Dream after Dream(2)
第六夜
「先生、せんせ~い」
どたどたと廊下を足音が伝う。
「先生!」
がらりと襖が開かれる。部屋に飛び込もうとする足先が、襖の溝に引っかかる。
「あ!? え、お、おわっ!」
両腕をばたつかせながら、部屋に入ってこようとした人物は床に倒れこんだ。
「どうしたのさ、乱太郎。そんなに慌てて」
薬研をつかっていた青年が、戸惑ったような声を上げる。
-乱太郎?
伊作は眼を見張る。乱太郎、と呼ばれた人物は、自分が知るよりよほど大きな少年である。
「いててて…」
ずり落ちた眼鏡を掛けなおしながら、赤毛の少年はまくしたてる。
「たいへんです! 兵太夫たちが作ったカラクリに後輩たちが引っかかっちゃって、何人か怪我しちゃったんです。捻挫した子もいるみたいで…」
「わかった。すぐ行く」
落ち着き払って立ち上がった先生と呼ばれた人物は、救急箱を手に医務室を出ようとする。と、そのつま先が襖の溝に引っかかる。
「え!? お、おわ~っ!」
「ひゃぁっ!」
盛大な音を立てて廊下に倒れこんだ人物に続いて、部屋を出ようとした乱太郎が足を絡ませて転んだ。
「まったく何やってんですかぁ、善法寺先生も乱太郎も…ケガ人が多すぎて手が足りないんですから早く来てくださいよ」
呆れたような声を上げながら二人を助け起こしている人物にも、見覚えがあった。
-あれは、左近じゃないか…。
緑色の最上級生の制服に身を包んだ、一人前の大人の体つきをした青年ではあったが、その面差しにはなお伊作の知る二年生の左近の面影があった。
-ということは、乱太郎は五年生で、私は卒業して、忍術学園の医務室で働いているということか…?
唐突に現れた未来らしき光景に、伊作は戸惑う。
-これはつまり、私の四年後の姿というわけか…?
唖然とするとともに、なぜか納得できる姿でもあった。
-いかにも私らしい…忍としても医師としても中途半端で、行先がないまま学園に残ったということなのだろう。
気がつくと、先生と呼ばれている自分も、乱太郎と左近の姿もなく、伊作は廊下に佇んでいた。力なく微笑みながら天井を見上げる。
-つまり私は、ここに取り残されたということか…。
第七夜
「善法寺先生、今日来てもらったのはほかでもない」
相手が言葉を切る。ふいに水音が高まったかと思うと、すこんと庭の鹿威しが鳴った。
「…はい」
白い校医の制服をまとう自分が、背を伸ばした。
「来年度の新入生のクラスを、善法寺先生、あなたに任せたい」
向かい合っているのは、学園長である。学園長の庵に、自分はいた。
-学園長は、お変わりがない。
傍で見ていた伊作は、ふと可笑しくなった。大人になるということは、つまり時間の濃度が薄くなるということなのかもしれない。忍たまだった頃の自分たちにとっては、運命の激変を伴うようにすら感じられる切羽詰った時間の連続が、年を重ねるほどに日々平板に流れていく。朝、目覚めたときにはあんなに遠かった晩が、気がつくとすでに訪れ、遠くに過ぎ去ってしまっている。そして、学園長ほどの年齢になると、早瀬のように流れていくのは日々ではなく、年という単位になっているに違いない。
「私に…クラス担任を、ですか?」
明らかに想定外のことを告げられたらしい自分が、声を上ずらせる。
「そうじゃ、新入生の数が思ったより多くてな。クラスをもうひとつ新設せざるを得なくなったのじゃ」
「しかし、私には、医務室の仕事が…」
「わかっておる」
学園長が遮る。
「校医としての仕事も、保健委員会の顧問としての仕事もあって忙しいことは承知の上じゃ。だが、いま、学園には先生の手が足りない。善法寺先生以外に頼める者がいないのじゃ」
学園長の口調は、有無を言わせぬものがあった。その気魄に飲み込まれたように、頷かざるを得ない状態に追い込まれている自分がいた。
まいったな、と頭を掻く自分が何を考えているか、伊作には手に取るようにわかった。
-忍としての経験がない自分に、はたして何が教えられるというのだろう。そんな自分が教えるということは、忍たまたちに不誠実なのではないのか…。
第八夜
「せんせい!」
「ぜんぽーじせんせい!」
小さい身体がまとわりついてくる。小さい手が袖や袂を引っ張る。
「ほらほら君たち。出席をとるから、席につきなさい」
苦笑いを浮かべながら、片手で何人かの小さい背中を席へと促す。
「「はーい!!」」
元気な声を上げながら、わらわらと忍たまたちは席に着いた。期待に輝いた瞳が自分を見つめる。
「では、出席をとるよ」
もう一方の手に持っていた出席簿がふと眼に入る。その表紙には、一年は組とあった。
-一年は組か…。
