REGO~奈落~

 

    はじまりの場所へ   REGO~はじまりの場所へ~

    捕囚         REGO~捕囚~

    奈落         REGO~奈落~

    Intermezzo

    脱出         REGO~脱出~

    たどりつく場所    REGO~たどりつく場所~

 

 

 

「なん…だと」
 福富屋の茶会に出席した侍からの文を一読した黒松の家老、新井勘解由は、小さくうめいた。
 目の前には、部下が不審そうな目で勘解由の表情を伺っている。
「…続けよ」
「は…土井はその後もなにも話さず、ただ寝ておるだけとか」
「そうか」
「じつのところ、手を焼いております…ここはぜひ、責めの許可を」
 責め…拷問したとしても、口を割ることはあるまい、と勘解由は考えた。自殺用の毒薬はすんでのところで取り上げたが、いざとなれば舌を噛み切ってでも自らの口を閉ざすのが忍である。今までそのような忍を何人も見てきた。半助がいまだにそうしていないことの方が、不思議なほどである。
 -命が惜しいのか?
 それならば、責めも効果があろう。だが、そうなのだろうか。
「責めの必要はない。ただし、自ら果てることのないよう、見張りを厳重にせよ」
「はっ」
 部下が去ったあとの部屋で一人、勘解由は腕を組んだ。先ほどの文には、新たな事態の出来を告げていた。
 -堺に雑賀衆が立ち寄る…か。
 堺の鉄砲鍛冶は、ひとつの産業となっている。また、南蛮からの輸入銃の集散地でもあった。いずれにしても雑賀衆が、銃の調達を目的に堺に立ち寄ることは疑いがない。では、なんのために。
 不意に、勘解由の頭に、福富屋の名が明滅した。
 -福富屋か?
 捕らえた土井半助が下島閑蔵の手の者であることは明らかだった。また、下島一門が福富屋との関係が深いことも、調べはついていた。
 -福富屋が播磨や攝津に忍を入れるのはなぜだ。福富屋なら、瀬戸内の情報は、水軍や各地の津(港)の商人や問丸からいくらでも手に入れられるはずだ。
 別の大名が、雑賀衆を使ってわが黒松に戦を仕掛けてくるということかもしれない。そんなことを考えそうな大名はいくらも想像がつく。そのうしろに福富屋を始めとする堺がついているとしたら…。
 -堺が、というのは考えすぎかもしれない。
 なにしろ堺の商人ときたら、和やかに茶席に同座しながら、敵同士の大名に武器を売りつけるような、反吐を催すような連中なのだから。彼らにとって、どこかの大名に肩入れするメリットはない。だが、いずれにしても、福富屋の動きの背後に雑賀衆と敵の大名がいるとすれば、すみやかに主に報告しなければならない。
 勘解由は部下を呼ぶと、小姓を通じてすみやかに主への目通りを求めるよう指示する。さらに、雑賀衆の動きを探るよう命じた。そして、再び腕を組んで考えるのだ。
 -さて、土井をどうするか。
 そのとき、すでに城の石垣の修繕現場には、穴太衆に紛れ込んだ下島一門の忍たちがいた。

 


「下島の手の者を捕らえたことは、殿にご報告した。殿からは、背後関係をよく調査せよとの御沙汰であった」
「は」
 人払いをした勘解由の部屋には、部下の芝二郎左衛門と後藤兵衛が控えている。
「まずは、誰が、何の目的で下島に調査を依頼したかを掴む必要がある。至急調べさせよ。それから…」
 勘解由は、一瞬、言葉を切った。続けての指示は、その結果によっては却って黒松の立場を悪くさせかねなかったから。
「そなたたちには、堺へ向かってもらいたい」
「と申しますと」
 二郎左衛門が訊ねる。
「福富屋だ。まだ今回の件との関わりははっきりしていないが、絡んでいることだけは確かだ。忍を捕えたことについては、おそらく伝わっていることだろう。今回の件にどこまで関わっているのか、調べる必要がある…だが」
 脇息の縁を、勘解由の指が神経質にたたき始めた。
「無理に聞きだそうとしなくてもよい。福冨屋には、我らが下島の門下の忍の身柄を確保していることを印象付けておけばよい。少しくらい脅し上げても構わないないが」
 -そう。福冨屋には、貸しを作っておいたと分からせることができればよいのだ。

