REGO~たどりつく場所~

 

    はじまりの場所へ   REGO~はじまりの場所へ~

    捕囚         REGO~捕囚~

    奈落         REGO~奈落~

    Intermezzo

    脱出         REGO~脱出~

    たどりつく場所    REGO~たどりつく場所~

 

 

 

「わ~い、まてまて~」
「おにいさまっ! またそんなに鼻水をたらしたままで…」
 庭先で蝶を追いかけるしんべヱの後を、鼻紙を持ったカメ子がぱたぱたと走る。その様子を眼を細めて眺めていた福富屋だったが、2人の姿が庭先から消えると、ふいに厳しい表情になった。手を後ろに組んで鋭い眼を庭に向けるが、その視線は何もとらえていない。
 -海上封鎖から二日か…。
 いまややたらと輻輳してしまった事態を整理するために、福富屋は一人、座敷に立って庭を眺めている。
 -黒松殿が海上封鎖をする表向きの理由は、あくまで一揆勢の引渡しであるはず。まんまと逃げられた忍を取り戻すためとは、口が裂けても言えまい。
 つまり、黒松には、表立って半助を奪還することはできないということである。
 -本願寺が、その意図に気付いたとすれば…。
 本願寺が、半助を単に黒松の牢から脱出に成功した忍と認識したならば、黒松と本願寺の綱引きになるだけである。だが、なぜ室津船が半助の脱出に手を貸したかを考えれば、そのような単純な解釈をするとは思えなかった。
 -やはり、土井半助の背後に堺あり、というところは、見破られる前提で考えねばなるまい。
 だとすると、本願寺は黒松に対して強気の態度に出るだろう。黒松の海上封鎖は、本音は半助の奪還としても、建前は一揆勢の引渡しなのだ。本願寺も一枚岩ではないから、融和論も出るだろうが、宗徒である一揆勢の引渡しなど到底応じることはないだろう。黒松が振り上げた拳を下ろせるような取引を展開して海上封鎖を解除させようとするに違いない。裏で半助の身柄のやりとりはあるかも知れないが、表向きはどう格好をつけるか。
 -手っ取り早いのは、第三者からの攻撃に対して同盟することだ。
 さてどうするか。どちらにしても、このままでは本願寺と黒松の裏取引が成立して、半助の身柄は黒松に引き渡されるだろう。それでは困る。
 ふと、数日前に大盛寺で面会した厚かましい貴族の家司を思い出した。
 -六条前大納言殿を通して、崎浜家を動かすか。
 淀川の水運を止められて困るのは、将軍を擁立している崎浜家も、前大納言として京の貴族社会に君臨する六条家も同じである。京が政情不安になると同時に、自分たちの生活物資の調達にも打撃が及ぶからだ。
 -崎浜家には、堺の衆も武器調達に食い込んでいる。福冨屋は本願寺に武器提供を申し出ればよい。黒松との和議が動き出す前に、本願寺から半助を引き出さなければ…いや、待て待て…。
 数日後に、崎浜家の隠居と会う予定があるではないか。この機会を逃す手はない。
 -ちょうどいい話のネタもあることだ…。
 つい先ほど、甚七が伝えてきた情報を思い出した。黒松が、塩飽水軍攻めの共同作戦のために、西国の守護の中内氏と交渉に入ったらしいということだった。
 -ご隠居には、中内殿と黒松殿が同盟交渉に入ったと匂わせるとしよう…。
 実際には一時的な作戦のための交渉にすぎなかったが、実際、共同作戦から同盟へと話が進むことも前例がないこともない。この話を聞いた後で中内と黒松の交渉を探った者たちは、水軍攻めの作戦は同盟交渉のカムフラージュとしか見えなくなるだろう。
 -よし、優先順位の変更だ。
 現に海上封鎖している黒松が、西国の雄であり、海上勢力にも一定の影響力を持つ中内と連合すれば、それは海上封鎖が強化され、あるいは陸上にも封鎖が及ぶ可能性が出るということだった。そうでなくても西国にこのような連合が発生すれば、京方で張り合っている糸川と崎浜にとっては大ピンチである。少なくとも一時的に連合が発生する可能性が高い。それを後押しするには…。
 -近江守護の三角殿か…。
 弱小守護でありながら、近江という要衝の地を押さえる守護だけあって、三角氏は糸川とも崎浜とも姻戚関係を結んでいる。普段、角突き合わせているときには両家とも歯牙にもかけない家柄だが、こういう時には存在感を発揮するのが三角という家である。
 -使者には…おお、そういえば海鳳寺にうってつけの人物がおられるではないか。
 五山から貿易実務の名目で訪れている江月宗常のことである。五山が福富屋を通じて依頼した調査が黒松に発覚して、大慌てで事態の収拾のために堺に乗り込んだというところが実態だったが。宗常なら、このような交渉ごとはお家芸である。五山の僧であれば、守護といえども無下には扱えないし、宗常は経済や貿易よりもそのような政治的な交渉事が大好物と耳にしたことがある。

 -問題は、崎浜殿が受け入れるかということだが…。

 五山の僧は権力べったりだから、当然ながらいま将軍を擁して時めいている糸川家と深い関係にある。崎浜家としては、そのような組織を代表する人物が訪れても、面白くはないだろう。ここは、五山の宗常が交渉に失敗したときの保険が必要である。それも、そこそこ政治力のある存在が…。

