伊作奔る(3)

「硫火水(硫酸)の強酸性を活用するためには、硝石を加えるというのが一つの手段だと思います」
 新野が説明する。実験ノートに記入しながら、熱心に葛西とその弟子たちが聞き入る。
「問題は、その混合の方法です。温度管理、投入量、その反応をどう評価するか。硫火水からの発生物は、これまでの実験の結果、不安定なものが多い」
「つまり、各段階における発生物の経過を観察する必要があると言うことですな」
 葛西が考え込む。
「その通りです」
 新野が微笑む。
「…ということは、連続的に投入して経過を観察することができない」
「そうです。実験には、多くの資源が必要になります」
 それが目的でもあった。できるだけ実験段階で多くの硫火水を消費しておきたかった。
「その結果を、どうお考えになりますか、新野先生」
「葛西先生は、どうお考えになりますか」
「硫火水に硝石を加えると、強水(硝酸)ができるとは、文献で読んだことがありますが、より純粋な強水を得るために蒸留が有効だとすれば、いくつかの混合比率についての実験が必要なのではないですかな」
「私もそう思います」
「いっそ、黒色火薬を硫火水と混合させてみれば?」
 葛西の弟子の一人が口を挟む。
「実験室が吹っ飛ぶリスクがありますよ」
「もちろん、野外で、です」
「ひとつの可能性として、有りとは思います」
「なるほど…実験許可を、家老の住田殿に伺ってみるとしましょう」
 -危険だな。
 すっかり乗り気になっている葛西に、新野は危惧をおぼえる。硫火水に黒色火薬を加えるなど、どのような結果を招くか想像もつかない。
 -ただ、悪いことではない。
 先ほどから硫火水に硝石を、という話をしているのも、実験名目で硝石を手に入れるためである。目的はもちろん、実験室を破壊するための火薬作りである。黒色火薬そのものを手に入れられるなら、それに越したことはない。ただし、結果が劇的すぎて、自分の手元に火薬を残すことが不可能になるリスクもあったが。
 -硝石の投入だけならば、それほど激しい反応にならないはずなのだが。
 さて、どう持ちかけるか。新野の思案が続く。
「葛西先生。ご家老様がお呼びです」
 小姓が声をかけてきた。
「分かりました。すぐ参ります…では、ちょっと失礼」
 小姓について、葛西が部屋を後にする。弟子たちも続く。
 -やれやれ、少し、考える時間ができた。
 新野が肩の力を抜いたところに、天井から声がした。
「新野先生」
「誰ですかな」
 一瞬、きっと天井を睨んだ新野だったが、その声には聞き覚えがあった。
「利吉です。一年は組山田伝蔵の息子です」
「ああ、利吉さんでしたか」
「新野先生に、伊作君からの手紙を預かってきています」
「ほう、善法寺君が」
「これです」
 天井板の隙間から、ぽとりと紙縒りが落ちてきた。素早く拡げて目を通す。二度、三度と頷きながら読むうちに、視野が霞んでくるのを感じる。
 -そうですか…。
 思いがけず、涙が手紙の上に落ちてしまった。
 -善法寺君、君の思いは、よく伝わりましたよ。
「警備の忍が来たようです。私はこれで」
「ありがとうございます」
 去り際に、利吉は、新野が紙縒りの裏になにやら書き付けて文机の脚に挟み込むのを見逃さなかった。
 -お返事は、必ず持ち帰りますよ。新野先生。

 


「新野先生からのお返事です」
 手紙は、数日後に、忍術学園の伊作のもとに届けられた。
「なんと書いてある」
 伊作の体調はほぼ回復していた。いまは、新野の代わりに医務室に詰めている。利吉が新野からの手紙を預かってきたと聞いて、伝蔵と半助、六年生たちが、医務室にやってきた。
「この手紙は…」
「そう。伊作君が書いた手紙を読まれていたときに、警備の忍が来たので、とっさに裏に返事を書かれていたのだ」
「そうですか」
 新野の返事は、ほんの数行だった。伊作は、こころなしか潤んだ眼で利吉を見ると、「ありがとうございました」と手紙を渡した。
「私が…読んでいいのですか」
「はい。皆さんも」
 それを聞いて、皆がわらわらと利吉を囲む。
 
  山田利吉殿
  粉末にした木炭と硫黄を一合ほど、届けてください。
  それ以降は、私への接触はしないでください。危険であり、計画が露見するリスクが

 あります。
  善法寺伊作殿
  学園の医務室の権限全てを、君に委ねます。

 

「利吉、新野先生は、なにか仰っていたか」
 伝蔵は、困惑顔で利吉に訊ねる。
「いえ…警備の忍が来たので、特にこの手紙に補足することをうかがうことはできませんでした」
 利吉も、その内容に戸惑っているようだった。
「伊作、どういうことか分かるか」
 文次郎が、寂しげな微笑で俯いている伊作を振り返る。
「ああ…分かるさ」
「どういうことだ」
 皆が、伊作の低いながらも力強い返事に眼を見張った。
「…教えて、くれないか」
 留三郎が、声をかける。
「先生は、実験室を爆破されるおつもりだ。硝石は、何らかの方法で入手されているのだろう。そして先生は、もはや生きてツキヨタケ城を出るおつもりはない。私たちの救援も、拒まれるだろう」
「なんだと…」