 


「宗常殿、大叔殿、お待ちしておりました」
「まずはこちらへ」
 会合衆の一人、大本屋の庭にある、聚楽庵と名づけられた2階建ての茶室に、福富屋はいた。今日は五山の禅僧、江月宗常を迎えた茶席が、大本屋の茶室で行われることになっている。
「お足元にお気をつけて」
 大本屋に注意を促されるまでもなく、階段は狭く、急である。以前、聚楽庵での茶席の帰りに、この階段で紅屋彦衛門が足を滑らせて転倒し、前にいた福富屋も巻き込まれて転がり落ちたことがある。あの時は2人して腰を強打し、輿に乗ってようやく帰宅できたのだった。堺の豪商たちの間では、庭に2階建ての茶室を設けることが一種の流行となっていたが、そのようなこともあって、福富屋と紅屋だけはかたくなに2階建ての建物は拒否していたのである。
 -だから2階建ては嫌なのだが。
 しかし、今日の主人は大本屋なのだから、仕方がない。次の貿易船の主幹事が大本屋であり、明側との外交文書のやり取りは五山の禅僧が担当することになっている。今回は宗常が主担当者として堺に派遣されてきたのだ。そのほかに、堺の禅寺の海鳳寺の住持である斉弘大叔が来ている。
「瀬戸内の状況は、いかがですかな」
 宗常の口の利き方は、京の人間らしいスノビッシュな柔らかさと、禅僧らしい固さが同居した不思議な雰囲気を漂わせている。また、唐語(中国語)も堪能で、堺に住む明人のエージェントとも普通に会話ができた。大叔もそうだが、禅僧は外交実務を担っていたから、唐語が堪能なものが多いのである。
「相変わらずですな」
 大本屋が茶を勧めながら言う。
「といいますと」
「守護の中内殿が周防から安芸に向けて勢力を伸ばされています。そのために、塩飽の水軍をお見方に引き入れようとされましたが、どうやら失敗されたようです。いまは、塩飽を従わせようと軍勢を向けておられるとか」
「そうなると、なかなか危険ですな」
「まあ、先週到着した南蛮の宣教師を乗せた船によると、伊予の沿岸を通ればそれほど危険はなかったそうで」
 福富屋の言葉に宗常と大叔が軽く眉をひそめる。南蛮の宣教師が、堺を拠点として畿内に急速に進出し始めていることに、一部の仏教者は危機感を覚え始めていた。南蛮の教えはいかにも苛烈すぎる。仏の教えを根本的に否定するばかりか、現世の秩序も否定しかねない危険さがある。権力者がその危険性に気づくまで、アラートを発し続けなければならない。だから、また新たな宣教師が堺に乗り込んできた、ということにナーバスになるのだ。もっとも、福富屋は相手が嫌がることを知っていてあえて宣教師が乗ってきた船、と言ったのだが。

「ところで、例の話は」
 口を開いたのは大叔だが、宗常の意を汲んでいることは明らかだった。
 -きたか。
 福富屋はひとりごちる。宗常がわざわざ京から来た理由のひとつは、この件があるからである。
「すでにお聞き及びとは存じますが、調査に当たっていたものが、黒松殿の手に落ちました」
「それで」
「現在、回収に向けて手を打っております」
「間に合うのですか」
「あるいは、すでに果てているかも知れません。秘密は絶対に守る者ですから」
 福富屋の言葉に、宗常と大叔はそろって手を合わせる。その姿に、福富屋は言い知れぬ嫌悪感をおぼえる。
 -偽善者め。
 政治のためなら人の命など物の数とも思わないくせに、いざそのために命が散ったとなると手を合わせてみせる。誰のせいでそうなったか考えたことがあるのかと問い詰めたくなる。自分たち商人は意識的に汚れ役を務めているが、彼らは、政治ゲームに乗り込んでは無自覚に害毒を振りまく。そして、いざとなれば自分たちは何の関わりもないように紫衣の袖で顔を隠し、眼をそらす。現に、このような事態に至った以上、もし黒松が京に乗り込んできて追求が始まったときに、自分たちとのつながりが顕れないよう慎重に糸を切る方策を、今から頭をフル回転させているはずである。
 この坊主たちには、自分たち商人は金のためなら何でもやる穢れた存在と映っているのだろうが、自己保身のためなら何でもやる僧侶たちのモラルの欠如とどれほど差があるというのだろう。
「何はともあれ、影響が広まることは避けなければなりませんな」
 小心そうに大叔がつぶやく。
「まあ、この件は、福富屋さんがいろいろ手を打ってくださっていることですから」
 大本屋がとりなすようにいう。暗に、続きは自分を巻き込まない場でやってくれと言っている。

