Le Lumière (2)


「八左ヱ門!」
「雷蔵! 心配してたんだぞ!」
 よろめきながら学園に戻ってきた2人に五年生たちが駆け寄る。すぐに彼らは異変を感じ取った。戻ってきた2人の表情に学園に戻ってきた安堵や仲間と再会した喜びはない。ただ空洞のように見開かれたままの眼で何を見てきたというのだろう…。
「どうした、雷蔵! 連中に何をされたんだ!?」
「そんなにひどい目に遭ったのか? 大丈夫か?」
 半ば廃人のようになった2人を、仲間たちは医務室に連れ込んだ。立っているだけでもやっとのように見えたから。
「なるほど、よくわかりました」
 2人の身体を診察した新野が聴診器を外しながら頷くと、後ろに控えた兵助たちがほっとしたようにため息をついた。服を脱いで診察を受ける2人の身体に拷問されたような外傷は見られなかったから。
「竹谷君も不破君も少々体力の消耗が見られます。今日のところは医務室で休んで滋養を摂らせることにしましょう。明日には長屋に戻っても大丈夫だと思いますよ」
「わかりました」
「雷蔵たちをお願いします」
 2人の空虚な表情が気にならないでもなかったが、おそらく緊張と衰弱のせいだろうと思うことにして兵助たちは医務室を後にした。 
「…」
 医務室の当番の数馬が布団を敷いて2人を寝かせる様子を見つめていた新野は、小さくため息をつくとおもむろに立ちあがった。
「数馬、すぐ戻るので、2人に補中益気湯(ほちゅうえっきとう)を処方しておいてください」
「はい」
 代表的な処方はすでに覚えているらしい。立ち上がった数馬が薬棚に向かってためらいなく当帰やオタネニンジンを取り始めたのを認めると、新野は教師長屋に向かう。



「木下先生、よろしいですかな」
「これは新野先生。こちらから伺わねばと思っていたところで」
 訪ねてきた新野を鉄丸が慌てて招じ入れる。
「いえいえ、こちらの方が話をしやすいもので」
 鉄丸が睨みを利かせていれば、誰かに話を聞かれる恐れもないと判断して教師長屋を訪ねた新野だった。
「それで…いかがですか」
 訊きにくそうに鉄丸が口を開く。
「幸い乱暴なことをされたような形跡はありません。少々衰弱が見られますので今夜は医務室で休ませますが、明日には授業に出ても差支えないでしょう」
「それはよかった…」
 いかつい顔をほころばせながら鉄丸がほっとしたように言う。学園には友好的な態度を見せるタソガレドキ忍軍だが、もし方針を変えたとすれば忍たまといえど容赦なく扱うだろう。
「しかし、心配な点があります」
 くぐもった新野の声に思わず鉄丸の表情が強張った。
「なにか…気になることでも」
「心配なのは、彼らの精神状態です。まだきちんと話ができたわけではないので確かなことは言えないのだが…」
「どうされましたか」
「なにか、彼らは非常に強い心理的圧迫を受けたのではないかという気がするのです。いわば精神的な拷問を受けたのではないかと私は疑っている」
「精神的な拷問…?」
「肉体的な拷問なら見ればすぐに分かります。しかし、精神的な拷問はじっくりと心理状態を分析しないとダメージを把握することは難しい。そして、その治療も難しいのです」
 腕を組みながら新野は眉を寄せる。
「…まあ、このことはじっくり取り組まねばなりますまい。それに、こんど雑渡さんが包帯の交換に来たときにでも話を伺うこととしましょう。なぜこのようなことをしたのか…」
「その時には、私も同席させていただいてもよろしいですかな」
 思い詰めた声の鉄丸に軽く眉を上げた新野が「もちろんです」と応じる。