 
「しかし、だからといって新野先生をお一人のままにしておくわけにもいかぬからな…」 
 伝蔵があごひげをなでつけながら考え込む。
 -先生のご決意を変えるには…。
 伊作のなかで、一つの決意が固まりつつあった。
 -私が、先生に直接お会いするしかない。
 それがどれだけ危険であっても、教師や同級生たちの反対を受けても、ツキヨタケ城にもぐりこんで、新野に会わなければならない。
 -だが、その前に…。
 引き継いだ医務室の権限を、再委託する必要がある。そのための準備が、必要である。

 


 新野たちの実験では、硫火水に硝石を加えたものを蒸留する段階に達していた。やがて、強水(硝酸)が完成した。
「強水ができましたな」
 うっすらと白煙を上げる無色の液体を見やりながら、葛西は額の汗を拭った。
「…そうですな」
 新野はぼそっと同意した。ここまでは、想定内の出来事である。すでに、実験名目で多くの硝石を手元に隠し持つことに成功していた。しかし、新たな物質の組成に夢中になっている葛西は、この段階で満足するとは思えなかった。
「すばらしい。鉄もあっという間に溶けてしまう。これを大量に噴射すれば、どんな守りの堅い城でも一瞬で攻略できる…さっそく、住田殿にご報告しなければ」
 高ぶった声の葛西の台詞を、新野はうすら寒い思いで聞いていた。鉄をも溶かすという強酸性を持つ以上、人体にどのような影響を与えるかは考えるまでもなかった。
 -ついに、このような実験に協力してしまった…。
 黙然としている新野の耳に、ふと騒ぎが聞こえてきた。
「あ、熱っ!」
「どうした」
「急に、容器が熱くなって…」
 実験室の片隅で、助手たちが騒いでいる。
「何があったのだ」
 葛西が駆けつける。
「はい…空いている容器に硫火水を移そうとしたのですが、容器の底に強水が残っていたらしいのです。硫火水を入れたところ、急に熱を帯びてきてしまいました」
「ふむ、これは…王水と同様の物かも知れぬ」
 葛西があごに手を当てながら呟く。
「王水、ですか?」
 助手たちが訝しげに聞く。
「南蛮の錬金術の書で読んだことがある。強水と塩精(塩酸)を混合すると、王水と呼ばれる液体ができる。王水が合成されるときには、熱を帯びるそうだ。金を含むあらゆる金属を溶かす性質があるから、あらゆる水の王という意味で王水と呼ばれているという」
「なるほど」
「ということは、これも王水に類似した性質を持つと考えてよろしいのでしょうか」
 助手たちがしきりにメモを取りながら、声を上げる。
「そうだ。王水を作るには、強水を1に対し、塩精を3の割合で加えるという。これも、強水の残りに硫火水を加えたわけだから、同様の配合度になったのかもしれない。さっそく、実験してみよう」
「はい」
 -危険だ。
 急にきびきびと動き出した葛西と助手たちに、新野は危惧をおぼえる。
 -このままでは、本当に新たな爆発物を組成してしまうかもしれない…。

 


「新野先生にコンタクトが取れないとは、どういうことだ」
 伝蔵が眉を寄せている。
「はい…炭と硫黄をお渡しして以来、どうしても、私のアプローチに応えていただけないのです」
 利吉がうなだれる。
「どういうことでしょうか」
 半助が腕を組む。
「この前の手紙のとおりでしょう」
 伝蔵も、腕を組む。
「というと」
「あとは新野先生がご自身でやるおつもりだということだ」
「しかし、われわれが手を拱いているわけには…」
「それに、新野先生お一人で、というのは、危険すぎます」
 半助と利吉が身を乗り出す。自分たちと違い、新野には忍としての経験が少ない。作戦行動を進める技能がどれだけあるのか、きわめて疑問だった。
「確かに、そのとおりだ。だが、どうすれば新野先生がわれわれのアプローチに応えていただけるだろう」
 伝蔵は考え込む。半助が言いにくそうに口を開く。
「ここは、伊作が行くしかないのではないでしょうか」
「伊作か…」
 それは伝蔵も考えていたことだった。新野は、おそらく、学園関係者を巻き込むことの危険性を懸念しているのだろう。ツキヨタケの計画阻止に学園が主導的役割を果たしていたことが知れれば、ツキヨタケが学園を攻撃する口実を与えることになってしまう。
 このままいけば、新野は自分の身と引き換えに実験を止めるだろう。それが成功するかどうかに関わらず、新野は命を落とすだろう。そのつもりだからこそ、新野は学園からのアプローチを自ら絶っているのだ。
 もし、新野の決心を再び変えさせるチャンスがあるとすれば、それは伊作しかありえなかった。新野が自らの後継に指名するほど信頼を寄せている伊作なら、あるいは新野に、学園の加勢を受け入れさせることができるかもしれなかった。

 

 

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