 


「ぼ~ぼぼぼ、ぼ~」
「ぶ~ぶぶぶ、ぶ~」
 傍からは理解不能な言葉を発しながら、福富屋はしんべヱの相手をして戯れていた。部屋の隅には、当惑顔の女中たちが控えている。いつものことなのだが、この二人が遊ぶときには、なにか見てはいけないものを見てしまったような居心地の悪さを感じるのだ。
「べべべ、べろべろ~」
 福富屋が両頬を引っ張りながら舌を出すと、しんべヱは足をばたつかせながらげらげら笑う。
「パパったら、パパったら、へんなかお~」
「大旦那様」
 襖の後ろから、甚七の声がした。
「うむ?」
 なおも笑い転げているしんべヱから、視線だけ襖に移す。
「至急、お伝えしたいことが」

「どうした」
 奥座敷に落ち着くと、福富屋はいつもの表情に戻っていた。
「は…穴太衆からは、ご協力いただけるとのお話でした。なお、黒松殿のご家老、新井勘解由殿の使者が、堺に向かったとの噂があるとのことでございます」
「ほう。それはどこから」
「大坂で、われらの手のものが聞いたものでございます」
「わかった」
 -ということは、まだ生きている、ということですな。
 少なくともその可能性が極めて高くなった、という意味においては、いい知らせだった。少なくとも、まだ手に入れるチャンスがあるということである。 
 わざわざ噂が流れるのを放置するほどだから、相手も何かしら覚悟があるのかもしれない。それに比べてこちらは…特に感慨はない。雑賀衆が銃の調達に堺に立ち寄るのは事実だが、福富屋が把握している限り、背後の大名が黒松氏に対して戦を仕掛けるつもりはないようだった。
 -しかし、黒松殿は、そうは考えないだろう。
 そして、交渉次第では、土井という忍を取り戻せるかもしれない。こうして黒松が動き出したということは、捕えた土井を駒として交渉に使ってくる可能性が高いことを意味していた。
 -おおかた、領内に忍を入れた目的を問い質しに来るのでしょう。ないしは、難癖をつけて、武具の調達条件を有利にしようとする心積もりか。
 だが、その一方で、黒松は土井にも調査の目的を吐かせようとするだろう。土井が調査の真の意味を知っている可能性はまずないが、調査内容から推測をたくましくすれば、あるいは判明するかも知れなかった。だからこそ、彼らは土井をひどく責めるだろう。そうすれば、土井が自ら果ててしまう可能性も高くなる。
 -そのためにも、早く救出しなければ。
 なぜ、土井にこだわるのだろう。自身にも分からない。忍から足を洗わせてとにかく手元に置いてみたい。きっと役に立つだろう、という商人のカンとしか言いようがなかった。
 -ついに、動き出しますな。

 


