暁鐘(3)

 

「というわけで、引き続きドクタケの動きを追うよう仰せつかって参りました」
 第三共栄丸の前にかしこまった文次郎が言う。傍らの留三郎がいやそうに頷く。
「そ、そうか…」
 てっきり今度こそ学園総出で加勢してくれるものと思っていた第三共栄丸は、失望を苦労して隠しながら鷹揚に頷く。
「では、状況について由良四郎、説明しろ」
「はい」
 話を振られた由良四郎が文次郎たちに向き直る。
「君たちが報告に行っている間に、ドクタケの背後にヤケアトツムタケがいることが分かった。もともとはヤケアトツムタケが浦の漁師さんたちを追い払い、そのあとでドクタケが妖怪話でヤケアトツムタケを追い払ったということだ」
「ということは、ドクタケとヤケアトツムタケの魂胆を探る必要があるということですね」
 文次郎が口を開く前に素早く割って入る留三郎である。果たして文次郎が顔をしかめてにらみつける。
「そこで、君たちにも調査に加勢してもらいたい」
 由良四郎が続ける。「潮江君は俺たちとヤケアトツムタケを探る。食満君は疾風たちとドクタケを探る。蜉蝣たちは万一に備えてここの防備に当たることにする。いいな」
「「はい」」
 皆が一斉に返事をする。留守番を割り当てられてにわかに陸酔いが激しくなった蜉蝣を除いて。

 

 

「ところで義丸さんと鬼蜘蛛丸さんはどうしたのですか?」
 気になったように留三郎が訊く。先頭を歩く疾風がため息をつく。
「ああ、あの二人か…あいつら、ちょっと行方不明でな」
「行方不明?」
 留三郎が声を上げる。「それでは、まずお二人の救出を最優先しないといけないのではないのですか?」
 思わず留三郎の声が動転する。
「まあそうなんだろうけどな」
 あきらめたような口調で疾風が応える。「ま、あの二人が一緒に行動しているなら問題はないだろう。昔から仲が良かったからな…君たちみたいにな」
「それは潮江文次郎と私のことですか?」
 気を悪くした留三郎の口調が硬くなる。「もし私と潮江文次郎が仲がいいように見えたとすれば、それはとんだ間違いです! 私とヤツは学園に入学した時以来のライバルですから!」
「なるほどな」
 口角泡を飛ばす留三郎をあっさりといなして疾風は頷く。「まあとにかくあいつらも仲が良かった。同い年で実力も互角だったからな…よく張り合ってるわりに一緒に出掛けてはお頭を心配させたもんだ。それは今も変わらないな」
「そうなんですか…」
 それほど仲がいいとは知らなかったと思いながら留三郎が頷く。自分と文次郎がそんな関係ではないことだけは断言できると思いながら。

 

 

 -おい、あれ見ろよ。
 -ああ。
 物陰に隠れた義丸と鬼蜘蛛丸が囁きかわす。二人の視線の先には、ヤケアトツムタケ忍者たちが集結して浦に向けて荷物を運び出しているところだった。
 -妙に材木が多いな。砦でも作る気か?
 -もう少し近づいてみるか?
 -いや、俺たちは連中に顔が割れてる可能性が高い。これ以上はやめとこう。
 ここは鬼蜘蛛丸が性急な義丸を制して物陰から耳を傾ける。と、上役らしい男の声が響いた。
「おい、角材は時間までに指示のあった場所に運ぶんだ。暁九つ(午前零時)の鐘を合図に襲撃することになってるんだぞ!」
「へ~い」
「へいへい」
 苛立ちが混じる上役だったが、部下たちは至って気乗り薄のようである。
「早くやるんだぞ!」
 言い捨てると上役は別の場所の監督があるらしく、走り去った。
 -ヤケアトツムタケはドクタケを夜襲するつもりか…どうする?
 身を伏せたまま鬼蜘蛛丸が義丸を見る。
 -決まってんだろ。夜襲を夜襲するのさ。
 ニヤリと義丸が返す。
 -そういうと思ったよ…まあ、ドクタケはすぐに退散するだろうから、時間差で蹴散らしてやるか。
 鬼蜘蛛丸の眼にも悪戯っぽい光が宿っている。
 -そうこなくっちゃ、鬼よっ!
 期待通りの相棒の反応に肘先で小さく小突く。
 -行こうぜ!