そういえば、山田先生や土井先生はどうしたのだろう。ふとそう考えた。時間の進行が前夜の続きだとすれば、前夜の段階で五年生の担任となったあと、また一年生の担任に戻っていても不思議はない。学園長が思いつきで方針を変えない限り、六年生には担任はつかないのだから。
-ほかのクラスの担任をされているのだろうか…。
出席簿に記された名前を呼ぶ。元気な声とともに、小さな手が勢いよく突き上げられる。
-そうか。私にも、このような頃があったな…。
あの頃は、まだよく分からない忍というものへの不安と、居場所のない家から逃れた解放感がない交ぜになった、複雑な気持ちだった。それでも、同室の留三郎や、同じ学年の仲間たちとともに学び続ける日々は楽しかった。
-この子たちも、それぞれ思うところはあるのだろうが、きっと毎日が楽しくて仕方がないに違いない。
忍たまの友を読みながら、机に向かう忍たまたちの様子にちらと目をやる。熱心に書き取りをする子、上体を揺らしながら眠気と必死で格闘している子、窓の外にぼんやりと眼をやっている子、どれもこれも、伊作たちが教室で過ごしてきたのと同じ姿だった。
-なのになぜ。
そう、なぜか目の前の光景に違和感を感じる。
-それは、私が教えるほうの立場にいるからだ。
そう思いこもうとした。だが、心に引っかかった違和感は、なおわだかまり続けていた。
第九夜
夜、伊作は自室でひとり、薬を煎じていた。煎じ器に火を入れ、団扇であおぐ。
-そういえば、よく部屋で薬を煎じては、留三郎に怒られたっけ…。
医務室でやれとか、朝になってからやれとか、衝立の向こうから顔をのぞかせた留三郎は、とやかく言ってきたものだった。伊作にしてみれば、必要があって煎じているのになぜ文句を言われなければならないのか理解できなかったのだが。
-でも、あの頃は楽しかった。
あるとき怒って布団を抱えて出て行った留三郎が、乱太郎たちの部屋で寝て、なにがあったか知らないが、後に乱太郎からそのせいで寝不足になったと苦情を言われたこともあった。
気がつくと、団扇をつかう手が止まっていた。顔が、部屋の障子を向いている。その顔は、障子ががらりと開いて、懐かしい顔が「よっ」と軽く片手を上げながら入ってくることを明らかに待っていた。
-何を待っているんだろう。私は、誰を待っているのだろう…。
それは、あらためて考えをめぐらすにはあまりに陳腐な問いだった。自分がこの場所にとどまっている限り、学園生活の中でもっとも近しい友人だったあの男が全く訪れないということはありえなかった。そう確信しているからこそ、つい障子に目を向けてしまうのだ。
-だが、どうして来ない…。
それは、来れない事情があるのだろうと、伊作は考える。だが、そう考えるほどに、思考は余計な部分をまさぐり、ついに避け続けていた領域に至ろうとする。
-何を考えようとしているのだ、私は。留三郎は元気にやっているに決まっている。ただ、ちょっと忙しくて顔を出せないのだ。
だが、自分を強引に納得させようとすればするほど、疑念は黒く膨らみ、考えたくない方向へと伊作を呑み込んでいく。
-ああ、外にいる。
ふいに外に人の気配を感じて、伊作は我に返る。だが、そこにいて、まごついたようにとどまっているのは、まだ小さな息遣いである。
-入ってくればいいのに。
それが待っていた気配ではないことに、かるくため息をついてから伊作は声を上げる。
「そんなところにいないで、入ってきたらどうだい」
少しの間があって、おずおずと障子が開いた。障子は開ききらないところで止まり、そのすき間から自分のクラスの忍たま2,3人の小さな顔がのぞきこんでいた。
「どうしたんだい、こんな夜中に」
静かに伊作は訊く。
「あの…あの」
口ごもった一人が、後ろから押されでもしたのか、部屋の中に足を踏み入れる。軽く首をかしげて、伊作は続きを待った。
「あの、せ、せんせい…ぼくたちのへやに、来てもらえませんか」
ようやく用件を言い終わると、ようやく伊作の前で突っ立っていることに気づいたらしく、慌てて端座する。
「かまわないけど、どうしてだい?」
「あの、あのその、し、宿題が分からないんです」
「そうか。わかった」
伊作が立ち上がると、急に障子が全開になって、廊下にいた忍たまたちがわっと部屋になだれ込んできた。
「おいおい、君たちもいたのかい」
苦笑いを浮かべる伊作を囲んで、わいわいと取り囲む小さな手が伊作の手を引き、身体を押す。
第十夜
昏かった。ひたすら昏かった。
-どこにいるのだろう…。
学園にいるわけではなさそうだった。外の演習場や裏裏山にいるわけでもなさそうだった。あえていえば、どこでもない中空に漂っているというのがもっとも正確な感じがした。
-ちがう! ここは私のいるべき場所ではない!
激しく頭を振る。
-こんな昏いところは、いやだ!