 -そうか。ここで前大納言殿にお出ましいただくのがいい。

 窮乏の末に領地立て直しのために当主自らが堺まで乗り込んで来ざるを得ない状況ではあっても、大納言まで務めるほどの家柄ではあったから、そこここに張り巡らせた姻戚関係に基づく政治力は侮れないものがあった。
 -ついでに、この際お引き取り願うとしよう。
 あの自分のことしか考えない公家は、あくまで保険である。あまり恩を着せたと思われない程度にお付き合いいただくことにする。まずは工作のために京に戻っていただくとしよう。このまま堺にとどまって福富屋と本願寺、黒松の間にある裏の事情をつかまれた場合、もっとも厄介な動きをしそうなのは誰あろう前大納言だったから。
 -まったく、面倒なことだ。
 いつの間にか、福富屋は大きくため息をついていた。
「おとうさま、どうされたのですか? そんなにためいきなんかつかれて」
 気が付くと、カメ子が傍らで見上げていた。
「いやいや、なんでもないのだよ」
 苦笑いで軽く頭を振ると、福富屋はかがみ込んでカメ子の頭を撫でる。
「そうだ、カメ子、ひとつパパの頼みを聞いてくれるかね」
「はい! なんでしょうか」
 利発な眼で見上げる幼い娘が愛しくて、福富屋はもう一度カメ子の頭を撫でる。

 


「福富屋の…娘御と?」
 海鳳寺の座敷で文を認めていた宗常が顔を上げる。
 -何を考えているというのだ、福富屋は。
 苛立ちのあまり、返事が少し遅れた。
 -だいたい、堺に来たはいいものの、物事が少しも進んでいない。それもこれも、福富屋のせいではないのか。
 事態の収拾のために、貿易実務の打ち合わせの名目で堺を訪れたはずだった。しかし、黒松や本願寺をめぐる事態は複雑さを増すばかりだし、カウンターパートであるはずの福富屋は、五山と福富屋の関係を知られる危険があると言っては顔も出さないし情報もよこさない。結果として無為にとどまっているばかりの現状に、宗常の苛立ちは頂点に達しつつあった。おまけにやっと福富屋が動いたと思ったら、娘を寄越しただと…!?
「いかがいたしましょうか」
 小僧の声に我に返る。
「通しなさい」
 ややあって「失礼します」との声とともに襖が開かれた。
 -おや。
 現れた少女があまりに幼い姿であるのに、思わず眉を上げる。
 -これはまた、まだほんの子どもではないか。
 いよいよ福富屋の考えていることが分からなくなる。
「福富屋の娘、カメ子でございます。本日は父より文をあずかってまいりました」
 歳より利発そうな娘は、はきはきというと文を差し出した。
「これはこれは。ご苦労だったね」
 苦労して作り笑いを浮かべながら受け取った宗常は、文を広げる。
 -これは…! 
 何ということだろう。福富屋は、半黒松同盟のための工作を依頼してきている。しかも、そのような重大な文書を、年端もいかない娘に持たせてきているのだ。
「父上から、文を読み終わった後にこれをお渡しするようおおせつかっております」
 文から眼を上げて呆然と自分を見つめる視線に気づいたカメ子が、傍らの包みを解く。そして、漆に螺鈿をちりばめた箱を差し出す。不審そうに受け取った宗常が蓋をあける。
 -ほほう。
 箱の中身にすべてを了解した宗常は、蓋を戻すとにっこりして言う。
「福富屋さんにお伝えください。ご用件は確かに承りましたと」
「しょうちしました」
 深々と頭を下げたカメ子は、楚々と立ち去る。
 -なるほど、餅を童女に持たせるとは…福富屋もやるものだ。
 箱の中身は、餅だった。カメ子に餅を持たせたのは、源氏物語の源氏と紫の上の三日夜の餅の話を敷いたものだろう。そして、今回、源氏と紫の上に当たるのは、糸川家と崎浜家である。うまく両家の連合を取り持ってほしいということなのであろう。
 -これは、責任重大なことだ。
 だが、堺に来てからというものたまりにたまっていた屈託が消えていることも事実だった。
 -これでこそ、私が動きべき場面というものだ。

 


