用間論(5)

 

「文次郎、決行だ」
 ドクタケ城の薬房で、薬を煎じていた伊作は、天井板がわずかにずれる気配に、ぼそっと呟いた。
「わかった」
 彼らのやり取りは、それだけで終了した。天井板は元に戻され、伊作は何事もなかったように、煎じ器に団扇をつかっている。
 ドクタケ城に往診に訪れた伊作は、もはや城内の薬房にすっかり馴染んでいた。相変わらず八方斎には目をつけられていたから、達魔鬼がいないといつ牢に放り込まれるか分からなかったし、まして自由に城内の偵察ができるわけでもなかったが、客人として相手の懐に飛び込んだときの身の処しかたを、伊作は確実に体得していた。
 客人として振舞うと言うことは、忍び込むことに相手の目を盗む必要がない代わりに、いつでも相手方の視線にさらされていることを意味していた。その視線に違和感を持たれないよう行動し、情報を入手するということは、いままでの学園での演習にはなかった経験だった。
 伊作の不運は、ドクタケ城でもいささかも減じる気配はみられなかった。板の間の木が腐ったところに足を突っ込み、床の上においた紙に足を滑らせ、誰かが渡り廊下に落とした荷物につまづいて、もんどりうって庭まで転げ落ちたりしていた。そのつど大仰な騒ぎになるので、ドクタケ城の人々からは、伊作は腕は立つが、どこでも騒ぎを起こすドジな医者と見られるようになっていた。
 そう見られることは、伊作が狙っていたことでもあった。
 -私が治療をしているか騒ぎを起こしていると認識されれば、それ以外の場所に私がいるとは思われにくくなる。
 そのため、薬房や厠にこもっていると見せかけて、短時間であれば城内の偵察をすることもできるようになっていた。そしてまた、治療や城内での移動のときに城内の人間の会話に耳を澄ませ、城内で何が起こっているかを把握することにも努めていた。
 だから、いまは文次郎に確証をもって作戦の決行を告げることができた。今朝方、城主の竹高付きの小姓が腹痛の薬を求めに来たときに、久しぶりの城主の外出で大忙しだと聞いたことも、確証のひとつだった。
 -やはり、ドクタケ城主は、水底雷の効力を確かめるために、お出ましになるつもりだな。
「善法寺君、いるかね」
 薬房の外で、達魔鬼の声がした。
「はい。どうぞ」
 すまないね、と襖を開けながら、達魔鬼が入ってきた。
「実は、せっかく往診に来てもらって申し訳ないのだが、すぐに退出してもらえないだろうか」
 達魔鬼の口調は、いかにも申し訳なさそうである。
 -いよいよ、城内が慌しくなるんだな。
 城主がお出ましとなれば、城内の動きも大きくなる。部外者である伊作に、いつもと違う動きを見せることは、当然避けるべきことだった。
「そうですか。では」
 達魔鬼には、こちらの意図はぜったいに知られてはならなかった。また、達魔鬼には、ほんの余計な一言や動作で、それが見破られてしまう恐れがあった。だから、伊作はあえて理由を詮索せずに片づけをはじめる。
「私は失礼します。この薬ですが…」
 伊作は煎じ器に眼を落とす。
「免疫力を上げ、血液凝固を助ける薬を煎じているところです。この薬は、充分冷ましてから、医務室に残っている3人の患者に飲ませてください。あと、腹下しの散剤を作っておきましたから、必要に応じて使ってください。処方と一緒にこの戸棚にしまっておきましたから」
 伊作は救急箱を手に立ち上がる。
「すまないね、善法寺君」
「いえ、では」
「門まで送ろう」
 ドクタケの城門を出た伊作は、振り返りもせず、学園に向かって歩いていく。
 -あとは頼んだぞ、文次郎。

 


 計画の決行を伊作から確認した文次郎は、すぐにドクタケが恐竜さんボートを係留している浦に向かった。ボートの数はすでに減っていた。
 -作戦は、もう始動していたのか。
 どのような手を使うのかは分からないが、いなくなった恐竜さんボートの一部は、兵庫水軍の挑発に向かっているかもしれない。あさってが大潮だったから、明日には潮が大きく引き始める。すでに水底雷の敷設の準備も進んでいることだろう。
 -とにかく、兵庫水軍に急ごう。
 文次郎はそっと姿を隠すと、兵庫水軍に向かって走り始めた。

 