 2人の異変は翌日早くもあらわになった。
「おい、兵助、勘右衛門、何とかなんないかな…」
 放課後、やつれきった表情で三郎が五年い組の教室によろめき入ってきた。
「三郎? 一体どうしたのさ」
 慌てて駆け寄った勘右衛門が三郎の身体を支えて座らせる。
「そういや八左ヱ門たち、もう授業に出られるようになったんだろ? どうだった?」
 文机に肘をついた兵助が訊く。
「授業? …もうどうにもこうにも」
 いつも不敵な態度を崩さない三郎がうめきながら首を振る。
「何かあったのか?」
 勘右衛門が身を乗り出す。
「何かあったというより…すっかり別人になっちゃったみたいでさ…」
 三郎が額に手を当てる。
「別人?」
「ああ…聞いてくれよ」
 三郎が顔を上げる。「午前の授業はドクタケの砦を破壊したときのレポート作りだったんだけど、雷蔵も八左ヱ門も『こんなことに何の意味がある』とか『戦の結果が何をもたらすかしっかり書かないとダメだ』とか訳わかんないこと言いだして結局レポートはまとめられなくて、おまけに午後の実技の授業は2人とも来なかったんだぜ? 想像できるかい?」
「えっと…それって、八左ヱ門と雷蔵の話だよね…?」
 ためらいがちに兵助が訊く。
「ああもちろんさ!」
 もはや苛立ちをあらわにしながら三郎が歯ぎしりする。「いったい何があったっていうんだ!? あの2人がレポート作りで散々足を引っ張った挙句、実技をサボったなんて!」
「それは…」
「たしかにありえない…」
 兵助と勘右衛門も絶句する。



「困りますな。我々の生徒たちにあまり変なことを吹き込まれては」
 医務室を訪れて包帯の交換と治療を受けている昆奈門の前には、厳しい表情の鉄丸がいる。
「そう? ちょっとしたテストをしてあげただけなんだけどね」
 しれっと昆奈門が応える。
「そのせいで生徒たちが無用なショックを受けてしまっている…この責任をどう取るおつもりか」
 鉄丸が怒りに声を震わせる。
「無用なショックねぇ…」
 鉄丸の怒りをあえて増幅させるように昆奈門はとぼけた口調で言う。「本来は学園が行うべきところを特別サービスで我々がやってあげたのだ。感謝されて然るべきではないかね」
「このくせ者がっ!」
 鉄丸の拳が床板を打ち付ける。「よくもそんな戯言をのうのうと…!」
「まあ、木下先生。落ち着いてください」
 昆奈門の包帯を巻き取っていた新野が口を開く。「だが、生徒たちにダメージがあったことは事実です。いったい何のためにそのようなことをしたのかお教え願いたいのですが」
「だから特別サービスだって言ったじゃん」
 棒読みの昆奈門の隻眼は鋭く2人を捉えている。「それより、学園の教育にはちょっとがっかりだね」
「…」
 新野が黙って続きを促す。
「忍の活動といえば、たいていは戦絡みだ。戦忍だろうが草だろうがね。であれば、自分たちの動きが何をもたらすかも分かって然るべきだ。だが」
 昆奈門の眼が細くなる。「学園ではそういうことについてはきちんと教えていないようだね」
「旗印を取るくらいの実習ならいくらもやっておる」
 鉄丸がむすりと言う。「戦場に潜ったこともないようなナイーブみたいな言い方はしないでいただきたい」
「戦場で死ぬのは武士や足軽ばかりではない。年寄りや女子どもも死ぬ。それが戦だ。そっちの理解はずいぶん浅いようだったが? 君たちの生徒を見ているとね」
「忍術を教えれば誰でも忍になれるというものでもない」
 鉄丸の眼も鋭く昆奈門を見据えている。「そのくらい、あなたなら分かっていると思うが」
「ああそうだね」
 答えるように昆奈門の眼光も鋭さを増す。「だから適性をチェックしてあげたのだよ。学園ではそういうことはやらないようだからね」
「それは忍たまたちが自ら見極めるべき問題ではないでしょうか」
 薬を塗る手を止めずに新野が言う。
「で、彼らに適性はあったのかな?」
 揶揄するように細められた隻眼の目尻が下がる。「私にはそうは見えなかったがね」
「それはどうかな」
 鉄丸がにやりとする。「我々は信じている。忍たまたちの力を」
「どこからそんな根拠のない自信が生まれるのやら」
 軽く隻眼が見開かれる。
「決して根拠のないわけではない」
 軽く首を振りながら鉄丸が言う。「いつも忍たまたちに接しているからこそ分かることがある」
「ほう?」
「たしかにあなたの眼から見れば忍たまは未熟であろう。一人ひとりの実力や心構えは我々の眼から見てもまだまだだ。だが、彼らは仲間たちで支え合って育つことができる。そして、それが許されている立場だ」
 ふたたび鉄丸の眼が昆奈門を鋭く捉えていた。「彼らは仲間を信じることができる。我々と違ってね」
「なるほどね」
 他人を信じるという概念などとうの昔に捨てたあなたに分かりますかな、と言いたげな鉄丸の表情が癪にさわらぬでもなかったが、素知らぬ顔で問う。「それで現実を乗り越えられると?」
「そうですな」
 鉄丸がにやりと応じる。「確かめられてはいかがかな? 忍たまたちがどう乗り越えるか」
「それはそれは」
 昆奈門が肩をすくめる。「たいした自信だね」