「これが牧谿の画ですか…」
「いやいや、見事の一語に尽きますな」
 福冨屋の茶室では、滅多に出さない牧谿画を虫干しの名目で出した茶会が開かれていた。
「この瀟湘八景はいかにも牧谿ですな」
「この夕霧のたゆたうさまは、見事の一言に尽きます」
 ひとしきり画を鑑賞した客人たちが座につき、亭主をつとめる福富屋が茶を点じていた。
「ときに、黒松殿の海上封鎖は、いつまで続くのでしょうか」
 気がかりそうに言うのは、京から来た商人の一人である。
「そうですなあ」
 のんびりと答えつつ、福冨屋は畳の上に茶碗を滑らせる。
 たしかに京の商人にとって、淀川の水運が絶たれることは非常事態だった。海上封鎖を免れた港からの陸路での物流は辛うじて確保されていたが、水運に比べれば途方もないコストがかかることであり、それは京における物価上昇と政情不安を煽り立てていた。そして、その果てに勃発する一揆が真っ先に狙うのは、商人の蔵だった。彼らはいつも、値上がりを待って商品を売り惜しみしていると思われていたからである。それも、一面の真実ではあったが。
「本願寺殿とすれば、一揆勢の引渡しなど到底飲める話ではない。長引くと見て間違いあるまい」
 無関心そうに呟いたのは、糸川家の一族に連なる武家の隠居である。今のところ、将軍を擁して時めいている糸川家であるが、それゆえ今回の黒松の海上封鎖と京の政情不安は、権力基盤に直接響く危機である。そのため、趣味人として名高い隠居が、身軽な立場を利用して事態の収拾を図るべく、堺へ立ち寄っている。
「いかにも、長引くでしょうな」
 福冨屋も、淡々と相槌を打つ。
「堺としても、このようなことが先々の習いとなってしまってはたいへん困ります。黒松殿には、ぜひお考えを変えていただきたいものですな」
「それなりのご覚悟でされていることです。簡単に変えるとも思われないが…それにしても、けっこうなお点前で。それに…」
 ずず、と茶をすすった隠居は、懐紙で器の縁を拭うと、軽く持ち上げてそのごつごつとした手触りをめでるように掌を滑らせた。
「なんとも見事な備前ですな。唐土と違う、日本の土という手触りが、やはりいちばん手に馴染む」
「おそれいります」
 畳の上に戻されて、自分へ向けて押し出された器を手に取りながら、福富屋は型どおりに答える。だが、つづけてぽつりとその口から吐かれた台詞に、一座の者に戦慄が走る。
「…しかし、備前もこれから少しばかりざわつくかもしれませんな」
「西国で、なにごとか起こりますかな」
 一瞬の動揺をたちまちのうちに深く刻まれた皺の間にたくしこんだ隠居が、なにごともなかったように口を開く。
「周防殿(中内氏)が播州殿(黒松氏)にずいぶんと近づいておられるとか」
「それはそれは」
 内心の動揺を苦労して押さえながら、隠居は応える。これは早急に対抗策を講じないと、きわめて危険な事態になると思いながら。

 

 

「では、お取引の条件についてですが…」
 本願寺の物品調達担当の別当の前に座るのは、柏屋と福冨屋の手代である。
 福冨屋の読んだとおり、本願寺からは、不足している火薬や火器の発注が寄せられていた。堺には、柏屋を含め、熱心な真宗の門徒である大商人が多くいたが、武具や火器の取引に通じた者がいなかった。だから、本願寺が火器をはじめとする武器を調達する場合、手っ取り早く納品できる先として柏屋などを通じて堺の商人のなかでも火器類の扱い高が多いものを指定していたが、そのなかでも特に信頼を寄せていたのが福冨屋である。その一方で、門徒でもない商人が本願寺と関係が深いことをあからさまにすることを避けるため、この手の取引を行う場合には、手代や番頭が挨拶を兼ねて訪問することが常となっていた。
「とにかく、一刻も早く火縄と火薬を調達したい。数については問わぬ。調達可能な数だけ入れてほしい」
 別当の額には汗がにじんでいる。よほど急いでいるのだろうか。
「そうは申されましても、このご時世、私どもで調達できる数目には限度がございまして…」
「そんなことは分かっておる!」
 ぱし、と閉じた扇子で畳を打ち付けた別当が声を荒げる。
「すでに売約済みになっているものもあるから在庫がないとでも申すのであろう。その売約額の三割増しで買うことといたそう。しからば、屹度その分の火縄も集めて調達するのだ。よいな」
 もちろん、福富屋にとって悪い話ではない。若干在庫過剰気味となっている火縄や火薬の一掃としてばかりでなく、本願寺に食い込むいい機会である。そう判断した手代は、深々と頭を下げる。
「かしこまりました。この福富屋の全力を尽くして、ご入用の数目を調達いたします」

 