「水底雷の準備はどうなっている」
「は。すでにこちらにすべて運び終えて、潮が引くのを待っているところです」
 海辺に設営されたドクタケの陣幕の外では、次々に荷車に引かれて水底雷が運び込まれているところだった。水底雷の部品の確認や、起爆装置に縄を接続させる作業で、辺りは慌しくも張り詰めた空気がみなぎっている。
 陣幕の内側では、作戦指揮を執る八方斎が到着して、達魔鬼から報告を受けているところだった。
「兵庫水軍を挑発する手はずは」
「すでに出発しております。こちらからの烽火の合図に従って、兵庫水軍を挑発してこちらの海域に誘導する準備ができております」
「岬の陣幕の設営状況は」
「目下、最後の仕上げにかかっておるところです。明日の殿の到着までには、準備は万端整っておることかと」
「ふむ、よいぞよいぞ…ぐゎっはっは…」
 満足そうに頷いた八方斎は、顎を大きくのけぞらせて笑った。あわてて背後に控えたドクタケ忍者たちが、後頭部をつっかえ棒で支える。

 


「…50、いや、30といったところか…」
 ひとりごちながら、伊作は歩いていた。城を出た後も、まだ背後に尾行の気配を感じていた。それも、ドクタケ領の境界に近い峠道に差し掛かる頃には消えていた。
「最後の部隊は、ドクタケの殿様の出発の後方警備と聞いているから、出るとすれば明日の夜といったところか…」
 腹痛の薬をもらいに来た小姓から聞いたところによると、観戦に出る城主の竹高は、明日の夜に城を出て翌日の未明に観戦用の陣に入る予定とのことだった。その後方警備部隊が出発した後のドクタケ城は、警備の雑兵が30人ほど残るだけの、事実上の空城となることがわかった。
 -ドクタケ城主が城を空けることは珍しいから、大仰な行列になるとは思っていたが、重臣たちまでそろって城を空けてしまうとは思わなかった。
 城主の観戦により、城が空に近くなること、城を攻撃するチャンスとなることは、すでに耳にしていて、仙蔵にも知らせてあった。だが、ここまで大掛かりな外出になるとは、小姓の話を聞くまでは知らなかった。
 -城を攻撃するどころか、占領できてしまうかもしれないな。
 そうしたら、まっさきにあの死んだ薬房を何とかしなければ、と考えて、ふと伊作はおかしくなった。
 -何を考えているのだろう。ふつう、城を占拠したら武器と金目を押さえるところなのに。
 やはり、自分は、こういうことには向いていないのかもしれない、と考えそうになる。
 -いやいや、今は、作戦が最優先だ。あの人たちが城を占領するかどうかは、私には関係ないことだ…。
 水底雷なんぞという似合わない武器を使って兵庫水軍に手を出そうとしたおしおきに、少しばかり鉄槌をくだしてやればよいのだ。
 山道を覆う木立の一角が、風もないのにがさがさと揺れる。立ち止まった伊作は、枝を見上げると朗らかに声をかける。
「お待たせしました。尊奈門さん」

 