 

 

「こんなんでうまくいくのか?」
 サングラスをかけながら疾風が言う。傍らで重と網問が珍しげにドクタケの制服に袖を通す。
「賤卒の術といいます。特にドクタケは視線を読まれないためにサングラスをしているので、うまく潜り込めばバレる危険は少ないです」
 失神し、忍装束をはがれたドクタケ忍者たちを縛りあげながら留三郎が答える。
「それにしてもすごいなあ、これ、唐木綿だろ?」
 重が袷をさすりながら言う。
「ですよね。ドクタケって金持ちなんだなあ」
 網問も感心したように袖を広げる。
「お前ら、着物に感心してるバヤイじゃねえぞ」
 疾風が低い声で注意してから留三郎に向きなおる。「で、これからどうするんだ」
「これから連中のなかに潜り込みます。陣幕の中に八方斎がいるはずです。それから」
 声を潜めながら応えた留三郎の口調に力が入る。
「それから?」
「もし見つかっても、ぜったいドクタケたちと戦わないでください。とにかく逃げるのです」
「逃げるだと?」
 疾風が武闘派らしく顔をしかめる。
「そうです。ここは陸上です。ドクタケとはいえ忍者ですから、大勢でかかられては勝ち目がありません。だから、とにかく逃げるのです。かならず情報を持ち帰るために生き延びるのが忍者なのです」
 俺たちは忍者じゃないんだがな…と不服そうにぼやいた疾風だったが、ため息をついて頷いた。
「わかった。重、網問、お前らも見つかったら余計なことしねえで逃げ出すんだぞ」
「「はい」」
 言われなくてもそのつもりだが、神妙に頷く二人だった。

 

 