「本願寺に行かれたとか」
 むっすりと六条前大納言家の家司の横山大弐がいう。
「はい」
 大盛寺の座敷で向かい合っているのは、福冨屋の番頭である。ここしばらく、横山がいくら呼びかけても、福冨屋は逃げ回ってばかりである。いわく、船が入って忙しいとか、会合衆の寄り合いが入ったとか、しんべヱの進学の件で奥方と係争中とか。
 業を煮やした大弐が、番頭と会わせろと要求してもなお、あれやこれやと理由をつけては引き伸ばし、ようやく大盛寺で面談がかなったというわけだった。
 -われわれを軽んじているのか?
 たしかに、依頼する立場であり、見返りを用意しているわけでもない以上、あまり強くは出られないが、こちらには前大納言として、京方には隠然とした影響力を残していることを忘れられては困る。そのことを少し認識させる必要があるだろうかと考えたとき、番頭が口を開いた。
「御領内の一揆勢の門徒は、山科に向かった由でございます」
「存じて居る」
 だからこそ、ことは急がなければならなかった。彼らが遠くへ行けばいくほど、取り戻すのは難しくなる。山科には本願寺の一大拠点があるし、その先の北陸はもっと遠く、広い。
「さて、どれだけの火縄を売りつけられたことやら」
 さも軽蔑したように鼻から短く息を吐きながら、大弐は眼の前の番頭から視線を逸らせた。その実、視野の一角で番頭の表情は余さず捉えていたが。
「手前どもでお納めできる数など知れたもの」
 番頭の表情は全く変わらない。
「そうであろうな。京では対黒松連合ができつつある…そちらでも、火縄はあればあるだけ手に入れようとなさるはず。じつによい商売だ」
 嫌味にかこつけて、最近伝えられた京の状況を軽くひけらかしてみる。いまは堺に身を置いているからといって、京方の事情に疎くなっていると思われては困るのだ。
「めっそうもないことでございます」
 番頭の表情も口調も、慇懃無礼という言葉がぴったりくるほどに変わらない。
「…私ども堺の者は、それぞれお取引先がございます。崎浜殿と糸川殿が同盟して播磨へ下られるからといって、私どもの取引高が上がるわけでもなく…」
「!」
 番頭が棒読みのように続けた台詞は、明らかに六条家が把握している事態を上回るものだった。
 -崎浜と糸川の同盟軍が播磨に下る…だと!?
 そのような観測があるとは、京からの便りで知っていたが、いまこの番頭がわざわざ口にするからには、それは確実な情報なのだろう。しかも、その断片に過ぎないに違いない。
 -情報量では我らを上回ると言いたいわけか…!
 大弐は奥歯を噛みしめる。
「しかし、崎浜殿と糸川殿といえば、将軍擁立を巡って積年の対立関係にある…そう簡単に同盟など結べますものやら」
 辛うじて威厳ある態度を保ちながら、大弐は考え込むように腕を組んで見せる。
「そこででございます」
 ふいに番頭の表情が動いた。つつ、と膝を進めて声を潜める。
「六条殿が近江の御守護であられる三角殿にしかるべく働き掛けていただければ、というのが、手前どもの主人のご提案でございます」
「三角殿…とな」
 その意味を素早く脳内で読み解く。近江守護の三角氏は弱小の大名だが、近江という要衝の地を抑えているため、有力大名とそれぞれ姻戚関係を結んでいる。三角氏が間に入れば、あるいは対立関係にある崎浜家と糸川家が同盟することもあるかもしれなかった。
「しかし、それをするには、三角殿にとってはリスクが大きい。我が殿にとってもな」
 だから、しかるべき見返りを、と匂わせる。これまでは福富屋に一方的に依頼するだけだったが、六条家の政治力を発揮して物事を動かすことを依頼されたとなれば、ギブアンドテイクの関係になる。
「それはもちろん」
 誰かに盗み聞きでもされているかのように番頭はさらに声を潜める。
「…三角殿は手前どものお取引先でいらっしゃいます。しかるべく手配すれば、山科にいる人たちも、より先に行くことはないでしょう…」
 -一揆衆を山科で足止めして、その間にしかるべく手を打つということか。
 だが、それだけでは、領民を取り戻すことにはならない。もう一歩踏み込んでもらわねば。
「それだけで、崎浜殿と糸川殿が手を結ばれることやら。だからリスクが高いと申して居るものを」
「さようでございますか」
 急速に関心を失ったように、番頭は大弐から離れると、元いたところに端座する。その顔は、もとの無表情なのっぺりとしたものに戻っている。
 -な、なんだこの態度の変化は…。
 内心の動揺を苦労して押さえながら、大弐は腕を組んだままむすりと言う。
「それでは是非もないこと」
 言い捨てた番頭は、そそくさと立ち上がろうとする。
「ま、待たぬか」
 慌てて大弐が制する。
「そうなってもよいというのか」
「申すまでもございません」
 冷やかに番頭は答える。
「問題はすでに京方に移っております。京方が動かないというのであれば、私どもには手の打ちようもございません」  
「このまま海上封鎖が続いてもよいと申すか」
「それもまた是非もないことでございます…いにしえの大戦(応仁の乱)の際には、瀬戸内を通ることができなくなったため、堺の船は土佐を経由する航路を開発しました。このたびも同じ手を取るだけのことでございます」
「わかった」
 ふたたび腰を浮かしかけた番頭に、大弐は腕を組んだまま吐き捨てるように言った。
 -ここはあまり欲張らぬ方が得策だ…。
 このまま福富屋に降りられてしまっては、六条家としては何も得ることがない。
「…話の旨は殿にご報告するとしよう。それゆえ、三角殿や本願寺殿への働きかけも遺漏がないように」
「は」
 形ばかり頭を下げてみせる番頭に、大弐はふと不安を覚える。
 -もしかして福富屋は、ほかにも糸川殿と崎浜殿を結び付けるための手段をすでに講じているのでは…?
 