「入るぞ」
 しとしと降る雨音に紛らわすように、夜の忍たま長屋にひそやかな声が聞こえる。
「ああ」
 中の返事を待って襖がすっと開き、すぐに閉じられる。
「ったく、よく降る雨だよな」
 入ってきた三郎が胡坐をかきながら肩をすくめる。
「で、どうだった?」
 頭を寄せて何やら話し込んでいた兵助と勘右衛門が顔を向ける。
「雷蔵は廊下でボーっとしてる。八左ヱ門は見つからなかった」
 手短な応えに「そっか」とため息が漏れる。
「私の話がオーバーじゃないことは分かったろ?」
「…だな。想像以上だったよ」
 兵助が俯く。
「てか、まずいだろ。雷蔵たち、完全におかしくなってる」
 脂汗を拭いながら勘右衛門が言う。
「だけど、その原因も分かっている」
 視線を伏せたまま兵助が顎に手を当てる。「タソガレドキが変なものを見せ付けたせいだ」
 放課後、兵助たちは終わらなかったレポート作成を手伝うという名目で五年ろ組の教室に乗り込んだ。そして、八左ヱ門たちが何を見てしまったかを知った。
「たしかに、女子どもが戦で死んでるところを見せ付けられたら、普通でいられる方がおかしいよな」
 腕を組んだ三郎が唸る。「私の雷蔵によくもそんなことを…」
「八左ヱ門も同じだよ」
 暗い声で兵助が言う。「あんなに下級生思いの八左ヱ門が同じような年頃の子どもが死んでいくところを見せられたら、トラウマにならないわけがない」
 3人は、このままでは退学しかねないダメージを受けた仲間たちのために必死で対策を考えていた。
「だけど、雷蔵たちが見せられたのも戦の現実なんだぜ? それをなかったことになんてできるのかよ」
 さきほどから脂汗が止まらない。雷蔵たちが見てきた戦の現実は、勘右衛門には耳にするだけでも衝撃だった。
「もちろんムリに決まってる。でも、俺たちが忍を目指すのがそんなもののためだけだなんて、空しすぎないか? 俺たち、そんなことのために五年間も修行してきたってのか?」
 兵助が吐き出すように言う。
「じゃ、どーすんだよ!」
 堪えきれずに勘右衛門が怒鳴る。
「落ち着けよ、勘右衛門」
 腕を組んだ三郎が言う。「私たちは、誰よりも雷蔵と八左ヱ門のことを知っている。いま、あの2人は呪術にかけられたも同然だ。だが、私たちなら解いてやる方法も見つけられるはずだ」
「そりゃそうだけどさ…」
 不承不承に勘右衛門が頷く。「でも、俺ははっきり言ってノーアイデアだぜ」
「もっと考えろ、勘右衛門」
 苛立ちを苦労して抑えながら兵助が言う。「俺たち、仲間だろ?」
「分かってるさ! そんくらい…!」
 拳を床板に打ち下ろしながら勘右衛門が歯を食いしばる。「だけど…!」
「こうなったら直接言うしかないのかな」
 眉を寄せたまま三郎が呟く。兵助が思わず顔を上げる。学年の中で事に当たって最も作戦をじっくり練るタイプの三郎が、もはや作戦を放棄したというのか。
 -そうだとすれば、俺も無形の形でいくしかないか…。
 腹を決めた兵助がおもむろに立ちあがる。仲間たちがいぶかしげに見上げる。