「ほう、つまりドクタケは恐竜さんボートを作るためにあの浦を占領したというわけか」
「そうです。すでに十隻以上の恐竜さんボートができあがっていました」
 ドクタケの陣から戻った疾風たちは、第三共栄丸の前で報告をしているところだった。その疾風が言葉を切る。そして戸惑ったように視線を留三郎に投げる。
「どうした?」
 いかにもな仕草に兵庫第三共栄丸が眉を上げる。
「実は少し気になることがありまして」
 視線に圧されたように留三郎が口を開く。
「気になること?」
「実は、ドクタケには水軍創設準備室というものがあって、キャプテン達魔鬼が室長なのですが、達魔鬼の姿が見当たらないのです。それが少し気になりまして…」
「だが、ちょっと出張でいなかったということじゃないのか?」
 由良四郎が訊く。
「まあ、その可能性もあるのですが…」
 留三郎が口ごもる。
「まあとにかく」
 疾風が言葉をつなぐ。「連中は恐竜さんボートを増強しています。その目的は分かりませんが、兵庫水軍に攻め込んでくる可能性もあります。ここは早いうちに叩いておいた方がいいのではないかと思います」
「そうか。そのことについてだが、もともとヤケアトツムタケが占領していたということだったな」
 第三共栄丸が由良四郎に顔を向ける。
「はい」
 由良四郎が応える。「ドクタケが妖怪の噂を流したのでいったんは引き上げましたが、相手がドクタケだと分かって奪い返す作戦に出ようとしています」
「だが、どうして連中はそこまであの浦にこだわるんだ?」
 疾風が鋭い眼を由良四郎に向ける。
「あの浦に沈んだ唐船から青銅砲を引き上げるつもりのようだな」
 由良四郎が重々しい口調で告げる。
「だが…」
 疾風がなにか言いかける。その沈没船については、ずいぶん前に兵庫水軍が調査したはずではなかったか。
「そうだ」
 腕を組んだ第三共栄丸が頷く。「あの船はとっくに俺たちが調査済みだ」
「そうなんですか?」
 事情を知らない重たちが身を乗り出す。「ていうか、そんな沈没船があることすら知りませんでした」
「私も知りませんでした」
 黙っていた舳丸が口を開く。そのような船があれば、まっさきに水練の者である自分に調査が命じられているはずだった。
「そうだな。あれを調べたのは舳丸が兵庫水軍に加わる前だったからな」
 由良四郎が頷く。
「で、どうだったんですか? ホントにそんな青銅砲があったんですか?」
 網問が勢い込んで訊く。
「ああ、それらしきものはあった」
 由良四郎が応える。
「それらしき?」
 東南風が首をかしげる。網問たちも顔を見合わせる。
「潜って調べたのは俺だが」
 疾風が口を開く。「おそらく沈んだ時の衝撃なんだろうが、青銅砲はどれもバラバラだった。あのあたりの海底は岩がごろごろしてるからな。それに、大部分は潮に流されてなくなっていた」
「てことは…」
「ヤケアトツムタケも青銅砲なんて回収できないってわけですね」
 若い連中が口々に言う。
「まあそういうことだ」
 第三共栄丸が腕を組んだまま頷く。
「なあんだ」
 力が抜けたように航が言う。「だったら、そんなの放っておけばいいじゃないですか」
「そうもいかないだろう」
 若い連中は水軍の者としては優秀だが、考えがやや短絡的なのが玉に瑕だと思いながら由良四郎が言う。
「どうしてですか?」
 果たして不服そうに東南風が訊く。
「考えてもみろ」
 ため息をついて由良四郎が説明する。「ヤケアトツムタケが去ったとしても、もしドクタケが戻ってきたらどうする。もともとあの浦は漁村のひとたちのものなんだぞ。それにあの村の人たちにはいつも世話になってるだろ」
「あ…」
 若い連中が弾かれたような表情で顔を見合わせる。
「だから、ヤケアトツムタケもドクタケも追い払わなきゃならないんだよ」
 やれやれといった表情で第三共栄丸が口を開く。「というわけで、忍術学園にも作戦を考える手伝いをしてもらいたい」
 唐突に話を振られてぎょっとする文次郎と留三郎だった。
「い、いや…」
「といわれましても…」
「できないのか?」
 ぎょろりとした眼が二人を射る。忍術学園の代表として派遣された優秀な忍たまのはずではなかったのか。
「えっと、ですね…どーすんだよ、留三郎」
「俺に訊くなよ! 自分で考えろバカ文次!」
「んだと!」
 互いにつつき合いながらこそこそ言い合う二人だったが、水軍メンバーの視線に気づいて居ずまいをただす。
「えっと、ですね。水軍の皆さんは海での戦いに強い。そこを生かすといいと思うのです…」
 まず留三郎が必死に営業スマイルを浮かべながら口火を切る。
「そ、そういうことです…だから、まずはヤケアトツムタケとドクタケを戦わせて、残ったほうを叩けばいいと思います…」
 文次郎も引きつったスマイルで調子を合わせる。
「どういうことだ?」
 興味をひかれたらしい第三共栄丸が身を乗り出す。
「つまりですね…もしドクタケが勝っても、連中には恐竜さんボートしかないのですから兵庫水軍の敵ではありません。ヤケアトツムタケが勝ったとしても、連中には今のところ船はないので、やはり兵庫水軍に太刀打ちできるはずがないのです…!」
 い組らしくとっさにそれらしいことを言い繕う文次郎だった。
「ほう。だが、陸に逃げたらどうする」
 腕を組んだまま由良四郎が鹿爪らしく訊く。
「それこそ我々の思うツボ!」
 調子よく留三郎が腕を広げる。「連中が海からいなくなれば、漁村の人たちに浦を返してあげることができるじゃないですか!」
「おお!」
 今度こそ感嘆の声が上がる。
「よし、その手で行こう」
 第三共栄丸が大きく頷く。「俺たちは浦の出口の待ち構えて、逃げ出した連中を一網打尽にするぞ。いいな!」
「「おう!」」

 

 