「これはこれは宗常殿。このような旅の宿で巡り合うとは奇遇ですな」
「まったくでございます」
 六条前大納言の邸宅に、海鳳寺に滞在していた江月宗常が訪れるのは初めてのことだった。狭い堺の町にいながら、これまで全く顔を合わせる機会がなかったのはむしろ不思議なことだった。京にいるときは、折々の行事や社交の席で会うことも珍しくなかったのに、である。
「これからは、互いにたびたび訪れたいものですな…このような地でも、京の方とお会いしているだけで心が晴れる心地がする」
 上機嫌で語りかける前大納言に、宗常は言いにくそうに口を開く。
「ぜひ、そうさせていただければ…とは思うのですが」
「なにか、障りでもありますかな?」
 不審そうに扇で口元を覆いながら、前大納言が訊く。
「実は、明朝には京に立たねばなりません。ようやくお目通りの栄を得られたところに誠に残念ですが」
 本当なら、何か月も堺にいながら今まで挨拶に来ていないのだから、今更訪れるのもはばかられた。福富屋に「六条殿にもぜひ暇乞いをされるとよい」と言われたからやむなく来たまでである。そうでなくとも急な出立を控えて忙しいのだ。
「それは、急なお話ですな」
 -最初の挨拶が暇乞いとは、いったい何を考えているのだこの僧は…。
 鷹揚に応じながらも、口調に不快感がにじむのを隠しきれない。そんな用で来るくらいなら、最初から来ない方がまだましというものである。
「…次の遣明船のお話はもう片付いたということですかな」
 そのために堺を訪れていると聞いている。そのことをふと思い出して口にしたに過ぎなかったが、相手の返事は予想を超えたものだった。
「実は、京に戻ったらすぐに近江に赴かねばならぬのです」
「近江とは、三角殿になにか?」
 反射的に口にしてしまった問いだった。先日、福富屋と接触した大弐からの報告が頭をよぎる。
 -福富屋は、三角が崎浜と糸川の調停をするよう働きかけてほしいと言ってきた…。
「おや、ご存知でしたか。さすがは前大納言殿」
 宗常の表情が和らぐ。その口調は、いかにも秘密を共有する者どうしのような狎れを帯びる。
「三角殿には、崎浜殿と糸川殿の調停に動いていただくようお願いしなければならない…拙僧にはいささか荷が重いのですが、これも無用な戦を止めるためとのことであれば是非もないこと」
 -荷が重いとは片腹痛い…この政治好きの生臭坊主が。
 荘重を装っているが、久しぶりの政治的な、それも重大な役回りに浮ついたものを止められない宗常に、前大納言は軽蔑を苦労して隠さなければならなかった。そして考える。
 -なるほど、福富屋がわれらに三角殿への働きかけを依頼しておきながらあっさり引っ込めたのは、宗常を使うことを決めていたからであったか…。
 福富屋が六条家に期待していることは、せいぜい宗常が交渉に失敗したときの保険に過ぎないということは明らかだった。
 -だが、このままではわが六条家を差し置いてことが進んでしまう。そんなことは断じて許してはならぬ…!
「して、三角殿にはいつお会いなさるのですかな?」
 何気ない風を装って訊く。
「なにぶんことは急がねばならないということで、京についたらすぐにアポイントを取るつもりです」
「さようですか。ぜひ、お役目を無事に果たされますよう」
「ありがとうございます」
 合掌して深々と頭を下げると、用は済んだとばかりに宗常はそそくさと立ち去った。座敷に残された前大納言は脇息に肘をついて考えを巡らす。
 -なんとしても、宗常より先に、われらが三角にアクセスしなければならぬ。そのためには…。
 自分が動いてはなにぶん目立つ。ここは、朝廷でそこそこの官職にある息子を動かそう。まずは六条家を三角家が連携して崎浜家と糸川家の同盟の仲立ちをする。いずれの家とも姻戚関係にある六条家ならば、話は早いはずである。話がまとまりしだい、大々的にアナウンスするとしよう。
 -そもそも、五山の連中は将軍家べったりだから、いま将軍家を出していない崎浜家とうまく話をまとめることなど、できるはずもない。これができるのは、わが六条家をおいてない。
 両家の同盟が発表される暁には、盛大な宴が必要であろう。
 -必要な金員や両家、三角への貢物は…福富屋にでも出させるか。
 そこまで考えをまとめると、前大納言は大弐を呼ばせる。すぐに、福富屋に接触させなければならなかった。

 


「横山大弐殿からの文でございます」
 外出先から戻って、奥座敷で積み上げられていた文に眼を通していた福富屋のもとに、手代が新たな文を持ってやってきた。
「内容は」
「昨日と同じです。早く会談したい、と」
「そこに置いておいてください。返事の必要はありません」
「はい」
 -ままならぬお方であることよ。
 内心ため息をつきながら、読んでいた文の返事をしたためる。
 -宗常殿と競っていただくのは予定通りとして、肝心の殿が堺から動かないとは…。
 前大納言を堺から厄介払いするのは、このまま堺にいて本願寺と黒松との間の交渉の裏の意味を嗅ぎ付けて変な動きをすることを防ぐためだった。六条家が本願寺領に逃げ込んだ領民を取り戻すために、本願寺に手の者を入れていないわけがなかったから、そこから本願寺と黒松の交渉の裏のテーマが半助の身柄であることが知られてしまうリスクはあった。いまは石山の町に潜っているであろう半助の身柄を取り戻すために、余計な勢力の介入は防がなければならなかった。それが黒松をけん制する役に立つならともかく、六条家が介入しても黒松に対しては何の役にも立たず、事態だけは撹乱されるようにしか思えなかったから。
 だが、ことは福富屋の思惑と異なり、前大納言は堺に居座ったまま、京で官職にある息子を動かしているという。しきりに面会を要求しているのは、三角家などへの工作資金の無心だろう。
 -今が重要な局面なのだ。
 折しも宗常からの状況報告が届いたところだった。それによれば、工作は順調に進展し、数日内に糸川家と崎浜家の同盟成立と黒松に対する連合軍の結成が発表されるはずだった。すべては宗常に言い含めたとおり、黒松家と中内家の連携に対する疑心暗鬼の産物である。
 -そうなれば…。
 黒松家に選択肢はない。本願寺とは早急に多少不利な内容であっても手打ちを急ぎ、播磨の守りを固めるしかない。当然、海上封鎖を継続する理由ももはやない。世間はそれが福富屋の工作の真意と見るだろう。
 -だからこそ、土井という忍の身柄を早く確保しなければならない…。


 

