梅が香に(2)


「失礼します! すぐに来てくれ…」
 廊下をどたどたと走る音が近づいてきたと思うと、医務室の襖ががらりと開いた。
「あれ?」
 入ってきたのは作兵衛だった。保健委員が誰もいない医務室で、誰かが布団を頭から被って寝ているのが、予想外だった。
 -患者がいるのに、保健委員も新野先生もいないのかよ。
 数馬はどこにいるのだ、と思った。今日は保健委員会があると言っていたから、てっきり医務室にいると思っていたのだが。と、布団が動いて、中にいた患者が顔を出した。
「数馬…?」
 まさに呼びに行こうと思った人物が突然現れたことに、作兵衛は一瞬たじろいだ。
「数馬、おまえ…具合でも悪いのか?」
「まあ、ちょっとね。どうかしたのか?」
「あ…そうだ」
 作兵衛は、自分の用事を思い出した。
「用具委員会で事故があって、ケガ人が出たんだ。すぐ来てくれないか」
「なんだって?」
 数馬は反射的に起き上がる。作兵衛が眼をむく。
「おまえ…具合が悪かったんじゃないのかよ」
「そんなことはどうだっていい。それより…」
 いつも伊作が持ち出す救急箱を手にすると、作兵衛の制服の袖に眼をやる。
「作兵衛、それ…血がついてるじゃないか。ケガしたのは、お前じゃないのか」
「いや違う。ケガしたのは、食満先輩だ。手当てしようとしたんだが、俺じゃ手に負えなくて、それで来たんだ」
「食満先輩はどこにいる?」
「用具倉庫だ」
「分かった」
 数馬が医務室を飛び出す。
「お、おい、待てったら」
 あわてて作兵衛が追いかける。

 


「で、何があったんだ」
 追いついてきた作兵衛と並んで走りながら、数馬は訊ねる。
「俺もよく分からないんだ。俺は吉野先生のところに行ってたから…だけど」
 作兵衛が口ごもる。
「用具倉庫で備品チェックをやろうとして、喜三太と平太が梯子に登って箱を下ろす作業をしてたらしいんだ。それで、2人がバランスを崩して梯子ごと落ちてきたのを食満先輩が受け止めたんだけど、下に置いてあった道具箱の上に倒れこんでしまったんだ。それで、道具箱の中に入っていた鉈か鋸の刃が当たったらしい。俺が吉野先生のところから戻ってきたときには、先輩が血だらけになっていて…」
 思い出したくもない、というように、作兵衛は頭を振った。
「とりあえず止血しようとおもったんだけど、どこから血が出ているのかも分からなくて、先輩が保健委員を呼んで来いって言ったから、急いで来たんだ」
「わかった」
 数馬は低く答えた。
 用具倉庫が見えてきた。扉の外に、用具委員の一年生たちが立ちすくんでいる。
「アイツら…」
 作兵衛が歯軋りする。
「おい、お前たち、そんなところで何してるんだ! 食満先輩はどうした!」
「富松先輩…」
 しゃくりあげながら喜三太が言う。
「食満先輩は中です。僕たちは外に出ていろって…」
「食満先輩!」
 喜三太の説明を最後まで聞く前に、数馬は用具倉庫の扉を開け放った。振り向きざま、「作兵衛、水を汲んできてくれ」と告げると、棚にもたれてうずくまる人影に駆け寄る。
「先輩! 大丈夫ですか!」
 傍らには、留三郎と後輩2人の重さでばらばらになった道具箱があった。鉈や鋸のほかにも、小刀や釘が散乱していて、どれが傷の原因かを見極めるのは難しそうだった。
「あ…ああ、数馬か…」
 出血で、留三郎の制服は血に染まっていた。留三郎が、一年生たちを外に出した理由が、数馬にはよく分かった。
 -たしかに、一年生たちが見たらショックだろうからな…。
「ケガをしたのはどこですか」
 救急箱から消毒用の膏薬と包帯を取り出しながら、数馬が訊いた。
「左…肩だ」
「左肩ですね」
 短く確認すると、数馬の手は、留三郎の制服を脱がせ、ためらいなく傷口を探し始めていた。
 -首や背骨は…だいじょうぶだ。
 首には太い血管が通っている。背骨には、神経が通っている。これらを傷つけると、出血多量で命を失ったり、手足が不随になったりことがあるから、よく注意しなければならないと伊作から聞いていた。血を拭き取りながら見ていくと、肩甲骨の脇に、ぱくりと開いた傷口を見つけた。そのとき、「数馬、水だ」 作兵衛が息を切らせながら水を運んできた。
「よし、こっちに置いて」
 自分の傍らに、作兵衛が運んできた手桶を据えると、数馬は水に浸した手拭で傷口の周りを清めた。次いで、肩から背中にかけてこびりついた血を拭う。ほかに傷口がないことを確認すると、傷口の上に膏薬を貼り、包帯を巻いていく。
 時折、堪えきれずにうめき声を漏らす留三郎の顔も、どうすることもできずに立ちすくんでいる作兵衛の姿も目に入らなかった。夢中になって巻いていた包帯を止めると、数馬は深くため息をついて座り込んだ。ふと、こちらへ駆けてくる足音に気付いた。
「留三郎!」
 倉庫の戸口には、息を切らせた伊作が立っていた。すぐそのあとから、左近や乱太郎たちが顔を覗かせる。
「よお、伊作。遅いぞ…」
 青ざめた顔を上げた留三郎は、それでもにやりとして軽口を投げかけるほどの気力は残っていたようだ。
「今度ばかりは…数馬に厄介になったな…」
 肩を押さえたまま立ち上がろうとした留三郎は、だがすぐによろめいて腰を落としてしまった。はっとした伊作が叫ぶ。
「すぐに医務室に運ぶんだ! 数馬、作兵衛、そこの戸板を持ってきてくれ」
「はい!」