 雨のそぼ降る夜の忍たま長屋の廊下の端に夜着姿の少年が掛けていた。そこに近づくもう一人の影。
「やあ、八左ヱ門」
 背後から近づく気配に振り返った雷蔵が小さく微笑む。
「よう。ここ、いいか」
 傍らに立った八左ヱ門がぽつりと訊く。
「もちろん」
「悪ィな」
 どっかと胡坐をかいた八左ヱ門は、庭に顔を向ける。その横顔にちらと眼を向けた雷蔵もまた前を向く。
 雨の夜は暗い。庭の前栽も闇にかくれた影となって、雨に打たれた緑の葉のにおいだけが常より濃く漂ってくる。
「ねえ、八左ヱ門」
 焦点のない眼を前に向けたまま雷蔵は足をぶらぶらさせる。「…学園をやめようかと思ってる」
「…そうか」
 少し間をおいて八左ヱ門が応える。「俺もだ」
 ぶらぶらさせていた足が止まった。「…そう」
 短く応えると、今度は両足を前に伸ばして軒から垂れる雨粒に足先を届かせようとする。
「一生懸命考えたんだけど、だめだった。雑渡さんの言うとおり、僕は忍には向かないってことが分かっただけだったんだ」
 足を伸ばしても、張り出した軒からの雨だれには届かない。あきらめたようにふたたび足をぶらぶらさせた雷蔵は力なく苦笑する。「迷い癖なんかじゃない、もっと根本的なところがだめだったなんてね」
 それも五年も修行してて気付かなかったなんてね、と呟きながら俯く。
「俺も、やっぱり、だめだったのかなァ」
 捨て鉢のような口調になって背後に手をついた八左ヱ門が暗い空から降り注ぐ雨を見上げる。「俺なりにけっこう頑張ってきたつもりなんだけどな」
「僕たち…眼をそむけていたのかもね。忍と戦は不可分なのに、その結果がどうなるかなんてちょっと想像すればわかることなのにね…」
 うつむいた頬を涙が伝う。「あの時のことを思い出すと、どうしても泣いちゃうんだ…おかしいよね、もう五年生なのに…」
「なあ、雷蔵…」
 暗い夜空から途切れなく雨粒が降り注ぐ。視界に入った刹那にぎらりと光る、まるで棒手裏剣みたいだと八左ヱ門は思った。
「どうかした?」
 雷蔵が顔を向ける。
「あの塀に寄りかかってた子ども、覚えてるか?」
「うん…」
 飢えと恐怖で動く気力も奪われた子どもの姿がありありと蘇る。陣内左衛門の説明を待たずともその命が長くないことは見て取れた。あの空洞のような眼は、すぐそこに倒れていた首のない死体を捉えていただろうか。すぐそばに無造作に転がる死がいずれ自分を絡め取ることを認識していただろうか。
「一年生と同じくらいな年頃だったよな」
「そうだね」
「だからさ、俺…一年の後輩たち見るたびにあの子どものこと思い出しちまうんだ…」
 感情を抑えきれなくなったように八左ヱ門が両の拳を強く握る。「なんでなんだろうな…今まで実習で戦場に潜ったことなんていくらでもあるのに、どうして今さら…」
 ぐっと奥歯を噛みしめても、涙をこらえることはできなかった。「くっそ、なんでなんだよ…!」
 天井を仰ぎながら絞り出す声が濁る。



