した結果に自己暗示にかかりやすい」
「…どういう、ことだ?」
「お前は、自分を分析しようとしているようだが、分析の方法が間違っているから、考えが循環参照になっている。結局、お前は、分析するのではなく、自分の作り出した結論を無理やり自分に思い込ませようとしているだけだ。恐車の術にはまりやすいタイプともいえる。ついでに言えば、お前は自分の基準で他人の考えを判断しようとするところが見られるが、他人が自分と同じように考えると思い込むほど危険なことはない。お前が失敗するとすれば、そこだ」
 仙蔵は、まじまじと伊作の顔を見つめた。伊作から、ここまで明晰に自分の欠点を指摘されようとは。そして、それがここまで胸に落ちる指摘であろうとは。
「ま、ちょっと言い過ぎたかな。気にするなよ」
 仙蔵の視線に、伊作は照れ笑いを浮かべる。
「いや…たしかに、そうかもな。私は、分析しているつもりで、都合のいい思い込みをしていただけなのかもしれない」
「そうさ。たまには一年は組みたいにやればいいんだよ」
「一年は組のように?」
 思いがけないキーワードに、仙蔵は思わず吹き出す。
「そ。あの行き当たりばったりの勢い任せ。トライアンドエラーの繰り返し。仙蔵の対極だが、お前に必要なのは、あのお気楽さとたくましさなのかも知れないな」
「トライアンドエラー…たくましさ…か」
「そういうこと」
 伊作はにっこりする。
「そういえば、一年は組は、補習と追試の定期券ホルダーらしいな」
「そう。それで実戦経験が必要以上に豊富になったと、乱太郎から聞いたことがある」
「必要以上に…か。乱太郎らしいな」
「まったくだ」
 ははは…と、二人は笑い声をあげる。

 


「不思議だな」
 仙蔵は呟く。
「なにがさ」
 伊作は、煎じ器からあげた薬を、冷まし始めていた。その手元を、仙蔵はじっと見詰めている。
「お前といると、なぜか話を聞いてもらいたくなる」
「私でよければ、いつでも聞くさ」
「お前が順忍だったら、さぞ手強いだろうな」
「私は、話を聞くだけだ。聞き出すほうは、得意じゃない」


「さ、大黄黄連瀉心湯だ。これは十分冷ましてから飲むと、効果が高くなる。少し便がゆるくなるかも知れないが、熱邪を外に出すためだから、我慢してくれ」
 伊作の口調は、保健委員長のものに戻っている。
「今夜は、医務室で休んでもらう。明日の授業に出られるかは、明日の朝、新野先生に診てもらってから判断する。明日から風呂には入っても構わないが、包帯は外さないように。それから、包帯は朝晩に交換するから、必ず医務室に来るように。分かったな」
「分かりました」
「素直でよろしい」
「医務室は、お前の城だからな」
「今日は、私もここで寝るから、熱っぽくなったり、傷口が痛んだりしたらすぐに起こすんだぞ」
「わかった」
「では、消灯するぞ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ」

 


 足の痛みはほとんど治まっていたが、仙蔵は不思議な感覚がして寝付けずにいた。
 -忍術学園の中にいるというのに、この感覚はなんだ…。
 窓の戸板を閉じたので、部屋の中は真っ暗である。学園内で、忍たま長屋以外で寝た経験がないことに、ふと仙蔵は気づく。演習で外に出たときには、安全が確保できる場所なら軒下だろうが木の上だろうが、どこででも眠れるのに、である。
 -この感覚は、忍術学園に入学して、初めて忍たま長屋で寝た夜によく似ている…。
 忍術を学ぶ学校に入った興奮と、一抹の不安と、親元を離れ、慣れない場所で一人で寝る違和感になかなか寝付けなかった夜だった。
 -一年だった頃は、卒業することなど考えもしなかった。
 そうだ。このまま学園の生活が永遠に続くのではないかと思っていた。毎年毎年、六年生たちが卒業し、自分たちが進級しても、卒業という言葉は相変わらず他人事でしかなかった。あの頃は、とにかく強くなること、知識を吸収すること、忍としての腕を磨くことしか頭になかった。早く進級して、より一人前の忍に近づきたい、それだけだった。
 -私が強くしてきたのは身体だけではない、精神力も鍛えてきたはずだ。忍の世界で生きていくために必要な程度には…。
 だが、その思いが、確信になれない。引っ掛かりが、どうしても取れないのだ。