 奥座敷で、福富屋と二人の武家が対座していた。新井勘解由の使者、芝二郎左衛門と後藤兵衛と名乗った。
「遠路はるばるお運びいただき…」
 福富屋が軽い嫌味をこめて口火を切ると、二郎左衛門がさえぎった。
「福富屋殿。大概になさっていただきたい」
「は」
 福富屋は鷹揚に目をぱちくりさせた。最初から威圧して屈服させる魂胆らしい。二人はひざの上で拳を作り、わなわな震えさせている…が、よく見るとわざとらしい感じもしなくもない。
 -この福富屋を見縊ってもらっては困りますな。
 芝居がかった仕草が、かえって、相手には隠し玉がないことを物語っている。ということは、調査の本当の目的は、まだ知られていないということである。とすれば、土井なる忍との関係を認める必要もない。のらりくらりとかわせば良いだけである。
「大概に、と申されますと」
「このたびの不始末、どのように片をつけるおつもりか!」
「不始末とはまた、不穏当な。どのようなことがあったのでしょうか」
「とぼけるか!」
「とぼけるもなにも、何のことを仰っておられるのか、皆目見当がつきません」
「よくもぬけぬけと…わが黒松の地に手を突っ込んでおいて」
「存じませんな」
「知らぬだと!」
 どん! と兵衛が拳を畳に打ちおろした。
「福富屋が送り込んだ忍が、黒松の領内であれこれ嗅ぎまわっていたのを我らが知らぬとでも申すか!」
「ほう。私どもの送り込んだ忍なるものがいると?」
「土井半助とか申す忍だ。知らぬとは言わせぬぞ」
「残念ながら、存じ上げませんな」
 ふ…と兵衛が歯を見せて笑った。
「残念ながら、とはこちらの申すこと。土井は我らの手にある」
「左様ですか」
 -思ったとおりだ。
 福富屋は、腹の中でにやりとした。土井の名を出せばこちらが驚くとでも思っているのだろうか。
「いつまでとぼけておられるか。土井は洗いざらい白状したのだ。福富屋、そなたの命で黒松の領内を偵察していたとな!」
 -分かりやすい嘘を。
 思わず苦笑が漏れてしまいそうになる。
「もしそうだとすれば、その者は、私どもが何のために黒松殿の御領内に忍など放ったか、白状したのでしょうな」
「と…当然だ」
「して?」
「そ、そんなことを説明する必要はない」
「芝殿、後藤殿」
 福富屋は、二人を見据えた。だんだん眼力が増しているのが自分でも分かる。
「私どもは貿易を営んでおりますから、瀬戸内の情勢を把握する必要があるのは当然のことです。しかし、それはあくまで海上のこと。また、海上のことは、船乗りや在地の商人仲間からの情報が十分に入ってきます。それで、なぜ、御領内を嗅ぎまわる必要があるというのでしょうか。その、土井とかいう者がなにを申し上げたか存じませんが、もし私どもが関わっているとするのなら、その証拠をお示しいただきたい」
「なにを!」
「言わせておけば!」
 二人は同時に刀に手を掛けた。一寸ほど抜いて見せる。
「まあまあ…」
 福富屋は、瞬時にいつもの柔和な笑顔に戻った。
「…とは申せ、忍なるものがそのような証拠になるものを持っているとも思えません。ですから、証拠を、というのは私も過ぎました。どうぞ、お許しくださいませ」 
 如才なく畳に手をつく。
「む…」
 二人はしぶしぶ刀を戻した。
「ともかく…」
 兵衛が取り繕うように居丈高に言う。
「下島一門に雇われた土井がわれらが領内を探り、その下島一門が福富屋と関係が深いのは周知の事実。どこまで白を切るつもりか」
 -ついに馬脚を現したか。
 つまり、土井なる忍と福冨屋との関係は、推定でしかないと白状したようなものである。
「実のことを申しますと、私どもがお付き合いさせていただいておるのは下島様の御一門だけではございません。それは下島様も同じこと。戦の世のならいでございましょう」
「そのような戯言でだまされるとでも…」
「どなたにでも、お確かめいただければよいことです」
「く…」
「ともかく…」
 それまで黙っていた二郎左衛門が口を開いた。
「土井の身は預かっている。重ねて申すが、今回の不始末、我らが家中では重大問題として捉えておる。今日のところはここまでにしておくが、次回までにきっとしかるべく解決を見なければならぬ。分かっておるな」
「は。次にお目にかかるときには、ぜひ茶を進じさせていただきたく」
 答えにならない答えを口にする福富屋に鼻白んだ様子で帰っていく二人を見て、福富屋は別の不安を抱き始めていた。
 -駒にはならぬと分からせたはずだが。
 役に立たないと分かれば、捕らえた忍などすぐに消してしまうはずである。だから、その前に助け出すべく手を打っていた。だが、まだ交渉の駒として使うつもりということは、もしかしたら、土井には別の意味があるのかもしれない。そして、それは土井の救出がより困難になることを意味していた。
 -何があるというのか。その土井という忍には。