 兵庫水軍の水軍館には、伊作を除く六年生たちが集まり始めていた。仙蔵が兵庫第三共栄丸の参謀役として館に陣取っていた。
「で、そっちはどうだった」
 仙蔵が話を向けたのは、水底雷の敷設現場を偵察に行った長次と小平太である。
「ああ、海岸に水底雷を積み上げて、潮が引くのを待っている状態だ」
 小平太が答える。
「あのあたりの海底はどんな状態だ?」
 兵庫第三共栄丸が口を開く。ドクタケ領であるその海岸には、兵庫水軍もあまり近寄らないので、海の状態についての情報が乏しかった。
(海の色から判断するに、岬の辺りは深くなっていますが、作戦水域のあたりはやや遠浅になっているようです。ただし、岩がごつごつしているので急に浅くなっているところもあります。大きい船が入り込むのは危険だと思います)
 長次がもそもそと答えるのを、小平太が同時通訳して聞かせる。
「ふむ…というと、安宅船を直接寄せるのは危険ということか…」
 兵庫第三共栄丸が、あごに手を当てる。
(おそらく、安宅船が寄せられるぎりぎりのところからドクタケの陣幕まで四町か五町はあります)
「とすると、安宅船に積んだ石火矢でも届かないということだな」
「ドクタケも、そのつもりなのでしょう」
 仙蔵が図面に書き込みながら呟く。
「とすると、安宅船にダメージを与えるためには、水底雷はもっと沖合にも仕掛けられると考えるべきなのでは?」
 傍らに控えた由良四郎が首を傾げる。  
「あるいはそのつもりかもしれません。伊作が見た図面は、ダミーである可能性も否定はできません」
「俺は、そうは思わない」
 文次郎の声に、皆の視線が集まる。
「…ドクタケには水練の者がいない。つまり、あまり沖合にまで水底雷を仕掛けられる者がいない。ということは、伊作が見た作戦図は、正確であるという可能性が高い。ドクタケは、作戦水域まで安宅船を追い込むために、恐竜さんボートを動員して何かをやらかすつもりだと思う。俺が偵察したとき、ボートは係留地の浦にはほとんど残っていなかった」
「つまり、数を頼んで何か仕掛けてくるということか?」
 由良四郎が訊く。
「あるいは、この深くなっているところに安宅船を追い込むつもりかもしれませんね」
 仙蔵の図面を覗き込みながら、鬼蜘蛛丸が言う。
「私たちも、その可能性がいちばん高いと考えています。ここに安宅船を追い込んで、前後を水底雷でふさがれれば、袋のネズミです」
 図面に落とされた水底雷の敷設位置を確認しながら、仙蔵が考え込む。
「どうした、仙蔵」
 文次郎が、仙蔵に眼をやる。
「いや…なにか分からないが、なにかドクタケには別の作戦があるのではないかという気がするのだが…それが見えてこないのだ」
「あのドクタケが、仙蔵が悩むほど高等な作戦を考えるというのか」
 おかしそうに言う小平太に、長次がもそりと警句を発する。
(小平太。敵を軽んずべからず、だ。)

 


「どっちにしても、大した問題じゃない、ということだな」
 兵庫第三共栄丸の声に、六年生たちが訝しげな顔を向ける。
「どういう、ことですか?」
 仙蔵が、六年生を代表して訊ねる。
「なに、そんなに難しいことじゃない。やつらが束になってかかってきても、こちらにも武器はいくらでもある。飛爛珠や投げ焙烙をぶち込んでもいいし、この船ならば、正面突破もできる。それに、君たちの仲間が、そろそろタソガレドキをドクタケの領地に引き入れている頃だろう?」
「そうなのか? 仙蔵」
 留三郎が、訝しげに見る。伊作本人からは、そこまで計画が進んでいるとは聞いていなかった。もっとも、自分も兵庫水軍と学園の連絡役で、伊作と顔をあわせる機会もなかったのだが。
「そういうことだ。どう話をつけたか知らないが、伊作によると、タソガレドキ忍軍は、今日にもドクタケの領地に侵入する手はずとなっている。伊作が手引きをすることになっている」
「ドクタケの城は、いまごろ空っぽだ。皆、殿様についてきてしまっているからな」

 -あのホータイ野郎との勝負がまだついてないが、今回はそれどころではない。
 完全に子どもを見る視線だった隻眼を思い出した文次郎が、腕組みをして小さく歯軋りをする。
「とすると、タソガレドキは、ドクタケ城を占領するつもりなのか?」
 文次郎の屈託に気付く由もない兵庫第三共栄丸が首をひねる。
「そうするかもしれません…しかし、ドクタケの本体が戻れば、彼らもすぐに引き上げるつもりだと思うのですが」
 実際、タソガレドキがどう出るかも、伊作がどこまで彼らと話をつけているかも詳しくは聞いていないので、仙蔵はそうとしか言いようがなかった。
「やるなぁ、伊作のヤツ」
 小平太が、感心したように言う。
「伊作はタソガレドキ忍軍の組頭とも顔見知りだからな」
「ったく、あんなヤツと顔見知りとはな」
 舌打ちをしながら、文次郎が吐き捨てたところに、蜉蝣が入ってきて、兵庫第三共栄丸になにやら耳打ちしていった。頷いた兵庫第三共栄丸が、仙蔵たちに向き直る。
「船の準備ができた。君たちの計画通りやるには、そろそろ出発だ…君たちも乗るんだろ?」
「はい。私と七松小平太、中在家長次が船に乗ります」
 仙蔵が答える。
「あとは、どうするんだ?」
「私たちは、陸上のドクタケの動きを張ります」
 留三郎が、立ち上がりながら言う。
「よし分かった。では、さっそく乗船だ」
 そう言うと、兵庫第三共栄丸は立ち上がった。

 

 

 

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