似たもの(2)


 きり丸を迎えた夏休みがやってきた。 


 町中の借家は、何ヶ月も不在だったせいでかび臭く、埃が厚く積もっていた。家中の埃を払って雑巾をかけ、鍋釜を磨き、布団を乾してようやく住める状態にするのに丸一日かけていたのが、以前の半助だった。それも、半助の家から盛大な埃が上がり始めると集まる近所のおばさんたちから、留守中の出来事や苦情を言い立てられるのに応じながらである。
「大家さんと近所のおばさんに挨拶してくるから、しばらく待っていてくれ」
 言い終わらないうちに、きり丸は腕まくりをすると、家中の戸や窓を開け、埃を払い始めた。バイトで慣れているのか、動きに無駄がない。
 挨拶を終え、米や野菜や薪を買い込んで戻ると、部屋の掃除はほぼ終わっていた。
「…きり丸、すごいな」
「へへ、バイトで鍛えてますからね」
「そうか。たいしたものだ」
「先生。鍋釜も磨いておきましたから」
「お、そうか。これからやらなきゃと思っていたんだが、助かるな」
「あとは、洗い物とりこめば、終わりっス」
「では、水を汲んできてくれないか。湯をわかしてやるから、きり丸、先につかいなさい。私は夕食の用意にかかるとしよう」
「りょうかーい!」
 -まだ子供なのに、ここまで掃除のエキスパートだとはな。
 そうならざるを得なかったきり丸が、不憫だった。本人は明るく振舞っているが、その記憶の奥底には、隠れて泣いた記憶が沈殿しているに違いない。
 顔が映るほど磨きこまれた釜で飯を炊き、汁の具の野菜を刻んでいると、背後に視線を感じた。振り返ると、行水を終えてさっぱりした様子のきり丸が、頭の後ろで手を組んでじっと見ている。
「どうした、きり丸」
「先生、けっこう手さばきいいっスね」
「ま、これでも独り身が長いからな」
「ま、自慢になることじゃないっスけどね」
「うるさい!」
「いて」
 頭に拳骨をお見舞いしてから、半助は再び食事の用意を始めた。

 


 さすがに疲れたのだろう。食事が終わると、きり丸は炉辺で胡坐をかいたままうつらうつらし始めた。
「きり丸。もう寝なさい」
「え…は、はぁ~い」
 半ば寝ぼけているきり丸を布団に寝かせると、半助は文机に向かった。
 -明日から、いよいよ夏休みカリキュラムの実行だ。
 きり丸を自宅で預かると決まったときから、半助はきり丸の夏休みの学習計画を立て始めていた。
 -きり丸に、基礎学力をつけさせるぞ。
 忍術学園では、学年が上がるほどに、演習のカリキュラムが増える。個別の状況に忍としてどう対応していくかを徹底的に鍛えるためである。そのためにも、低学年のうちに基礎的な学力、体力、運動能力をつけておかなければならなかった。低学年のうちに身に着けた基礎学力が根を張り、その上に幹が伸び、忍の才能としての枝葉が茂る。低学年のうちに基礎学力をつけないということは、根が弱い木と同じことで、忍としての大成は難しい。低学年を教える教師の責任は、重いのである。
 は組の生徒たちは、それぞれ得意なものを持っていた。乱太郎や三治郎は足が速いし、団蔵は馬術、虎若は火縄銃の扱いが得意である。しかし、得意と不得意の差が大きすぎるし、庄左ヱ門を除けば、教科の成績はおしなべて悪かった。その底上げを図らなければならない。


 きり丸は身体能力が高かったから、実技では悪くない点を取っていた。また、頭の回転が速いから、事に当たっての判断能力にも問題はないと半助は見ていた。だが、基礎的な学力の習得に関しては、絶望的だった。まるできり丸の脳内では基礎的な知識の理解を拒否されているかのようだった。
 だから、夏休みのあいだ、きり丸を自宅で預かるになったときには、これはチャンスかもしれないと思った。きり丸に、どうすれば教科の知識をしっかりと習得させるか、それが見えてくれば、休み明けのは組の指導にも、光明が見えてくるかもしれなかった。
 しかし、その目論見は、翌日にはもろくも崩れていったのだった。