「なんと…これでは、わが黒松包囲網ではないか…」
 勘解由が思わず手にした扇子を握りしめる。
「は…」
 控えた二郎左衛門と兵衛が眼を伏せる。
 長年、将軍擁立を巡って対立を続けてきた糸川家と崎浜家の同盟は、あまりに衝撃的なニュースだった。続いて両家が中心となった連合軍の構想が動いているという情報も飛び込んで、黒松城内はパニック状態となっていた。両家の連合軍となれば、近隣の守護大名たちも争って合流するだろうし、将軍奉書というお墨付きを取って官軍となることは間違いなかった。そしてその矛先は、黒松に向いているのだ。
 中内氏と黒松氏の連携の話は瞬く間に政治的なハレーションを引き起こした。現に摂津で海上封鎖を行っている黒松氏に、西国の雄である中内氏が絡んだらどのような事態となるか、少なくとも何らかの政治的な権力に携わるもので思いが至らない者はいなかったし、だからこそ、糸川家と崎浜家が危機感を共有したのだ。
「塩飽の水軍攻めの共同作戦の話が、なぜ同盟などと…」
 今さら繰り言を述べても埒もないことだったが、それでも勘解由は言わずにはいられない。
 -それもまだ話を聞いただけで、形ばかり協力したことにして中内に恩を売っておこうかという程度の話だ。しかし、このようなことになっては中内からは話を勝手に拡大したと言われるどころか、これをきっかけに攻めてくるかもしれぬ。そうなれば東と西から挟み撃ちになる…。
 考えるだけで背筋に冷たい汗が伝う。
「話の出所は、堺かと…」
 二郎左衛門がかしこまって答える。
「というと?」
「五山の江月宗常が近江の三角家を動かして糸川家と崎浜家の同盟のお膳立てをした由ですが、その際の資金の出元が堺とのことです。またそれとは別に前大納言家も動いているとか…」
「前大納言は、現在堺に滞在していて、家司の横山大弐という者がしばしば福富屋と接触しているとのことです」
 二郎左衛門と兵衛が報告する。
 -ということは、堺の手の者がわが黒松に間者を放って情報収集に首尾よく成功したということか…。
 思いつく限り最悪の事態が起こりつつある。糸川・崎浜連合軍に攻め込まれれば、黒松と言えども持ちこたえられるかどうかは微妙だった。しかも連合軍には、黒松を制圧した後のおこぼれに与ろうとする守護大名たちが続々と合流しているのだ。それも、本願寺と摂津沖を海上封鎖して対峙しているまっただ中である。当然、連合軍と本願寺が一時的にせよ同盟を組む事態は考えなければならなかった。
 -糸川は阿波にも勢力を張っているし、崎浜は山陰の尼古家と関係が深い。へたをすれば南北からも挟み撃ちになるではないか…。
 そうでなくても海上封鎖には水軍から多くの傭船を入れていて、その費用も負担だった。もはや打つべき手は一つしかない。勘解由は胃液が逆流しそうな思いを辛うじて抑え込みながら口を開く。
「…事ここに至った以上、播磨の守りを固めることが最優先課題だ。摂津沖の海上封鎖は即刻取りやめ、本願寺と和議の交渉を始めよ。一揆勢や土井半助なる忍の引き渡しにこだわるな。ただし…」
 勘解由は苦渋をかみ殺すように言葉を切った。
「土井は見つけ次第消すのだ。生かしておいては後々禍根を残すだろうからな」
「「はっ」」
 二郎左衛門と兵衛が平伏する。

 

 

「黒松殿と本願寺が交渉を始められたとか」
 布で包んだ香入れをそっと箱に収めながら、甚七が報告する。
「ほう、それはそれは」
 花瓶を手に取りながら、福富屋はつぶやく。
 いま、福富屋の座敷では、糸川家と崎浜家の連合のために、調停を依頼した三角家を含む諸方へ贈る品物を決めるために、座敷いっぱいに秘蔵する名品を並べて品定めをしているところだった。手伝いとして甚七だけが座敷に残っている。いま、主人の座敷が古今の書画や茶道具などの名品でいっぱいになっていることを知っている家の者は、座敷に近寄りもしない。うっかり座敷前の廊下を歩いて、振動で貴重な陶器が倒れて欠けでもしたら一大事である。従って、福富屋に送り込まれている各地の城の手の者も近づくことができなかった。
「黒松殿は、石山に逃げ込んだ一揆勢を追放することで手を打つとのよしです」
「なるほど」
 -まあ、妥当な解決策でしょうな。
「そうだ、甚七。そこの箱に周文の画があったはずです。出してください」
「はい」
 言われるままに箱から巻物を取り出す甚七には、正直なところ自分が手にしている物の価値は掴みかねている。まだ15・6の若者は、下島一門の忍として、忍に必要な技能や知識は叩き込まれていたが、美術品や骨董の価値については理解の外にある。とにかく粗相のないように扱うしかない。
「そうそう、これです…よろしい、これを献上するとしましょう」
 畳の上に広げた水墨画に眼を落とした福富屋は満足げに頷く。
「かしこまりました」
 注意深く巻き取って再び布に包みなおす甚七に、福富屋は何気ないように言う。
「そういえば、土井と申す忍者は、見つかりましたか」
「いえ…現在、手の者が探しておりますが、まだ見つからないとのことです」
「そうですか」
 福富屋は軽くため息をつく。
「…いま報告があったように、おそらく本願寺殿は黒松殿と手を打つ条件として、黒松の御領内での一揆勢を石山から追放なさるでしょう。そのときには、おそらく抵抗するものや擁護するものもいてひと悶着あるに違いありません。その時が、土井という忍者を保護するチャンスです。だから、それまでにはきっと見つけ出さねばならない。そうお伝えなさい」
「…はい」
 福富屋は知らない。黒松としてはもはや本願寺を相手に条件闘争に入ることもできないほど追い込まれていることを。