「そんなの、当たり前だろ」
 押し殺した声に雷蔵と八左ヱ門がはっとした顔を向ける。兵助が立っていた。顔を伏せて、握りしめた拳をちいさく震わせて。
「俺たち、人間なんだ。女子どもが死んでくのを見て平気でいられるわけないだろ」
「戦をするのも人間だよ」
 暗い庭に眼を戻しながら雷蔵は呟く。「女子どもを殺すのも」
「だから戦をする連中の罪をぜんぶ背負うってわけかい?」
 兵助の背後から姿を現した三郎がにやりとする。「私たちにそんな義理があるとは思えないけどね」
「だけど、戦をお膳立てするのは忍なんだよ…戦忍であろうと草であろうと」
 訴えるように雷蔵の視線が三郎に向けられる。
「ああそうだろうさ」
 勘右衛門も姿を現す。「だが、それを言うなら日本中の人間が共犯者だ。弓や火縄を作る人も、戦に使う炭や材木のために木を切り出す人も、もっといえば戦をする大名に年貢を納める百姓もね」
 ちょっと詭弁っぽかったかなと思わないでもなかったが、真剣な眼差しを雷蔵と八左ヱ門に向ける。
「だが…」
「いいから!」
 言いかけた八左ヱ門を兵助が遮ると、その手をぐっと掴む。「来いよ!」
 裸足のまま雨の降りしきる庭に飛び降りて駆け出す。
「雷蔵も」
 ひょいと腕を取ると三郎も庭に飛び降りる。「え?」と引きずられるように庭に降りた雷蔵の背を「こっちこっち」と勘右衛門が押す。



「おい、どこに行くんだよ!」
「そうだよ、それに、風邪ひくよ」
 手を引かれ、背を押された八左ヱ門と雷蔵をはさんだ少年たちが水たまりも構わず校庭を駆けていく。
「ここ」
 兵助が足を止める。
「へ?」
 八左ヱ門が思わず見上げる。そこは校門だった。
「はあ、はあ…どうしてこんなところに?」
 息を切らせながら雷蔵も校門を見上げる。髷を解いた上に湿気を帯びて収拾がつかないほどに膨張した髪からぼたぼたと水が垂れる。いつの間にか雨が強くなっていた。
「五年前、初めてここを通ったとき、俺たち約束したよな」
 濡れた前髪が頬にへばりつくのも構わず兵助は向き直る。「必ずみんなで一流の忍になるって。必ずみんな一緒にって!」
「忘れたとは言わせないよ」
 雷蔵の肩に肘を載せながら三郎が言う。「そのために、みんなで助け合うって決めたろ?」
「ああ…そうだったな」
 無表情な声で八左ヱ門はちらと校門を見上げたが、すぐうつろに視線をさ迷わせる。
「じゃ、約束は守るよな?」
 勘右衛門が腰に手を当てて身を乗り出す。
「だけどさ…いつまでも十歳のときの約束を守れるもんかよ」
 焦点の合わない眼でぽつりと言う八左ヱ門に、勘右衛門たちの表情が強張る。「五年もたてば、事情だって考え方だって変わるもんだろ。一緒に入学して辞めちまった連中だっていっぱいいたろ? 俺もそいつらに続くってことだよ。特にあんなもん見ちまった日にはよ…」
 雨音に消されそうな低い声で言ってぐっと歯を食いしばる。
「雷蔵も同じ考え?」
 兵助が鋭い視線を向ける。
「変わらないって言ったら…ウソになるかな」
 ためらいがちに雷蔵が頷く。
「…」
 雨に打たれたまま少年たちはしばし無言で立ち尽くす。