 


「先生、朝刊配達に行ってくるんで、その間ペットの散歩お願いしま~す」
「先生、赤ちゃん抱くときはちゃんと首を支えてあげないとだめっスよ」
「先生、縫い目にはちゃんと返しを入れないと、納品しても受け取ってくれないんですから頼みますよ」
 きり丸は翌日からバイトを大量に受注してきた。そして、気がつくと半助はその手伝いに追われていた。
 -今日も、また、無駄に過ごしてしまった…。
 夜、文机に向かうとき、いつものように思うことだった。その文机も、夏休みに読み込むつもりで買ったり、図書室から借りたりした本が、縫いかけのおむつに埋もれて山をなしていた。
 おむつの山の中から、読みさしの本を掘り出し、読み始める。灯のまわりには虫が寄ってきて煩い。顔や懐に団扇で風を送りながら読み続ける。しかし、頭に入らない。
 子守や裁縫のような慣れない仕事は、思った以上に身体に疲労をもたらしていた。フリーの忍だったころは敵地に乗り込み、数週間、極限の緊張状態の中で過ごしたこともあったが、それでも、これほど疲れを感じることはなかった。この疲れは、ごく若い頃、仲間たちと初めて忍の仕事をしたときのものに似ていた。
 -たいした仕事ではなかったが、あのときの疲れはひどかった。いまになって、同じような思いをするとはな。
 半助は苦笑して本を閉じる。人は、初めての体験にはひどく神経を使い、疲れやすくなるのだろう。
 -いずれ慣れる。
 だが、慣れてはいけないのだと半助は考えた。自分は、この夏休みの間にやらなければならないことがあるのだ。は組を二年次にスムーズに進級させるためのカリキュラム作りと、きり丸の学力底上げである。

 


 -そのためにも、きり丸から主導権を取り戻さなければ。
 このままでは、きり丸に振り回されたまま、なし崩しにバイトの手伝いで夏休みが終わってしまう恐れがあった。この休みの間に本を読み込んで、新学期のカリキュラムを固めなければならなかった。
 そうでなくても、は組の授業は予期せぬアクシデントでしばしば中断されていた。原因は喜三太のナメクジだったり、学園長の突然の思いつきだったり、いろいろなのだが。
 補習や追試を見込んだ上でテキストを着実に抑えるカリキュラムを考えなければならなかった。二年生になってもは組を担当するとは限らない以上、しっかりと次の先生に引き継げる程度の状態にしなければならなかった。
 -意地でも、は組をきっちりと二年次に引き継いでやる。
 半助自身、教師のたまごのようなものだった。ここで完璧に教師としての仕事をこなさないと、他の教師たちに侮られることになってしまう。生徒たちの質云々は、言い訳にならない。忍とは、結果こそがすべてなのだ。
 -お前のためだ。心を鬼にして。
 明日からは、バイトの手伝いは午前中だけと宣言することにした。たとえ子守のバイトで連れてきた赤ん坊が泣こうと、ペットの散歩で連れてきた動物が騒ごうと、洗濯のバイトで集めてきた洗濯物が異臭を放とうと。
 そして、午後は、本を読み、新学期のカリキュラムをじっくりと練るのだ。きり丸にも、バイトの量を制限させて、勉強をみっちり見てやる時間を作らなければ。

 


 布団はすでに、きり丸によって敷かれていた。布団の上に胡坐をかいて、きり丸の寝顔を見る。起きてるときは、時に憎らしくなるほど調子のいいきり丸も、いまは子供らしいあどけない寝顔を見せている。
 -いかんいかん。
 苦笑して半助は灯を吹き消す。きり丸もまた、今は天に召されたきり丸の両親からの、大切な預かりものなのだ。


 
 

 

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