 

「仙蔵、眠れないのか」
 寝ていると思っていた伊作が、声をかけてくる。
「ああ、ちょっとな」
「傷が痛むのか?」
「いや、そうではない。少し、考えことをしていた」
「そうか」
 しばし、沈黙が流れる。
「もう、私たちは、あの頃には戻れないが…一年は組を見ていると思い出すな。あの頃を」
 暗闇の中で、仙蔵が呟く。
「一年の頃のことか?」
「ああ」
「戻らなくてもいい。楽しかった思い出があるんだから、十分じゃないか」
 自分が一年生だった頃は、毎日のカリキュラムについていくだけで必死で、忍とは何かということなど考えたこともなくて、それでも毎日が楽しかったことしか思い出せなくて…伊作はその頃のことを思い出しながら答える。
 -今は、ずいぶん遠くに来てしまったような気がする。卒業してどのような道を歩むにしろ、今の私をずいぶん遠くに思い出す日が来るのだろう。きっと。
「そうだな。お前のいうとおりだ」
 何のためらいもない伊作の言葉に、仙蔵は軽い動揺をおぼえる。どうして伊作の言葉は、ときにこんなに強く感じるのだろう。
「…」

 


 演習の疲れが出たのだろうか。静かに寝息をたて始めた伊作の傍らで、仙蔵は天井を見つめている。
 -私は、何を恐れているというんだ。
 一人前の忍となるために、ここまで鍛練を積んできた。いま、自分は、少なくともプロの忍として生きていくための、スタートに立てる程度の技量は体得している。
 -望んでいたことではないか。それが、もう目の前に、すぐ手の届くところまで来ているのだ。
 それなのに、何かが、足を引っ張っていた。

 


 いや、その正体は分かっていた。
 -私が恐れているものは、友人とこのように話を交わす時間を失うことなのだ。
 伊作たちと、このように、本音と寸分も距離のない言葉を交し合うことが許されているのも、忍たまとして学園にいる間だけのことである。学園を卒業すれば、自分は一人の大人として、そして一人立ちした忍として生きていかなければならない。真実(まこと)と虚言(そらごと)が交錯して成り立つ大人の世界と、虚言だけで成り立つ忍の世界を渡り歩いていくことになるのだ。
 混じりけのない、本音の言葉をぶつけあうことは、あるいは大人になるために振り捨ててきた子どもの最後の残滓なのかもしれなかった。いままでは、自分の中の子どもを振り捨て、少しでも精神的にも肉体的にも大人になることを目指していたのに、最後の残滓を見るとにわかに名残惜しくなったというのが、この不安感の真相なのかもしれない。
 -それが、一人前の忍になるために必要なことなのだ。甘い感傷になど…。
 それでも、先ほどの伊作の、現状肯定の言葉は強く響くのだ。
 -伊作、お前はどうしてそう、勁(つよ)いのだ。
 先ほど、伊作には自分の思考が循環参照になっていると言われたが、仙蔵の感覚では、思考が千々に乱れて収拾がつかなくなっている状態というほうが、より実態に近いように思われた。それに比べて、伊作のありのままに現状を受け入れる言葉が、仙蔵には眩しく感じられるのだった。

 


「伊作」
 暗がりに向かって、声をかける。
「どうした」
 眠そうな声が返ってくる。
「また、話を聞いてもらえないか」
「ああ。私でよければ、いつでも聞くさ」
「ありがとう」
 風はおさまってきたらしい。戸板の隙間から聞こえていた風の音も、いつしか止んでいる。

 

 

<FIN>

 

 

 

 

 

← Back