闇に向かって叫ぶ。そして、なぜこれほど嫌なのだろうと考えた。
-そうか、あの物陰に似た昏がりだからか…。
ふと思い当たった。広大な邸のどこにも居場所が見出せずに、小さな背を震わせて泣いていたあの物陰の暗がりに、この闇はとても似ている…。
-あんなところに、私の居場所はない! 学園が、私の居場所だったんだから。
昏がりに手を伸ばすと、なにかの手触りがあった。それは襖のように、横に動かせば開きそうな感触があった。
-ここではない、どこかへ!
腕に渾身の力を込めて開け放つ。
視界がふいに明るくなって、思わずまぶたを覆う。
-ここは?
だが、眼を開く前に、自分がどこにいるのか、嗅覚が教えていた。
-教室だ…学園の。
畳や障子、柱や天井に張られた木のにおい。たくさんの少年たちの汗のにおい。苦無や手裏剣の鉄のにおい、黒板とチョークのにおい。
-そうだ。私は、ここで学んだ。そして、教える立場になった。
ひとり教室に佇んで、伊作は思いをめぐらしていた。そして、そこに足りないものにもすぐに気づいた。
-留三郎は…?
すでに卒業して、どこかの城で忍として働いているにしても、何かの折にふっと学園に姿を現すとか、そうでなくても手紙のひとつも寄越してもよさそうだった。
-それに、文次郎や仙蔵、長次、小平太も…。
自分が学園に残ったのであれば、彼らも何かと報告を寄越してきてもよさそうだった。あるいは仲間に連絡をとるために、伊作を仲介にしてきてもよさそうだったし、当然そうするものと思っていた。当然そうするはずのものの不在に心がざわつく。
-新野先生、先生はどこにいらっしゃるのですか…?
にわかに不安に駆られて、伊作はあちこち振り返る。ついに、教室を飛び出して、医務室に向かう。それから、食堂や忍たま長屋にも。
-…いない。
気がつくと、教室に戻っていた。誰もいなかった。どこにもいなかった。
-なぜ、私だけが…。
ついに伊作は、教室の壁にもたれて座り込んだ。頭を抱えて膝に顔を埋める。
-なぜ、私だけが、取り残されてしまったのだ…。
物陰にうずくまって泣いていた小さな背中が視界をよぎる。
-私は、いてはいけないの…?
いつしか、袴の膝が濡れていた。もう長いこと忘れていた涙があふれ出て、伊作は子どものように泣きじゃくっていた。
-だから、取り残されてしまったの?
いくら問いかけても、答えるものはいない。
「伊作、おい伊作。どうしたんだ」
肩を揺する感覚に、伊作はびくっとした。
「お、おい…どうしたんだよ」
伊作の反応に驚いたらしい。留三郎がおどおどと伊作の顔を覗きこむ。
「とめ…さぶろう?」
うわごとのようにつぶやいた伊作が、ゆっくりと眼を開く。
「どうしたんだ、伊作。ずいぶんうなされてたぞ」
その声に少し安心したらしい気配をうかがわせながら、留三郎は話しかける。
「うなされてた?」
そもそも自分がどこにいるのか、まだ把握しかねて伊作はゆるりと身を起こす。
「…ああ」
腰を浮かせてかがみこんでいた留三郎が、どっかと胡坐をかく。
まだ焦点が合わない視線で自分を向いたその顔に、涙の筋が残っているのを見なかったふりをして、留三郎はついに口にできなかった問いを反芻していた。
-お前、俺の名前を何度も呼んでいたぞ。何があったんだ。俺はここにいるんだぜ?
「とめ…さぶろう? 私は、どこに…?」
「なに言ってんだよ。忍たま長屋の、俺たちの部屋じゃないか」
「部屋…に?」
思わず伊作は周囲を見渡す。なるほど、窓の格子から差し込む月明かりに照らされた部屋は、見慣れた自分たちの空間だった。
-じゃ、私は忍たまに戻ったというわけなのか?
さまよっていた視線が、ようやく自分の顔を覗きこむ不安げな表情をとらえる。髷を解いた獅子のようなぼさぼさ髪と、切れ長な眼をした友人の顔を。
「そうだぞ。お前の寝言があんまりうるさいから、俺まで目が覚めちまったじゃねぇか。もう少し静かに寝てくれよな」
正気に返ったらしい伊作の表情に安堵したらしい。留三郎の声が、いつものぶっきらぼうな口調に戻っていく。
「ああ…ごめんね、留三郎」
「いいさ。じゃ、俺は寝るからな」
「ああ。ありがとう」
「?」
-どういう意味だ?
衝立の向こうに行こうとした留三郎が、不審そうに振り返る。その顔に、思わず伊作は吹き出す。
「何がおかしいんだよ」
「いや…うれしかったから」
「うれしかった?」
「ああ。うれしかったんだ。じゃ、おやすみ」
いつもの伊作らしい笑顔で笑いかけると、伊作は横になって布団をかぶってしまった。
-ったくへんなヤツだな…。
自分の布団に戻った留三郎が横になる。
衝立の向こうから、健やかな寝息が聞こえてきた。
-ありがとう、留三郎。
衝立に向かって小さく微笑んでから、伊作は衝立に背を向ける。
-留三郎がいるこの部屋が、私の居場所なんだ。少なくとも当座の…。
<FIN>
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