「まあ、ヤケアトツムタケがドクタケを追い払えば、連中は簡単に片付く」
 恐竜さんボートへの工作はすでに終わっている。言いながら鬼蜘蛛丸は義丸が手渡した水筒に口をつける。海水スプレーを失った鬼蜘蛛丸のために海水を汲んでおいたのだ。「だが、ヤケアトツムタケはどうする? 俺たちだけだとちょっと手こずるぞ」
「なぁに、連中には弱点があるじゃねえか」
 頭の後ろで腕を組んだ義丸が澄ましたように鼻を上げる。
「だが、妖怪作戦はドクタケが使用済みだぞ」
 鬼蜘蛛丸が指摘する。「そうそう連中だって同じ手にはかからないだろ」
「もっと迫真に迫った作戦だったらどうかな?」
 うそぶきながら義丸が手拭いをほどくと、髷を解いて両掌をだらりと下げて見せる。
「どうだ? これで海から出てきたら、連中、ヌレオナゴかウミジョウボウと勘違いして大騒ぎだぜ?」
「あのよ、ヨシ」
 鬼蜘蛛丸が肩をすくめる。「いくらお前が迫真の演技をしても、その顔じゃ誰も女とは思ってくれないぜ?」
「そう言うと思ったよ」
 爽やかに言い切った義丸が懐から何やら取り出す。「これを見よ!」
「マジかよ!」
 その手にしたものに、思わず鬼蜘蛛丸が後ずさる。「なんでそんなの持ってんだよ!」
「いやあ、今回、子犬君ちゃんのお土産に買ってったんだけどさ…」
 照れたように義丸が頭を掻く。「子犬君ちゃんに『伊勢の白粉じゃなきゃイヤ!』って言われちゃってさ、こうして余ってるってわけ」
 その手にあるものは白粉の容器だった。「大丈夫! 新品だからいくら塗ったくっても足りなくなることはないってもんさ!」
 言いながら身を乗り出してウインクする。
「あのさ…」
 もう一歩後ずさりながら鬼蜘蛛丸が顔をそむけて苦笑する。「まさか俺にもやれってんじゃないだろうな」
「ったり前だろ、鬼よ」
 逃げ腰の肩をがっしとつかんで引き寄せながら義丸がニヤリとする。「連中は大勢いるんだぜ? 妖怪だって数で勝負しねえとな!」

 

 

 月の明るい夜だった。寄せては返す穏やかな波が月明かりに幾重にもきらきらと輝く。ドクタケの陣はすでに眠りについているらしく、時折現れる見回りも半ば眠ったようにおぼつかない足取りで砂を踏みしめて行く。
 いかにも眠気を誘うようにたゆたう波音だったが、物陰に身を潜めた義丸と鬼蜘蛛丸の緊張は頂点に達しつつあった。
 -そろそろだな。
 -だな。
 目配せをしたとき、遠くで暁九つの鐘が響いた。
 -おっし、始まるぜ!

 

 

「暁九つの鐘だな」
 静かな水面に響く鐘の音に、誰にともなく呟く蜉蝣だった。
「ですね」
 櫂をつかう網問が応える。二人は小早に乗ってドクタケの陣を探りに来ていた。今まさにヤケアトツムタケが襲撃をかけようとしていることを、二人は知らない。
「あれ?」
 陸でちらちらとまたたく灯に気付いたのは網問だった。「なんでしょう、あれ」
「なんだ?」
 蜉蝣が顔を向けた瞬間、法螺貝が鳴り響いて鬨の声が上がった。同時に沖からも一斉に櫂の音とともに鬨の声が上がった。
「うげ、マジかよ!」
 網問が思わず動転した声を上げる。「挟み撃ちかよっ!」
「落ち着け網問」
 さすがに場慣れした蜉蝣は冷静に状況を見極めていた。「沖にいるのもヤケアトツムタケだろう。連中の狙いはドクタケだ。とにかく身を伏せろ。空船に見せかければ連中も無視する」
「はいっ!」
 慌てて網問も頭を抱えて身を隠す。その間にも船底に身を伏せた蜉蝣はそっと頭を上げて状況を観察する。「ヤケアトツムタケが奪還に来るとは思っていたが、まさか今日とはな」
「で、どうしましょう?」
 少し落ち着いたらしい網問も頭をもたげて船べりからそっと顔をのぞかせる。
「まだ攻撃は始まったばかりだ。いずれ状況が動く。その時に紛れればうまく離脱できる」
 安心させるように低く言いながらも、鋭い眼で周囲を観察する。
「そ、そうですね…」
 ようやく声を落ち着ける網問だった。もちろん網問はこの後に訪れる災厄を知る術もない。

 

 