 


 海鳳寺の一室に福富屋はいた。江月宗常と斉弘大叔が同室している。
「お茶もお出しできず、申し訳ありません」
 大叔が、あまり申し訳なさそうに淡々という。いかにも禅僧らしい態度だ、と福冨屋は思った。
「いえ、お構いなく。本日は、ビジネスのお話で伺った次第ですから」
「して、例の件の進捗状況はどうなっておりますか」
「先日、先方のご使者とお会いしました」
 ここで言葉を切って、福冨屋は2人の反応を目で追おうとしたが、もとより2人ともポーカーフェイスである。
「その忍とやらは、私たちの調査目的について全て自白したとのことです」
 宗常と大叔の顔に、はじめて動揺がはしった。
「それは…どういうことでしょう」
 大叔がおずおずと口を開く。
「おそらく、というより間違いなく脅しでしょう。ただし、先方は私の背後関係に強い関心をお持ちのようです。まあ、当然といえば当然のことでしょうが」
「それについて、先方は」
 幾分ほっとしたような、しかしまだ警戒感をにじませた口調で大叔が訊く。
「まだ把握はされていないようです。しかし、先方も全力を挙げて探ろうとなさるでしょうな」
「そうなれば、累が及ぶのは我らのみにあらず。大変なことになりますぞ」
 それまで黙っていた宗常が口を開く。大叔がたたみかける。
「その通りです。軍勢が京に攻め上るなどということにでもなったら」
 宗常、つまり五山を通じて黒松の勢力調査を依頼してきたのは、将軍家を擁する糸川家だった。急速に瀬戸内で勢力を伸張させている黒松家の力を削ぐために、家内のいざこざや一揆勢の状況、水軍との関係など、調べられるだけ調べ上げてほしい、といういささか雑な依頼だった。東国出で畿内や瀬戸内の状況にいささか疎い糸川家らしいといえば言えるかもしれない。しかし、現将軍を擁している糸川家に、権力べったりな高僧たちはいとも易々と従うのだ。そして、貿易実務を通じて関係の深い堺の福冨屋に丸投げする。
 福冨屋は、ターゲットが黒松であることをカムフラージュするために、調査対象を瀬戸内の各大名に拡げ、下島一門に依頼する。五山と糸川家、福冨屋と下島一門の関係は、すでに知られている。だからこそ、五山の宗常と福冨屋のつながりは、何としても知られてはならなかった。これまで、海鳳寺の大叔を通じてコンタクトを取っていたのもそのためだった。それなのに、実行部隊の末端の忍が敵の手に落ちたと知るや、慌てふためいて堺に乗り込んでくるのだから始末におえない。
 -自分からリスクの種をばら撒いていることに、気がつかないのか。
 しかし、邪険に扱うと、外交実務を担う五山に対明貿易から干されかねない。だから、直接会う危険性を重々アラートして、それでも効果がなければ、会うしかない。そうはいっても、海鳳寺に直接呼びつけるとは、危険極まりない。そのことを分かっているのだろうかと考えると、福冨屋は投げやりな口調になってしまうのを止められなかった。
「まあ、通常の判断力をお持ちでしたら、そのようなことはなさらないでしょうな」 
 -僧というものは、細かいことをいちいち気に病むくせに、大きい危険になぜこれほど無自覚なのだ。
 急に、この小心者の僧たちを前にしている時間がばからしくなった。これ以上、ここにいても事態は進展しない。必要な報告は終わったのだ。早く切り上げなければ。
 おまけに、黒松の使者と会っても、先方の意図はつかめず終いだった。福冨屋は、急に隘路にはまり込んだような気がしてきた。

 

 