 


 ぱちぱちと篝火(かがりび)がはぜる。白洲の向こうの舞台では、いま、笛の音だけが響き渡る中、シテが夢幻に舞うようにゆるりと扇を持った手を宙に漂わせていた。
 -猿楽(能)とは幽玄という。幽玄のなんたるかは、私にはまだ分かりかねるが、こうして舞台を見ていると、現実と夢幻のあいだが薄らいでくるように感じる…。
 堺の会合衆のひとり、大野屋の庭にしつらえた舞台では、堺にやってきた武将たちを迎えた猿楽の舞台が演じられていた。
 -どこまでが現(うつつ)なのか、どこからが幻なのか…。
 いやいや、いま、自分がここにいて、そしてその周りで起こっていることどもはすべて現実なのだ。そう思おうとしても、笛の音にいざなわれるようにシテの手の先でゆるりと舞う扇を見ていると、たちまちその境界があいまいになってくるのだった。
 -ところで、土井半助という忍者は、どのような者なのですか。
 そんなことを下島閑蔵に訊ねたのは、ほんの数日前のような気もするし、ずいぶん昔のような、あるいは夢の中でのできごとのような気もした。
 -はい。土井はもともと下島の者ではありませんが、縁あって私どもで預かることになった者です。忍としては、きわめて優秀な者です。特に火器や火薬に関する知識は並ぶものがございません。
 -普段は、どのような人物なのですか。
 -そうですな…口数が少ないので、何を考えているかは正直測りかねるところが多いです。しかし、普段から兵法書を読んでいて、そちらの知識はかなりのものだと聞いております。それから…。
 -それから?
 -子ども好きなところがあるようでして、里の子どもらを相手によくいろいろなことを教えているようです。
 -ほう。
 子ども好きの忍とは珍しい、と思った記憶がぼんやりと過って、やはりこの会話は現実だったのだと考える。それがいつのことだったかは相変わらず曖昧なままだったが。
「京方がまたずいぶんと騒がしくなっているようですな」
 気が付くと、舞台の正面の席に陣取った武将たちに如才なく酒をすすめていた主人の大野屋が隣にいた。福富屋の盃に酒を注ぎながら言う口調は淡泊を装っているが、探るような気配は消しようもなく漂っている。
「まったくですな」
 急速に現実の、それも最も生臭い政治のただなかに引き戻されて、福富屋は苦笑しながら応える。
「聞きましたぞ。崎浜殿と糸川殿の同盟に三角殿が動いた裏には福富屋さんがいらしたとか」
 ふいに身を寄せてきた大野屋が耳元でささやく。
「いえいえ、私はなにも…なにかの間違いでしょう」
 苦笑した福富屋が大野屋に返杯する。
「なにを仰いますことやら…もっぱらの噂ですぞ。堺に滞在されていた江月宗常殿が急に京にお戻りになったのは、崎浜殿と糸川殿の同盟のために三角氏に働き掛けるためだったとか…」
 そして、その工作資金の出元は福富屋、とまでは言わずに大野屋は言葉を切った。
「それはまたずいぶんと買い被られたものですな」
 困惑を装って福富屋は盃を口に運ぶ。
「黒松殿も、いよいよ振り上げた拳を下ろさざるを得なくなったようですな…だが、あっさり本願寺殿に譲るおつもりもないようです」
「どういうことですかな?」
 盃を傾けた福富屋が不審げに眉を上げたとき、ぱちぱちといっそう高い音がして、篝火から火の粉が舞い散る。よほど樹液の多い薪があったのか、じゅっと音を立てて煙がたちのぼり、舞台の前にたちこめる。従者たちがあわてて煙を払いにかかる。
「黒松殿の勢力が、石山からの街道筋をことごとく封鎖しているとか。石山で痘瘡やら何やらが流行しているための予防措置と黒松側では説明していますが…」
 もちろん信じる者はおりますまい…慌ただしくなった舞台前をちらと流し目で見やった大野屋が言いたいことは明らかだった。
「つまり、本願寺殿への示威だと?」
 小声でささやきながら福富屋が舞台に眼を移したとき、まさにシテが伸ばした腕の先に広げた扇をつつっとまっすぐ上へと持ち上げているところだった。その動きに息をのむような緊張が走る刹那があって、大野屋が何か言ったと理解するのに一瞬の間が開いた。
「それ以外の何の目的があると?」
 大野屋の台詞に大した意味も意図も含まれていないことを見取った福富屋は内心ほっと溜息をつく。
 -やれやれ。ここでなにか難しいことを言われていたら、黙り込んでしまうところだった…。
「しかし、海上封鎖は解かれたのでしょう。いまさら街道筋をふさいでどうなると…」
 脊髄反射のように意味も意図もなく返しかけたところへ「よおっ」と囃方が声を上げて鼓が打ち鳴らされた。シテの動きが激しくなる。
 -それにしても、このような生臭い政治の話をしていては、幽玄もなにもあったものではない…。
 茶もそうだが、猿楽の世界も、福富屋にとってはまだまだその真髄を理解するには高尚に過ぎるようだった。

 

 