「よし、仕上げはこれだ」
 突如押し寄せたヤケアトツムタケの軍勢に、ドクタケの陣は大混乱になっていた。陸と海からの攻撃に、とりあえずできたばかりの恐竜さんボートで海上のヤケアトツムタケ軍を撃破しようとしたドクタケだったが、すぐに義丸たちが空けた穴から浸水して次々と沈没していく。そんな騒ぎを背後に、義丸と鬼蜘蛛丸は互いに白粉で化粧をしていた。いま、鬼蜘蛛丸の顔を仕上げた義丸が懐から別の包みを取り出す。
「お、おい…白粉塗ったくればじゅうぶんだろ?」
 この場に鏡がなくてよかったと心底思う鬼蜘蛛丸だった。海の男として生きてきた自分が、まさかザンバラ髪で顔に白粉を塗りたくることになろうとは夢想だにしない事態だった。それも、世話になっている浦の村人のためならとようやく我慢しているところだった。なのに、義丸はなおも何かしようとしているらしかった。
「なあに、ちょっとマスカラをな」
 果たして玻璃(ガラス)の容器から、蓋と一体化した何やら奇妙な形の軸を取り出した義丸がニヤリとする。
「ますから?」
 オウム返しに鬼蜘蛛丸が訊く。
「そ。もし室の君ちゃんのところに泊まることになったら渡そうと思ってたんだよね」
 言いながら義丸が顔を寄せる。「眼ェばっちり開いとけよ。ぜったいまばたきすんなよ」
 その口調に圧されたように黙り込む鬼蜘蛛丸だった。見開いた眼の睫毛に手早くマスカラを施す。
「お、おい…何しやがる」
 慌てて鬼蜘蛛丸が瞬きをした時には、両の眼の睫毛がぐっと上にカールしていた。
「ぜったい眼ェこするなよ」
 さすがに鏡もなしで自分にマスカラを施す自信のない義丸は、すぐに瓶を懐にしまうと背後の海に眼をやる。「今んとこ作戦通りだな」
 月明かりに次々と沈没していく恐竜さんボートとそのたびに上がる悲鳴を確かめながら鬼蜘蛛丸が呟く。
「ヤケアトツムタケの軍船がお出ましになるとは想定外だったが」
 沖に眼をやった義丸が言う。「連中も小舟だから都合がいいぜ」
「だな」
 おそらく沈没船を呑み込んだ浅瀬を警戒しているのだろうと思いながら鬼蜘蛛丸が頷く。「じゃ、行くか」
「おっし」
 ざばざばと海に入りながら義丸が言う。「せいぜい怖がらせてやろうぜ。蜉蝣兄ィが乗ってるつもりでな!」
「わかったよ」
 肩をすくめた鬼蜘蛛丸が続いて海に入る。そして、沈みゆく恐竜さんボートを追い回すヤケアトツムタケの小早を見つけては水面からぬっと顔をのぞかせる。
「ぎえぇぇぇぇ!」
「出たっ! 出たっ!」
「こ、こんどこそホンモノのヌレオナゴだぁぁぁっ!」
 船べりに指先をかけるや海面に顔を出す月明かりにくっきりと映し出される化粧の崩れた女に、たちまちヤケアトツムタケが恐慌状態に陥る。
「おい、どうなってるんだ?」
 優勢に見えていたヤケアトツムタケがにわかに陥る混乱状態に、思わず上体を起こす蜉蝣だった。
「なんでしょうかね」
 つられて身を起こす網問だった。と、その眼が船べりに掛けられる青白い指に釘付けになる。
「あ、あの…」
 あわあわと口ごもりながら蜉蝣の肩に手をかける。
「どうした」
 この大事な時に…と言いかけながら振り向いた蜉蝣は、恐怖のあまり眼を見開いたままの網問の表情に眼を奪われる。ついでその視線の先に眼を向ける。
 船べりの手は2本になっていた。自分でも網問でもない指が、強い怨念を抱いているかのようにずりずりと船べりを捉えて持ち上がってくる。月明かりに青白く照らされた指。
 何が起きているのかにわかに理解できていなかった。今まさにドクタケが総崩れになり、勝どきの声を上げるヤケアトツムタケを恐怖のどん底に叩き落とすところではなかったのではないか。それなのにいま、自分はこの世のものとは思えない身の毛もよだつ事態に直面しているのだ。
 ざばりと水面から何かが現れる音がした。反対側の船べりに背を押し付けて禍々しい指を凝視する蜉蝣と網問が同時に唾をごくりと呑み込んだ。
「あ~ら、いらっしゃ~い」
 意外に野太い声で月明かりのもとに船べりから現れたのは、乱れ髪の間からのぞく青白く崩れた女の顔だった。次の瞬間、声にならない悲鳴を上げた蜉蝣は櫂を奪い取ると遮二無二漕ぎまくった。
「ちょ、ちょっとまってください…!」
 船縁をつかみながら網問が叫ぶが、パニック状態の蜉蝣の耳には届かない。海上で錯綜するヤケアトツムタケの小早の群れに突っ込み、ぶつかりながら漕ぎまくる。その間にもあちこちで恐怖にかられた叫び声が上がり、逃げ惑う小早が互いにぶつかり合い、沈み始めていた。

