伊作奔る(2)


「それにしても新野という医者、それほどに役に立つ者なのか」
「はい。高名な医師、七瀬仁斎先生のもとで私と共に修行した者ですが、成績は常にトップクラスでした」
 ツキヨタケ城の一室で、葛西斉之進は、家老の住田と向かい合っていた。
「それは聞いておる…しかし」 
 住田は苛々と脇息の縁を指で叩く。
「我らの研究は、急がねばならないのだ。協力させられるというのか」
「説得は最終段階に入っております」
「それに、牢にも入れずに置いておいていいのか。忍組頭は、通常、あのような措置は考えられず、身柄の確保に責任は持てないと申しておったぞ」
「新野は忍術学園にいて、忍を自称しておりますが、そのような訓練を受けたことはない者です。仮に逃げ出したとしても、城の塀を越えることすらできないでしょう。それは、あの者自身が一番よく心得ているところでございます。ご安心ください」
「それならよいが。とにかく、研究を急ぐのだ」
「はっ」
 -まったく、小うるさいことだ。
 自分の部屋に戻りながら、葛西は考える。
 -牢など、とんでもないことだ。われわれのような知識階層には、仮に囚われの身であったとしてもそれなりの待遇というものがあって然るべきなのだ。それをまったく分かっていない。
 そのまま自分の部屋に戻ろうと思ったが、ふと気が変わった。新野のいる部屋に向かう。部屋の入り口や部屋に面した坪庭には、警備の者が配置されている。
「新野先生。入りますよ」
 部屋では、新野が書見台に向かっていた。
「お読みいただいているようですな」
 新野には、あえて研究段階の硫火水(硫酸)に関する実験ノートを残しておいた。新野が(昔と変わらず)勉強の虫であれば、読まずにはいられないはずである。
 -まずは、作戦の第一段階クリアだな。
 新野が研究に関心を示せば、こちらのものである。
「どうですかな」
「なかなか、興味深い研究をされているようですな」
「そうでしょう…しかし、新野先生には、われわれが困難に直面していることもお分かりになるはずだ」
「そのようですな。硫火水にどの物質を加えるか、どの温度で加える分量はどれほどか、それによって何が発生しうるか、全てが手探りの状態ですな」
「そうなのです。だからこそ、新野先生には、協力をお願いしたいのです」
「ふむ…」
 新野は、腕を組んで考え込んだ。
 -ほう。
 葛西は、新野の態度の変化に目を見張った。昨日であれば、即座に断ると断言していたはずである。
 -研究に関心を示してきたようだ。これならいけるな。
 もう一押しである。
「新野先生」
「なんですか」
「昨日、私は、先生にずいぶんと失礼なことを申し上げた。また、研究に加わって頂きたいあまりに、少々脅迫的なことも申し上げた。それらについて、謝らせていただきたい」
 葛西は、畳に手をついた。
「いやいや、葛西先生」
 新野が手を差し伸べる。
「そのようなことは気にしていません。しかし…」
「なんでしょうか」
「この研究の結果がどのようなことになるか、私は心配でなりません」
「それについては、案じるには及びません」
 手を大仰に振ってみせる葛西の表情からは、何を考えているかをうかがい知ることは難しい。
「どういうことですか」
「私たちが手を組めば、新たな物質の強度もコントロールできるはず。成果物としては、弱毒化したものを渡せば済む話ではないですか。新野先生、あなたが懸念されるようなことは、われわれの手の内で防ぎようがあるものなのです」
 不意に上体を寄せて、ささやいてきた内容に、新野は戸惑った。
 -本当に、そのようなことが可能だと考えているのか。もしくは、私を研究に引きずり込むための方便か。
 どちらにせよ、今は、うまく説得に乗せられたふりをして、研究チームにもぐりこむ必要がある。
「ひとつ、約束していただきたい」
「なんですか」
「この研究からどのようなものが発生するにせよ、忍術学園を巻き込まないこと。それを約束していただけますか」
 -なんと、安い条件であることか。
 葛西はほくそえむ。そのようなことは、お安い御用である。仮に城主が忍術学園に対する実験ないし攻撃を命令したとしても、そのときには成果物は出来上がってしまっているのである。新野は用済みとして消されているだろう。だから、葛西は安心して断言する。
「当然です。新野先生が望まれるなら、忍術学園には、指一本触れさせない」
「わかりました。それなら」
 新野は微笑む。
「私も、微力ながら、科学の進歩に貢献させていただきます」
「では早速、実験室へご案内します」

 


 実験室は、ニ曲輪(にのくるわ)の奥にあった。
 -ここか。
 思ったより多くの実験道具がそろっている。なかには、書物でしか見たことのない南蛮の錬金術に用いるような道具もある。
 -硫火水の量は…。
 厳重に蓋をした壷が、実験室の一隅にずらりと並んでいる。実験室にあるものがツキヨタケの持つ硫火水の全量とは思えなかったが、かなりの量を調達していることはうかがい知れた。
 -けっこうな量だな。
 これだけの硫火水を調達したということは、実験である程度の成果が出れば、すぐに大量生産に移行するつもりなのだろう。実験のためだけに、これだけ硫火水を潤沢に用意するとは考えにくい。
 -これらを全部、破壊するためには…。
 硫火水そのものには、爆発力はない。だから、壷を破壊するしかない。
 -実験室ごと、爆破するしかありませんな。

 


「それでどうだ。新野先生の様子は、確かめられたか」
「はい」
 教師長屋の一室で、部屋の主、伝蔵と半助が話し込んでいる。対座しているのは伝蔵の一人息子でフリーの忍の利吉である。
「先生は、ご無事か」
「はい。昼間は実験室か葛西の部屋で実験や議論をしていることが多いです。夜は座敷で休まれています。警備の忍が多く配置されていますが」
「牢では、ないというのだな」
「はい」
 -どのようなつもりか。
 伝蔵は頭をひねる。新野が逃げないという確証でもあるのだろうか。いや、身体能力からして、新野が逃走するのは難しいとしても、忍術学園が新野の奪還に動かないとでも思っているのだろうか。
「父上。私はしばらく、ツキヨタケの城に潜入して、新野先生と接触を図ります」
「大丈夫なのか」
「はい。ツキヨタケはいま、大々的に足軽を募集しています。近々、戦を始めるつもりなのでしょう」
「分かった」
「利吉君、くれぐれも、気をつけて」
「お任せください」
 いつものようにスマイルを浮かべると、利吉は素早く部屋を後にした。
「これは、やや長期戦になるかもしれませんな」
 伝蔵が腕を組む。
「しかし、学園が収まるでしょうか」
 気がかりそうに、半助が言う。
「それが問題だ」
 もはや、新野の不在も、その理由も、学園中に公然のこととなっていた。強硬な生徒たちからは、ツキヨタケ城に奇襲攻撃をかけてでも新野を奪還すべきとの主張も上がっていた。憤りのマグマが着実に膨張しつつあることは、伝蔵たちが日々感じていた。
「危険ですよ」
 半助が、口に出して言う。
「分かっています」
 目を閉じて考え込みながら、伝蔵が低く答える。

 

 

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