 


「ところで、伊作先輩は、どうして食満先輩のケガが分かったんですか?」
 留三郎の処置が一段落した医務室の外の廊下で、数馬は伊作を呼び止めた。
「ああ、用具委員の一年生たちが呼びに来たんだ。すっかり動転していて、どこにいるのかを聞き出すにも往生したけどね」
 苦笑した伊作は、不意に真顔に戻ると、手を数馬の肩に置いた。
「今日はよくやった、数馬。数馬がすぐに消毒用の膏薬を貼ったから、傷口が化膿せずにすんだ。それに、ほかに傷口がないかどうか、きちんと調べたんだね」
「え…はい。でも、どうして分かったんですか」
「傷口以外の部分も、きれいに血を拭ってあった。特に首や背骨の周辺をきちんと調べたことも、よく分かったよ。前に教えたことを、数馬はきちんと覚えていてくれたんだね」
「はい。大事なことですから」
「そうだ。大事なことだ。だが、大事なことでも、いざとなったときに実行できるかどうかは、別問題だ。今回のようにかなりの出血を見てしまった場合はなおさらだ。よく落ち着いて処置できた。それに…」
 伊作は、肩に手を置いたまま、少し顔を伏せた。だが、すぐに顔を上げて微笑みかけた。
「留三郎から聞いたよ。実は、かなりの出血があったから、さすがの留三郎も不安になっていたらしいんだ。でも、数馬が『急所はそれているからだいじょうぶです』って何度も言ってくれたので、安心したそうだ」
「え…そんなこと、言ってたのですか」
 まったく覚えがなかった。あのときは手当てに夢中になっていて、自分が何か言っていたかどうかさえ覚えていなかった。
「そうか、覚えてないのか。それじゃ、きっと無意識のうちに言っていたんだね」
 伊作は軽く頷いた。
「だいじょうぶと闇雲に言えばいいというものではない。だけど、今回のように急所を外れている、ときちんと根拠を示して言えば、患者を心理的に安定させる効果は大きい。無意識だったとしても、たいしたものだね」
「は、はい…でも」
 数馬は照れて頭をかいたが、不意に真顔になって伊作を見上げた。
「なんだい」
「僕は、やはりまだまだ未熟です。まだ知らないことばかりです。だから、委員長が務まるかどうか…」
 そんなことを言うべきでないことは分かっていた。自分が不安を口にすればするほど、自分に委員長の職務を充分に引き継げなかったと悔やんでいる伊作を傷つけることになる。
 -でも、聞いてもらいたいんだ。伊作先輩に。
 伊作なら、自分の不安を受け止めてもらえる。それは、伊作がいる間だけ許される甘えだった。だから、聞いてもらいたかった。

 


「安心しろ、数馬」
 力強く請け合う言葉が、意外だった。
「どうして、そんなことが言えるのですか。先輩はもうすぐ、卒業されるのですよ。残された僕は、どうすればいいのですか…」
 数馬はうつむく。
「大丈夫だ。私は、当面卒業しないから。いや、できないというべきかな…」
 苦笑しながら、伊作は数馬の顔を覗きこむ。
「どういう、ことですか?」
 数馬が訝しげに訊ねる。
「数馬は登場して浅いからよく知らないかもしれないけどね、僕たちはもう10年以上も六年生をやっている。一年は組の連中に至っては、20年以上だ」
「おっしゃる意味が、よくわからないのですが…」
「作品の設定上の都合さ。この作品が続く限り、どうやら私たちは進級もしなければ卒業もしない。だから、今度の春に卒業できるなんて、私たち六年のなかで考えているものは一人もいないはずだ」
「そんなものなんですか…」
「そんなものだ。だから、安心しろと断言できる。まあ、当分、保健委員でいっしょだから、ヨロシクね」
 首を軽くかしげて微笑む伊作に、数馬も苦笑いを浮かべる。
「はあ…それもまた、喜ぶべきことなのか微妙ですが…」

 

 

 

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