 会合衆の評議が終わり、宴席が始まっていた。
「さあ、本日は播磨の酒と、松茸をご用意しました」
 当番役の大野屋が声を上げると、居並ぶ会合衆たちから軽いどよめきが上がった。
「ほう。それは珍味ですなあ」
「道理で、先ほどより芳しき香が…」
「評議の間も気もそぞろだったのでは?」
「いやいや、ははは…」
 折敷にならぶ山海の珍味に銘酒が加わり、舌の肥えた会合衆たちも上機嫌である。
 そのなかで、談笑しながらも内心の憤懣を抑えきれないのが、福富屋である。
 -大野屋め。播磨だの松茸だのと…。
 どちらも、播磨に根拠を置く黒松氏に掛けたものである。もちろん、この場にいるほぼ全員が、その意を分かっている。福富屋と黒松氏の間で何らかのトラブルが発生していることは、程度の差こそあれ、堺では公然の秘密となっていた。
 -だが、目的も分かっているぞ。
 目的は当然、福富屋の持つ情報である。堺の豪商のなかでも図抜けた情報力を持つ福富屋に集まる情報を、少しは披露しろということなのだろう。

「越前屋さんは、こんど琉球に船を出されるとか」
 福富屋は、自分に話が振られる前にと、琉球貿易に強い越前屋に話を振った。
「さすが、お耳が早い」
 商人たちの宴席とはいえ、当代最高の趣味人たちの集まりである堺の豪商たちの席なので、宴たけなわになっても、座が乱れることはない。何人かが仏事や通い女のもとへ行くために席を立っていたので、話の輪はいきおい小さくなっていた。こうした場所では、話題は政治やビジネスの突っ込んだ話に流れやすい。
「琉球はいま、どんな按配ですか」
「薩摩がずいぶん進出してきているようですな。表向きは明の冊封を受けていますが、薩摩に骨抜きにされつつあるようで」
「しかし、薩摩殿も、そのまま乗っ取ってしまうというお考えではないでしょう」
「まあ、遣明船は、いいビジネスですからな」
「琉球の商人も、シャムやマラッカあたりまで出ているようですな」
「あの国は、モノを右から左に動かさないことには商売にならない国ですから。国内市場はないに等しいようなもんです」
「薩摩殿は、琉球の安堵を求められているとか」
「安堵は紙一枚でできるでしょうが、実際に琉球に乗り込むのは難しいかと。明をいたく刺激するでしょう」
「ときに…」
 越前屋がこう言うとき、白皙の風貌はいかにも全てを知りつくしたゆえの無関心さを周囲に感じさせるのだった。しかし、その内容はたいてい生々しいビジネスの話なのだが。
「福富屋さんは、瀬戸内から手を引く方向なのですかな」
 一座のぎょっとした視線が、越前屋と福富屋の間をさまよった。
 -はてさて、何を言い出すことやら。
 福富屋は、予期せぬ言葉に困惑しながら答える。
「瀬戸内は、重要な航路です。手を引くということは、考えにくいですな」
「そうですか」
 越前屋は駘蕩として続ける。
「…あの戦の頃に似て、また各所が騒がしくなってきておりますからな」
 あの戦、というのは、応仁の乱のことである。たしかに、あの頃は陸上の勢力の角逐がすさまじく、海上への影響も出ていたため、琉球や明への航路は紀伊水道から土佐、薩摩を経て琉球に至る航路が確立された。福富屋を始め、多くの堺の船は、同様の措置をとったはずである。しかし、乱がおさまり、瀬戸内航路の安定性が戻るにつれて、多くの船は瀬戸内に戻っていった。ひとつは、紀伊水道から先の太平洋は波が荒く、航海の安全性が確保しにくかったためであり、もうひとつは、長崎や博多からの船は、瀬戸内を経由することが最短経路だったからである。長崎や平戸、博多から明、南蛮へと多くの船が出ていることを考えれば、これも無視できない現実だった。
 そのため、堺の豪商の多くは、瀬戸内と薩摩経由の両方のルートを確保してリスクの分散を図っていた。
「まあそれぞれ、軽んじるわけにはいかないものですな」
「いかにも…瀬戸内を軽んじると、備前の逸品が入ってこなくなりますからな」
 は? という視線が越前屋に集まる。ご老体は、すでに聞し召してしまったのか。
「そのとおり」
 王寺屋が話に入ってきた。茶の湯のことを語らせれば当代一流の茶人といわれる豪商である。
「私は、日本の茶には、唐物の綺羅綺羅しいものより、もっと日本の風土、土のにおいのするものでなければと常々思っているのです。備前のあの質朴は、私はなにより日本の茶に似つかわしいと思っているのです」
 -また始まった。
 王寺屋の話は、大いに耳を傾けるべきものもあったが、やや冗長にすぎる。
 -だが本当は、このくらいでなければならないのかもしれない。
 自分は、俗事に忙しすぎるのだ。子供の教育とか、商売の方向性とか。おまけに会ったこともない忍の運命にまで手を突っ込もうとしている。王寺屋の境地までは、まだまだ遠そうである。
 