「わかった」
 眼を細めて雷蔵の膨張した髪をいじっていた三郎が、ふいにその肩から腕を下ろした。「それなら私も学園をやめるよ」
「!」
「なんで三郎が…」
 はっと八左ヱ門が顔をあげ、雷蔵が戸惑うように問いかける。
「決まってるじゃないか。雷蔵がいなくなったら、私は誰に変装すればいいと思ってるんだい?」
「だからって…」
「三郎だけじゃないぜ」
 勘右衛門が声を上げる。「俺もやめる。雷蔵と八左ヱ門がいない学園なんて、用はないからね」
「そっか」
 兵助が小さく首をかしげて微笑む。「じゃ、俺は豆腐屋だな…好きでやってたのが本業になるとは思わなかったよ」
「土井先生に『いつでも兵助はいい豆腐屋になれる』なんて言われてたヤツが、なにを今さら言ってるのさ」
 にやりとした勘右衛門に小脇を突かれて兵助がくすぐったそうに身をよじる「やめろよ…くすぐったいし…!」
「いや…あのさ、どうして学園をやめるって方向になってるのか教えてもらいたいんだけどさ…」
 勝手に盛り上がっている勘右衛門たちにおずおずと八左ヱ門が声をかける。
「八左ヱ門はいいヤツだってことは分かってるけどさ」
 三郎がにやりとして八左ヱ門の肩に腕を載せる。「もうちょっと洞察力ってもんがあってもいいんじゃないかな」
「ど、どういうことだよ…」
「決まってんだろ」
 澄まして三郎が続ける。「私たちが仲間だから、さ」
「仲間…?」
「そういうこと」
 腕を組んだ勘右衛門がしたり顔で言う。「俺たち、一人でも欠けたらもう俺たちじゃなくなっちゃうんだけどな…2人とも、そんなことも分かってなかったわけ?」
「そう言ってくれるのはうれしいけど…」
「俺が豆腐屋開業したら来てくれよな。お前たちにはいつでもサービスするからさ」
 言いかけた雷蔵をにこやかに兵助が遮る。
「い、いや、だから兵助…」
「ついでだから言っておくけど」
 ふいに兵助の口調が変わる。「俺たちは今だから一緒にいることができる。でも卒業したらもうそんなことは許されない。だから俺は一緒にいられる時間が一日でも長ければとずっと思ってきた。なのに、お前たちの方から短くしようなんてなんだよそれ。俺、学園をやめることには未練なんてないけど、一緒にいられた時間を短くされたことだけはきっと一生許せない」
 苦労して感情を抑え込む兵助の顔に雨が伝う。雨粒も涙も混じり合って筋を引く顔を強引にゆがめて微笑もうとする。「そんなの、俺、ぜったい許さないからな…」
「…」
 八左ヱ門と雷蔵が戸惑ったように大きく眼を見開いて仲間たちを見渡す。勘右衛門はびしょぬれの顔に泣き笑いのような表情を浮かべ、三郎は澄ましたように半眼になって顔をそらしているが、その表情はこまかく震えている。
「…悪ィ」
 やがて顔を伏せた八左ヱ門が、雨音にかき消されそうな声で呟く。「こんなに俺たちのこと考えてくれているのに、俺、自分のことしか考えてなかったな…」
「ああそうだよ! 辛い目に遭ったのはわかるけど、俺たちのこともちょっとは考えてくれよな!」
 勘右衛門がその肩に勢いよく腕を載せる。
「そうだね…ほんとうにゴメンね…」 
 涙声で雷蔵が俯く。
「そんなに抱え込むなってことさ」
 三郎が再び雷蔵の肩に腕を回す。「タソガレドキの忍者が雷蔵たちの前でどれだけ澄ましていたか知らないけど、連中だってそんなシーン見て何も感じないはずないんだ。きっと、自分の中で折り合いをつけようと苦労しているに決まってる。そんなのに惑わされることはないさ」
「うん! 三郎の言うとおりだ…」
 雷蔵が顔を上げたとき、「へっくし!」と大仰に勘右衛門がくしゃみをした。
「大丈夫か?」
 心配げに八左ヱ門が顔を覗き込む。
「なあに、女の子たちが俺のことウワサしてるだけさ…へっくし!」
「それだけはないと俺が保証する」
 腰に手を当てた兵助がぬっと顔を突き出す。「さ、風邪ひく前にフロ行こうぜ!」
 言いながら八左ヱ門の手を掴んで駆け出す。
「お、おう…」
 手を引かれながら八左ヱ門が気がかりそうに勘右衛門を振り向く。
「それだけはないってなんだよ…へっくし!」
「妄想男はほっといて行こうか、な、雷蔵!」
 雷蔵の背を押しながら三郎がにやりとする。
「だから! 妄想男ってなんだよ…へっくし!」
 わらわらと駆け出す友人たちを、くしゃみが止まらない勘右衛門が追いかける。
 


