Femme Fatale(2)
今日、不意に父親が、その話を持ち出した。
「奈津、お前には、通う男ができたようだな」
「はい」
「相手が誰だか、分かっているのか」
「はい…おそらく、忍術学園」
父はとっくに分かっている。すでに手のものを通じて調べさせているのだろう。ただ、私がどれだけ分かっているかを、試しているのだ。
「分かっていたのだな」
「はい」
「それで、どうする」
「添い遂げられる相手でないことは、分かっています。いずれ…」
…いずれ、自分で決着をつけなければならない。そんなことは分かっている。
「そうか」
それならば、勝手にせよ、とのことだ。おそらく父親なりに、私の意思を尊重しようとしてくれているのだろう。それは、最後に、自身に外科手術を施すような痛みが待っているということでもあるのだけれど。
「…それにしても、最近、忍術学園の忍たまがよく入ってくることだ。吾郎の娘に通ってきているのも、忍術学園の忍たまだし…やはり、狙いは我らなのでは」
「それは違う」
言い切った私に、父が眉を上げる。
「文次郎は、私が何者か、この家がなにか、気づいていません」
互いの属性の話題には踏み込まない、それがあの男なりのけじめなのだろう、そう思うようになっていた。だから私も、用心していた。文次郎が忍術学園に属することに気付いていることを悟られないように。
夜半の道を、文次郎は学園に向かって急いでいた。
-もはや、あの女しかいない。
今日も、奈津に逢ってきた。奈津の身体を抱いてから、話をした。それだけのことだが、文次郎にはかけがえのないひと時だった。
いつも伏せぎみの顔も、不意に自分をまっすぐ見据える澄んだ瞳も、媚びのない声も、全てが好ましかった。
女と知り合ってから、学園での日々が急に色あせて見えるようになっていた。女と過ごす時間だけ、色彩が戻ってくるのだ。
-俺にとって、真実の時間は、あの女といるときだけだ…。
思いつめた気持ちに、心をぎりと締め上げられるようで、文次郎は足早に歩きながら軽く眉を寄せる。
不意に気配がした。見知った気配だ。
「外出許可証は、どうしたのかな」
揶揄するような含み笑いで、からかってくるのは仙蔵である。
「人のことを言えるか」
「なに、先生方や小松田さんに見つからぬように出入りするのも、忍の修行のうち」
いつものように涼しげに、仙蔵はうそぶく。
「分かっているなら、いいだろう」
-俺がどこで何をしていたかを、全部知っている声だ。
文次郎の声が苛立つ。なぜ、こんな時間に、こんなところに現れるのだ、仙蔵は…俺をつけていたのか。
「やめておけ、文次郎」
不意に、仙蔵の声が尖る。
「どういうことだ?」
「やめておけと言っている…あの娘は、私たちが手を出していいような種類の女ではない」
-私たち、とはどういうことだ…。
「どういう、意味だ」
「あの娘の家は、オオマガトキに連なる忍だ」
-なんだと…?
思いがけない話に、文次郎は愕然とする。動揺が表情にもれないよう堪えるのが精一杯だった。
-何かを探るような話は、決してしてこなかった。何かを目的に近づいてきたというわけでもない。いったい、どうして…。
「…あの娘も、忍術の心得が多少はあるようだな。学園一ギンギンに忍者しているお前が、なぜそんなことにも気づかない」
仙蔵の口調は、相変わらず淡々としている。だがそこにやや失望と軽蔑を感じて、文次郎は唇を噛んだ。
-仙蔵は、そういうヤツだ。相手に自分が見込んだほどの実力がないことが分かると、あからさまに軽んじてみせる。
「なぜ、そんなことを仙蔵が知っている」
「なに。私が通う娘の家も、同じ村にあるからさ。お前は気づいていなかったようだが、私は何度もお前を見かけたぞ」
その夜、文次郎はいつものように私を抱こうとはしなかった。
「…奈津」
その思いつめた眼で、私は、文次郎が全てを知ったことが分かった。
「なぜ、黙っていた」
「…訊かなかったから」
-なにをいまさら…。
見開いたその真摯な眼差しが無性に腹立たしかった。
あえて避けていたのではないのか。ともに過ごす時間をだましながら延ばしていくために、あえて踏み込まない領域を作ることで、私たちは共犯ではなかったのではないか。なにを今さら、被害者面をしてみせる。もし本気でだまされたと思っているなら、仮にも忍者のタマゴがその程度の女のウソを見抜けなくてどうする…。
「なんの狙いで、俺に近づいた」
口にしてしまってから、しまったと思った問いだった。本当に言いたかったことは、詰問の言葉ではない。
「たかが忍たまに、なにを期待すると思っている?」
娘の口から放たれたたかが、という言葉が、さっくりと文次郎の心に傷口を開く。
「では、なぜ…」
「好いたからだ」
ごくあっさりと、娘は言い放った。
「え?」