 
「最近、硝石の価格が下がり気味ですな。特に船が多く入ったわけでもないのにと不審に思っているのですが」
 座が動き、給仕の女が満たした杯をゆるゆると動かしながら話しているのは、博多との関係が強い角屋である。
「大規模な戦が少なくなっているからでしょう。天候の影響もあるでしょうな」
 福富屋も注がれた酒をゆるりと乾した。
「というと」
「どうやら、東国では長雨が続いて、冷害の兆候が出てきているようです。東国の大名たちは、それぞれ領国の建て直しが先決と戦の手仕舞いを急いでいるようですな」
「しかし、これからは船が着く季節。市場が崩れてしまうのでは」
「どこまで在庫で抱えられるか…というところですか」
「おまけに、各大名が、硝石の国産化を目論んでいるとか…」
「できるのですか?」
 福富屋の眉がこころもち上がる。
「そのために、密かに人を西国に遣わして、明や高麗の技術者を探しているそうです」

 

 

「大旦那様」
 角屋との話を終えた頃合を見計らって、随行していた手代がそっと声をかける。
「うむ?」
 ちらと振り返ると、手代は黙って小さく頷いた。なにか急ぎの事態があったらしい。
「さて…と」
 福富屋は、いかにも手洗いにでも立つようにさりげなく座を離れると、そのまま会所の外へと向かう。裏口から出ると却って目立つので、正面玄関から何事もなかったように出て行く。まだ中にいるメンバーの随行の者たちがちらと視線を向けるが、自分の主人でないことが分かると、またぼんやり座ったり相撲を始めたりした。
「で、なにごとですかな」
 手を後ろ手に組んで悠然と歩きながら、呟く。
「土井という忍は、救出したとのことです。それから、六条前大納言殿のご使者が先ほど見えまして、緊急にお会いしたいとのことなので、お待ちいただいております」
「どちらにですか」
「大盛寺です」
「わかりました」
 -またもややこしいことになってきたようだ。
 六条前大納言は、和泉の領地の建て直しのために、半年ほど前から堺に滞在していた。京の治安が一向に改善せず、かつ自分の領地が周囲の豪族に手を突っ込まれて収入もきちんと上がらなくなることが頻発していたため、公家のなかには、自領の建て直しのために自ら下る者が増えていた。六条前大納言もその一人で、大納言職を辞任し、息子が官職に就いたのを見届けてから、堺に下ってきたのである。そのような公家は、堺にも多く滞在している。福富屋も、彼らと茶席や連歌の席で何度となく顔を合わせているし、六条前大納言とも数度会ったことがあった。もっとも、社交的な挨拶を交わした程度だったが。
 -六条殿が用件とは、やはり例の件だろうか。
 会所から大盛寺に直行すると怪しまれる。人口が多い上にいろいろな人が入り込んでいる堺には、いつどこで誰の目が光っているか分からない。福富屋のような要職にある人物はなおさらである。屋敷に一度戻ってから大盛寺に向かうことにしたので、考える時間が少し生まれた。 
 -六条殿が動かれたということは、京でなにかあったに違いない。
 京、もっと言えば、今回の調査の依頼主である将軍及び糸川家で、である。六条前大納言は、前将軍及び前将軍を擁していた崎浜家との関係が深い公家である。糸川家と崎浜家は、ここ十年来、将軍家の内紛に肩入れしては、それぞれ自分に近い将軍を擁立していた。この時代にあっては、将軍の座など、バックにある大名の勢力次第である。将軍の座を巡るパワーバランスが変動し、六条前大納言が今回の調査をかぎつけたのだとすれば、これまでの前提が大きく崩れることになる。もっとも、福冨屋が把握している限り、崎浜家と黒松家の関係も決して良好とはいえないはずだったが。
 大盛寺に着いた。

 

continue to REGO~脱出~