 

 

「よし! 大成功だな!」
 浜辺に戻って顔を洗い流した義丸が満足そうに沖の混乱を見やる。
「…」
 傍らで黙って何度も顔を洗って白粉とマスカラを洗い落とそうとする鬼蜘蛛丸だった。
「どうしたよ、鬼。いい景色だぜ?」
 ぶつかり合いながら沖へと消えていくヤケアトツムタケの船団に、痛快さを抑えきれない義丸だった。
「…ああ」
 ようやく顔を洗い終えた鬼蜘蛛丸が顎や鼻先から水滴を垂らしながら戻ってくる。「ちょっと気になることがあってな」
「気になる?」
 意外そうに義丸が向き直る。「何があった?」
「いや、気のせいだと思うんだが…」
 ぼそぼそと鬼蜘蛛丸が口を開く。「なんか俺が脅した船の中に蜉蝣兄ィに似た人が乗ってたような気がしてさ…」
「蜉蝣兄ィが? まさか」
 すかさず義丸が首を振る。「蜉蝣兄ィはまだこんなことになってるなんて知らないはずだぜ? 鬼の気のせいだって」
「…そうかもな」
 自分を納得させるように何度か頷きながら鬼蜘蛛丸もようやく笑顔を見せる。「とにかく作戦大成功だったな」
「ああ! 久々にスッキリしたぜ!」
 義丸の口調が再び高揚する。
 


 兵庫水軍の海が見えてきた。ほの明るくなった空に鳥たちが声高に鳴きながら飛び始め、海からの風が二人の前髪を揺らす。やがて水平線からまぶしい光を放って陽がのぼってきた。
「く~っ、徹夜明けには堪えるぜ」
 掌をかざした義丸が顔をしかめながら横を向く。その横顔に深い陰影を刻みながらだいだい色の陽がまばゆく差す。
「…だな」
 言葉少なに鬼蜘蛛丸が頷く。まだ水夫だった頃からよく義丸とつるんで出かけたものだった。こうして明け方に水軍館に戻ることもしょっちゅうだった。それが当たり前だった。義丸はいつも傍らにいて、出かけた先にはハチャメチャな出来事が待っていて、ひと暴れして水軍館に戻るころには夜が明けそめていて、それでも体内から湧き上がる尽きぬエネルギーと好奇心が徹夜明けの疲労と倦怠感を圧倒していた。
 自分が衰えたとは思っていない。水軍の中でそれなりのポジションにつき、若い後輩たちがいるとはいえ、彼らと互角に動ける体力と気力がある。だが、ふとこの時間の『終わり』を意識するようになっていた。いつか、この時間を懐かしむ時が来るのだろうか。懐かしむということは失うことなのだ。その時、自分はどのような時間のなかで生きているのだろうか。いま、爽やかな海風とともにぐいぐいと水面からのぼっていく陽が数刻の後には沈んでいくように、自分や義丸にも、いつかこの時間を失い、別の時間の中で生きざるを得ない時が来るのだろうか。そんな考えが意識にちらつくようになっていた。
「どーしたんだよ、鬼」
 義丸が顔を覗き込む。「そろそろ徹夜はキツくなってきたってか?」
「んなわけないだろ」
 いつもの表情に戻った鬼蜘蛛丸が、義丸の頭を軽く小突く。「そういや忍術学園からはどんな作戦が伝えられたんだろって思ってただけだよ」
「ああ、そういやそうだったな」
 そんなことはすっかり忘れていた義丸が天を仰ぐ。「ま、その前に俺たちが片付けちまったけどな」
 いたずらっぽく付け加えて上を向いたまま豪快に笑う。
「だな…ハハハハ!」
 鬼蜘蛛丸も笑い出す。
 ますます強くなる陽射しが笑い声を上げる青年たちをまぶしく差す。

 

<FIN>

 

 

 

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