「いつまでも続けられることではないと分かっていた。それでも、私は文次郎を好いた。それだけだ」
娘は一歩、後ろへ引いた。
自分でも驚くほど、率直に話せたのは、あるいは八つ当たりに近い怒りのためだったのかもしれない。そして、きっと文次郎から視線を外していたからだ。
だが、おろおろと伸びてきた男の手が自分の肩に触れそうになり、私が身を翻した瞬間、私をまっすぐ捉える視線に合ってしまった。
文次郎の眼に、怒りの感情はなかった。そこにあるのは、戸惑ったように見開かれた眼だった。
「…」
淡々と語る女の言葉を耳にしていてもなお、どうしても、言えなかった。「逃げよう」と。
学園でのキャリアも何もかも捨てていい、自分の実力なら、女を守り通してみせよう、たとえオオマガトキ忍者が束になってかかってきても。本当に伝えたかったことは、そのことだった。
だが、出鼻をくじかれた。すでに結末が見えていたように、奈津はあっさりと文次郎から離れた。そして、もはや、文次郎のどんな言葉も届かないところに立っていた。
「お前はいい男で、いい忍になるだろう。命を、大切にしろ」
奈津はいい捨てて、ついと背を向けた。
「どうだった?」
「…別れてきた」
「…そうか」
仙蔵は小首をかしげる。長い髪がさわさわと揺れる。
「この件では、仙蔵には厄介になったな」
「そんな恨めしそうな顔で、心にもないことを言うな」
「俺は、仙蔵のように器用には生きられん」
「お前が不器用すぎるだけだ」
仙蔵は、いつものようにずけずけと言う。その言葉は、錐のように文次郎の心に突き刺さる。しかし、今は余計な気遣いのないその態度が、何よりありがたかった。
「お前が娘を待っていた榎は、縁の木ともいう。縁を取り持つ木だ。願でもかけてきたらどうだ」
不意に仙蔵が、らしくないことを言う。願をかけるなど、科学の信奉者である仙蔵にもっとも似合わない台詞だ。
「なんで俺が、願などかけなければならない」
「お前のような不器用なヤツは、願でもかけねば次の女を見つけることなど、とうていムリだろうからな」
「うるさい。大きなお世話だ」
「親切で言ってやってるのに、素直でないヤツだな」
だが、その言葉に、文次郎には、仙蔵なりの精一杯の気遣いを感じるのだった。
「女とは、分からんものだな」
ぽそりと文次郎がこぼす。
「そうだな…」
仙蔵は、言葉を切った。
「…われわれ男は、何かというと自分がどうあるべきとか、勝つためにはどうするかとか、上とか先とかを考えるが、女人はそうではないらしい…今そのときの幸せに満足できるようだな」
「今そのとき、か」
奈津は、終わりがあることを見据えていながら、自分と会うそのときそのときを愛しんでいたのかもしれない…。
「奈津には、男の理性と女の感性があった…」
そう、自分が愛した女は、ただの女ではない。そう思いたかった。
「いや、それは理性ではない。きっと、諦めだ」
仙蔵は、にべもなく否定する。
「諦めだと?」
「きっと、その奈津という女は、ずっと早いうちから、お前が忍術学園の者だと分かっていたのだろう…そしてその時から、いつ終わってもおかしくないという諦めを抱いていたはずだ。そして、お前が気づくのが一日でも遅いことを祈っていたはずだ」
「俺が、気づいてしまったのがいけないということなのか」
「いずれは分かってしまうことだ。早いに越したことはない…だが、女はそうは思っていなかったはずだということだ」
「そうか…」
文次郎は言葉を切る。今となっては、仙蔵の言うことがいちいち正しいことが分かっていた。
「…女とは、なんだろうな」
「分からん」
「いつも小器用に知ったかぶりをするお前にしては、珍しいな」
「私に八つ当たりするな」
確かにそうだった。文次郎は、言いたいことの一割も口にできなかったもどかしさを、かたわらの同級生にぶつけていた。
-だが、それだけではない…仙蔵なら、知っていそうだと思ったのだ。
自分の知らない、女人との関わり方や、考えていることを。
「お前の質問は、古今東西の男という男が、誰一人答えられなかった質問だ。我らに分かるはずがないし、分かる必要もない。きっと、答えなど、ないのだろう」
「答えなどない…か」
「そうだ。単純なお前の頭では理解できないかも知れんが、世の中には、そういうものもある」
「けっ、利口ぶりやがって」
「それでいい」
まっすぐ前を向いたまま話していた仙蔵が、ついと文次郎の顔を覗きこんでにやりとする。
「やはり文次郎は、こういうふうにカリカリして憎まれ口を叩いていないとな」
「んだと!」
「そうだそうだ、もっと怒れ」
ついに文次郎が掴みかかろうとするが、仙蔵はひらりと身をかわす。
「ほら、どうした、文次郎。このまま学園まで競争するぞ」
「待ちやがれ、仙蔵!」
月明かりに、2人の青年の鬼ごっこが照らし出される。
<FIN>