「お前たちに言っておくことがある」
 翌朝、五年生たちは道場に集められた。床の間を前に伝蔵と鉄丸がどっかと座っている。五年生たちがいつの間にか居ずまいを正す。
「お前たちのうち一部の者が、誰に何を見せられたかは分かっている」
 こほんと咳ばらいをした鉄丸が声を上げる。「それでどのようなダメージを受けたかもな」
 八左ヱ門と雷蔵の顔色が変わる。
「そのことによって迷いが生じることも分からんでもない。その結果、忍の道から抜ける決断をしたとしてもそれはお前たちの判断だ。我々が関与できるものでもない。だが、一つだけ言っておくことがある」
 言葉を切った鉄丸が強いまなざしで生徒たちを見渡す。「我々は無定見に命令に盲従する人間を育てた覚えはない」
「お言葉ですが」
 挑戦的な口調で半眼になる三郎だった。「忍とは命令に絶対服従と教わったはずですが」
「たしかに忍は上の者には絶対服従だ。たとえ死間を命ぜられたとしてもな…だが、よく覚えておくように」
 おもむろに伝蔵が口を開く。
「我々は、お前たちを他人に意思も精神も奪われた木偶にするための教育をしたことは、ただの一度もない。他人からの影響を受けやすい若い心だからこそ、自分で観察し、判断し、行動できる人間を育ててきたつもりだ。だから」
 伝蔵が言葉を切った。
「お前たちを操ろうとする悪しき意思に惑わされるな。眼を凝らして背後に何がいるか見極めよ。もっともらしい姿を装った束縛に決して身を委ねるな。忍になろうがなるまいが、お前たちに自由な精神を保つための的確な判断力と生き抜くための力を与える、それこそが我々の教育の究極の目標なのだ」
「お前たちに言うことはここまでだ」
 鉄丸が引き取って言う。「お前たちにはすでに十分な判断力があるはずだ。だから、お前たちがどのような結論を出そうが我々は尊重する。ゆっくり考えることだ」
 そう言いながらも鉄丸の眼にじわりと熱いものが宿る。
「では、参りますかな」
 ごまかすように低い声で伝蔵を促して立ち去ろうとする。
「別にゆっくり考える必要もありません」
 凛と響く勘右衛門の声に伝蔵と鉄丸が足を止める。「そのことなら、とっくに結論は出ていますから」
「この先に何が待っていようと、一緒に忍を目指す。それが僕たちの結論です」
 立ちあがった兵助が続ける。続いて皆が一斉に立ち上がる。
「…そうか」
 短く呟くと鉄丸はぎろりと生徒たちを見廻す。「お前たちも同じ思いということだな?」
「はい!」
「間違いありません!」
 八左ヱ門と雷蔵が声を上げる。
「ならよい」
 小さく頷いて鉄丸は2人に向き直る。「その思いを持ち続けることだ」


「陣内、どう思う」
 すべてを見届けた昆奈門は、タソガレドキ城に向かって足を進めていた。
「は」
 後ろに控えた陣内が短く応える。「仲間の力で乗り越えたかと」
「だろうねえ」
 昆奈門が肩をすくめる。
「して、ドクタケにはどのように」
「ああそうだっけ」
 初めて思い出したようにわざとらしく声を上げる。「『ごめ~ん』とでも言っておけばいい」
「かしこまりました」
 ドクタケからの依頼は単なる協力要請だったことを思い出した陣内もあっさりと頷く。そして、不意にしんみりした口調で言う。
「若いとは…いいものですね」
「我々には許されないことが許されていると山田伝蔵が言っていた…全くその通りだな」
 視線を前に向けたまま昆奈門は言う。
「…だから、忍たまたちの可能性を見ていたいのだよ」


<FIN>





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