「大旦那様」
 甚七が襖の外からそっと声をかける。
「うむ」
 福冨屋は、座を立つと、座敷の襖の傍らに腰をおろした。
「…土井半助は、石山の町で無事発見されました。現在、手の者が保護しておりますが、これ以上石山に置いておくのは危険な状況です」
「石山が危険と?」
 きょとんとして福富屋が訊ねる。
「弾正一派が石山の町中をしらみつぶしに探っております。どうやら、土井を見つけ次第殺すよう指示されている模様です」
「そうですか。なんとか堺か下島の里でかくまうことができるとよいのだが」
「なにぶん石山から出せずに苦慮しているとのこと」
「黒松殿の封鎖、ですか…」
 ため息とともに福冨屋はつぶやく。
「街道筋には黒松の手の者が厳しく張っており、容易に連れ出せないとのことです。それも、石山で流行り病か出ているための予防措置との口実を…」
 甚七がさらに続けようとしたとき、座敷の反対側の襖ががらりと開いた。
「パパ、パパぁ、聞いて…」
 涙と鼻水を垂らしながら飛び込んできたのは、しんべヱである。
「おお、おお、しんべヱ。どうしたのだ?」
 不自然に座敷の隅にいたことに感づかれたかと思いながら、福冨屋は立ち上がる。
「ママが、ママがね…ぜったい忍術学園に入っちゃだめだって…そんなことはゆるさないって言うの…」
 福冨屋の身体にしがみつきながら、しんべヱは泣きじゃくる。
「でも、でも、ぼくは忍術学園に入りたいの…! パパ、どうすればいい?」
 泣き顔で自分を見上げるしんべヱの頭を撫でる。
「そうかそうか。ママがだめって言ったか。では、パパからもママにお願いしてみようね」
「ホント!?」
 しんべヱが顔を輝かせる。
「ああもちろんだとも、しんべヱ。パパもしんべヱには、忍術学園で強くなってほしいからね」
「うん!」
 さっき泣いていた烏が、もう笑っている。そんなしんべヱの頭を上の空で撫でながら、福冨屋はひとつの可能性に思いをめぐらせていた。
 -そうか、忍術学園の大川殿のもとで、一時的に預かっていただくという手もある。黒松殿が流行り病を口実に街道を閉鎖しているなら、いっそ棺桶にでも隠して出してしまえばいいし、忍術学園に入れてしまえば、優秀な先生方がいるから黒松殿もうかつに手を出せないだろう。よし、さっそく大川殿に紹介状を…。 
 知己であり、ビジネスパートナーでもある大川の元でなら、黒松側の探索が落ち着くまで安心して委ねることができると福冨屋は考えた。
 

 

「土井半助は、忍術学園で預かることにしたからな」
 数日後、忍術学園の学園長の庵を訪れる福富屋の姿があった。まだ糸川と崎浜の連合軍は播磨に向けて進軍中であり、本願寺と曖昧な和議を結んだ黒松は、もはや陸上からの本願寺の包囲も解いて播磨の防備に大わらわとなっていた。海上封鎖は解けたものの、大軍が京から西に向かっている最中であり、物流はまだ滞りがちで京の政情不安は一向に収まる気配がなかった。いろいろと輻輳したままの事態を収拾するために堺の会合衆が工作を始めており、福富屋もその一員として動いている途上で忍術学園に立ち寄ったのである。
「大川殿、また勝手なことを申されるな」
 学園を訪れた目的はもちろん、半助の身柄の回収である。一方的な大川の宣言に、福富屋が慌てて抗議の声を上げる。
「いいや、決めたのじゃ。忍術学園のものじゃ」
「私が先に目をつけたのですぞ」
「今はわしの手にある」
「ったく、いつもそうやって大川殿は…」
「いつもではないぞ。今回だけじゃ」
「今回こそは困ります」
「いいや。ぜったい渡さんぞ」
 しばし腰を浮かせてにらみ合っていた二人だったが、ふっと眼力が抜けると、すとんと腰を落として笑いあった。
「ははは…大川殿には、かないませんな」
 あれほど苦心して手に入れようとした男だったが、大川も予想以上に強硬である。ここは(極めて残念だが)一歩譲って、忍術学園に貸しを作ったほうが得策かもしれない、と福富屋は考える。
「ははは…福富屋さんこそ、よくぞあれほど優秀な忍を見出された」
 ああそうだ、と福富屋は居ずまいを正す。今日、学園を訪れたのにはもうひとつの目的があった。
「このたびは、息子のしんべヱがお世話になります。なにとぞよろしく」
 いやいや、と大川も応じる。
「こちらこそ、今後とも、学園にご協力たまわりたい…そうじゃ」
「?」
「思いついたぞ…土井半助をしんべヱの担任にするというのはどうじゃ」
「さて、勤まりますかな。しんべヱは手強いですぞ。…もっとも、土井なる方には、お会いしたことがないので分かりませんが」
「なに、会ったことがない? そんな人物を、よくここまで助けようとしたものじゃ」

 意外そうに大川が眼を見開く。
「それが商人のカンというものです。見てもいない商品を右から左へとつないでいくのが、私たちの仕事ですからな」
「さても商いというのも、度胸がなくてはできないものじゃの」
 ははは…。笑い声がのどやかにあがる。
 こん、と庭の鹿威しが鳴った。

 

 


 こうして、半助は、忍術学園の教師となることになった。

 

 


 <FIN>